2025年8月10日
説教題「思い起こす信仰」 牧師 藤掛順一
申命記 第8章2~20節
マタイによる福音書 第16章1~12節
目に見えるしるしを求めるのでなく
マタイによる福音書の第16章に入ります。その最初のところには、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、主イエスに、「天からのしるし」を求めたことが語られています。これと同じようなことは12章38節以下にも語られていました。そこでも、律法学者とファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せてください」と言ったのです。それに対して主イエスは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とお答えになりました。本日の4節の答えと全く同じです。12章の方ではその後に、「ヨナのしるし」とは何かが語られ、さらには、ソロモン王の知恵を聞くために訪ねてきた「南の国の女王」のことも語られています。それらのことを通して、しるし、つまり目に見える証拠を求めるのではなくて、ヨナにまさる、ソロモンにまさるものである主イエスのみ言葉を聞くことこそが大切であることが教えられたのです。しかし本日のところで主イエスは、そういうことを教えるのではなくて、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とだけ言って、彼らを後に残して立ち去られたのです。それは、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対する決別の姿勢です。12章と同じような話が繰り返されていますが、主イエスとファリサイ派の人々との関係は確実に悪くなっているのです。
イエスを試そうとして
そのことを示しているもう一つのことは、この16章では、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、「イエスを試そうとして」天からのしるしを求めた、と語られていることです。この言葉は12章にはありませんでした。ここでは彼らは最初から主イエスを「試そう」としているのです。この「試す」という言葉はこの後何回か出てきます。いずれも、ファリサイ派の人々が主イエスを試そうとした、という場面です。そして実はこの言葉は、4章の1節と3節にも語られていました。そこには、主イエスが伝道を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことが語られていました。その「誘惑する」という言葉が、実は本日のところの「試す」と同じ言葉なのです。4章3節に「誘惑する者」とありますが、それは文字通りに訳せば「試す者」です。つまり、主イエスはここで、あの荒れ野の誘惑以来、ひさしぶりに誘惑を受け、試されたのです。「天からのしるしを見せてほしい」というファリサイ派とサドカイ派の人々の言葉は、あの悪魔の誘惑と同じ意味を持っていたのです。天からのしるしを求めるというのは、目に見える証拠を求めるということです。主イエスこそ神から遣わされた救い主、神の子であるということの証拠です。「天からの」というのですから、神が直接示して下さる何らかの驚くべきしるしによって、なるほどイエスは神の子、救い主なのだと納得させてほしい、ということです。あの荒れ野で悪魔が語ったのはまさにそういうことでした。特に第二の誘惑、神殿の屋根から飛び降りてみろ、というのは、そんな高い所から飛び降りても天使たちに支えられて無事に降り立つことができる、という驚くべきしるしを人々に見せてやれば、みんながお前を救い主だと信じるぞ、ということです。天からのしるしを見せて人々を納得させてやれ、というのが悪魔の誘惑だったのです。その誘惑、試みを主イエスは再びここで受けたのです。ですから、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言って立ち去られたお姿は、あの荒れ野において、悪魔の誘惑をきっぱりと拒絶されたお姿と重なるのです。
ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
12章においても16章においても主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言ってこの誘惑を退けておられます。ヨナのしるしとは、12章に語られていたように、旧約聖書ヨナ書にある、神から与えられた使命から逃げようとしたヨナが、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩その腹の中にいて、そして吐き出されたことによって、悔い改めて神からの使命を果していった、という話です。12章には、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことが、「人の子が三日三晩大地の中にいる」こと、つまり十字架につけられて死んだ主イエスが三日目に復活することのしるしである、と語られていました。つまり「ヨナのしるし」とは主イエスの十字架の死と復活のことなのです。それしかしるしは与えられないというのは、主イエスの十字架の死と復活こそがただ一つのしるしだ、ということです。十字架と復活こそが、主イエスが神の子、救い主であることをのただ一つの、確かなしるしなのです。しかし私たちは、主イエスの十字架と復活を直接見聞きした当時の人々も、みんなが信じたわけではなかったことを知っています。主イエスの復活など信じられない、という思いは、当時の人々も私たちも同じなのです。ヨナのしるしつまり主イエスの復活は、理解したり納得するようなことではなくて、信じるか信じないか、です。ですからヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないというのは、主イエスが神の子、救い主であられることは、何かの目に見えるしるし、証拠によって納得するようなことではなくて、信じて受け止めるしかないことだ、ということなのです。
時のしるしを見分ける
しかしそれでは、目に見えるしるしは全く無意味であり、そんなものは与えられないのでしょうか。そうではありません。主イエスは本日の箇所の2、3節で、ファリサイ派とサドカイ派の人々にこうおっしゃいました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」。これは、あなたがたに与えられているしるしがある、それをちゃんと見分けなさい、ということです。私たちも、夕焼けだと明日は晴れ、朝焼けだと今日は天気が悪くなる、というふうに、空模様を見分けながら生活しています。それはある意味、天に現れるしるしを見分けているということです。そういうことを毎日しているのに、「時代のしるし」は見ることができないのか、と主イエスはおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。ファリサイ派やサドカイ派の人々が求めたのは、天からの大きなしるし、つまり奇跡でした。しかし主イエスはそれに対して、あなたがたの毎日の生活の中にしるしが与えられている。そのしるしを見なさい、とおっしゃったのです。「時代のしるし」が与えられている、とありますが、「時代の」と訳すと、社会の情勢や人々の風潮などにどのようなしるしが現れているか、という話になります。しかし聖書協会共同訳でも、以前の口語訳でも、ここは「時のしるし」と訳されています。原文にあるのは「時」という言葉なのです。しかし、ただ均一に流れていく時間、時計によって測られる時ではなくて、ある意味を持つ時、特別な時、そういう意味では機会とかチャンスとも訳せるような言葉です。あなたがたの身近な所に、日々の生活の中に、そのような時のしるしが与えられており、それを見ることによって神のみ心を知る機会、チャンスが与えられている。空模様を見分けるように、そういう時のしるしを見分ける目を持ちなさい、と主イエスはおっしゃったのです。それは私たちに対するお言葉でもあります。私たちも、身近なところに時のしるしを、つまり神のみ心を知る機会、チャンスを与えられているのです。それを見分け、捉えることを求められているのです。どうしたらそれができるのでしょうか。時のしるしを見分け、捉えるとはどういうことなのでしょうか。その問いはしばらく保留にしておいて、5節以下を読んでいきたいと思います。
パンを忘れてきた弟子たち
5節には「弟子たちは向こう岸に行ったが」とあります。本日の箇所ではここで初めて弟子たちが登場しています。ファリサイ派の人たちを後にして立ち去った主イエスは、先に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、弟子たちはその後を追って5節で追いついたのだと思います。ところがその時に彼らは、パンを持って来るのを忘れていました。慌てて舟出したので、食料の調達を忘れたのです。しまった、失敗した、と思いつつ到着した弟子たちに、主イエスは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」とおっしゃいました。しかし弟子たちは4節までの、ファリサイ派とサドカイ派の人たちと主イエスの会話を聞いていないので、主イエスが突然「パン種」と言われたのを聞いて、「これは自分たちがパンを持って来るのを忘れたことを叱られたのだ」と思ったのです。何ととんちんかんな受け止め方だろうかと思いますが、何か気になっていることがあると、全然関係ない話もそのことと結びつけて受け止めてしまう、ということは私たちにもよくあることです。特に、「失敗した」という思いがあると、人の言葉が全て自分の失敗を責めているように聞こえてしまう、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。この時の弟子たちもまさにそうだったのでしょう。
信仰の薄い者たち
弟子たちのその思いに気づいた主イエスはこう言われました。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか」。この主イエスのお言葉は、「おまえたちがパンを持って来なかったことを責めているのではないから安心しなさい」というだけのことではありません。「信仰の薄い者たちよ」と言っておられます。この言葉はこれまでにも何度か出てきましたが、文字通りに訳せば「信仰が小さい」ということです。主イエスは、パンを持って来るのを忘れたことを叱られた、と思っている弟子たちに、あなたがたの信仰は小さい、とおっしゃったのです。それはどういうことなのかが9節以下に語られていきます。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」。「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と主イエスは言っておられます。弟子たちは何を忘れてしまったのでしょうか。それは、主イエスが五つのパンで五千人を満腹にさせて余りも出たという14章の出来事であり、七つのパンで四千人を満腹にさせたという、先週の礼拝において読んだ、15章の終わりの出来事です。いずれの場合にも、人間の常識からすれば到底足りるはずのないパンで、みんなが満腹するという奇跡が行われたのです。主イエスはそのようにして、ご自分のもとに集って来た人々の空腹を満たして下さったのです。弟子たちはそのことを、一度ならず二度までも目撃したのです。さらに彼らは主イエスのそのみ業のために用いられました。主イエスが祈って分けたパンを配ったのは弟子たちでしたし、みんなが満腹した後、余ったパン屑を集めたのも弟子たちでした。主イエスの奇跡を彼らは見ただけでなく体験したのです。そのことを忘れずに覚えているなら、空腹を満たして下さる主イエスの力に信頼することができるはずだ。それなのに、パンを忘れたことを叱られた、と思っているところに、彼らの信仰の小ささ、あるいは不信仰があるのです。
信仰とは、思い起こすこと
弟子たちは、五千人や四千人が満腹したあの奇跡を忘れてしまっていたのでしょうか。そんなはずはありません。あのように大きな体験の記憶がなくなってしまうことなどあり得ません。しかし彼らは、それを「覚えている」ことができなかったのです。「覚えている」は「思い起こす」という意味です。ただ記憶にあるというのではなくて、それを思い起こし、思い起こしたことを、現在の自分の生活、行動、思いにおいて生かす、ということです。弟子たちは、あのパンの奇跡を忘れてしまっていたわけではないけれども、それを今言ったような意味で思い起こすことができなかったのです。言い換えれば、パンの奇跡の体験が、それによって示された、空腹を満たして下さる主イエスの恵みが、彼らの中で生きていなかったのです。なので、パンを忘れたという自分たちの失敗の中で、主イエスの恵みを思い起こすことができなかった。あのように大きな奇跡の記憶が、失敗して落ち込んでいる自分たちの支えにならなかったのです。彼らの信仰が小さい、というのはそういうことです。
ここから私たちは大切なことを教えられます。それは、信仰とは思い起こすことだ、ということです。与えられた神の恵み、救いの体験をただ記憶しているというだけではなく、それを常に思い起こし、それとによって現在の自分の歩みが支えられる、それが信仰に生きることなのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第8章2節以下はそのような信仰を教えています。その2節に「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とあります。荒れ野の苦しい旅路において、神が天からのパンであるマナによって彼らを養って下さった、その神の恵みと導きを思い起こすことが求められているのです。それは、ただ記憶に留めておくということではありません。これからの歩みにおいても、いろいろな新しい苦しみ、困難が襲いかかって来る。その時に、主なる神がこれまで自分たちを守り、導き、必要なものを与えて養って下さったことを思い起こし、その神の恵みを信じて、その神に信頼して、主なる神から離れずに歩み、困難に立ち向かっていく、ということが、思い起こす信仰によってこそ可能となるのです。聖書が教える信仰の根本はこの「思い起こす」ということにあります。旧約聖書の全体は、イスラエルの民に、この申命記が語っているように、エジプトの奴隷状態からの解放と、荒れ野の旅の導き、そして約束の地を与えて下さった神による救いの恵みを思い起こさせようとしているのです。そして新約聖書の全体は、キリストの体である教会に連なる私たちに、神が独り子イエス・キリストを遣わして、その主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活によって、私たちの罪を赦し、新しい命、永遠の命の約束を与えて下さっている、その救いの恵みを思い起こさせようとしているのです。私たちの信仰とは、聖書に告げられている主イエス・キリストによる救いの恵みを常に思い起こしつつ生きることです。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストによる救いを思い起こしつつ生きる群れに加えられることなのです。そして洗礼を受けた者は、主イエス・キリストの体と血とを表す聖餐にあずかることによって、主イエスの十字架の死による救いを思い起こしつつ歩みます。私たちの礼拝も、そこで語られる説教も、聖餐も、すべては主イエス・キリストによる救いの恵みを思い起こすためです。礼拝においてそのことを常に思い起こしているがゆえに、日々の生活の中でそれに支えられて生きることができるのです。この「思い起こすこと」をやめてしまうなら、私たちは日々新たに襲ってくる苦しみや悲しみ、あるいは自分の弱さや失敗や罪に押しつぶされて、立ち上がることができなくなってしまうでしょう。
時のしるしを見分けるには
ここで、先ほど保留にしておいた問いを思い出したいと思います。それは、私たちの身近なところにある時のしるしを見分け、捉えることはどうしたらできるのか、ということでした。その答えがまさにこの「思い起こす信仰」にあるのです。身近な所にある時のしるしを見分けるとは、私たちの日々の生活の中の、ごく身近な所にも、神のご支配と主イエス・キリストの恵みが示されていることに気づくことです。そのしるしを見分けて、神に感謝し、主イエスと共に生きていくことです。そしてそれができるためには、私たちは、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを常に思い起こしていなければなりません。それは何度も言っているように、ただ記憶しているということではありません。思い起こすとは、そのことを通して今の現実を見ることです。私たちの直面している現実には様々な苦しみや悲しみや困難があり、私たちの弱さや罪があります。しかしそれらを、主イエスの十字架と復活による神の救いの恵みを思い起こしつつ見つめるのです。ある意味では、その色眼鏡を通して現実を見るのです。色眼鏡で見たら、現実を正しく把握することができない、独りよがりな見方にしかならない、それは私たちの思いという色眼鏡で見た場合のことです。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった救いの恵みという色眼鏡をかけてこの世の現実を見る時に、そこには、普通の目では見ることができない、隠されている真実が見えてくるのです。神が、独り子を与えて下さったほどに、私たちを愛して下さっている、という真実です。自分の周りの現実の中にその隠された、神の愛の真実を見出していくこと、それこそが、身近な所にある時のしるしを見分け、捉えることです。それによって私たちは、自分の生きているこの時を、神の恵みのみ心を知り、それにあずかる機会、チャンスとすることができるのです。
しるしはもういらない
この「思い起こす信仰」に生きることによって私たちは、主イエスが注意しなさいと警告なさった、ファリサイ派とサドカイ派のパン種から自由になることができます。ファリサイ派とサドカイ派のパン種とは、しるし、つまり目に見える証拠を求め、それによって納得しようとするする思いです。彼らがそういう思いに陥ったのは、神の救いの恵みを思い起こすことができていないからです。神の救いの恵みを思い起こすことができていなければ、自分で救いを、その確信を獲得しなければなりません。そのために彼らは律法を熱心に守っています。しかし律法はもともと、エジプトで奴隷とされていた苦しみから解放して下さった神の恵みを思い起こしつつ生きるために与えられたものです。その恵みを思い起こすことなく律法を守っていても、そこには救いの確信は得られません。だからどうしても何か目に見えるしるし、証拠が欲しくなるのです。しかし私たちは、神が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えて下さった救いの恵みを、礼拝において常に示されつつ歩んでいます。罪人である私たちを神がなお愛して下さり、独り子の命を与えて私たちの罪を赦し、復活によって、神の子として生きる新しい命を与えて下さった、その大いなる恵みを思い起こしつつ生きているのです。その私たちには、もうしるしはいらないのです。いや私たちは、日々の生活の中のここにもあそこにも、時のしるし、神の恵みのしるしを見出して、喜んで生きることができるのです。
