主日礼拝

悔い改めない不幸

説教題「悔い改めない不幸」 牧師 藤掛順一

イザヤ書 第14章12~17節
マタイによる福音書 第11章20~24節

私たちが聞くべきみ言葉
 本日はマタイによる福音書第11章20節以下からみ言葉に聞くのですが、小見出しにあるようにここには、主イエスが、悔い改めない町をお叱りになったことが記されています。新年早々から、主イエスのお叱りの言葉を聞くというのは、あまり気持ちのよいことではありません。しかしここには、今私たちが、またこの世界が、人類が、しっかり聞かなければならない大事なことが語られていると思います。主イエスはここで、悔い改めない者たちを叱っておられるわけですが、悔い改めないというのは、自らの罪を認めて神に赦しを願おうとしないということであり、さらにもっと根本的には、神と本当に向き合おうとしないで、人間とこの世界の事柄だけを見つめているということです。私たちはそのような悔い改めのない歩みをしているのではないでしょうか。私たちもいろいろと後悔することはあるし、反省することもあります。あれはまずかったから今度からはもっとこうしようという思いはしばしば持ちます。しかしそれは自分の罪を認めることとは違います。まして、神のみ前に赦しを求めて跪くようなことは、私たちはなかなかしようとしません。私たち一人一人が悔い改めようとしないだけではありません。この世界、人類が今、深刻に、悔い改めを求められていることは明らかです。ウクライナにおいてもガザ地区においても、激しい戦争が続いており、今この時にも人々が傷つき、命を失っています。兵士のみでなく一般市民がです。この悲惨な現実は私たちに悔い改めを求めています。憎しみが憎しみを、報復が報復を生んでいる現実に私たち人間の罪を認め、神に赦しを求め、憎しみの悪循環を断ち切る道をさぐり求めていくことこそ、今私たちがしなければならないことです。しかし私たちは、この世界は、人類は、そのような悔い改めをなかなかしようとしません。「相手が悔い改めるならこちらも悔い改めてやってもよい」ぐらいの姿勢です。それでは、いつまでたっても悔い改めは起らないのです。

主イエスの力あるみ言葉とみわざ
 主イエスは、「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とあります。「奇跡」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「力あるわざ」となっていました。こちらの方が原文の言葉のニュアンスを伝えています。この言葉の根本には、「力」という意味があるのです。また原文には、日本語に訳されていない「彼の」という言葉があります。直訳すれば「彼の力あるわざ」です。彼というのは勿論主イエスです。主イエスの力あるわざが数多く行われたのに、悔い改めなかった町々が叱られているのです。
 主イエスがなさった力あるわざとは何でしょうか。それは直接には主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、死んでしまった人を生き返らせたりした奇跡のことであり、この福音書の8、9章に語られていたことだと言えます。けれども、これまでマタイによる福音書を連続して読んで来た私たちは、8、9章に語られている主イエスのみ業は、その前の5章から7章のいわゆる「山上の説教」に語られていた主イエスの教え、み言葉と深く結びついていることを示されてきました。それらを受けて10章には、主イエスのみ言葉とみ業を受け継いでそれを語り、行っていくために弟子たちが派遣されることが語られていたのです。そして今読んでいる11章には、主イエスのみ言葉とみ業に対して人々がどのように反応したか、が語られているのです。つまりここで主イエスがなさった力あるわざとして見つめられているのは、5~7章の教えと、8、9章のみ業の全体であると言えます。そのみ言葉とみ業が、ここに出て来るコラジンとかベトサイダ、そしてカファルナウムというガリラヤの町々で語られ、行われたのです。しかしその町々の人々は、その主イエスのみ言葉とみ業を見聞きしても悔い改めなかったのです。彼らは主イエスのなさった奇跡に驚いたし、そのみ言葉を聞くために集まっても来ました。ですから全然反応しなかったわけではありません。けれどもそれは「悔い改め」ではなかった。神さまの方に向きを変え、自分の罪を認め、赦しを乞うという反応にはなっていなかったのです。

悔い改めようとしない私たち
 このようなガリラヤの人々の姿は、私たち自身の姿だと言わなければならないでしょう。私たちはガリラヤの人たちのことを、主イエスの力あるみ言葉を聞き、すばらしい奇跡を幾つも見たのに悔い改めなかった物分かりの悪い連中、と批判することはできないのです。私たちも、礼拝において、山上の説教を読んできました。主イエスが、神の独り子、救い主としての権威をもってお語りになった教えを聞いてきたのです。そしてその中には、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えがありました。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えがありました。主イエスはこれらの教えによって、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を呼んでいく悪循環を断ち切る道を示して下さったのです。「目には目を、歯には歯を」というのは、自分が受けたのと同じだけの損害を相手に与えることに止めて、それ以上の復讐をしてはならない、という掟ですが、それによっては、憎しみの悪循環を断ち切ることはできません。何故なら、私たちは自分が人に与えた痛みは小さくしか感じないけれども、自分が人から受けた痛みはとても大きく感じるからです。だから、復讐はより大きな復讐を、憎しみはより深い憎しみを生んでふくれあがっていくのです。それを断ち切るためには、一切復讐をしない、相手から受けた損害を一方的に引き受けて相手を赦す、ということがどこかで起らなければならないのです。そういう教えを主イエスは語られ、それを私たちは聞いたのです。しかし私たちは相変わらず、「目には目を、歯には歯を」という思いをもって生きているし、そういう思いによってこの世界は動いています。主イエスの力ある教えが語られても、私たちは悔い改めようとしていないのです。ですから、主イエスに叱られなければならないのは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人々だけではない。私たち一人一人であり、私たちのこの世界なのです。

「不幸だ」とは?
 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と主イエスはおっしゃいました。「不幸だ」とはどういうことでしょうか。お前にはこれから不幸なことが起る、でもそれは私の言うことをきかず、悔い改めなかったことへの罰だから自業自得だ、ということでしょうか。確かに、この後語られていくのは、神の裁きの日に彼らが受けるであろう罰のことです。それはあの悪徳の町ソドムや、異邦人の町ティルスやシドンへの罰よりも重いものになると言われています。そういう裁きがお前に下る、だから不幸だ、と主イエスは言われたのでしょうか。以前の口語訳聖書ではここは「わざわいだ」となっていました。そう訳すと今度は、主イエスが悔い改めようとしない町々を呪って「わざわいあれ」と言われたようにも感じられます。そういう呪いの言葉を主イエスはお語りになったのでしょうか。
 「不幸だ」とか「わざわいだ」と訳されている原文の言葉には、「不幸」という意味も「わざわい」という意味もありません。これは文法的には、嘆きと悲しみを表す感嘆詞で、訳すならば「ああ」とか「おお」という言葉です。ですからここで主イエスは「ああコラジン、ああベトサイダ」と言われたのです。それは主イエスが、これらの町々のことを心から嘆き悲しんでおられる、その気持ちの現れです。ですから主イエスは、「お前たちには不幸が襲いかかる。それは自業自得だ」と言われたのではないし、ましてやこれらの町々を呪って「お前たちにわざわいあれ」とおっしゃったのでもないのです。主イエスのみ言葉が語られ、数多くの力あるわざが行われたのに、悔い改めようとしない人々のことを、主イエスは心から嘆き悲しんでおられるのです。

天にまで上げられようとする
 23節には、カファルナウムのことが語られています。この町は、主イエスがガリラヤ伝道の根拠地としていた町です。弟子のペトロの家がそこにあり、主イエスはそこを根拠地としてガリラヤのあちこちの町に出かけられたのです。つまりカファルナウムの人々は、主イエスとの接触が最も多かったわけで、5〜7章の山上の説教が語られたのもその近くの山の上だと言われていますし、8、9章に語られている奇跡の多くもこの町でなされています。主イエスのみ言葉とみ業によって悔い改めるとしたら、カファルナウムの人々こそ真っ先に悔い改めるべきなのです。その町がしかし悔い改めようとしない、主イエスはそのことを嘆いて、「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」とおっしゃいました。この言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第14章12節以下から来ています。そこをもう一度読んでみます。「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう』と。しかし、お前は陰府に落とされた。墓穴の底に」。ここに語られている「お前」、天にまで昇り、いと高き者のようになろうとしたが、陰府に、墓穴の底に落とされた「お前」とは、バビロンの王のことを言っています。イスラエルを滅ぼして捕囚の憂き目に遭わせているバビロン、自分は主なる神にも打ち勝ち、もはや何者も自分に逆らうことはできないと驕り高ぶっているバビロンの王、しかしその栄華は一時のもので、主なる神のみ心によってお前の命は取り去られ、死んで墓に葬られ、お前の国も滅びていくのだということが語られているのです。このバビロンの王と同じことが、カファルナウムに起こる、と主イエスはおっしゃったのです。つまり、主イエスのみ言葉とみ業を目のあたりにしながら悔い改めようとしない者は、バビロンの王と同じことをしている、ということです。バビロンの王は、「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と言いました。つまり、自分が神になろうとしたのです。神の前に跪き、従うのではなくて、自分が支配者、主人となろうとしたのです。

悔い改めないことは、神に敵対すること
 悔い改めないとはそういうことです。私たちが悔い改めようとしないのは、自分の罪を認めることはなかなか難しいことだし、神の前に、赦しを求めて跪く謙遜な思いを持つことも難しくてなかなかできないからなのではありません。悔い改めようとしない私たちの心にあるのは、自分が主人、王であろうとする思いです。神に従うのではなくて、自分が神の座に座ろうとしているのです。それが、人間の罪です。最初の人間アダムとエバが神に背いて、禁断の木の実を食べてしまい、その罪によってエデンの園、楽園を追放されたのは、「これを食べれば神のようになれる」という誘惑によることでした。神の下で、神に従って生きるのではなく、自分が神になって、主人になって生きようとすることが人間の罪の根本であることがそこに示されています。悔い改めようとしないというのも、その罪によることなのです。だから、人間は弱いものだからなかなか悔い改められないのではありません。そうする気がないのです。自分の主人は自分ではなく神だということを受け入れようとしない、受け入れたくないのです。私たちはそのことをごまかして、悔い改めたいとは思ってはいるのだが、自分の弱さによってなかなかそれができない、と言い訳をしたり、自分だけ悔い改めても、世の中全体が変わらない限り問題は解決しない、などと理由をつけて、悔い改めないことを正当化しているのではないでしょうか。しかしそれは要するに、悔い改める気がないということであり、神の前に跪くのはいやだということなのです。
 主イエスは、そのように悔い改めようとしない者たちに、神の裁きにおいて厳しい罰が与えられる、と語っておられます。主イエスのこのお言葉は、やさしい恵みの言葉ではなくて、厳しい警告です。この警告を私たちはしっかり聞かなければならないでしょう。悔い改めないとは、今申しましたように、バビロンの王のように自分が神になろうとして、神の前に跪くことを拒むこと、神を神として敬い従うことを拒絶することです。それは私たちが、神に敵対して宣戦布告をするのと同じことです。神は自分の人生の主人としての地位を奪おうとしている敵であると宣言することです。そのように神に宣戦布告をするならば、神が私たちを敵として滅ぼすことを不当だと言うことはできません。ここに語られている裁きや罰は当然の帰結なのです。

主イエスのみ言葉とみ業は悔い改めさせる力がある
けれども、そういう厳しい罰への警告がこの箇所から読み取るべき最終的なメッセージなのでしょうか。そうではないと思います。なぜならそれは、「ああコラジン、ああベトサイダ」と深い嘆き悲しみの声をあげられた主イエスのお姿とは合わないからです。そこで、まだ取り上げていなかった二つのみ言葉に注目したいと思います。それは21節の後半の「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」というみ言葉と、23節の後半の「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない」というみ言葉です。これは、コラジンやベトサイダをティルスやシドンと、カファルナウムをソドムと比較することによって、それらの町々の罪の深さを際立たせている言葉です。ティルスやシドンは先ほども申しましたように異邦人の町で、旧約聖書においてしばしば奢り高ぶりの代表として言及される町です。ソドムは勿論創世記19章で罪のために神に滅ぼされた悪徳の町です。主イエスは、「お前たちのところで行われた奇跡」つまり主イエスの力あるみ言葉とみ業が、もしそれらの町で語られ、行われたなら、彼らは悔い改め、救いにあずかったに違いないと言っておられます。それほどに、お前たちの反抗の罪は重いということです。これは表面的にはそのように、悔い改めようとしないイスラエルの人々の罪の重さを指摘している言葉であるわけですが、その裏には、別の思い、メッセージが隠されていると思うのです。ティルスやシドン、それはイスラエルの町ではない、異邦人の町、主なる神への信仰とは無縁な町です。つまり主なる神のもとへと悔い改めることから最も遠いはずの町です。ソドムも、史上最悪の悪徳の町、腐敗、堕落の象徴として今も語り継がれる町です。主イエスは、そのような町の人々が、わたしの力ある言葉とわざを見聞きしたならば、悔い改めただろう、と言われたのです。それは、これらの町の人々の罪は今のガリラヤの人々よりもまだマシだ、ということを語ろうとしているのではありません。そうではなくて、主イエスの力あるみ言葉とみ業は、とうてい悔い改めることなどあり得ないようなこの人々をも悔い改めさせ、神の前に跪かせ、罪を認めて赦しを願わせるような力を持っているのだ、ということを語ろうとしているのです。あなたがたが今見聞きしている主イエスのみ言葉とみ業とは、そのように人々を悔い改めさせ、新しく生かす力を持っている。だから、あなたがたも悔い改めることができる、いや、悔い改めて欲しい、主イエスのそのような語りかけとしてこれらの言葉を読むことができるのではないでしょうか。

主イエスの語りかけ
 主イエスの力あるみ言葉とみ業は、5〜7章の山上の説教と8、9章に語られている奇跡のみではありません。この福音書全体がその力あるみ言葉とみ業を私たちに証ししています。その全体を通して示されていることは、主イエス・キリストが、ただ教えを語り、奇跡を行われただけではなくて、私たちの全ての罪を背負って、ご自分は何の罪もないのに、十字架の死刑の苦しみを受けて下さったということです。神を敵として宣戦布告している私たちが受けるべき裁きとその罰を、神の独り子である主イエスが代って引き受けて下さったのです。悔い改めない者たちが受けなければならない厳しい罰を主イエスは私たちの代わりに受けて、私たちをそこから解放して下さったのです。また、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生み、それがふくれあがっていく悪循環を断ち切るためには、受けた痛みを自分だけで耐え、復讐をしない、相手から受けた損害を自分が一方的に引き受けて相手を赦すということがどこかで起らなければならない。そのように語られた主イエスは、ご自身がそれを実行して、私たちの罪がもたらした痛みをご自分だけで耐え、損害を一方的に引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。それが、主イエス・キリストの力あるみ言葉とみ業です。そして父なる神はその主イエスを、十字架の死から復活させて下さいました。復活した主イエスは今も生きておられ、聖霊の働きによって私たちと共にいて下さり、私たちを導いて下さっているのです。この主イエスによる神の力ある恵みのみ業によって、私たちは悔い改めて新しく生きることができます。主イエスは、私たちが悔い改めてみ前に跪き、罪を認めて、赦しを願い、主イエスの弟子となって、主イエスに聞き従って生きる者となることを、待っておられるのです。期待しておられるのです。そのことこそが、この箇所が私たちに語りかけている最終的なメッセージです。この主イエスの語りかけに応えて悔い改め、人間のこと、この世のことばかりを見つめている目を神の方へと向けて、神と向き合って、この新しい年を歩んでいきたいのです。そこにこそ、主イエスによる神の救いの恵みにあずかって生きる新しい、希望ある歩みが与えられていくのです。そういう意味でこの箇所は、年頭の礼拝において読むのに相応しい箇所だと言えるのです。

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