「義に飢え渇く者よ」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第26章16-21節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章6節
・ 讃美歌:295、355
義に飢え渇わない人はおりません。何人たりとも、義に飢え渇かない人はおりません。わたしたち誰もが義に受け渇いています。この礼拝堂に集っていますわたしたちも例外ではありません。飢え渇いています。
イエス様は、山上に集まった弟子たちと、イエス様に興味がありイエス様の評判を聞いて、イエス様の話を聞いてみたいと思いイエス様に着いてきた群集たちに向かって、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と宣言されました。集まった弟子たちと群集の中で、義に飢え渇いていない人などおりませんでした。そのような自覚が、それぞれにあったかはわかりません。義に飢え渇く自覚があったもの、自覚してないものがそこにはいたでしょう。この弟子たちと群衆たちは、まさにこの礼拝堂に集っているわたしたちです。イエス様を信じて、従って、イエス様と共に歩むと決心をしてイエス様のもとに集まっている、クリスチャンたちが弟子たち。そして、キリスト教に関心がある、イエス様のことを知りたい、ここには何かがあると思って集まっている方々が、聖書に登場している群集であると言えます。その両者には、差があるわけではありません。イエス様の言葉を聞きたいとして集まっている両者にどちらが優れているかという差はありません。大事なのは、そのようにイエス様の言葉を聞きたいと思い、この礼拝堂に集まったということです。マタイによる福音書5章から始まる山上の説教をわたしたちは毎週聞いておりますが、これは、単にかつて2000年近く前にイエス様が、ガリラヤ、今で言うパレスチナのどこかの山で、わたしたちと関係のない当時の弟子たち、群衆たちに語った言葉ではないありません。イエス様は、この礼拝堂でまさにこの山上と同じような状況を作り出し、わたしたちを集め出して、イエス様がわたしたちに今語られたいことを弟子たちや群衆たちと向き合って語られたように、そのように語られるのです。
イエス様が、今日私たちにお語りになりたいことは、先ほど共に読みました6節「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」ということです。イエス様に今「義に飢え渇く人は幸いだ」と言われても、わたしたちはなにもピンと来ないのではないでしょうか。なぜならば、「義に飢え渇く」ということにわたしたちは自覚的になっていないからです。おそらく、これは推測ですが、2000年近く前に、この言葉を聞いた弟子たちや群集たちも、ピンと来てなかっただろうし、この言葉を聞いて、そこにいた皆が「そのとおりです、まさに私は義に飢え渇いています」とイエス様に応えることはなかったのではないかと思います。山上の説教の最初の部分であるこの「幸いの教え」は、1節ずつ違う対象の人々に語りかけられているように、わたしたちは感じると思います。「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え渇く人」「憐れみ深い人」「心の清い人」「平和を実現する人」、このように連続して、弟子たちや群集たちが聞いたように、この言葉をわたしたちが聞いたと想像してみると、「わたしはここには当てはまっている」「悲しむ人、これはまさにわたしだ」「でも、これこれはわたしとあんまり関係がないな」「これこれはここにいる他の誰かにイエス様が語られている言葉だ」と思ってしまうのではないかと思います。
特に、今日の「義に飢え渇く人」というのは、先ほど共に想像してみたように、「これはわたしに向けられた言葉じゃない」「誰かに語っている言葉だ」と思いがちになりやすい言葉でしょう。その原因となっているのは、「義に飢え渇く」ということを、わたしたちは普通に生きて生活している時に、特に意識していないし、共通の問題意識としてみなで共有しているわけでもないからでした。もっと言えば、「義に飢え渇く」という以前に、普通に生活していて「義」なんて言葉を聞きませんから、なんだかわたしたちと関係のないことのように思ってしまうのです。この「義」そして「義に飢え渇く」というのは普段聞かない言葉ですから、これは「宗教的な事柄の時につかう言葉だ」とか「なにか、特別な人だけ、宗教に熱心な人だけが意識している事柄」なのではないかと思ってしまうわけです。
ですが、この「義」というのは、普通にこの世を生きるわたしたちに無関係なことではないのです。実は義に関する問題というのは、わたしたちにとっては切実な問題なのです。この「義」というのは、耳慣れない言葉ですから、わたしたちには説明が必要です。「義」というのは、「ただしさ」ということです。この「義」ということが持つ意味としては、「何がただしいのか」という疑問の意味も持っています。では一体なんの「ただしさ」なのだろうかとわたしたちは疑問を持ちます。この義が指し示すただしさとは、なにか特定の事柄に対するただしさではなくて、「ありとあらゆる事柄に対するただしさ」です。わたしたち人は、この「ただしさ」に基づいて生きています。この「ただしさ」に従って、ありとあらゆる決断をし、行動を始めます。わたしたちが行動するにしても、決断するにしても、このただしさの基準がないと、何もできません。わたしたちは、小さい時から、親に「これはだめ、これはよいこと」というように、何らかの善悪の判断基準が培われています。親だけでなく、この国の法律に則って、これはして善いこと、ダメなことを獲得する人もいるでしょう。法律はちゃんと文章となっていてはっきりとしています。しかし、法律のようには明文化されていない、世の常識、ある集団の中での常識というものによって、ただしさを培っていくこともあります。このようにして、わたしたちは、いろいろなものが謳っている「ただしさ」を取り込みながら、取捨選択をして、自分の考える「ただしさ」を形成していきます。わたしたちはこの自分が形成してきた「ただしさ」に頼って、この世を生きています。人を殺してはならないというような、明文化された「ただしさ」から、世が作り出している善き夫、善き妻、善き子ども、善き親、善き社会人、善きお食事のマナー、善き生き方などなど、それらに従って、またはそれを吟味して、時にはうけとらないようなことをしながら、自分のただしさを求め、生きているのです。
ここまで来て「義」というのは、なんとなくだがわかってきました。しかし、義はわたしたちが頼りにしているただしさだということを、わかったけれども、「義に飢え渇く」ということは一体なんなのかはまだわかりません。「義に飢え渇く人」を今のわたしたちが簡単に考えると、なんだか「ただしさ」というものがなくて、なんの行動もできない人のなのかなと考えると思います。そうだとしたら「やっぱりわたしはそれには、該当していないな」思ってしまいます。なぜならば、「なんとかわたしたちは、自分でただしさを判断することも一応できるし、行動しているし、生きることができているから」。特別、「ただしさ」に関することは、困っておりません。だから、自分は飢え渇いてない、思っている。もっと強気な人は、「わたしは飢え渇くはずがない」と思っている。
しかし、それは勘違いです。わたしたちは、義に飢え渇く人に該当しています。わたしたちが、培ってきたただしさというのは、時代によって、国によって、地域によって、変化します。人を殺してはならないというような自然法でも、つまりなんとなしに、みんなが納得できるようなただしささえも、変化します。普段の日常ではなくて、戦場に置かれた場合、ある集団の中では、人を殺すことが正当化される。そこでは、ただしさの変化を強いられます。わたしたちは、異なる正しさと出会った時に、今までなんとなしに、自分が持っていたただしさに疑問をもたざる得ないことを知ります。このように、わたしたちが作り上げたただしさというのは、不変的ではなくて、変化するし、時に無くなることがあるものです。そのような不安定なただしさに従っていきているわたしたちは、知らないうちに、ただしさが変化し、間違ったただしさに従ったたりして、飢え渇いていることになります。そもそも、飢えや、渇きというのは、自覚のないうちに、知らないうちに、減っているということです。わたしたちが、お腹が減るのも、渇くというのも、自分の体に、目盛りがあって、「ああ30%切ったから、やばいな、おなかすいているな、のどかわいているな」とそのようにことではなくて、「お腹すいたな、喉乾いているな」と自分が自覚したときに、感じるものです。客観的な指標があるわけではありません。
わたしは、去年結婚して、家庭では「善き夫になろう」と思って今まで、生きていました。妻のいうことには反対しない。すべてを受け入れる。すべてをゆるす。そのような、聖書が語っていそうなただしさに従って、「良き夫像」打ち立てて、それに従って生きていたんです。そんなに自覚的に打ち立てたわけじゃないんですが。そのようになりたいなとは思っていました。一年間そんな調子で、生活をしておりました。ですが、振り返ってみると、変だったんです。これは、昨日妻と夕食を食べながら、話していた気づいたことなんですけれども。わたしは、なんだか、家庭において、満たされていなかった。それは、妻の責任とかではないのです。でも、なんだか自分が、自分でなくなっているような感じをずっと感じていました。なにが、わたしを変にしているんだろうと、話しているうちに、『私は、家の玄関に入る時に、なんだか「良き夫」に変化している』ということに気付いたんです。それは、自分の考える「善き夫」です。すごいできる夫になったというわけではありません。どこかで、この扉をくぐったら、善き夫にならんといかんと考えていたんだと思います。知らず、知らずのうちに、私は、わたしの考える「ただしさ」私の場合は「善き夫」像に、合わせて、そのようなただしさに従っている時に、わたしはしらずしらずのうちに渇いていたんです。飢えも、おぼえていました。なんだか、自分自身を取り戻さなくては思い、家を飛び出したこともありました。そこから、離れれば、自分を取り戻せるなにかがあるかと思って、飢え渇きの末に、外に求めたこともありました。縛られない私が、私だと思って、そこで満たされたと勘違いしたこともありました。でも、家庭に戻った時は、またなんだか善き夫になって渇きを覚える。そんなことの繰り返しでした。今はそのように回顧して気付いていますが、昨晩まで、その自分が渇いていたなということにも気づかなかったんです。
そのように、わたしだけなく、わたしたちは、自分の知らないうちに、真にただしくない「ただしさ」に従って、ただしいと思い込み、ただしくない故に、そこに不自然さがあり、うまくいかなくなり、喜びがなくなり、それでもまだそれがただしいと、無自覚に思い込み、無理矢理その「ただしさ」にしたがううちに、私場合は、感情を押し殺し、感情がなくなり、渇いてくる。渇いているのに、その渇きに気づいていないということがある。
なぜそのようなことが起こるのか。それは、自分の考えていた「ただしさ」がただしくなかったからでしょう。わたしたちは、大小に関わらず、そのような自分のただしさが覆されることがあり、またただしくないことに従って渇きを覚えるということはあると思います。
そうなってしまった時に、わたしたちは、本当に「ただしい」こと、真に「義しい」ものを求めます。自分の持っていたただしさがただしくない故に、渇いていたことを知った時に、その時に、では本当にただしいものとはなんだったんだろうと思い始めます。わたしの場合は、本当に「善き夫」はなんなのだろうかということです。そこで、わたしは、本当に「善き夫」という真の善き夫理解を得ることができれば、その渇きが満たされるのかと思いました。しかし、よくよく考えてみると、自分で新たな「善き夫」理解、それが真だと思っている善き夫像を得ても、それが本当にただしいかなんて、自分ではわからないのです。わたしたちが、善いと理解できるのは、条件をこなしていく時です。夫だとすれば、「妻を愛していれば、善き夫」のような条件です。しかし、その条件は、いくらそれをクリアしていっても、なん項目条件があるのか自分ではわからないですし、そんなたくさん項目があれば、クリアすることだって容易でないでしょう。疲れてしまいます。わたしたちは、ただしさを自分の力で突き詰めようとしても、できないのです。そして、その膨大なただしさをすべてうまくこなすことはできないですし、そこに努力していけば、自分が枯渇していきます。
従って、わたしたちは自分自身の力では、ただしさに関して、満たすことができないのです。わたしたちは、自分のただしさが覆された時、また本当の真のただしさを欲しても、自分ではそれを得ることできないのです。
そのような、なんとも不幸な、無情な現実を持つわたしたちに向かって、イエス様は「義に飢え渇く人は幸いである」と言われます。これを聞くと「自分の中には、義を満たす可能性はない、これのどこか幸いであるのか」とイエス様に抗議したくなるほどです。わたしたちが、自分のうちに、確固たるただしさがないと知ることができたものは幸いなのです。ただしさが無い故に渇いているわたしたちは幸いだとイエス様はわたしたちに言われます。なぜならば、「満たされる」からだとイエス様はわたしたちに言われます。果して、どうすれば、わたしたちは満たされるのでしょうか。わたしたちはただしさを知ることができれば、満たされると思っています。しかし、それは半分あたりで、半分間違いと言えます。完全な真の義しさを知っておられる方、真の義しさそのものの方、存在そのものが真に義しい方は、神様であり、また神の子であるイエス様です。わたしたちは、神様の持っておられる真にただしさの判断基準を知識として知ることはできません。それをしようとして失敗した男女が聖書の初めに出てきております。アダムとエバです。彼らは、まさに、この神様のただしさ、善悪を判断する知識を欲しました。そのために、禁断の果実である善悪の知識の木の実を食べてしまいました。それで、彼らはどうなったか。真にただしい知識を得たのかというとそうではなかった。アダムとエバもその子孫もわたしたちも、善悪をただしく判断なんてできずに、むしろそこに悩み、自分でただしさを打ちたて渇くものになってしまったのです。わたしたちには、何がただしいのか、何がただしくないのかということを、すべて完璧に決められるものではないし、そのような力はそもそもなかった。それなのに、少しの知識を得ることで、それができると思いこんでしまう。あの善悪の知識の木の実の中には、本当にすべての善悪の知識があったかもしれません。もしあったとして、その知識を得たとしても、その知識をとどめて置けるほど、それをうまく行動に表せるほどの、力は人間にはそもそもないのです。ですから、神様は禁止さていたのです。
わたしたちが、義に満たされることができる唯一の方法は、その真に善悪の知識を持たれ、それを用いてすべてを成すことが出来る義なる神様に従うことです。わたしたちは、「従う」となると、「従う」ためになにか具体的な命令が欲しいと思います。「このようになさい」「妻のすべてをゆるしなさい」とかなんでも、そのようなただしい指示がなければと思います。神様は聖書を通して、礼拝の場でそこで語られる神様の言葉である説教を通して、そのような命令、御心をお伝えになります。しかし、そうなると、神様の言葉である聖書や説教の通りに、そのまま生きればいいと思います。しかし、そこには、欠けていることがあるのです。それは、悔い改めに関係しています。自分を捨てるということです。もし、いままでもっていた、ただしさの基準で、神様の言葉を判断して聞き、受け入れるものは受け入れ、受け入れられないものは、受け入れないということであれば、真に義なる神様をわたしたちは自分で追い出してしまうことになるのです。ですから、まず命令があって従う、ルールに従うということ以上に、真の義しさが神様であること、その神様に従うために自分を捨てて委ねることが大事なのです。
しかし、その従うということも、委ねるということも、自分を捨てるということも、自分でできることはないでしょう。わたしたちが、そのように、唯一自分を明け渡し、神様に委ねることは、真にただしいイエス様が生きて共にいてくださるからです。そのような、真に信頼できる方と出会わなければ、わたしたちは自分の今までのすべてを捨てて、その人に従うということはできません。「あなたがもっているものを、そのただしさ捨てても大丈夫なのだ、わたしがただしく導く、そのように時々に教える、だからわたしのそばにいなさい」とそういってくださる真にただしい方に出会う時に、わたしたちの従うということが始まるのです。わたしたちは、既にその真に義なる方真に義しい方に出会っているのです。それがイエス様です。今わたしたちに語りかけてくださっているイエス様です。この礼拝堂におられるイエス様です。
先ほどの、昨晩のわたしの話の続きがあります。わたしは、自分が家にはいる時に良い夫に変わって、家に入っていたということを知ったと申し上げました。実はわたしは、もう一つのことをこの説教を黙想している時に、与えられました。わたしは、家の扉の前で、自分のただしさをくぐって家に入る時に、そこまで、一緒に歩いてくださった真にただしい方イエス様を、扉の内側にいれないで、外にほっぽり出していたということに気付かされました。わたしが、わたしが良い夫になって、良い家庭を作ると思っていました。その傲慢なただしさの基準によって、真にただしいイエス様を追い出していたということに気付かされました。そうではなくて、この家庭の中に、イエス様が入ってきてくださって、そこでただしさをまっとうしてくださること、それが必要だったんだとわたしは昨日気づいた時に、涙があふれたんです。渇いて自分が、その時満たされたと本当に思いました。真にただしい方に家庭も、わたしも委ねる時に、本当に満たされたということを、本当に昨日知りました。そのように、わたしだけでなく、わたしたちは、自分たちのただしさによって、渇いていることが起こっているのです。それはイエス様を自分の内側に、迎え入れていないからであります。それは、すなわち、明け渡していないということです。義に飢え渇く人の前に、自分のただしさによって、扉の鍵を占めているその人の前に、その扉の前にイエス様が待っておられます。イエス様は、その鍵を開け、中に入って、満たそうとされます。しかし、イエス様は、強引に鍵穴を壊して入って来られる方ではありません。わたしたちが、開くのをまっておられます。開いたその時、イエス様はわたしたちの隣に来られ、わたしたちを、イエス様の誤りのないただしさによって導いてくださいます。そうして、自分も、家庭も、国も、世界も、神様がそのただしさによって作り上げてくださることを知るのです。そのとき、わたしたちのうちには、平安と喜びで満たされるのです。義に飢え渇くものは、真の義を受け止めるその時がやってきているのです。その義に従った者は、満たされるのです。