主日礼拝

わたしについてきなさい

「わたしについてきなさい」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第12章1-8節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章16-20節
・ 讃美歌:11、507、516

はじめに
主イエスはご自身の宣教を「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言う言葉によって始められました。その御言葉と共に主イエスは神の国の福音を宣べ伝え始めました。その宣教の活動の歩みの最初に主イエスがなされたのは四人の人を弟子として召されるということでした。ガリラヤ湖のほとりで、主イエスは漁師として網を打っていたシモン、(後のペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと言う四人をお召しになりました。主イエスは最初から、従う者たちを求めておられたのです。主イエスが語り伝えることは、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。この福音こそ、主イエスの宣べ伝える内容そのものです。そして、主は共に神様の恵みを証し、宣べ伝える働き人をお召しになるのです。主イエスは、お一人でもこの御業を進めていくことができたはずです。伝道の活動が徐々に活発になって途中で人手が欲しくなったから、弟子たちを召したというのでありません。最初から、福音を宣べ伝える伝道の御業の中に、弟子たちを招き入れられたのです。それ以来、主は召しておられます。ご自身の救いの御業の中へと、私たちを招き入れておられるのです。主イエスの宣教の第一幕は、主イエスが、人々に声をかけ、声をかけられた人々がその呼びかけに答えて、主イエスの後に従ったという出来事なのです。

網を打つ姿
16節では「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった」。とあります。主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられる時、そこには、漁師たちが漁をしている、いつもと同じ光景、日常の光景が繰り広げられていました。主イエスは網を何度も何度も湖に向かって打っている漁師達の姿をご覧になったのです。この箇所には、「網を打っているのをご覧になった。」ということが述べられ、その後に、「彼らは漁師だった。」ということが言われています。原文ではここに「なぜなら」という言葉が出てきます。主イエスは「湖で網を打っているのをご覧になった。なぜなら彼らは漁師だったから。」というような文章なのです。漁師であることは網を打っていることに理由として付け加えられているのです。主イエスは「漁師」ということに注目したのではなく、何よりも先ず「網を打っている姿」をご覧になりました。主イエスが宣教の初めにご覧になったのは、ただ自分の知恵と力とを駆使して、日々の糧を得ることに夢中になっている人々の姿でした。その日の糧を得るために働くことに必死になり、主イエスがそばを歩いていることに気づかない人々の姿がそこにはありました。救い主が近づいていることに気付かず、目も向けず、網の手入れに夢中になっている人々の姿もありました。「網」というのは、生きるための手段です。日々の糧を得るために無我夢中になる人間の姿があります。救い主がすぐ側に来られていることに気付かない姿がそこにはありました。目の前の事柄に追われ、大事なことを見失ってしまう姿がそこにはありました。そのような姿を主はご覧になり、声を掛けて下さったのです。

人間をとる漁師
その声は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の招きのお言葉でした。主イエスは必死で湖に向かって網を打つシモンとシモンの兄弟アンデレにお言葉を掛けられました。主イエスは声を掛けた人々とはどこか弟子として優れた点があると見抜いたのでしょうか。決してそうではありません。この人たちに見識があり、弟子として頼りになりそうな者たちだから選別された、ということではありません。主イエスの召しを受けた者たちが、やがて十字架の場面では主イエスを見捨て、皆逃げてしまったということを私たちは知っております。それでも主イエスは、弟子たちを招いて一緒に伝道の御業を進めるのです。主イエスは、ご自分と一緒に伝道の御業を進め、ご自分の後に従って歩む者たちを求めておられたのです。主イエスは、招きの声に、主の召しに応えて立ち上がり、主に従って歩き出し、主イエスと共に旅をする者たちを求めておられたのです。主イエスと一緒に旅をしながら、救いの御業の目撃者となり、やがては十字架と復活の証人となる者たちを求めておられるのです。遠くから主イエスのことを見ているだけでなく、主イエスと一緒に歩む者を求めておられたのです。

すぐに
主イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。主イエスが弟子として召したのは魚をとる「漁師」たちです。生活の糧のための魚を獲るためだけに網を打ち続けていた人々でした。その日も湖に網を投げていたのです。そのような日常生活のただ中で、主イエスの声を聞いたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との主イエスの招きの声を聞くのです。「人間をとる」とは、人々を主イエスの支配の下に招くことです。ですから「人間をとる漁師」とは主イエスの支配の下に人々を招く者ということです。主イエスの後に従うことによって、自分が招かれたように、人々を招くということです。それは、この世で始まっている神の国を人々に示すということです。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と伝道の御業を始められました。この御言葉のもとに主イエスは、主イエスに従い、主イエスの後に続く歩みへと招いて下さるのです。この主イエスの声を聞き、「二人はすぐに網を捨てて従った」のです。「すぐに網を捨てて従った」とあります。この二人の主イエスに従う決断に至るまでの経緯は何一つ語られておりません。主イエスの召しに対して、この二人の漁師はどのように反応したのか、どう決心していったのかと言うことは私たちの興味、関心をひくところではないでしょうか。けれども聖書に記されているのは、声をかけられて、「すぐに」従ったということだけなのです。「すぐに」従うということにこそ、主イエスに従うことの「真っ直ぐ」さが現れているのです。様々な事情ややり取りが何も記されておらず、単純な物語として描かれておりします。それは、この物語が特別な誰かに語られているのではなく、私たち一人一人に語られていると言うことです。自分ならどうだろうか。もしも私たちが、このペトロやアンデレの立場にいたらどうするだろうか。果たして、すべてを捨てて、「すぐに」主イエスの後について行くことができるのでしょうか。この後、主イエスは少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になり、すぐに彼らを呼びます。この二人は「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ヤコブとヨハネは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して去って行ったのです。最も近い存在であり自分を養い育ててくれた父親を残して去って行くのです。ヤコブとヨハネには雇い人がいたことも記されており、その雇い人を残して主イエスに従ったのです。一緒に働いてきた仲間をも残していく。これまでの歩みをすべて捨て去るようにしてついて行くのです。漁師であったシモン、(後のペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは主の御言葉を聞くとすぐに、それまでの自分の歩み、自分の過去を捨て主イエスに従ったのです。この従う姿は、それぞれの歩みにおいて、それまでの自分の過去を捨て、新しい神の支配、神の国が始まったということです。この「すぐに」とはその時が彼らの成就したことを示すのです。

捨てる
本日の聖書の箇所は実に単純な出来事として描かれています。主がお召しになる。すると、召された者は、すぐに、一切を捨てて主に従い、主の後について行った、という話です。ある者は、持っていた網を捨てました。それは漁師の仕事には無くてならない道具です。またある者は、父親や雇い人たちを残し、舟を捨てて主イエスの後について行きました。無くてはならない道具、大事な人を捨てたのです。この最初の時以来、主イエスに召された者たちは、財産を捨て、家を捨てて主イエスに従ったのです。主イエスに従うということは、その最初から「捨てる」ということと深く結びついていました。後に、主イエスは言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)。財産や家だけではありません。究極的には、「自分を捨てる」ということが求められているのです。 主イエスの後に従う者とは、自分を捨て、自分の十字架を背負う者であるとあります。これは大変厳しいことでしょう。私たちにこのようなことが出来るのでしょうか。

捨てられた方
今日は、「自分を捨てる」ということや、「一人の人に従う」ということはあまり歓迎されないかもしれません。むしろ、捨てるのではなく多くのことを学び身につける、そしてこの世間の荒波に耐えうる力を持たなければならないと私たちは考えます。自分自身をしっかり確立し、自立することを求めています。自分を捨てるのではなくて、自己を獲得することを目指すのです。自立した個として生きることを求められる時代はないでしょう。そのような考えも大事です。けれども、そのような考えのみが行き過ぎると全ての事柄は何でも自分を中心に、自分にとっての損得や自分の利益のみで全てを判断することになってしまうのではないでしょうか。そこには、あるのは自分自身に執着する罪の思い捕らわれた人間です。そのような罪に捕らわれた人間が集まるのであれば、当然そこにはこの世の価値観における弱者を切り捨て、この世の価値観でのみ見る強い人間のみが生き残るのです。そのようなことを繰り返すならば、一体誰が生き残るのでしょうか。主イエスはそのようなこの世界に真の平和をもたらす者として来られました。罪に捕らわれている人間に声を掛けて下さり、招いて下さったのです。この世に主イエスが来られた。神の国の支配が始まったのです。主イエスについて行きたいけれども、私には大事な仕事も家族もある。それをすべて捨ててついて行くことができるだろうか。そんな無責任なことは、到底できないように思えます。私にはできない。無理な話だ。社会的な責任を負っている、また常識のある私たちにはこの極端な話はとても受け入れ難い話であると思うかもしれません。主イエスは、何もすべての者にこれと同じことを要求しておられるのではなくて、ただ弟子としての理想的な姿が描かれているだけではないかと思うでしょうか。私たちは様々な理由をつけて、言い訳しながら主の御言葉から距離を置いてしまいます。ペトロとアンデレ、またヤコブとヨハネは、主に呼ばれたとき、すぐに一切を捨てて従いました。主の招きに応えて立ち上がったのです。大事な網を捨てたのです。舟を捨てたのです。家族も財産も捨てました。しかしそれは、そういった自分の持っているものを必死に確保し守ろうとするこだわりと執着を捨てた、主によっていや捨てさせられたのです。自分自身に対するこだわり、自分についての評価を捨てさせられたのです。自分が弟子としてふさわしいかどうか、自分にできるかどうか、そんなふうにすぐ自分のことを考えてしまう思い煩いから自由にされたのです。私たちはどんなに力を振り絞っても、主イエスの前に罪人であるがゆえに自分を捨て切ることはできないでしょう。それは献身者であっても同じかもしれません。けれども私たちは私達自身よりも私たちのことをよく知っていてくださる方、私たちが求めるよりも先に私たちに必要なものをご存じであるお方が、私たちのためにその命を十字架にささげて、ご自分を捨て切って下さったのです。私たちはその方に招かれているのです。私たちが、単純に仕事や家族を捨てなければならいということではありません。私たちの日常生活を捨てることではなく、日常のただ中に主イエスが声をかけて下さったのです。

主イエスと共に
私たちは、自分自身のことにこだわるようにして、すぐに、召しを受けた弟子たちの行動に目を奪われてしまいます。そして、不安になったり、喜んだり、感心したり、落ち込んだりします。弟子たちの行動に目が行ってしまいます。この弟子たちと比べて自分はどうであろうかと考えてしまいます。そのような私たちの現実の中に、二千年前と同じ主イエスが来られているのです。ペトロとアンデレが網を打っているのをご覧になり、ヤコブとヨハネが網の手入れをしているのをご覧になった主イエスは、まさに私たちの日常の仕事や生活のただ中で、私たちに近づいて来られました。ガリラヤの漁師たちをしていた者、主の御言葉によって立ち上がらせ、歩き出しました。主イエスの招きのお言葉が今、私たちにも注がれています。決して、悲壮な決断をして、歯を食いしばって頑張ってついて行くというのではありません。自分には無理だと思って諦めてしまうのでもありません。自分の小さな力に頼る私達に主イエスの招きの中に捕えられ、自分の本当にするべきことが見えてくるのです。神が、私たちを愛しておられ、私たちを求めておられるのです。聖書は、神様の方が私たちを愛し、私たちを求めておられる、と教えるのです。そして、神の愛そのものと呼んでよい、主イエス・キリストというお方において、神は、私たちのところにまで来てくださいました。神に造られたものであるにもかかわらず、神様を忘れ、造り主に背を向けて、罪の虜になった私たちを救うために、主イエス・キリストは来られました。主は私たちの罪を代わりに背負って十宇架にかかられました。十宇架において罪に対する裁きをすべて引き受けて、私たちを罪の支配から解き放ってくださったのです。そして、甦れた主は、私たちをご自身の救いの御業の中に召してくださいます。主イエスの声が今、私たちに語られているのです。主イエスの呼び声が聞こえます。「わたしについて来なさい」。私たちは、礼拝の中で、主イエスの招きの御言葉の中に捕らえられ、罪に捕らわれた姿を捨て、主イエスの召しを受けて、立ち上がり、主イエスと共に歩き始めます。それぞれが遣わされ、与えられた場所、家庭、仕事、学校、他者との関係の中での主の招きの召しがあります。その中で御言葉を聞くのです。けれども一人ではなく、主イエスが共におられます。主にある信仰の仲間が共にいます。主イエスと共に、主イエスに従う信仰の歩みが始まるのです。

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