夕礼拝

目や手より大切な君

「目や手より大切な君」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記 第2章18-25節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章31-32節  
・ 讃美歌:475、513

本日のマタイによる福音書の5章32節だけを見てみると、離婚すること、再婚することを罪であるとして禁じ、 そしてまた一部分だけ取り出して、離婚できる可能性があるということをイエス様がおっしゃっているように 受け取ることができる箇所です。しかし、今日イエス様がわたしたちに伝えて下さる教えは、そのような消極 的な教えではありません。イエス様は、従来のイスラエルの離婚の受け止め方とそこにある、姦淫の罪を鋭く 指摘され、それから、本当の夫婦の関係、本当の人間関係を築くために必要なこと教えて下さろうとしており ます。

31節には、離婚に関する一つの掟がとりあげられています。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という掟で す。これは十戒の掟ではなく、申命記24章に出てくる掟です。申命記24章1節(旧約318頁)「人が妻をめとり、 その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手 に渡し、家を去らせる。」イスラエルにおいて、離婚できるのは夫の方からだけでした。夫は、妻に「恥ずべき こと」「気に入らないこと」を見いだした時には、離縁状を書いて彼女に渡すことによって離婚できました。離 縁状一枚で離婚できるため、これは夫の側にだけ都合がよい、律法です。この離縁状のルールを造ったのはモ ーセでした。このモーセが離縁する際に、離縁状を持たすことを律法としたのは、家父長制を堅固のものにする ためではなくて、離縁されそうになっている妻を守るためのもでありました。このルールが無いときには、ほん とに自由に夫の都合に依って離縁することができましたが、離婚するための一応の条件(恥ずべきこと、気に入 らなくなったときは)を課すことによって、モーセは離婚を抑止しようとしました。さらにこの離縁状というの は、「もうこの女は私の妻ではない」ということを証明するもので、その女性の「独身証明書」になります。そ れを持っていない女性が、他の男と関係したらそれは姦淫の罪になるのです。その場合は石打ち刑で死刑されて しまいます。しかしそれを持っている女性は、他の男と再婚ができる、そういう意味ではこれは女性の立場を保 護するための書類であると言うこともできます。しかし、イエス様はそれをとりあげて、「しかしわたしは言 っておく」とご自身の教えを語られました。それは「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その 女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」ということで した。ここには「不法な結婚でもないのに」ということが書かれています。ここは口語訳では「不品行以外の理 由で」となっていました。「不品行」というのは、性的な罪のことです。つまりこれは先週語りました姦淫の罪 に通じることです。神様が選び結び合わせた夫婦の関係を壊すというそういう罪を妻が犯したのならば離婚は仕 方がないが、それ以外の理由で離婚するべきではないという意味になります。新共同訳で「不法な結婚でもない のに」で訳したのは、カトリック教会との共同訳だからです。カトリック教会は、離婚を認めていません。それ は結婚を洗礼や聖餐と並ぶ、教会のサクラメント(秘蹟)の一つとしています。カトリック教会にとっては洗礼 が取り消されることはなく、再び繰り返されることがないように、結婚も神様が二人を夫婦として結びつけたの だから、離婚は認められないのです。ところが本日のこの箇所は、イエス様が、ある場合には(不品行の場合に は)離婚を認めているという内容になっています。妻が浮気をした場合には離婚してもよい、と言っておられる ように読めるのです。それを認めてしまうと、結婚をサクラメントとし、離婚を禁じるカトリック教会の基本的 な教えと矛盾してしまいます。それでカトリック教会はここを「不法な結婚」と読んできました。それはつま り、この結婚はもともと不法であり成立していなかった、その場合には、ということです。ここはどう読み替え ても、「不法な結婚」と読むことはできません。イエス様がここで語っておられることのポイントは別のことで す。「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」という旧約の律法においては、先程申命記を読みましたように、夫は 「妻に何か恥ずべきことを見いだしたら」離婚できたのです。その「恥ずべきこと」とは何かということについ て、ユダヤ教の律法学者たちの間にいろいろな議論がなされていました。律法学者の中には、ほんの些細なこと も「恥ずべきこと」になる、という人もいました。それは、お料理が上手じゃないとか、そのような些細なこと でした。それに対して、別の律法学者は、恥ずべきこととは、妻が夫を裏切って他の男と関係を持った、つまり 姦淫の罪を犯したことに限られると主張しました。イエス様は、後者の立場に立っておられます。妻を離縁でき るのは、つまり結婚を解消できるのは、不品行、姦淫の罪によって関係が裏切られ、破壊された時のみだ、とい うことです。ここに、イエス様が結婚、夫婦の関係を最大限に重んじ、大切にしようとしておられることが示さ れています。「お料理が料理下手という」ことも「恥ずべきこと」「気に入らないこと」になるというのは、夫 は少しでも気に入らないことがあったら妻を離縁できる、ということです。そこには、結婚、夫婦の関係を大切 に守り育てようとする姿勢はありません。むしろこれは律法を悪用している姿勢であると、言えるでしょう。気 に入らなくなったらそれで終わりです。当時は、夫の方からしか離婚ができませんでしたので、このような律法 になっていますが、今日の私たちにおいては、夫と妻の立場は対等か、または家庭によっては逆転しているかも しれません。夫は「いびきがうるさい」「家の手伝いをしない」「良い夫じゃない」というようなそのようなこ とで、離婚してしまう家庭もあるかもしれません。イエス様は、その原因となる「思い」に対して、それは姦通の罪を犯すことと同じだ、と言われるのです。何故ならイエス様の教えにおいては、先週共に聞きましたよう に、姦通の罪とは、自分の、また人の結婚の関係、夫婦の関係を大切にしようとしない行動と「思い」の全てを 指しているからです。その根っことなっている「思い」、それが28節に書かれている「みだらな思い」です。 それは、相手を「自分の所有物にしたい」という思いです。また相手を所有しているので、相手を都合の良いよ うに操りたい、支配したいということも、その思いから出てきます。そのような自分に都合の良いようになって いるときは結婚生活が安定していると錯覚し、自分の都合通りにならないと結婚生活がうまく言っていない、相 手が悪いと思いその人との縁を切りたくなる。そこにはみだらな思いが根っこにあるのです。その思いは関係を 破壊するのです。相手に気に入らないことがあるからといって関係を断ち切ってしまうのは、その相手をわたし に都合の良いように支配したいと思うことからなのです。
そういう思いに陥っていく私たちに対してイエス様は5章29節30節で、そのような思いを起させるものが、 あなたの右の目であるならば、えぐり出して捨ててしまいなさい、右の手であるならば切り取って捨ててし まいなさいと言っておられました。右の目や右の手、それは私たちにとって無くてはならない大切なもので す。決して失いたくないものです。しかしそういうものすらも、結婚相手との関係に比べれば何ほどのこと はない、捨ててもよいものだ、とイエス様は言われるのです。つまりここでイエス様が言っておられるの は、罪を犯さないで生きるために自分の目や手をも切り捨てよ、というとても厳しいことを語りたいのでは なくて、あなたの妻や夫は、あなたの目や手よりも大事なものではないか、ということなのです。本当の愛 の関係に築くためには、その右の手や右の目を、自分で放棄してもいいほどの、関係なのです。そのように 言われる時、私たちは、とまどいと恐れを感じずにはおれないのではないでしょうか。私たちは、自分の妻 を、夫を、自分のたいせつな人を、自分の目や手よりも大事にしているだろうか、目や手を失っても妻や夫 を愛する、そういう愛に生きているだろうか。私たちが、妻を、夫を愛する時、また大切な人を愛する時、 その愛は、身勝手なものであることが多いです。結局自分のために、自分に都合のよい仕方でしか相手を愛 することができていないのではないだろうか。そしてそういうことが、心の中でのみだらな思いを生み、気 に入らないことがあればもうおしまいという思いを生んでいくのです。イエス様はそのような罪と汚れに常 に陥っていく私たちの結婚、夫婦の関係を、本当に清いものとしようとしておられるのです。しかし良い夫 婦関係や愛する人との関係は、ただイエス様のそのような教えを聞くことで実現するものではありません。 そうしようと心で思っても、結局やはり自分勝手な愛し方しかできない、というのが、罪人である私たちの 現実なのではないでしょうか。イエス様はそのような私たちを、まさにご自分の目や手以上に大切にし、愛 して下さいました。それがイエス様の十字架の死です。神様の独り子であられるイエス様が、私たちのため に、十字架にかかって死んで下さったのです。それは、イエス様が、私たちを、ご自分の手や目よりも大切 にして下さったということです。イエス様は、ご自分の目をえぐり出され、手を切り捨てられるよりも厳し い、奴隷が受ける処刑であった十字架刑によって死なれ、私たちのその罪を赦して下さったのです。私たち は、このイエス様による神様の恵みの下にいます。私たちの結婚、夫婦の関係、愛する隣人との関係も、こ の恵みの下に置かれているのです。そのことを知らされていくことによってこそ、ここに教えられている真 実の関係が打ち立てられていくのです。エフェソの信徒への手紙第5章25節以下にこのようにあります。「夫 たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」夫が妻 を愛する、それは「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」です。それはイ エス様が私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを指しています。キリストが私たちのために 命をささげ、十字架にかかって死んで下さった、そのような愛をもって夫は妻を愛する。それは自分の体以 上に妻を愛するということです。その愛を受けている妻は、夫を自分以上に愛するのです。妻と夫の関係だ けでなく、愛する隣人とわたしの関係も同じです。自分の右の目や右の手よりも相手を愛するのです。しか し、私たちの愛はいつも、それにはほど遠い、欠けだらけの愛です。ですがイエス様によって、そのような 愛の模範、目標が示されているのです。
キリストと教会の関係になぞらえられる夫婦の関係においては、「赦し」ということが中心に据えられて います。イエス様は、不品行、つまり姦通の罪以外の理由での離婚を否定されました。しかしそれは、不品 行があった時は離婚をしてもよい、あるいは、離婚すべきだ、ということではありません。イエス様は、不 品行においても、離婚を積極的に勧めておられるわけではないのです。その相手が不品行を犯してしまった 場合でも、相手の罪を赦して、夫婦であり続けるということも大いにあり得ます。ここに語られているの は、こういう場合にはこうしなさいという掟ではありません。イエス様が求めておられるのは、互いに相手 を本当に大切にする夫婦の交わりや、隣人との愛の交わりを、御自分の与える恵みの下に築いていくことで す。しかしわたしたちは、夫婦であっても、隣人との関係であっても、良い関係を築こうと必死なって相手 と交わろうとしますが、うまくいかないことが多いのです。わたしたちは、本当に相手と向き合って共に助け合いながら生きることがなかなか出来ない者です。共に暮らしていても、お互いが向き合うことをやめて しまい、そっぽを向いてしまうことも多々あります。また、深く向き合っていけばいくほど、お互いの違い が、お互いの罪や欠けが目についてきます。そのためにお互いに傷つけ合ってしまうことも起こります。な ぜそのようなことがおこるのか。それは、その時のわたしたちの目が、相手を自分の都合のいいように見て いる目であるからです。その目は相手を自分の所有物のように見ている時の目です。そのような目で相手を 見ていて自分に都合が悪くなると、向き合うことをやめて、適当に違う方を見ながらやっていく方が楽だ、 ということにもなるのです。そのように向かい合って生きることを放棄してしまうことの延長上に離婚が起 ったりするのです。ですから私たちは、離婚について考える前に先ず、自分の尺度やものさしで相手を測 ってしまう目でみていないか、相手を自分の所有物のようなに見ていないかということを意識しなければな りません。イエス様はそれを捨てよと言っておられます。それはパートナーとなる相手は、わたしたちの目 よりも大切だからです。その目よりも大事な相手とこのわたしを、神様が選んでくださったのです。そして 神様は、この人と向かい合って共に生きよと命じておられます。わたしたちじゃ、それを真剣に受け止め、 相手と向かい合う努力をしていくべきです。このことは、隣人と自分の関係においても当てはまりますが、 それは特に結婚している夫婦に対して語られています。そのような向き合いと交わりによってこそ、本日共 に読みました創世記の2章で語られている男と女は「もはや別々でなく一体である」と本当たちが言うこと のできる関係が育てられていくのです。本日の箇所の31、32節は、離婚して再婚することを罪であるとして 禁じていると言うよりも、今神様によって与えられている結婚、夫婦の関係、他者と愛の関係を本当に大切 にして生きることを教えています。罪に満ちた、愛に欠けたわたしを、イエス様は御自分を捨て、受け入れ てくださり、真剣に向き合ってくださいました。わたしたちは今、そのイエス様に見つめられています。そ のイエス様がわたしたちに向かって、「自分を捨て、相手を赦し、互いに愛し合いなさい」といわれています。

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