「水と火と悔い改め」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第48章7-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第3章1-12節
・ 讃美歌:83、283
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
ヨハネは今日わたしたちに向かって、この言葉を語りかけています。真の悔い改めとは、神様の方を向いていなかったわたしたちが、心も、体もすべて、神様の方に向けること。既に洗礼を受けているものにも、今はまだ洗礼を受けていないものにも、今この悔い改めは求められています。
救いにいられているという確信のあるもの、わたしたちが元は土の塵、道端の石っころであるということを忘れてはいけません。自分が善い行いをすれば、また良い信仰者になれば、救いが確信できるというのではありません。わたしたちは、自分の力で、神様の赦しを得ることはできません。同様に、わたしたちは自分の力で神様の怒りを免れることはできません。
私が担当します夕礼拝では、ただいまマタイによる福音書を読み進めています。狙っていたのではないのですが、たまたま、昨年のクリスマス前のアドベントに入る時からマタイによる福音書を読み始めることになりまして、アドベントからクリスマスにかけて、イエス様の誕生に関わる部分を読んできました。クリスマスの日の夕礼拝において2章の後半を読み、そしてこの新年一回目の夕礼拝で3章に入ります。
クリスマスの出来事に続いて語られているところを、2章と3章の間には、実は時間的に大きな隔たりがあります。3章では、イエス様が教えを宣べ伝え始めるに先立ってその準備をした洗礼者ヨハネの活動のことが語られています。その後直ぐにイエス様が登場するのですが、このイエス様はもう赤ちゃんではなく大人なので、20年か30年くらい時間が経っていると考えられます。しかし、3章1節では、「そのころ」と書いてあります。これは、なんだか、イエス様の誕生の時期とこの3章が描かれた時代、つまり洗礼者ヨハネが現れた時代が、同時代であるかのように錯覚させるような、書き方です。この書き方をしている所に、一つの意図があります。それは、このクリスマスの出来事と、洗礼者ヨハネが語っていることをリンクさせようとしているのです。ではどの点でリンクさせようとしているのかと言えば、それは、真の王様の登場ということです。
洗礼者ヨハネの使命、それは自分の後に来られるイエス様を指し示すこと、まことの王であるイエス様の為に道を備えることでした。3節には、このヨハネこそ、イザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ者」だということが語られています。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声が荒れ野で響く。そのようにして、主なる神様のために、その神様が遣わされる救い主のために道備えをする者が現れると預言されているのです。それこそが洗礼者ヨハネです。
この主の道というのは、わたしたちが日常的に使っている普通の道のことではありません。この道は、王のための道です。イザヤ書では王様が外国まで遠征して戦いに勝利して帰ってくる、その時に使う道が意識されています。これは王様が帰ってくるための道です。また勝利の凱旋パレードをするための道です。
1章2章では、真の王であられるイエス様がこの世に来て下さったことと、またユダヤ人ではなくて異邦人たちがその真の王に出会い、悔い改めて、ひれ伏し、自分のすべてを献げるということが、東方の三博士によって示されていました。また2章では、ユダヤの王ヘロデが真の王の存在を知り、不安になり、その王を殺そうとする。それと、ヘロデ王と同じように真の王であるイエス様が生まれるということで、不安になるユダヤ国の人々が描かれていました。
この2章を概観してみると、神の民とされていなかった異邦人たちがまず悔い改めて、真の王を受け入れ、ユダヤ人たちが真の王を拒否している様子が見えてきます。
真の王様が凱旋をする、パレードの道を先に整えていたのは、神の民ではないものたち異邦人であったということです。
3章以下で、ついに、神の民であるユダヤ人たちの前に、イエス様は現れる。そのために、洗礼者ヨハネは、早急に、ユダヤ人たちが、悔い改めることを求めたのです。
ヨハネは、2節にあるように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語りました。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ることによって、救い主であり、真の王であるイエス・の歩く道をユダヤ人たちに整えさせようとしたのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という預言にある、「道筋をまっすぐにすることとは」真の王を受け入れる人々の心でしょう。王の凱旋のイメージは、イエス様が後にエルサレムにロバにのって入場されるイメージと重なり合います。そのとき、人々は自分の服を脱ぎ、それを道に敷き、また他の者は木の枝を道に敷いたとあります。自分の服を脱ぐというのは、自分を覆い隠していたものを明らかにするということです。誰にも見られたくない自分の弱い部分、恥ずかしい部分を、ダメな部分をイエス様に見せるということです。また、その服を道の上に敷くというのは、自分を着飾るために、自分を主張するために、体を覆っていたものを、イエス様のために献げるということです。
まさにそれは悔い改めです。イエス様が凱旋される道をまっすぐに整えるというのは、人々が自分の隠している罪を明らかにして、自分の身をすべてささげるということなのです。
「天の国は近づいた」。「天」というのは、神様のことを言い替えた言葉です。ですから天の国イコール神の国です。それはどこかにある場所のことではなくて、神様のご支配という意味です。神様が王として支配される王国、それが天の国、神の国なのです。ですから、「天の国は近づいた」というのは、神様の王としてのご支配が確立する時が迫った、ということです。神様が王として凱旋される日が間近い、ということです。洗礼者ヨハネは、11節にあるように、自分の後に、自分よりも優れた方が来られることを知っていました。その方は、12節「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。これは、その方によって人々が裁かれ、麦と殻とに分けられる、救いか滅びかを定められる、ということの喩えです。つまり自分の後から来る方は、神としての権威をもって人々を裁き、支配するまことの王であられる、自分はその方が来られるための道備えをしているのだという意識をヨハネは持っていたのです。
ヨハネは、悔い改めの印としての洗礼を授けました。人々は、彼のもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けたのです。悔い改めることは、何よりもまず、罪を告白することです。自分の犯している罪を認め、それを神様に対して告白し、赦しを願うのです。わたしたちは日々、隣人を傷つけたり、なすべきことを怠ったり、自分の利益だけを追い求めたりという罪を犯しています。しかしそういう一つ一つの悪いことの根本には、神様に対する罪、神様に従わず、自分が主人になって生きようとする、自分が王であろうとする思いがあるのです。悔い改めというのは、例えば忘年会で飲み過ぎてしまって、失敗をしてしまったから、来年からはお酒を控えようと決意することとは違います。それはもっと心の根本、存在すべてにおける向きが変わることです。自分が王であったものが、その王座をイエス様・に譲り渡すことです。それこそが、ヘロデがどうしてもしようとしなかったことであり、東方の博士たちがしたことだったのです。天の国は近づいた、という知らせによってわたしたちに求められているのは、このような意味で、罪を告白し悔い改めることなのです。
ヨハネのもとに、多くの人々がやって来て、罪を告白し、洗礼を受けました。その中に、ファリサイ派やサドカイ派の人々もいました。ファリサイ派の人々は、当時のローマ帝国の支配下にあるユダヤ人たちに、今はローマ帝国の支配下にあるけれども、それで神様の力を疑っていけない、神様の恵みを疑ったりすることはだめだと言っている人たちでした。彼らは神様のことや神様の掟を熱心に考え、教え、実践し、指導する立場の人たちでした。
この人々もまた、ヨハネのところに来て、洗礼を受けようとしたのです。これはじつは驚くべきことなのです。この時代の洗礼は、もともとユダヤ人でない人が、ユダヤ教を信じるようになった時だけにする、清めの儀式でした。ユダヤ人たちは、もともとアブラハムの子孫だったので、水で清められる必要はないと考えられていました。ですから、ファリサイ派の人々もそうですが、ユダヤ人の多くがこのようにヨハネの洗礼を受けるということは、驚くべき出来事です。
多くのユダヤ人も、神の民も罪を犯し、神様の怒りを免れないことがある、だから罪を告白し、悔い改めて、洗礼を受ける必要があるということを自覚し始めていたので、大勢の人がヨハネの元にきていたのでしょう。
ところがヨハネはファリサイ派とサドカイ派の人々には、「よく来た」というのではなく、非常に厳しい言葉を投げかけました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言いました。ヨハネは、罪を告白して悔い改め、その印である洗礼を受けることによって、罪の赦しが与えられると語ったのです。彼らも、その教えを伝え聞いて洗礼を受けにやって来たのでしょう。ところがヨハネは彼らに対しては、「おまえたちは神の怒りを免れることはできない」と語ったのです。何故彼らはだめなのか。いや、絶対にだめだというのではありません。8節に「悔い改めにふさわしい実を結べ」とあります。彼らは、悔い改めにふさわしい実を結んでいない、だから罪の赦しを得ることができないというのです。これは彼らファリサイ派やサドカイ派の人々のみの問題ではありません。わたしたちだって、罪を告白して悔い改めると言っても、本当に悔い改めにふさわしい実を結んでいるかというと、自身のある人は少ないでしょう。そうするとわたしたちも、罪の赦しを受けることができないということになるのでしょうか。では「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とはどういうことなのでしょうか。
わたしたちは「ふさわしい実を結ぶこと」というのを、悔い改めを実行に移すこと、行動に表すことだと考えがちになります。隣人を傷つけている、神様を忘れるという罪を反省するだけではだめで、隣人を愛するように、神様を忘れないように努力しなければいけない。自分のことだけを考えるのをやめて、人のために神様のために尽くす者にならなければいけない。そういうふうに、わたしたちが積極的に何かよいこと、愛の業をしていくことが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことだと考えがちになるとおもいます。けれどもヨハネはここで、そういうことを言ってはいません。おまえたちはよい行いが足りない、と言っているのではないのです。そもそも、ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、律法、すなわち神様の掟に従うことに関しては、普通のユダヤ人よりもはるかに、厳しくそれを守り、実行していたのです。ですから彼らが、悔い改めにふさわしい実を結んでいないと言われたのは、善い行いが少ないからというわけではないでしょう。9節にこうあります。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるなということにヒントがあります。彼らが「我々の父はアブラハムだ」と思っている、それが、彼らが悔い改めにふさわしい実を結んでいないとされることの中心なのです。「我々の父はアブラハムだ」。それは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民、神の救いにあずかる者なのだ、ということです。イスラエルの民の歴史はアブラハムから始まります。それが、神様の救いの歴史なのです。それを担っているのがイスラエルの民、ユダヤ人です。ファリサイ派やサドカイ派の人たちのみでなく、ユダヤ人たちはみんな、自分たちは、神様と関係のない異邦人ではない、神の民なのだ、という意識を強烈に持っていました。彼らは、「我々の父はアブラハムだ」という思いによって、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを妨げていました。それは、この思いによって、神様の救いが既に自分のものになってしまっているかのように思ってしまうからです。当時のユダヤ人の意識を表すエピソードにこのようなものあります。それはこの世で地獄に堕ちるような罪を犯したからといっても心配するなという物語です。ユダヤ人たちはそれぞれの行いに応じて、天国に行くか地獄に行くかが決まると考えていました。ある一人の罪深いユダヤ人がいました。その者が死にました。そして、天国ではなくて、地獄の方に行くことになり、独りで歩んでいました。しかしその者は、地獄の門の前まで近づくと、一人でないことにきがつく。そこにアブラハムさんがいて、あなたの顔をみて、「お前は、ユダヤ人か。お前は地獄に入る必要はない、天国にいけ」と言ってくれるので、確実に天国に入れる。これが当時のユダヤ人たちの中で考えられていた意識です。
この物語からもわかるように、ユダヤ人たちはアブラハムを父として持つことによって、もう神様の救いの中にいる、自分は救われる者なのだ、ということが前提になってしまうのです。そうすると、悔い改めが本当の悔い改めにならないのです。 悔い改めて神様の赦しを得ることにこそ救いがある、というのではなくて、救いはもう別の所で確保されてしまっている、それはもう自分のものになってしまっている、そうすると、「悔い改めること」そして「洗礼」というものが、あってもなくてもよいものになるのです。それらは、あったほうが確実だろうという程度のものになってしまうのです。それは、真の悔い改めではありません。
わたしたちはユダヤ人ではありませんから、「我々の父はアブラハムだ」などとは思いません。しかしわたしたちも別の仕方で、同じような思いに陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。「悔い改めて洗礼を受けた」、「クリスチャンになった」という「事実」が、わたしたちを救うのではありません。その自分の行為とその結果で、救いが決まるのではないのです。
悔い改める、洗礼を受けるという自分の行為に救いがあるのではありません。悔い改める者を赦して下さる神様の恵みにこそ救いがあるのです。その救いをひたすら求めて神様の前に立ち、罪を告白して赦しを求めることが悔い改めなのです。その悔い改めの印がヨハネの授けた洗礼です。先ほども申し上げましたが洗礼はもともと、ユダヤ人でない者が、主なる神様を信じて神の民であるユダヤ人の仲間に加えられる時に受けた儀式でありました。ところがヨハネはそれを、ユダヤ人たちに受けるように求めたのです。ユダヤ人がユダヤ人であるから救われるのではない、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、神様のみ前に悔い改めて罪の赦しをいただくことによってのみ救われるのだというのが、この水の洗礼の意味なのです。
ヨハネはさらに自分の後に来られるイエス様が授ける洗礼は、「聖霊と火」による洗礼であると告げました。それは、わたしたちの罪を焼き滅ぼし、聖霊が宿る、聖霊が降るということにおいて新しい人間を生まれさせることの出来る洗礼です。「アブラハムの子孫であること」「悔い改めたこと」ということは、あたたかい救いの灯火のようです。その神の民であるということが目に見える形で保証されているということは、わたしたちにとっては平安をもたらすことになります。しかし、その暖かい火に安心しすぎて、先ほどのように、何もしなくても救われると、まるでこたつに入ってしまうとなにもできなくなるように怠惰になってしまったり、逆にその反動で、わたしたちは何かをしなければ救われないのだとなってしまったりします。 イエス様が授ける火の洗礼がさす、その火は、そのような暖かい火とは違います。それは、すべてを焼きつくすほど熱い、永遠に消えることのない炎です。その火は、わたしたちの燃やし、塵に返すほどの炎です。なぜその火が必要なのか、それは、わたしたちが神様の国にはいるためには、自分たちの持っている罪を全てなくさなければならないからです。しかし、その罪をなくすためには、わたしたちは一度、人間であるのでなく、ただの塵、灰になる必要があるのです。イエス様は、わたしたちの罪をその十字架の死によって、贖ってくださり、父なる神様から赦しを得てくださいました。しかし、いまだわたしたちは罪を持っています。その状態のままでは、わたしたちは、天の国、すなわち神の国は入れないのです。ですから、わたしたちは一度、燃やされねばなりません。しかし、わたしたちは、そのような火の中に投げ込まれれば、死んでたちまち灰になって、塵となって、そこで、終了です。しかし、そこで終わらないのは、もう一つ言われていたイエス様が授けてくださる洗礼、聖霊の洗礼と関係しています。わたしたちを、その火によって焼きつくされる同時に、聖霊なる神様がその塵なっているわたしたちに新たな命を与え、新たな体につくりあげてくださいます。ここで聖霊の注ぎに与っていなければ、ただ火によって燃やされ塵に返るだけです。ヨハネはこの火の洗礼ということと、神様の裁きというものを直結させて語っています。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と語った後で直ぐに「そして、手に箕を持って、脱穀場で隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語りました。これは終末における裁きのことを告げているのでしょう。つまり、イエス様はわたしたちをお裁きになります。火による洗礼は、滅びるものにとっては、塵に返されるだけという、恐ろしい裁きになります。しかし、悔い改めてイエス様を信じ、イエス様によって火と霊による洗礼を受ける者は、永遠の裁きの時に、救いに与ることが出来ると、ヨハネは告げたのです。
なぜ死んだものが甦ることができるのかと言えば、それはイエス様が示してくださっています。それは復活の出来事です。イエス様も十字架上で死んで葬られましたが、父なる神様によって三日目に甦らされました。そこに、わたしたちが死で終わらないことが示されています。
ヨハネの授けた洗礼は、悔い改めの印としての洗礼でした。しかし、わたしたちが受ける、父と子と聖霊による教会の洗礼は、それ以上のものです。わたしたちの洗礼も、罪を告白し、悔い改めることを意味しています。しかしそれはそういうわたしたちの決意や努力の印ではなくて、イエス様が、その十字架の死と復活とによって、わたしたちの全ての罪を赦し、聖霊なる神様よって新しい命を、神様の怒りではなく恵みの下に生きる新しい生活を与えて下さる、その恵みの印なのです。この恵みの中で、わたしたちは悔い改めにふさわしい実を結んでいきます。
わたしたちは、今から聖餐に与ります。この聖餐に与るということは、自分が洗礼を受けた者であるということを、新しく心に刻む時でもあるのです。イエス様と一つにされている恵みを味わい知るのです。イエス様と共に死に、イエス様と共に甦るという、イエス様によって古い自分の体を燃やされ、父なる神様の約束よって聖霊なる神様によって新しい命を与えられ、イエス様と共に甦り、新しいものとしてイエス様とともに神の国に入る。わたしは神様の子、イエス様の兄弟とされて、神の国に入り、食卓に与る希望を与えられている、このことを心に刻むのです。聖餐式の式文において、「ふさわしくない者は」と言われます。この言葉を聞くと「ドキッ」とするという人もいるでしょう。自分は、聖餐を与るのに相応しくない。そう思う人もいると思います。しかし、ここで「ふさわしくない者は」と言われているのは、「この神様の恵みを受け取ろうとしない者」という意味なのです。何か良い人間になって、神様の恵みにふさわしい者になった者が、この聖餐に与るというのではないのです。そんなことを言えば、「ふさわしい者」など、ここに一人もいないのです。わたしたちは、そこら辺に落ちている価値のない石と同じなのです。それを、神様が価値あるものとして、神様のものとしてくださるという、この驚くべき恵みを、驚くべき恵みとして、ただ感謝をもって受け取る者、それが「ふさわしい者」であるでしょう。★神様に与えられた、この礼拝から始まる新しい一週間の命。それは、弱々しい歩みであったとしても、神様の御前にささげられていく歩みなのです。そういう者として、わたしたちは注がれた聖霊なる神様によって新しくされたのです。このことを感謝しつつ、イエス様と共に歩みたいと思います。