主日礼拝

これらの小さな者

説教「これらの小さな者」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第23編1-6節
新約聖書 マタイによる福音書第18章10-14節

ちいさいひつじが
 本日の聖書の箇所、マタイ福音書第18章10節以下には、「迷い出た一匹の羊」のたとえ話が記されています。主イエスが語られた数々のたとえ話の中でも、おそらく最もよく知られている話だろうと思います。今、讃美歌200番「ちいさいひつじが」を歌いました。まさにこのたとえ話を歌った歌です。もともとは「こどもさんびか」にあった歌で、子供の頃教会学校に通った人は、誰もが覚えているのではないでしょうか。私自身の信仰の成長においても、最も大きな影響を与えたものの一つがこの歌かもしれません。教会学校の礼拝で聞いた説教は何一つ覚えていなくても、何度も歌ったこの讃美歌は心に深く染み込み、知らず知らずの内に影響を与えていったように思います。ここに歌われているのは、迷子になって途方に暮れ、泣いている羊を探し出して連れ帰ってくれる羊飼いの姿です。子供にとって、親とはぐれて迷子になることは恐しいことです。この讃美歌が子供たちの心に残る一つの理由はそれでしょう。迷子になった時のあの心細さを思い出しながら、その自分を探し出して家に連れ帰ってくれるやさしい羊飼いであるイエスさまのことが心に深く刻み付けられるのです。「讃美歌21」に入ったことによって、大人も子供も共にこの讃美歌を歌うことができるようになったことを私は喜んでいます。

失われた者を見出して下さる神の喜び
 ところでこの「迷い出た一匹の羊」のたとえ話は、マタイ福音書の本日の箇所と、ルカ福音書の15章の二箇所に語られています。そして通常は、ルカの15章の話の方がよく読まれるのです。そこには、この迷い出た羊のたとえを筆頭に、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえと、三つのたとえ話が並べられています。それらの三つに共通しているテーマは、「失われたものを見出した喜び」です。見出された者の喜びではなくて、見出した者の喜びが語られているのです。先ほどの讃美歌には「抱かれて帰るその羊は、喜ばしさに踊りました」とありましたが、主イエスの話に語られているのは、抱かれて帰る羊の喜びではなくて、失われた一匹の羊を見出した羊飼いの喜びです。無くした銀貨のたとえでも、無くした銀貨を見つけた人が喜ぶのです。そして放蕩息子のたとえでも、家を飛び出して放蕩に身を持ちくずし、ボロボロになって帰ってきた息子を、父親が喜んで迎え入れたのです。そのように、神のもとから失われてしまっている私たちを、まことの羊飼いである主イエスが探しに来て、見つけ出し、父である神のもとに連れ帰って下さる、そのことを神ご自身が心から喜んで下さるのだということを、ルカ福音書15章の三つのたとえ話は語っており、迷い出た羊の話はその最初に置かれているのです。

これらの小さな者
 しかし本日のマタイ18章においては、この話はそれとは全く違う文脈で語られています。12節からが「迷い出た羊のたとえ」ですが、その前の10節にはこう語られています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。主イエスは、「これらの小さな者を一人でも軽んじるな」と言っておられるのです。「これらの小さな者」とは誰でしょうか。それは先週読んだ6節の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」です。「わたしを信じる」とあるように、ここでは主イエス・キリストを信じる信仰者たち、つまり教会のことが見つめられているのです。先週申しましたが、この18章は、主イエスを信じる者の群れである教会はどのように築かれていくのか、を語っています。6節以下は、その教会において、わたしを信じる小さな者の一人をつまずかせることへの警告です。つまずかせるとは、その人が神を、主イエスを信じ続けることができなくなって、教会の群れから失われてしまう原因を作ることです。そういうつまずきを与えるくらいなら、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められた方がましだ、と大変厳しい口調で語られたのです。その教えに続いて本日の10節では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と語られているのです。このことによって主イエスが語っておられるのは、人をつまずかせることは、相手を軽んじることによって起るのだ、ということです。主イエスを信じる者たちの群れである教会において、人を軽んじ、軽蔑し、低く見るようなことがあると、そのことが、その人の信仰につまずきを与えるのです。

受け入れないことが人をつまずかせる
 このことは、先週の礼拝において、5節と6節の結びつきについてお話ししたことと重なります。5節には、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とありました。一人の子供を受け入れることを主イエスは求めておられるのです。そしてその対極にあるのが、6節の「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことです。「小さな者の一人」は「一人の子供」の言い換えです。その者を「受け入れる」ことと「つまずかせる」ことが正反対のこととして見つめられているのです。そこから私たちが先週聞いたのは、人をつまずかせることは、その人を受け入れないことによってこそ起る、ということでした。私たちが人をつまずかせてしまうのは、私たちの信仰における言葉や行いが不十分だったり不適切だったりするからではなくて、そもそも相手を受け入れていないからなのです。受け入れられていない、という思いが、つまずきを生むのです。それは言い換えれば、私たちがその人を「軽んじている」ということでしょう。「受け入れない」と「軽んじる」は同じことです。共に信仰に生きている者たちの中の小さな者の一人を軽んじ、受け入れない思いが、人をつまずかせるのです。ですから本日の10節は、先週のところの続きです。目立たない、ともすれば無視されたり、軽んじられてしまう小さな者の一人に対してどのような態度をとるかが問われているのです。そしてそのことは、主イエス・キリストの教会はどのように築かれていくのか、というこの18章の中心的な主題なのです。

彼らの天使たち
 主イエスは10節後半で、「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」とおっしゃいました。これは興味深いみ言葉です。主イエスを信じる信仰者、教会に連なる者たちには天使がついているというのです。ここから、いわゆる守護天使という考え方が生まれたのでしょう。私たち一人一人に、担当の天使さんがついていてくれるのだとしたら、それは有難いことです。自分についていてくれるのはどんな天使なんだろう、どんなことをしてくれるのだろう、といろいろ想像したくなります。しかし聖書は、守護天使がいると語っているわけではないのです。それでは「彼らの天使」とは何なのか。「あなたがた一人一人の天使」ではなくて、「彼らの天使」と言われていることが大事です。「彼ら」とは「これらの小さな者」です。つまりともすれば軽んじられてしまう小さな者たちに、天使がついている。そしてその天使は「いつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」のです。これは守護天使ではありません。守護天使なら、天の父なる神のみ顔ばかり仰いでいないで、私のことをしっかり見て、必要な助けを与えてくれ、と言いたくなります。この天使の姿が意味しているのは、主イエスの父である神が、彼ら小さな者の一人のことをいつも気にかけておられ、ご自分の大切な民として見つめておられるということです。ともすれば軽んじられ、無視され、受け入れられない小さな者の一人を、神はこのように大切に思っておられるのです。だから、その一人を私たちが軽んじてしまうことがあってはならない、と主イエスは教えておられるのです。

私たちが軽んじてしまう小さな者
 マタイにおける「迷い出た羊のたとえ」は、このことを語るためのたとえです。マタイの文脈においてはこのたとえは、神が、失われた一匹の羊をいかに大切に思っておられるか、その一匹が失われてしまうことを決してよしとされない、むしろその一匹を探し出して群れへと連れ戻すことを心から願い、またそのことを喜んでおられるのだ、ということを語っているのです。失われた者を探し出して神ご自身が喜ぶ、ということはルカの15章と基本的に同じですが、違うのは、私たちが、自分をどこに置いてこのたとえを読むことを求められているか、です。ルカの文脈では、迷子になった羊が私たちであり、その私たちをまことの羊飼いである主イエスが探し出し、連れ帰って下さるのです。私たちは、放蕩息子のように、父である神のもとを飛び出し、好き勝手に生きる中で、神から与えられたものを無駄使いして、行き詰まっています。そのような私たちが悔い改めて帰って来るなら、神は私たちの罪を赦して迎え入れて下さり、そしてそのことを喜んで下さるのだ、ということをルカは語っています。しかしマタイにおいては、迷い出た羊は、私たちではなくて、私たちが軽んじてしまい、つまずかせてしまう、これらの小さな者の一人です。その一匹の羊を、神は大切に思っておられ、群れに連れ戻すために力を注いでおられるのです。そしてその一匹が戻って来るなら、九十九匹のことよりもその一匹の羊のことを喜ぶのだ、ということをこのたとえは語っているのです。

主イエスの喜びを共に喜ぶ者となる
 だとしたら私たちはこのたとえのどこに自分を置いてこの話を読むべきなのでしょうか。それは「迷わずにいた九十九匹」です。マタイは、私たちが九十九匹の中に自分を見出すことを求めているのです。それは、私たちは神のもとから失われてしまうような罪人ではないとか、そういう罪人にならないように気をつけよう、ということではありません。そうではなくて、九十九匹である私たちが軽んじて、受け入れず、つまずかせてしまったために、一匹の小さな羊が群れから失われてしまってはいないか、ということです。そして、その一匹が群れに戻って来ることを私たちがどれだけ真剣に願い、求め、またそのことを喜びとしているか、が問われているのです。私たちの羊飼いであられる主イエスは、失われた一匹の羊を探し出し、連れ戻すために、つまり小さな者の一人を救うために、十字架にかかって死なれたのです。主イエスは、九十九匹を山に残しておいて、失われた一匹を捜しに行く方です。そしてその一匹を見つけたなら、九十九匹のことよりも、その一匹のことをこそ喜ぶ方です。主イエスを信じるとは、この主イエスを救い主として信じ、主イエスのこのみ心を受け入れて、主イエスの喜びを共に喜ぶ者となることです。この主イエスを信じ、そのみ心を受け入れ、主イエスと共に喜ぶ者となることによってこそ、私たちは、「これらの小さな者の一人を軽んじない」者となることができるのです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせ」ない者となることができるのです。小さな者の一人を受け入れることができるようになるのです。

主イエスの教会はどのように築かれるのか
 先週も申しましたが、「受け入れる」というのは、自分にとって喜ばしい、魅力のある、気の合う者に対して使う言葉ではありません。むしろ喜べない、魅力を感じない、気の合わない、要するに受け入れにくい相手を受け入れることです。そういう相手というのは、ただ気が合わないだけではありません。いろいろと迷惑をかけられたりするのです。群れから迷い出る羊は、他の九十九匹にとって迷惑な存在です。その一匹のために、本来ありつけたはずの牧草にありつけなかったりするのです。また、羊飼いが九十九匹を山に残してその一匹を捜しに行ってしまったら、我々はどうなるのか、その間に狼が来たら誰が守ってくれるのか、と文句を言いたくなるようなことでもあるのです。しかし、私たちの羊飼いであられる主イエス・キリストは、その失われた一匹の羊のことを本当に大切に思っておられるのです。その一匹が回復されるために、ご自分の命を投げ出されたのです。この主イエスを救い主と信じ受け入れることが私たちの信仰です。そしてそれは同時に、主イエスが大切に思っておられる一人の小さな者を、私たちに迷惑をかけるような、それゆえに私たちがともすれば軽んじてしまう者を、受け入れるということです。マタイによる福音書18章は、迷い出た羊のたとえにおいて、私たちが、主イエスと共に、迷い出た一匹の羊を捜し求め、受け入れる者となることを求めているのです。主イエスを信じる者の群れである教会は、そのようにして築かれていくのだと、マタイ福音書は教えているのです。

これらの小さな者の群れである教会
 けれどもマタイはそのことだけを語っているのではありません。ルカ福音書に語られていること、つまり、私たち自身が失われた羊であり、その私たちを主イエスが捜し出して連れ戻して下さる、そしてそのことを神ご自身が喜んで下さる、ということを、マタイも当然見つめています。つまり私たちは、いつも九十九匹の側にいるわけではありません。私たち自身が、群れから迷い出てしまうこともあります。いや私たちはみんな、もともとは父なる神のもとから迷い出て、神をないがしろにする自分勝手な生き方をしてきた放蕩息子なのです。私たちはみんな失われた羊だったのです。その私たちを、神の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死とによって、赦し、神のもとに立ち帰らせて下さったのです。私たちが立ち帰ったのではなくて、主イエスが、自分ではどうにもならない苦しみの中にいる私たちを捜しに来て下さり、見つけ出して肩に背負い、父なる神のもとに連れ戻して下さったのです。この羊飼い主イエスの救いのみ業によって、神の牧場の羊の群れである教会が築かれているのです。しかしその教会において、私たちはつまずいて再び迷い出てしまいそうになります。あるいは共に集められている兄弟姉妹を軽んじてしまって、受け入れることができず、つまずかせてしまうことがあります。つまり私たちは、ある時はつまずく者であったり、ある時はつまずかせる者であったりしています。ある時は九十九匹の中にいるが、別の時は失われた一匹であったり、昨日まで失われた羊だった者が今日は九十九匹の中にいたりするのです。つまり私たちは誰もが皆、これらの小さな者の一人なのです。教会の中で、ある人々だけが特別に小さな者であるわけではありません。私たちは皆、小さな者であり、お互いに相手を軽んじたり、受け入れることができなかったりしているのです。

小さな者を気にかけて下さっている神の恵み
このことを見つめる時に、あの、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」というみ言葉に込められている恵みが見えてきます。「彼ら」とは「これらの小さな者」であり、それは私たち一人ひとりのことなのです。小さな者である私たちの天使が、いつも天の父なる神のみ顔を仰いでいるのです。つまり神が小さな者である私たち一人ひとりのことを、深く気にかけ、ご自分の大切な民として見つめて下さっているのです。私たちは皆、この神の慈しみのまなざしの中にいる。神は私たちの中の誰一人をも、軽んじることなく、大切に思い、私たちの救いのために、み子イエス・キリストの命をすら与えて下さっているのです。

子供のようになるとは
 先週読んだ18章3、4節には「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という主イエスのお言葉がありました。主イエスは私たちに、「子供のようになる」ことを求めておられるのです。「子供のようになる」とはどういうことなのでしょうか。先週は、18章全体を読む中でそのことを考えていきましょう、と申しました。その答えが、本日の10~14節に示されていると言うことができます。本日の箇所の「これらの小さな者」という言葉は、先週の箇所の「子供」の言い換えであると言えます。つまり「子供」という言葉で見つめられているのは、ともすれば軽んじられ、受け入れられない「小さな者」のことであり、それゆえに群れから迷い出てしまいがちな一匹の羊のことなのです。その一匹の羊を捜し出し、救うために、羊飼い主イエス・キリストは命をささげて下さいました。神はこれらの小さな者の一人を、つまり一人の子供を、大切に思い、気にかけて下さっているのです。「子供のようになる」というのは、自分がこの「小さな者」の一人であり、しばしば迷い出てしまう一匹の羊なのだ、ということを認めて、その自分のことを神が大切に思っておられることを信じ受け入れることです。つまり「子供のようにならなければ」というのは、子供のように素直で純真な者になれば救われる、ということではありません。迷い出た羊は、自分で群れに帰ることはできません。羊飼いが捜しに来て見つけ出してくれなければ死を待つより他にないのです。子供というのはその迷い出た羊と同じように、自分の力で救いを獲得することができない者です。その迷い出た羊だった自分を、主イエス・キリストが、九十九匹を山に残しておいて、捜しに来て下さり、見つけ出して下さったのです。そして「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語りかけて下さったのです。つまりあなたの天の父である神が、あなたをご自分の子として大切にして下さっている、と告げて下さったのです。この主イエスによる救いを信じて、自分が天の父なる神の子供とされていることを信じることこそが、「子供のようになる」ことなのです。

キリストによる救いを無にしてはならない
 主イエス・キリストは、このようにして私たちをご自分のもとに呼び集め、教会を築いて下さっています。だから私たちは、教会において、これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなければならないのです。一人の小さな者を軽んじ、受け入れずにつまずかせてしまうことは、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹の羊を捜しに来て下さった主イエス・キリストのみ心を無にしてしまうことだからです。それは、主イエスがベツレヘムの馬小屋で貧しい赤ん坊となってこの世に生まれて下さった、クリスマスの恵みの出来事を無にしてしまうことでもあります。そしてそれは、私たち一人ひとりに与えられている救いの根拠を否定してしまうことに他ならないのです。

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