主日礼拝

神は何でもできる

2026年2月15日 
説教題「神は何でもできる」 牧師 藤掛順一

詩編 第126編1~6節
マタイによる福音書 第19章16~30節

金持ちの青年
 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに問うた一人の青年の話を、先週の礼拝においても読みました。私は神の掟、律法の中心である十戒をみな守ってきました、まだ何か欠けているでしょうかと問うた青年に主イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。それを聞くとこの青年は、悲しみながら立ち去りました。沢山の財産を持っていた彼は、それを全部手放して無一物になることなど、とうていできなかったのです。
 主イエスが彼に、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とおっしゃったのは、「あなたにまだ欠けているのは、全財産を棄てて貧しい人に施すという善い行いだ。それをすればあなたは完全な者となり、永遠の命を得ることができる」という意味ではない、ということを先週の説教でお話ししました。主イエスは彼に、そのような「善いこと」をすることを求めたのではなくて、自分の善い行いを拠り所として生きることをやめて、ただ一人の「善い方」である神を見つめ、神の恵みと慈しみに依り頼んで生きる者になりなさい、とおっしゃったのです。持ち物を売り払って施せとおっしゃったのは、彼に、自分の善い行いにおいて完全な者となることで永遠の命、救いを獲得することはできないことを気づかせるためでした。ですからこの青年が主イエスのお言葉を聞いて「そんなことはとてもできない」と思ったのはまさに主イエスの思惑通りなのであって、実はそこにこそ、彼がそれまでとは全く違う新しい生き方へと変えられるチャンスがあったのです。しかし彼はそのチャンスを捉えることができず、悲しみながら主イエスのもとを立ち去ってしまいました。それは彼が、沢山の財産を手放すことができなかったと言うよりも、自分のする「善いこと」、自分の正しさや清さを拠り所とする生き方を変えることができなかったということです。彼が手放せなかったのは、お金よりもむしろ、自分の善い行い、正しさという財産だったのです。

悲しみながら立ち去った青年
彼は「悲しみながら」立ち去りました。彼のこれからの歩みは、悲しみに支配されたものとなります。「自分は、全財産を投げ出して貧しい人に施す、という善い行いができなかった」という後ろめたさ、という悲しみです。彼はこの後も、十戒をしっかり守り、いっしょうけんめいに善いことに励み、人々に親切にし、貧しい人にできるだけ施しをするという立派な生き方をしていくのでしょう。世間の人々は彼のことを、なんて立派な人格者だろうと感心し、褒めることでしょう。しかし彼の心の中には、自分は財産を放棄して貧しい人々に施すことができなかった、という後ろめたさ、悲しみがいつも付きまとうのです。自分の善い行い、正しさを拠り所とする生き方は、真剣になればなる程、このような悲しみに支配されたものとなるのです。

誰が救われるだろうか
 この青年が立ち去った後、主イエスは弟子たちに、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。このお言葉をどう聞き、どう反応するかに、あの金持ちの青年の出来事と、そこでの主イエスのお言葉をどう受け止めたかが表れます。それは私たちへの問いでもあります。私たちはこの富める青年の話と、「金持ちが天の国に入るのは難しい」という主イエスのお言葉をどう受け止めているでしょうか。「いや本当にそうですね。金持ちほどケチだって言いますしね。多くの財産を持っている人がそれを手放すことは難しいでしょうね。私はそれほど金持ちでないからよかったですわ」なんていう呑気な感想を抱いているとしたら、金持ちの青年の話も、主イエスのお言葉も、自分のこととして受け止めることができていないのです。その点、主イエスの弟子たちは、この出来事をしっかり受け止め、主イエスのお言葉に正しく応答しました。彼らは「非常に驚き」「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。
 なぜ彼らはそんなに驚いたのでしょうか。主イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい」とおっしゃったのです。彼ら弟子たちは金持ちではありません。あの青年のように「たくさんの財産を持っていた」わけではないのです。だから主イエスのこのお言葉を聞いて、「あのような金持ちが天の国に入るのは難しいが、自分たちは貧しい者だから大丈夫だ」と思ったとしても、つまり主イエスのお言葉を他人事として聞いたとしても不思議はありません。しかし彼らは、非常に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。自分たちも含めて、救われて天の国に入れる者など一人もいないのではないかと思ったのです。つまり彼らは主イエスのお言葉を、自分自身のこととして聞いたのです。主イエスがおっしゃった「金持ち」は、財産のある人というだけではなくて、自分の善い行いや正しさという自分の豊かさに依り頼んでいる人のことだ、ということを正しく聞き取ったのです。あの青年が悲しみながら立ち去ったのは、自分の善い行いという財産に依り頼むことをやめることができなかったからだ、ということを彼らは正しく感じ取っているのです。そして、自分の善い行いという財産、豊かさに拠り頼もうとする思いは、自分たちの中にもあることに、彼らは気づいたのです。

善い行いによって救いを得ることはできない
 私たちの中にも同じ思いがあるのではないでしょうか。善い行いをして立派な人になることによって救いが得られると思っていることにおいては、私たちは皆、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに問うたこの青年と同じなのではないでしょうか。その私たちに主イエスは、もし自分の善い行いという豊かさによって救いを得ようとするなら、全財産を売り払って施しなさい、とおっしゃるのです。そんなことができる人は一人もいません。それは、善い行いや自分の正しさによって救いを得ることができる人は一人もいないということです。自分の善い行いという富に依り頼んで生きている限り、私たちの救いは、らくだが針の穴を通るよりも難しい。つまり救われる人は一人もいないのです。

人間にできることではない
 それでは、だれが救われるのだろうか、誰も救われないではないか、という弟子たちの驚きととまどいに対して、主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃいました。人間にできることではない。私たち人間が、どんなに努力して善い行いを積み重ねても、それによって救いを獲得することはできないのです。あの青年が「まだ何か欠けているでしょうか」と言ったように、善い行いはどれだけ積み上げても、もうこれで十分、と安心できることはできないのです。救いは、神が与えて下さるものです。しかもそれは、善い行いをしようとする私たちの努力への報いとしてではありません。もしそうなら、努力次第で救いを獲得することができる、ということになります。そうではなくて、救いは「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということによって与えられるのです。つまり、どのような善い行いもできていない、正しさという富、豊かさなど全くない、つまり何のとりえもない者を、神が恵みによって救って下さるということです。とうてい救われようがないこの自分が、ただ神の恵み、憐れみ、慈しみによって救われるのです。つまり神による救いとは、不可能を可能にすることです。「神は何でもできる」から、それが実現するのです。

神の全能
 「神は何でもできる」。それは、神は全能である、ということです。神は全能であって、何でもおできになる。そのことを私たちはどう受け止めているでしょうか。ともすれば、いろいろな不思議なことや人間の能力を超えたことができる、スーパーマジシャンや超能力者のようなことをイメージしてはいないでしょうか。しかし神が全能であられるというのは、どんな人をも、善い行いという財産を全く持っていない人をも、恵みによって救うことができる、ということです。いや「どんな人をも」などと他人事のように言っている場合ではありません。この私を救って下さる、そこに神の全能の力が現れているのです。不可能を可能にし、とうてい起こり得ないことを実現する神の全能の力は、この私が救われることにおいて示されているのです。

ネゲブに川の流れを導くかのように
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編126編は、主なる神が、捕われ人となっている民を解放し、故郷に連れ帰って下さる、という救いを歌っています。バビロン捕囚からの解放、帰還という大いなる救いのみ業が、主なる神によって行われることが歌われているのです。その4節に、「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」とあります。ネゲブというのは、イスラエルの南、シナイ半島に続く荒れ野、砂漠の地域です。そこに川が流れ、土地が潤されるなどということはとうてい考えられない、不可能なことなのです。ネゲブ砂漠に川の流れを導く、そんな不可能なことを実現する神の力によって、捕囚からの解放という救いのみ業は行われる、そのことをこの詩は祈り求め、その実現を待ち望んでいるのです。善い行いを積み重ねるどころか、神に背き逆らってばかりいる罪人である私たちが救われるのも、ネゲブに川の流れを導くような不可能なことです。それを可能にする神の全能の力によってこそ、らくだが針の穴を通るよりも困難な、私たちの救いは実現するのです。

神の全能はキリストにおいて実現した
その神の全能の力による救いは、主イエス・キリストによって実現しました。神は、その独り子イエス・キリストを私たちと同じ人間としてこの世に遣わして下さいました。神の子であり、ご自身が神であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、苦しみを受け、死んで下さったのです。つまり神である方が、私たち罪人のために、ご自分の身を犠牲にして苦しみと死を引き受けて下さることによって、罪の赦しを実現し、救いを与えて下さったのです。そんなことは全くあり得ない、考えられないことです。神は全能であり、何でもできるというのは、私たちの救いのためにこんなことまでして下さる、ということなのです。神の独り子がご自身を徹底的に低くして、十字架にかかって死んで下さることによって罪人を救って下さる、そこに神の全能があります。主イエス・キリストの十字架にこそ、神の全能は示されているのです。そして神は、その主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を与えて下さいました。それもまた、神の全能の力によることです。神はその全能の力によって、死の力に勝利して下さったのです。そして、主イエスによる救いを信じる者たちにも、復活と永遠の命を約束して下さったのです。主イエスを復活させた全能の力で、私たちをも復活させ、新しく生かして下さると神は約束して下さっているのです。

神の恵みと慈しみに身を委ねる
この神の全能の力による救いにあずかるために私たちに求められているのは、自分の善い行い、正しさという自分の財産に拠り頼み、それを握りしめている手を離して、無一物になって、何でもおできになる神の恵みと慈しみに身を委ねることです。自分の力や、善い行いという財産に依り頼んでいるうちは、私たちの救いはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」ことを信じて、主イエス・キリストの十字架と復活において示されている神の全能の力に依り頼むことによってこそ、私たちは救われるのです。

どんな報いが
するとペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言いました。これはおかしな言葉です。主イエスは、救いは人間の力で獲得できるものではない、善いことをしたらその見返りとして救いが与えられるのではないとおっしゃったのです。それなのにペトロは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と語り、「では、何をいただけるのでしょうか」と、それに対する見返り、報酬を求めています。主イエスがお語りになったことが全く分かっていない、とんでもない言葉だと言わなければならないでしょう。しかしさらに驚かされるのは、これに対する主イエスのお答えです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。主イエスは、「お前は何を聞いていたのか。救いは善い行いへの報いとしてではなく、神の全能の力によって、恵みとして与えられるのだと今言ったばかりではないか」とペトロを叱ってはおられません。むしろ、私に従ってきたあなたがたには、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治める」という大きな報いが与えられると言っておられるのです。弟子たちだけではありません。29節に語られているのは、誰であれ、大切なものを捨てて主イエスに従った者には、その百倍の報いがあるということです。私たちも、主イエスのために、信仰のゆえに大事なものを捨てて従うならば、大きな報いを期待してよいのだと言っておられるのです。これはどういうことなのでしょうか。

信仰とは「捨てる」こと
救いは善い行いへの報いとして獲得できるものではない。善い行いという清さや正しさなど何もない者に、神が、恵みに満ちた全能のみ力によって救いを与えて下さる。だから善い行いをしている自分をではなく、神をこそ見つめ、神の全能の力に依り頼みなさい。というのが、金持ちの青年の話とそれに続く主イエスのお言葉の語っていることです。けれども28節以下において主イエスはそこに一つのことをつけ加えておられます。それは、善い行いへの報いとして救いが与えられることはないが、神は、私たちの信仰による行いに報いて下さるのだ、ということです。報いとして救われるのではないが、信仰への報いはある、と言っておられるのです。そこで見つめられている信仰とは「捨てる」ことです。ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っています。確かに弟子たちは、自分の仕事や家族を捨てて主イエスに従ってきたのです。また、29節で語られているのは、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てることです。自分にとって大切な、かけがえのないものを信仰のゆえに捨てる、それに対しては、その百倍の報いが与えられると言われているのです。「捨てる」ことが、信仰における大事な要素であることがここに語られています。あの金持ちの青年に求められたのも、自分の財産を捨てることでした。「捨てる」ことなしに神を信じることはできないのです。神を信じるとは、自分の手に握りしめているものから手を離し、捨てることです。捨てると言うよりも、それを神にお委ねすると言った方がいいでしょう。自分で握っているのをやめて、神のみ手の中に置くのです。主イエスがあの青年に求めたのもそのことでした。同じことが私たち一人ひとりにも求められています。主イエスは、全財産を教会に献金せよ、などとどこかのカルト宗教のようなことを言っておられるのではありません。私たちが気にかけ、心配していること、切に願い求めていること、あるいは誰にも打ち明けられずに心の中に隠し持っている悩みや苦しみ、そして罪。それらの、私たちが自分の手にしっかりと握り締めているものを、その手を離して、私に委ねてごらんと言っておられるのです。その主イエスは、神の独り子です。「神は何でもできる」という全能の力を、私たちの罪の赦しのために十字架の苦しみと死を引き受けることに用いて下さった方です。私たちの抱えている罪が、また悩みや苦しみが、どんなに大きなものであっても、神は何でもできる力をもってそれを赦し、救いを与え、新しく生かして下さるのだということが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって示されているのです。その主イエスのみ手に、自分が大切にしており、気にかけており、願っており、あるいは苦しんだり悲しんだりしているあのことこのことを委ねるなら、そこには、私たちが自分でそれらを握り締め、自分の力でどうにかしようとしている所に生まれる結果よりも、百倍も良いものが与えられるのです。

信仰には豊かな報いがある
信仰とは、捨てること、自分が握り締めている手を離すことです。あの青年は、善い行いをするという自分の正しさを人生の土台、拠り所として握り締めていました。主イエスは彼に、その拠り所を捨てて、無一物になって私に従って来なさいとおっしゃったのです。彼はそれがどうしてもできなかった。握り締めているものから手を離して、何の拠り所もない不確かな歩みをすることが怖かったのです。しかし、そんな心配はいらないのです。一切を主イエスに委ねるところには、恵みに満ちた神が、その全能の力によって豊かな報いを与えて下さる喜ばしい歩みが与えられるのです。28節以下の主イエスのお言葉はそのことを私たちに教えています。救いは善い行いへの報いとしてではなく、何でもできる神の恵みに満ちた力によってのみ与えられます。そのことを知り、自分の人生を主イエスにお委ねしていく中で、私たちは、信仰には豊かな報いがあることを体験していくことができるのです。

関連記事

TOP