主日礼拝

共にいて下さる神

説 教 「共にいて下さる神」 牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第7章14節
新 約 マタイによる福音書第17章14-20節

変貌の山を降りて
 本日ご一緒に読む聖書の箇所はマタイによる福音書第17章14節以下ですが、その冒頭の14節に、「一同が群衆のところへ行くと」とあります。「一同」とは、主イエスとペトロとヤコブとヨハネの四人です。主イエスがペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子のみを連れて高い山に登ったこと、その山の上で、主イエスのお姿が光輝く栄光の姿に変わり、またそこに旧約聖書の重要な登場人物であるモーセとエリヤが現れたことが、17章1節以下に語られていました。「山上の変貌」と呼ばれる出来事です。その山から降りて来た主イエスと三人の弟子たちが、麓で待っていた他の弟子たちのところに来たのです。先々週、「変貌の山を降りて」と題して説教をしましたが、まさに変貌の山を降りてきたところで起ったことが本日のところに語られているのです。

群衆が集まっていた
 しかしこの14節には「一同が群衆のところへ行くと」とあります。つまり麓に残された弟子たちのところには、群衆が集まっていたのです。なぜ群衆が集まっていたのかは、その中の一人が主イエスの前にひざまずいて願った15節以下の言葉から分かります。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」。ある父親が、病気の息子を癒してもらおうとして主イエスのもと来たのです。群衆はこの親子について来たのです。彼らは、主イエスが癒しの奇跡をなさるのを見ようとして集まって来たのでしょう。

悪霊を追い出せなかった弟子たち
 この息子の病気は「てんかん」だった、と語られていますが、ひきつけを起して倒れる、という症状からそう推測されているだけで、聖書協会共同訳では「発作でひどく苦しんでいます」と訳されています。大事なことはこの子の病名ではなくて、この症状が、悪霊にとりつかれたことによって起っているということです。悪霊が、この子に発作を起こさせ、度々火の中や水の中に倒れさせて、命を脅かしているのです。父親は、その悪霊を追い出してもらおうとして、息子を主イエスのところに連れて来たのです。しかし主イエスは山に登っておられて不在だったので、弟子たちに、この子から悪霊を追い出してくださいと願ったのです。しかし弟子たちは悪霊を追い出すことはできなかったのです。そんなことは主イエスご自身にしか出来ないのであって、弟子たちに頼んでも無理に決まっている、と思ってはなりません。この福音書の第10章には、主イエスが十二人の弟子たちに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けて派遣なさったと語られていました。弟子たちは主イエスから、悪霊を追い出す力を与えられていたのです。だからこそ彼らはそれを試みて、神に祈り、「生ける神の子イエスの名によって命じる。悪霊よ、この子から出ていけ」と言ったのです。しかし悪霊は出ていかなかった。彼らは悪霊に打ち勝つことができなかったのです。弟子たちは深い挫折を味わい、自分たちの無力さを思い知らされました。また、癒しを期待して集まっている人々の前で、彼らの面目はまるつぶれです。イエスの弟子ならもう少し何かできるかと思ったが、何もできないじゃないか、と愛想をつかされてしまう。そしてそれは主イエスご自身の面目をも失わせることです。弟子があの程度じゃあ、イエスも大したことはないな、と思われてしまうのです。

私たちの日常の生活において起っていること
 主イエスが三人の弟子を連れて山に登っておられる間に、麓ではこういうことが起っていました。そこへ、主イエスたちが戻って来たのです。先々週の説教において、変貌の山を降りていくことは、私たちが、主の日の礼拝から日常の生活に戻っていくことと重なる、と申しました。礼拝において私たちは、日常の生活を離れた言わば山の上で、神の恵みに触れ、栄光に輝く主イエスと出会うのです。しかしその山の上にいつまでも留まっていることはできません。私たちは礼拝という山を降りて、日常の生活へと戻っていくのです。そこで私たちを待ち受けている現実がここに描き出されていると言えるでしょう。私たちの日常の生活においては、悪霊が力を振るい、人々を脅かしています。私たちは、主イエスに従う信仰者として、主イエスが与えて下さった力によって悪霊と戦おうとするけれども、結局負けてしまって、悪霊に打ち勝つことができません。それによって信仰者としての私たちの面目はまるつぶれになってしまうし、主イエスの顔にも泥を塗ってしまうことになる。神を信じていても、結局何の役にも立たないではないか、と思われてしまう。そういうことが起っているのが、山の麓での、私たちの日常の生活なのではないでしょうか。

信仰のない、よこしまな時代
 主イエスはこの父親の言葉を聞いて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃいました。これは主イエスの深い嘆きの言葉です。主イエスはここで何を嘆いておられるのでしょうか。悪霊を追い出す権威と力を与えたはずなのに、弟子たちがその力を発揮できない、何と情けない…、と弟子たちのことを嘆いておられるのでしょうか。そうではないようです。主イエスは、「信仰のない、よこしまな時代」を嘆いておられるのです。それは弟子たちのことだけではありません。弟子たちをも含めたこの時代全体が、「信仰のない、よこしまな時代」であることを嘆いておられるのです。

 私たちは、今私たちが生きている現代の社会を見つめて、「信仰のない時代だなあ」と嘆くことがあります。現代の人々の中には、神を信じることなど非科学的、非合理的だという思いがあります。それと共に、目に見える物質的な繁栄、豊かさのみを追求していこうとする風潮があります。私たちが生きている今のこの時代はまことに信仰のない時代、神を信じようとしないよこしまな時代だと言えます。しかし主イエスは、およそ二千年前に同じように嘆いておられたのです。つまり、主イエスが地上を生きておられたあの時代は、今よりもっと神を信じやすい、信仰的な時代だった、などということはないのです。主イエスの時代にも、神のご支配は隠されており、むしろ悪霊の力の方がずっとリアルに人々捉え、支配していたのです。その中で神のご支配を信じて悪霊の力と戦っていくことはまことに困難なことであり、主イエスによって力を与えられた弟子たちもあのように敗北してしまうという現実があったのです。主イエスはそのことを見つめて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆かれたのです。つまり、私たちが生きている現実は、主イエスの当時も、今も、「信仰のない、よこしまな時代」なのです。今が特別にそうだというわけではありません。私たちが信仰を持って生きているのは常に、信仰のない、よこしまな時代なのです。

忍耐して担い続けて下さっている主イエス
 今が「信仰のない、よこしまな時代」であることを嘆いた主イエスは、それに続いて、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃいました。このお言葉に私たちは主イエスのいらだちを感じます。「いつまであなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」というのは、「もうこんな連中とは共にいられない。もう我慢できない」ということではないか、つまり、主イエスは、不信仰でよこしまな人間たちにもうさじを投げてしまったのではないか、と思うのです。しかし、こう言ってから主イエスは、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」とおっしゃいました。そして主イエスが悪霊を叱ると、悪霊は出て行き、その子は癒されたのです。弟子たちがどうしても追い出すことが出来なかった悪霊に、主イエスは打ち勝ち、その支配からその子を解放して下さったのです。それは、主イエスがこの親子の苦しみをしっかりと背負い、救って下さったということですし、悪霊に打ち勝つことができなかった弟子たちの失敗、挫折を主イエスが担い、彼らに代って救いのみ業を行って下さったということです。ですから主イエスは決して、「もうこんな連中とはとてもやっておれん」とさじを投げてしまったのではありません。主イエスはなお彼らと共にいて下さり、彼らのことを忍耐して担い続けて下さっているのです。

共にいて下さる主イエス
 ここで一つ大事なことを指摘しておきたいと思います。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの、いわゆる「共観福音書」に共通して語られており、主イエスの「いつまであなたがたと共にいられようか」というお言葉も三つの福音書に共通して語られているのですが、そこで「共に」と訳されている原文の言葉が、マタイだけは違っているのです。マルコとルカにおいては、「~の方に、向き合って」という意味の言葉が用いられています。つまりマルコとルカにおいては主イエスは、「いつまであなたがたと向き合っていられようか」と言っておられるのです。それに対してマタイにおいては、「共に」という言葉が使われています。マタイにおける主イエスの言葉は、「いつまであなたがたと共にいられようか」なのです。そしてこの「共に」は、マタイ福音書においてとても大事な意味と役割を持っている言葉です。1章23節に先ずその言葉が語られています。主イエスの誕生を天使がヨセフに告げた場面です。天使は、このことは「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という、先ほど共に読まれたイザヤ書第7章14節の預言の成就なのだ、と告げたのです。そしてその「インマヌエル」という言葉は、「神は我々と共におられる」という意味だと語られています。ここに「共に」という言葉が語られています。天使は、主イエス・キリストの誕生によって、インマヌエル、神が我々と共におられる、という救いが実現する、と告げたのです。主イエスによってもたらされる救いとは、神が私たちと「共に」いて下さるということなのです。そしてこの「共に」という言葉は、この福音書の一番最後、28章20節にも出てきます。復活した主イエスが弟子たちを伝道へと派遣する場面です。主イエスはこうおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活して、天と地の一切の権能を授かっている主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さったのです。この約束に支えられて、弟子たちは全世界に行って伝道し、人々に洗礼を授けたのです。このようにマタイによる福音書は、神が「共に」いて下さることこそが救いであり、その救いは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが復活して、世の終わりまで「共に」いて下さることによって実現する、と告げているのです。

 「共に」という言葉はこのようにマタイ福音書全体の主題を言い表しています。この「共に」が、本日の箇所でも用いられているのです。マルコにおいては「いつまでわたしはあなたがたと向き合っていられようか」だった主イエスの言葉をマタイは、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」に変えたのです。それによってマタイはこの箇所をも、この福音書の主題と結びつけています。つまり、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」とおっしゃった主イエスは、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という救いを実現して下さった方であり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さった方なのです。信仰のない、よこしまな時代のただ中で、私たちは、悪霊の支配に翻弄されています。主イエスを信じて生きていながらも、いつもその力に打ち負かされてしまう情けない私たちです。しかし主イエスは、そのような私たちのことを、愛想を尽かして見捨ててしまうようなことは決してなさらず、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、どのような時にも共にいて下さるのです。それこそが、マタイ福音書がこの箇所で語っているメッセージなのです。

共にいて下さる主イエスの恵みによる救い
 先ほど、この話は三つの福音書全てに語られている、と申しました。しかし元になっているマルコの9章と本日のマタイの箇所とを読み比べると、随分大きく違うことに気づきます。今申しました「共に」という言葉の違いは、原文を読まなければ分かりませんが、翻訳で読んでもすぐにわかるのは、この子どもの癒しの場面の違いです。マルコの方では、父親が主イエスに、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言うのです。すると主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」とおっしゃり、父親はそれに対して、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだのです。そのようにして癒しが行われました。つまりマルコにおいては、この父親の、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という信仰告白が大事な役割を果たしているのです。しかしマタイは、それらのことを全て省いて、「イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた」とだけ語っています。つまりマタイは、救いにあずかる者がどのような信仰を持っているか、には全く触れずに、共にいて下さる主イエスの恵みによってこそ救いが与えられることを語っているのです。

なぜ悪霊を追い出せなかったのか
 19節以下には、弟子たちがひそかに主イエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねたことが語られています。悪霊を追い出そうとしたができなかった彼らは、人々の前で、弟子としての、信仰者としての力を発揮できず、証を立てられなかった、という恥かしい思いをかかえているのです。それはこの礼拝に集っている私たちの姿でもあります。私たちも、一週間のこの世の歩みの中で、罪や悪との戦いにおいて敗北してしまったという挫折を味わってきました。信仰者としてのよい証を立てられずに、むしろみ栄えを汚すようなことをしてしまったという苦い思いをかかえて、私たちはこの礼拝に集っているのではないでしょうか。そして私たちは心の中で、「なぜ私は悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と主イエスに問うのです。

私たちの信仰を問われる主イエス
 主イエスはその問いにこうお答えになります。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。この主イエスのお答えも、マルコとは違っています。マルコでは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われています。「祈りによらなければ」とは、神の力を祈り求めることなしには、ということであり、自分の力で悪霊に打ち勝とうとしてもそれはできない、ということでしょう。つまりマルコは、弟子たちが自分の力で悪霊と戦おうとしたところに、追い出せなかった原因があると見ているのです。しかしマタイでは、「信仰が薄いからだ」となっています。そして「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も動く」と言われているのです。粉のように小さなからし種一粒ほどの信仰があれば、不可能も可能になる。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、からし種一粒ほどにも信仰がなかったからだ。つまり問題は弟子たちの、そして私たちの信仰にあるのだ、ということです。つまり主イエスは、救いを求めてやって来た者たちの信仰は問われなかったけれども、主イエスに従って生きている私たちがどのような信仰を持って生きているかを問うておられるのです。

共にいて下さる主イエスを見つめて
「信仰が薄い」というのも、マタイが繰り返し語っている言葉です。8章26節で、ガリラヤ湖の嵐によって舟が沈みそうになりあわてふためいている弟子たちに、主イエスは、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」とおっしゃいました。また14章31節では、主イエスに願ってガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり、沈みそうになった、そのペトロをつかまえて下さった主イエスが、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。これらの箇所から、「信仰が薄い」ということの意味が見えてきます。それは、主イエスが共にいて下さり、守り支えて下さっていることを見失ってしまうことです。あるいは、その主イエスから目をそらして、この世の現実に働く力の方を見てしまうことです。それが「信仰が薄い」ということであり、それゆえに彼らは悪霊に打ち勝つことができなかったのです。信仰とは、自分の力で何かをすることではなくて、共にいて下さる主イエスを見つめることです。この世の力、神の恵みに敵対する力が支配し、私たちを翻弄している現実の中で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さった主イエスを見つめ、目をそらさないことです。神に敵対する力に翻弄されている人生において、本当に必要なのは、そして本当に力になるのは、共にいて下さる主イエスを見つめる信仰なのです。主イエスは私たちがそのような信仰を持って生きることを求めておられます。そして、常に挫折に陥ってしまう私たちを、「信仰の薄い者よ」と言いつつ支え、守り、助けて下さっているのです。私たちがそのように主イエスを見つめ、主イエスから目をそらさずに生きるために、本日の礼拝に聖餐が備えられています。聖餐は、信仰の薄い私たちを支え、力づけて下さるために主イエスが定めて下さったものです。聖餐において主イエスの体と血とにあずかることによって私たちは、インマヌエル(神は我々と共におられる)の恵みを味わい、また「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」という主イエスの約束が確かなものであることを確信させられて、主イエスと共に歩んでいくのです。み言葉と聖餐によって、共にいて下さる主イエスを見つめて生きる、それがからし種一粒ほどの信仰です。その信仰によって私たちは、山が動くような救いのみ業を体験していくのです。

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