説教「きょうだいを得るために」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第133編1-3節
新約聖書 マタイによる福音書第18章15-20節
何のために集まるのか
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書第18章の20節に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエスのみ言葉があります。このみ言葉こそ、私たちが今日このように礼拝に集まっていることの理由であり、根拠です。二人または三人の者たちが主イエスの名によって集まるところには、主イエスご自身がその中に、共にいて下さる、その主イエスにお会いするために、私たちはこの礼拝に集まっているのです。聖書を学んで知識を得たり、キリスト教の教えを聞くためだけなら、必ずしも「集まる」必要はないでしょう。今はネットを通して世界中の情報に接することができる時代です。聖書についての知識やキリスト教の教えもそういう形でいくらでも得ることができます。しかし私たちはそのような情報を得るために集まっているのではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と語って下さった主イエスとお会いするためにここに集まっているのです。
また私たちは先ごろの「コロナ禍」によって、共に集まることが著しく制限される経験をしました。その中で「オンライン礼拝」を行なった教会も多くありました。仕事や会議がインターネットを通じて自宅でも行えるようになる中、礼拝にもリモートで参加するという形です。私たちの教会は、礼拝においてはそれはしませんでしたが、祈祷会には取り入れました。それはそれで良い点もあり、今も継続されています。このような技術や設備をみんなが使えるようになったら、もう教会に集まって礼拝をする必要はなくなるのでしょうか。そんなことは決してありません。コロナ禍に私たちはかえって、教会に共に集まって礼拝や集会を行うことの大切さや恵みをはっきりと示されたと思います。それは、リアルに集まってお互いの顔を見れた方がやっぱり慰めや励ましになる、ということでもありますが、もっと根本的には、集まることによってこそ主イエス・キリストとお会いすることができることに改めて気付かされたのです。主イエスは、私たちが「集まる」ところに共にいて下さるのです。その主イエスにお目にかかることが礼拝の恵みなのです。
わたしの名によって集まる群れ–教会
しかし、ただ何人かの人が集まればそこに主イエスがおられるというわけではありません。「わたしの名によって」ということが大事です。それは、主イエスを信じる信仰によって、主イエスのみ言葉を聞き、従っていこうという思いをもって集まる、ということです。そのようにして集まっている群れが教会です。教会とは建物のことではなくて、主イエスの名によって集まった群れであり、そこに主イエスが共にいて下さるのです。ですから「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という20節のみ言葉は、教会の本質、教会とは何かを語っていると言うことができます。マタイによる福音書の第18章は、教会とは何か、それはどのように築かれていくのか、を語っているのだということを、18章に入ってからの説教において繰り返しお話ししてきましたが、そのことがまさにこの20節にも言えるのです。教会は、二人または三人が主イエスの名によって集まり、そこに主イエスが共にいて下さるという群れであり、そのようにして築かれていくのです。
二人または三人が
「二人または三人が」というみ言葉にも目を向けたいと思います。「集まる」ことは一人ではできません。それが成り立つ最小の人数が二人または三人です。つまりこれは、どんなに少数であっても、主イエスのみ名によって「集まる」なら、そこに主イエスが共にいて下さる、ということです。私たちの教会の礼拝には今、二百人ほどの人々が集まっていますが、二人または三人で守られている礼拝であっても、主イエスはそこに同じように共にいて下さるのです。私の父は、いわゆる開拓伝道によって新たな教会を築きました。それが現在の藤沢北教会ですが、最初のうちは父と母の二人だけの礼拝ということもありました。その礼拝も、二百人が集まる今の指路教会の礼拝も、「わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主イエスの恵みにおいては少しも変わらないのです。
一人でいる時には?
しかしこれは、二人でも三人でも「集まる」ことが必要だ、ということでもあります。ということは、私たちが一人でいる時には主イエスは共にいて下さらないのでしょうか。教会の礼拝や集会に集っている時だけ主イエスが共にいて下さり、家で一人でいる時には共にいて下さらないのだとしたら、それは寂しいことです。いや寂しいどころではない。それでは私たちは一日たりとも生きていけません。特に、病気になったり、年をとったりして、教会の礼拝や集会に集うことができなくなったら、もう主イエスと共にいることができないのだとしたら、最も必要な時に主イエスが共にいて下さらない、ということになってしまいます。でもそんなことはありません。主イエス・キリストは、どんな時にも、いつも共にいて下さるのです。そのことを最もはっきりと語っているのがこのマタイによる福音書です。マタイは、天使によって主イエスの誕生が告げられた場面で、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と語っています。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。神が私たちと共にいて下さる、という恵みが、主イエス・キリストにおいて実現した、とマタイは語っているのです。またこの福音書の最後のところ、28章20節では、復活した主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっています。主イエスは世の終わりまでいつも共にいて下さる。それがマタイ福音書が語っている「福音」なのです。「いつも」というのは、私たちが礼拝や集会に集まっている時だけではなくて、一人でいる時にも、入院している時にも、寝たきりになって礼拝にも集会にも行けなくなっても、その場に主イエスが共にいて下さる、ということです。私たちはどのような状態になっても、主イエスと共に生きることができるし、主イエスの守りと支えの内にあるのです。私たちがこの地上の人生を終えて死ぬ時にも、主イエスは共にいて下さいます。私たちは共にいて下さる主イエスに、自分の命を、また家族を、心残りなことの全てを、お委ねして人生を終えることができるのです。それが、主イエスを信じる信仰者に与えられている恵みです。主イエスが共にいて下さるのは、決して、礼拝や集会に集っている時だけのことではないのです。
集まるところにこそ与えられる恵み
それなら、本日の箇所でことさらに、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われているのは何故なのでしょうか。それは、「集まる」ところにこそ与えられる特別な恵みがあるからです。一人で聖書を読み、祈っているところにも、主イエスは共にいて下さいます。しかし、だからそれで十分ということは決してないのです。二人または三人が集まるところにこそ与えられる恵みがあるのです。それは言い換えれば、教会においてこそ与えられる恵みです。二人または三人が主イエスの名によって集まるところとは、先ほど見たように教会です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」に与えられる特別な恵みとは、教会に連なって生きるところに与えられる恵みなのです。私たちは、一人ひとりが主イエスを信じて生きていきす。信じて生きるのは私であり、誰かが代って信じてくれるわけではありませんから、信仰に生きることは基本的に自分一人での歩みです。先ほど申しましたように主イエスはその私たちと共にいて下さるのです。しかしその私たちは同時に、教会に連なって、教会の礼拝や集会に集まって生きていきます。そこにこそ与えられる特別な恵みがあるのだ、ということがここに語られているのです。
どんな願い事もかなえられる?
教会に連なって生きるところに与えられる特別な恵みとは何でしょうか。それを知るために、20節からだんだん前に戻って本日の箇所を読んでいきたいと思います。すぐ前の19節にはこうあります。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。ここにも、「二人」が集まるところに与えられる恵みが語られています。二人が集まって何をするところに、どんな恵みが与えられるのでしょうか。「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」とあります。二人が集まって心を一つにして神に祈り求めるのです。そうすると、「わたしの天の父」つまり主イエスの父である神が、その願いをかなえて下さるのです。それが、二人が集まるところに与えられる恵みです。しかし、二人が心を一つにして願い求めたら、天の父なる神がどんな願い事でもかなえて下さる、というのは本当でしょうか。だとしたらたとえば、教会員が二人だけの小さな教会の人たちが、心を一つにして祈って「年末ジャンボ宝くじ」を買えば、一等にあたって十億円の資金を得ることができる。そして立派な会堂を建てて伝道していくことができる。そういうことが起ったらすばらしいと思いますが、主イエスがおっしゃったのはそういうことではないでしょう。二人が心を一つにして願い求める、ということにおいて主イエスは何を見つめておられるのでしょうか。それを知るためには、その前の18節を読む必要があるのです。
きょうだいがあなたに対して罪を犯す
18節には「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。ここに、「つなぐ」と「解く」という言葉が出てきます。何をどうつなぎ、何をどう解くのでしょうか。そのことは、その前の15~17節から分かります。15節の冒頭に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。つまりここには、人と人との間に、罪によるいさかい、傷つけ合いが起ることが見つめられているのです。しかもその罪は「兄弟」が自分に対して犯すものです。兄弟とは、「わたしの名によって集まっている」群れである教会の仲間です。主イエスのみ名によって集まり、信仰によって兄弟姉妹となっている教会の群れの中で、兄弟が自分に罪を犯す、あるいは逆に自分が兄弟に対して罪を犯してしまう、そういう罪によっていさかい、傷つけ合いが起こることが見つめられているのです。
ところで少し脱線ですが、本日の説教題の「きょうだい」を平仮名にしました。それは、来年度から用いていく聖書協会共同訳に倣ってのことです。兄、弟という漢字の「兄弟」は男性のみを意味することなるので、平仮名で「きょうだい」とすることによって、男性も女性も含む教会の仲間たち全てを意味していることを表しているのです。
「つなぐ」と「解く」
さて繰り返し申していますように、このマタイによる福音書18章には、イエス・キリストの教会はどのように築かれていくのかが語られており、本日の15〜20節もそうであるわけですが、ということはここには、教会は、私たち一人ひとりが持っている罪との戦いによって築かれていくのだ、ということが見つめられているのです。主イエスの名によって集まっている群れである教会においても、きょうだいの間でお互いに傷つけたり傷つけられたりすることがあります。教会は聖人君子の集まりではありません。私たちは神に召し集められ、主イエスによる救いにあずかっているきょうだいですが、しかし誰もが皆、なお罪人であり、神に対しても、お互いに対しても、罪を犯しているのです。教会は、私たちの罪と関係のない所で築かれていくのではなくて、その罪との戦いの中でこそ築かれていくのです。その罪との戦いにおいて、何をどう努力するべきなのかが本日の15節以下に語られているのです。「つなぐ」とか「解く」という言葉はそういう文脈の中で語られています。それは、罪につなぐ、罪から解くという意味です。罪につなぐとは、その人を罪ある者として断罪することです。それに対して罪から解くとは、その罪を赦すことです。「つなぐ」と「解く」は、人の罪を責めて断罪することと、それを赦すことを意味しているのです。そしてここにはさらに、「あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる」と言われています。私たちが地上で人の罪を断罪するなら、その人は神のみもとである天上においても罪に定められるのです。私たちが地上でその人の罪を赦すなら、その人は天上でも赦されるのです。そのように、私たちがこの地上で、つまり今現在の歩みにおいて、人の罪を赦すか赦さないかは、神のみ前での裁きにおいてその人が救われるか滅びるかと繋がっているのです。これは大変なことです。責任重大です。このみ言葉はまさに私たちに、その重大な責任を覚えさせようとしているのです。私たちが自分に罪を犯したきょうだいを断罪するか赦すかは、その人が滅びるか救われるかを左右するような重大なことなのです。
きょうだいの回復
この重大な責任を示すことによって主イエスは、私たちが地上で「解く」ことを、つまりきょうだいの罪を赦す者となることを望んでおられるのです。あなたがたが赦すなら、その人は天上において神に赦され、救われる。自分に罪を犯したきょうだいを赦すことによって、その人に救いをもたらす者になってほしい、と主イエスは私たちに願っておられるのです。15~17節はその願いで貫かれています。そこには、きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、まず、自分一人でその人のところに行って、二人だけのところで忠告しなさいとあります。忠告するとは、相手に対して、あなたのしていることは罪だとはっきり告げ、悔い改めを求めることです。そして「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。「言うことを聞き入れる」とは、その人が忠告を受け入れて、自分の犯している罪を認めて悔い改めることです。そうなれば「兄弟を得たことになる」。つまり、罪のために破壊され、失われていたきょうだいとしての関係が回復されるのです。先ず自分一人で行って忠告するようにと言われているのは、罪によって傷ついてしまった二人の関係が、まずその当事者の間で回復されることを願っているからです。そのためには、罪を犯した者が悔い改めなければなりませんが、それと同時に、その罪によって傷つけられた者がその人を赦す、ということも起らなければなりません。悔い改めと赦しが双方に起らなければならないのです。それによって和解が成り立ち、お互いが相手をきょうだいとして得るのです。そのことを目指して精一杯努力しなさい、と主イエスはこの15節以下で語っておられるのです。
悔い改めと赦しのための祈り
19節の、二人が心を一つにして求めるなら天の父がそれをかなえてくださる、というみ言葉は、この流れの中で語られています。つまり、二人が心を合わせて祈り求めていくべきこととして主イエスが見つめておられるのは、私たちが地上で「解く」者、つまり人の罪を赦す者となること、自分に罪を犯したきょうだいとの間に、悔い改めと赦しが実現し、お互いが相手をきょうだいとして再び得ることです。そのことを二人が心を一つにして祈り求めるなら、天の父なる神がそれをかなえてくださるのだ、と主イエスは教えておられるのです。その二人というのは、罪によって関係が破れてしまっている当事者たちかもしれません。お互いの間に、罪によって敵意や憎しみが生じており、きょうだいとして歩めなくなっている二人が、悔い改めと赦しによって、お互いが相手をきょうだいとして再び得ることができるようにと切に祈り求めていく、その祈りを、天の父なる神は聞いて、かなえて下さる、和解を与えて下さる、きょうだいとして共に生きることができるようにして下さる、と主イエスは教えておられるのです。
あるいはこの二人とは、16節にあるように、一人で忠告しても聞いてもらえない時に、他に一人か二人を連れて行って説得する、その説得に当る二人かもしれません。悔い改めを拒み、頑なになっている人を、二人で説得するのです。それはその人をただ批判して断罪するためではありません。その人が罪を悔い改め、自分たちもその人を赦して、きょうだいとして受け入れ、それによってその人が天上における神の赦しにあずかり、つまり救われることを目指してのことです。その説得に当る二人が心を一つにして祈るのだとしたら、それは罪を犯している人の救いのためのとりなしの祈りです。そのとりなしの祈りを、天の父は必ず聞いて下さる。だから希望を失わずに、その人のために祈り続けよ、と主イエスは教えておられるのです。
教会が築かれるために
このようにこの15〜20節には、お互いに傷つけ合ってしまう罪人である私たちが、きょうだいとして共に生きる者となり、教会を築いていくために努力していくべきことは何なのかが語られています。それはお互いの間に、罪の悔い改めと赦しが起ることです。そのことを目指して私たちは、自分自身の、またきょうだいの、罪と戦っていくのです。主イエス・キリストの教会は、その戦いによってこそ築かれていきます。その戦いの先頭に立って、私たちを導きまた支えて下さるのが主イエス・キリストです。主イエスは、私たち罪人を救うためにこの世に来て下さいました。クリスマスに私たちはそのことを喜び祝うのです。そして人間となってこの世を生きて下さった主イエスは、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。ご自分の命を犠牲にすることによって、私たちの罪を赦して下さったのです。そのようにして主イエスは私たちの罪と戦い、勝利して下さったのです。その主イエスが、復活して今も生きておられる方として私たちをご自分のもとに集めて下さっています。罪人である私たちをご自分のもとに集め、十字架の死によって罪を赦し、復活によって新しい命にあずからせ、主イエスの名によって集まるきょうだいとして下さっているのです。この恵みによって主イエスの下に集まった私たちは、お互いがお互いをきょうだいとして得ることを祈り願っていくのです。二人または三人が主イエスの名によって集まってそのように祈るところに、主イエスは共にいて下さり、その願いをかなえて下さるのです。そこにこそ、キリストの体である教会が築かれていくのです。