主日礼拝

御心ならば

「御心ならば」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第14章1-9節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章40―45節
・ 讃美歌:15、165、499

癒しではなく清め
 主イエス・キリストは、ガリラヤ中の会堂で神の国の福音を宣べ伝えながら、病気の人を癒したり、悪霊を追い出したりしておられました。ある日主イエスのもとに、重い皮膚病を患っている人が来ました。主イエスはその人を深く憐れみ、癒して下さいました。そのことが本日の箇所、マルコによる福音書第1章40節以下に語られています。先週読んだ所にも、大勢の病人や悪霊に取りつかれた人々を主イエスが癒したことが語られていましたから、本日のこの話も、そういう癒しのみ業の一つであろうかと私たちは思います。しかし、この話が大勢の人の癒しとは別に、わざわざ単独で語られていることに注目しなければなりません。多くの人の癒しの業の一つに含めてしまうことのできない特別な意味がこの出来事にはあるのです。
 さて、皆さんの持っている聖書の中には、「重い皮膚病」という言葉が「らい病」となっているものもあろうかと思います。以前はそのように訳されていました。「らい病」は今日では「ハンセン病」と呼ばれている病ですが、聖書に出てくるこの病は「ハンセン病」とは違うものだと今日では考えられています。旧約聖書において「汚れ」とされているこの病が「らい病」と訳されていたことによって、「ハンセン病」の患者が差別され苦しみを受けてきた歴史への反省もあって、今では「重い皮膚病」と訳すようになっているのです。しかしこの訳でもなお問題は残ります。「皮膚病」というと「病」の一種ということになりますが、先ほども申しましたように聖書においてこれは「病気」と言うよりもむしろ「汚れ」です。ですから本日の箇所に出て来るこの人も、主イエスに癒しを願ったのではありません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と彼は言っています。癒されることではなく、清くされることを願ったのです。ですからここに語られているのは、癒しではなくて、汚れている人の清めのみ業なのです。そういう意味で、これまでの所の癒しや悪霊の追放とは違うみ業がなされているのです。

汚れた者
 「重い皮膚病」と訳されているこの事態が病ではなくて汚れであり、ここで起ったことが癒しではなくて清めであるということの持つ意味をさらに深く考えたいと思います。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記第14章は、この汚れから清められたことが確認される時の儀式を語っています。主イエスが44節でこの人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言っておられるのは、この儀式を行いなさいということです。この人が清められたことを確認するのは祭司です。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役割だからです。ですから逆にある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めで、レビ記の13章は、祭司はどういう場合にその人を汚れていると宣言しなければならないかが定められています。そして、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが、13章45、46節に語られているのです。そこを読んでみます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。汚れていると判定されたら、その人は自分の汚れが人に移らないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならないのです。そしてさらに、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように、一般の人々の共同体の中にいることができない、そこから出て、別に暮らさなければならないのです。病ではなくて汚れであるがゆえにこういうこと起るのです。これが病であれば、家族や仲間たちが看護し、治療がなされていきます。しかし汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまうのです。そこに、汚れていると判定された人々の、病気とはまた別の、深い苦しみ悲しみがあったのです。

「汚れた者」を作り出す罪
 日本においてハンセン病の患者たちは、まさにこれと同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきました。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきたことを私たちは忘れてはなりません。主イエスに清めていただくことを求めてやって来たこの人がかかえていたのと同じ苦しみ悲しみを、ハンセン病の患者の人々は味わってきたのです。しかしこの苦しみをハンセン病の人々のみの苦しみとしてしまうのは間違いです。病ではなく汚れであるがゆえに生じる苦しみ悲しみは、様々な仕方で私たちの身近な所にあるのです。
 最近また学校における「いじめ」の問題が報道でよく取り上げられています。いじめによる自殺事件が起ると急にクローズアップされるわけですが、それはいつもある問題であり、特に最近のように人々の心が荒れすさんできている中では当然増えていることと思われます。陰湿ないじめは、誰かをターゲットにしてその人を「汚れた者」として扱い、仲間から締め出す、という形で起ります。誰かが「あの人は汚れている」という判定を下し、周囲の者たちがそれに同調することによって「いじめ」の構造が出来上がるのです。それを判定する人やされる人は時と共に変化することもあるようで、そういうのを「政権交代が起る」と言うのだと聞いたことがあります。しかしそれが特定の人に固定化し、長期化すると、自殺に至るような深刻な事態に発展するのでしょう。そういう「いじめ」は学校でだけ起っているわけではありません。私たちは、集団の中に「汚れた者」を作り出し、その人をターゲットとすることによってまとまろうとする罪を多かれ少なかれ持っています。日本人には特にそういう傾向が強いとも言えるでしょう。学校でも、職場でも、町内会でも、そして教会でも、そういうことは起るのです。そしてそういうことがどれだけ深い苦しみ悲しみを人に与えるものかは、体験してみないと分からないのではないでしょうか。いじめている方は何の気なしに、面白半分にしていることが、いじめられている人にとってはまさに人格を否定され、生きる希望を奪われるような苦しみとなるのです。それは別の見方をすれば、私たちが他者の苦しみや悲しみを感じ取る感性において、そういう想像力において、いかに乏しい者か、ということでもあります。「重い皮膚病」を患って主イエスのもとに来たこの人の苦しみ悲しみは、私たちにとって決して遠い世界の話ではありません。自分自身がそういう苦しみ悲しみに陥ることもあるし、そういう苦しみ悲しみを人に与えていながら気づかないという罪を犯してしまうこともあるのです。

深い憐れみ
 このような苦しみ悲しみからの救いを求めてやって来たこの人を、主イエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」て下さったと41節にあります。「深く憐れんで」と訳されている言葉は、「内臓」という言葉をもとにしています。内臓が揺り動かされるような憐れみ、ということです。日本語で言えば「はらわたのよじれるような」とでも訳すのがよいかもしれません。主イエスはこの人の苦しみ悲しみに、通り一遍ではない、自分の内臓が震えるような、肉体に痛みを感じるような憐れみを抱いて下さったのです。それは、人間の苦しみ悲しみに対する深く鋭い感性を主イエスが持っておられたということです。人の苦しみを感じ取る想像力を豊かに持っておられたということです。主イエスが愛の人であられたというのはそういうことです。私たちにそのような感性や想像力が欠如していることがいじめを生んでいるわけですが、それは私たちに愛が欠けているということです。愛の人である主イエスは私たちとは違って、はらわたのよじれるような深い憐れみをもって人を見つめて下さるのです。そしてその愛と憐れみのゆえに、手を差し伸べてその人に触れて下さるのです。「汚れた者」に手を触れるとその汚れが移ると考えられていましたから、これは当時の人々にとって驚くべきことです。主イエスは彼の苦しみ悲しみをまさにご自分の苦しみ悲しみとして感じ取り、それを共に背負って下さる、そういう深い憐れみを、愛を示して下さったのです。

御心ならば
 このような主イエスの深い憐れみによってこの人は清められました。しかしそこで見逃してならないのは、この時彼と主イエスとの間に交わされた言葉です。彼は主イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。ここは以前の口語訳聖書では「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」となっていました。私たちはこの口語訳のようにこの言葉を読もうとします。つまり、「みこころでしたらきよめていただけるのですが」は、「もしよろしければ…」という、日本人がよくする遠慮深いお願いの仕方だと思うわけです。しかし彼のこの言葉は、「お願い」ではありません。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という新共同訳の方が原文に近い訳です。もっと直訳すれば「もしあなたがお望みになれば、あなたは私を清くすることがおできになります」となります。これは、「わたしを清くして下さい」という願いではなくて、「わたしを清くすることができる」主イエスの力への信頼、信仰を語っているのです。「あなたがそうお望みになるなら、私は清くされる。全てはあなたのご意志次第です」と彼は言っているのです。そして主イエスはそれに答えて「よろしい。清くなれ」とおっしゃっています。ここも直訳すれば「私は望む。清くなれ」です。彼が「もしあなたがお望みになれば」と言ったのに対して主イエスは「私はそう望む」とお答えになったのです。つまりここで問題となっているのは、彼が清くされることを主イエスが望むかどうか、という主イエスのご意志です。そのご意志によって彼は清くされたのです。

主イエスの意志
 この対話が示しているのは、この人に起った出来事は、彼が苦しみの中から救いを願い求め、主イエスがそれに応えて下さって救いのみ業を行なって下さったということではなくて、主イエスが憐れみのみ心をもって彼を清めて下さる、その主イエスのご意志によって起ったのだ、ということです。主イエスは、先ほど見たように彼の苦しみ悲しみをはらわたがよじれるような深い憐れみをもって感じ取って下さり、そして彼を清くすることを意志して下さったのです。つまりここに描かれている主イエスは、人間の願い求めに答えてその望む救いを与えて下さる方ではなくて、ご自身の憐れみのみ心によって救いを意志し、それを与えて下さる方です。それはこれまでの所に語られてきた、神の子としての権威をもって神の国の福音を宣べ伝えている主イエスのお姿と重なります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言なさった主イエスが、その宣言に基づいて苦しみ悲しみの中にある者たちに対する憐れみと救いを意志して下さり、それを実現して下さったのです。私たちに求められているのは、この主イエスのご意志を信じて、主イエスの方に、そして神様の方に向き直り、その救いのみ業にあずかることです。「悔い改めて福音を信じる」とはそういうことです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と語ったこの人は、「悔い改めて福音を信じた」人の代表であると言うことができます。主イエスは私を清くすることがおできになる、という福音を信じた彼は、その福音を体験したのです。

社会復帰
 主イエスのご意志は44節にも示されています。主イエスは彼にこうおっしゃいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。主イエスのご意志は、彼が祭司に体を見せ、先ほど申しましたように清められたことを確認してもらい、レビ記14章に定められているしかるべき儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することでした。レビ記14章の8節に、「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる」とあります。それまでは宿営の外で暮らさなければならなかったのが、宿営に戻り、家族や仲間たちと再び共に生きることができるようになるのです。もはや「わたしは汚れた者です」と呼ばわり、人々を避けて生きなくてもよくなり、通常の社会生活に復帰できるのです。主イエスは彼がそのように社会復帰することを意志し、望んでおられるのです。それこそが、彼が汚れをぬぐい去られ、清められることだからです。しかし彼の社会復帰を主イエスが望まれたことを勘違いしてはなりません。彼が汚れによってイスラエルの民の中に共に生活することができなくなったのは、汚れた者は神様の前に出て礼拝をすることができなかったからです。民の中にいると、その汚れが民全体に移って、神の民イスラエルの全体が神様を礼拝することができなくなるからです。その汚れが清められ、再び人々と共に生活することができるようになったというのは、神の民の一員として神様のみ前に出て礼拝をすることができるようになった、ということなのです。ですから彼の社会復帰とは、礼拝への復帰です。神と共に生きる信仰の生活への復帰です。主イエスはそのことをこそ意志し、望み、それを実現して下さったのです。

だれにも、何も話さないように
 44節で主イエスが彼におっしゃったことがもう一つあります。それは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」ということです。主イエスが彼を清くしたことを誰にも言うな、ただ祭司にだけ体を見せ、清くなったことを確認してもらいなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかも43節には「厳しく注意して」とあります。ですからこれは、「このことはあまり人に言ってはいけないよ」という程度の穏やかな話ではありません。また43節の前半には「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし」ともあります。あなたと一緒にいる所を人に見られたくないからすぐに立ち去れ、とおっしゃったのです。なんだかずいぶん冷たい態度です。清めていただいたこの人は、もしかしたら主イエスについて行きたい、私も弟子になりたい、と思ったかもしれません。しかし主イエスはそれをお許しにならないのです。それは何故でしょうか。45節からそれが分かります。彼は主イエスのもとを立ち去ると、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。主イエスが厳しく誰にも言うなとおっしゃったのに、「イエス様が私を清めて下さった」ということを彼は語らずにはおれなかったのです。その結果何が起ったか。「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」とあります。大勢の人々が主イエスのもとに押し寄せて来たのです。あまりに多くの人が群がって来るので、もう町に入ることができず、町の外の人のいない所に留まらざるを得なくなったのです。これらの人々が主イエスのもとに来たのは、病気の癒しや、悪霊からの解放や、汚れからの清めを求めてです。自分が今かかえている病気や苦しみや悲しみを取り除いてくれるスーパードクターか、霊験あらたかな祈祷師のところに殺到するように、人々は主イエスのもとに来たのです。その人々の思いは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というのとは全く違うものです。癒しや清めの業が独り歩きして伝わっていくとこうなることを主イエスは見通しておられたのです。人々が癒しや清めのみを求めて殺到してくることは、主イエスの願っていたところではありませんでした。主イエスはあくまでも、神の国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改めて福音を信じるために宣教を行い、その一環として癒しや清めの業をしようとしておられたのです。それゆえにあんなに厳しく、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。

立場の逆転
 しかし主イエスの思惑とは裏腹に、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。主イエスによる救いを信じる信仰を告白し、その御心によって汚れを清められ、神の民の一員としての、神様を礼拝しつつ生きる信仰の生活を回復していただいた彼は、その喜びと感謝の中で、主イエスのみ業を人々に語り伝えずにはおれなかったのです。それは救いにあずかった者としての当然の姿であると言えるでしょう。この人のことを、主イエスの厳しい注意に従わなかったと責める必要はないし、この人のように主イエスの注意に従わない者になってはならない、などという教訓をここに読み取る必要もありません。むしろ見つめておきたいのは、このことによって起った事態が大変象徴的な意味を持っているということです。主イエスに清めていただいた彼は、それまでは、汚れた者として人々から離れて、人々との触れ合いのない町の外で生活しなければならなかったのです。しかし今や、清められたことによって彼は町の中で、家族や友人たちと共に生活することができるようになりました。多くの人々と触れ合うことができるようになったのです。だからこそ主イエスのことを人々に言い広めることができたのです。しかしそのことによって主イエスはどうなったか。「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」のです。「公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所にいる」、それは汚れた者がこれまで強いられていた生活です。汚れた者は「独りで宿営の外に住まねばならない」というレビ記の言葉を意識してこれは語られていると言えるのではないでしょうか。つまり、この清めの奇跡によって、重い皮膚病を患っている人と主イエスとの立場が逆転したのです。彼は町の中で人々と共に暮らすことができるようになり、主イエスは町の外の人のいない所にいなければならなくなったのです。そのことは、主イエスが、彼の汚れを、それによる苦しみや悲しみの全てを、彼に代わって背負って下さったことを象徴的に言い表していると言えるでしょう。彼を清め、神様のみ前に出て礼拝をすることができる神の民の一人として回復して下さった主イエスは、彼の汚れをご自分の身に背負って下さったのです。彼の清めは、主イエスが彼の汚れを代わって引き受けて下さったことによってこそ与えられたのです。

主イエスの十字架によって
 そのことは、主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みです。主イエス・キリストは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さったのです。この主イエスの恵みによって私たちは、神様の民とされ、こうして毎週神様のみ前に出て礼拝をささげ、神様と共に生きることができるのです。私たちの地上の歩みはなお罪と汚れの中にあります。自らの罪や汚れによって様々な苦しみや悲しみを味わうことがあります。また私たち自身が汚れた者を作り出して、人をいじめ苦しめてしまうようなことも起ります。しかしそのような中で私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じて、主のみ前にひざまずき、「主よ、御心ならば、あなたは私を、私の罪と汚れから、そして苦しみや悲しみから、救って下さいます」と告白することができます。主は私たちを深く憐れみ、み手を差し伸べて私たちに触れ、「私はそれを望む」と宣言して下さり、罪と汚れの苦しみ悲しみを取り除いて下さるし、人を汚れた者としていじめることによって仲間の結束をはかろうとするような罪から解放して下さるのです。

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