主日礼拝

主イエスの意志

説教題「主イエスの意志」 牧師 藤掛順一
旧 約 エゼキエル書第37章1-14節
新 約 マタイによる福音書第8章1-4節

主イエスのみ業、奇跡を語る箇所に入る
 本日より、マタイによる福音書の第8章に入ります。これまで私たちは、5~7章の、いわゆる「山上の説教」を読んできました。5~7章が「山上の説教」と呼ばれているのは、これらの教えが山の上で人々に語られたとされているからです。本日の8章1節に「イエスが山を下りられると」とあります。これは5章1節の「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と対になっています。「山に登った」と「山を下りた」の間にあるから、5~7章は「山上の説教」なのです。このように5~7章は「山の上」ということによって一つのまとまりを持った部分ですが、これから読んでいく8章と9章もやはり一つのまとまりを持った部分です。そこには、主イエスのなさった様々なみ業、特に、病気を癒したり、悪霊を追い出したりした奇跡の話が纏められているのです。5~7章が「主イエスの教え」であったのに対して、8、9章は「主イエスのみ業」を語っているのです。このことは4章23節に語られていたことと対応しています。そこには「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とありました。「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」これが「教え」です。その内容が「山上の説教」に纏められているのです。「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」これが「み業」です。それが8、9章に纏められているのです。

主イエスに従った大勢の群衆
さらに、8章1節には「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とあって、「大勢の群衆」の存在が見つめられています。それは5章1節の「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と対になっています。「この群衆」とは、4章25節に「こうして、ガリラヤ、デカポリス、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」とある、その群衆です。至る所からイエスに従って来た大勢の群衆たちがいて、その人々に「山上の説教」は語られたのです。「山上の説教」は、主イエスに従ってきた信仰者たち、あるいは少なくとも主イエスに従おうという思いを持っている人々に対して語られた教えなのです。信仰とは、主イエス・キリストに従うことであって、その信仰に生きようとする者たちに、主イエスに従うとはどういうことかを語った教えが「山上の説教」なのです。
そして本日の8章の1節にも、山を下りた主イエスにその大勢の群衆が従ってきたと語られています。山の上で主イエスの説教を聞き、そして山を降りる主イエスに従ってきた群衆の前で、8、9章の主イエスのみ業、奇跡は行われたのです。この群衆の存在によって、「山上の説教」における主イエスの教えと、8、9章の主イエスのみ業、奇跡の繋がりが示されています。どちらも、主イエスに従ってきた信仰者、あるいは従おうという思いを持っている人々に語られ、示されたことなのです。「山上の説教」において教えられたことが、8、9章において実演されている、と言ってもよいかもしれません。そういうことを意識しつつ、8、9章に語られている主イエスのみ業、奇跡を見て行きたいと思います。

重い皮膚病
8章の初めには、「重い皮膚病を患っている人」が登場します。皆さんの持っている聖書の中には、同じ新共同訳でも、ここが「らい病」となっているものがあるかもしれません。以前はそう訳されていました。しかし今は、ここに語られている病気は「らい病」あるいは「ハンセン病」と呼ばれている病気とは別のものだということが分かっており、新共同訳も現在は「重い皮膚病」と変わっています。ですからもしも「らい病」となっている聖書をお持ちの方がいたら、訂正しておいて下さい。新しく翻訳された「聖書協会共同訳」はこれを「規定の病」と訳しています。そしてその言葉の解説があって、何らかの皮膚の疾患を指すが、病理学的にはいかなる病気であったか明瞭ではない、とされています。はっきりしていることは、この病気にかかった者は汚れた者とみなされ、神の民イスラエルの祭儀、つまり神への礼拝に連なることができなかった、ということです。そのように律法で規定されている病、ということで「規定の病」と訳されたのです。それゆえにこの病気にかかった人は一般の人々と共に住むことはできず、町の外で暮らさなければなりませんでした。病気はどれも苦しくつらいものですが、汚れた者として人々から隔離され、社会から排除されてしまうことによって、この病の苦しみは特別なものだったと言えます。そういう深い苦しみを負っている一人の人が、山から下りて来た主イエスのもとにやって来たのです。その主イエスの後ろには大勢の群衆が従っています。汚れた者だから人と接触してはならないとされていたこの人が、大勢の群衆を従えた主イエスの前に進み出るというのは、大変な勇気を必要とすることだったでしょう。

ここには、主イエスを挟んで、非常に対照的な人々の姿が描き出されています。一方には、主イエスに従ってきた群衆たちがいます。彼らは、主イエスの側近くでその教えを聞き、山を降りる主イエスに従って来たのです。その人々の中心には弟子たちがいます。弟子たちはまさに一切を捨てて主イエスに従い、主イエスと共に歩んでいるのです。もう一方には、重い皮膚病を患っている人がいます。彼はこの病気のゆえに、主イエスの前に進み出ることすらもはばかられるのですう。人々と共に教えを聞くこともできない、主イエスに従っていきたくてもそれができないのです。主イエスを挟んで、そういう対照的な人々が向かい合っている中で、この奇跡は行われたのです。

主イエスの前にひれ伏して礼拝した
2節に「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」とあります。彼は主イエスのみ前にひれ伏したのです。この「ひれ伏す」という言葉をマタイ福音書は大事な場面でしばしば語っています。共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの中で、この言葉が使われる回数はマタイが飛び抜けて多いのです。例えばどこに出て来るかというと、あのクリスマスの記事の中で、東の国から来た学者たちが、幼な子主イエスをひれ伏して拝んだ、という所です。あるいは28章17節には、復活した主イエスに会った弟子たちがひれ伏したとあります。これらはいずれも、ひれ伏して主イエスを拝んだ、つまり礼拝したということです。重い皮膚病を患っていたこの人は、主イエスの前に進み出て、主イエスを礼拝したのです。しかも彼は「主よ」と呼びかけています。イエスを自分の主と呼んでそのみ前にひれ伏して礼拝したのです。これこそが主イエスを信じ、従う信仰者の本来の姿だと言えます。主イエスに従ってきた群衆ではなくて、み前に出ることすらはばかられるこの重い皮膚病を患っている人こそが、主イエスを礼拝している、ということがここに描き出されているのです。

み心ならば
しかもこの人の礼拝は、ただイエスを主と呼び、その前にひれ伏したという形だけのものではありません。彼は、「主よ、み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。これは、重い皮膚病という大きな苦しみを負った人が、主イエスの前にひれ伏して語った言葉としては不思議です。大きな苦しみの中で主イエスに祈る時に、私たちなら、「主よお願いですからこの苦しみを取り除いてください、この問題を解決してください」と願うでしょう。「主よ、どうぞ私のこの重い皮膚病をなおして、私を清くしてください」と願うのが自然なのです。ところが彼は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。以前の口語訳聖書ではここは「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」となっていました。この「ですが」は遠慮がちに「そうしていただけると有り難いのですが」と願う、日本語に独特な微妙な表現です。原文にはそんなニュアンスはありません。原文を直訳すれば「もしあなたが望むなら、あなたは私を清くすることができます」となります。彼は主イエスの前にひれ伏し、礼拝して、このように言ったのです。

主イエスのご意志にこそ救いがある
この彼の言葉をどのように受け止めたらよいのでしょうか。自分が病気で苦しんでいるのに、何だか他人事みたいな言い方だ、とも思うかもしれません。「御心ならば」という言葉を、「もし御心でしたら、でも御心でなければしてくれなくてもいいですけど」と読んでしまうと、「どっちでもいいけど」という意味になってしまうのです。そしてそこからは、「自分の苦しみが取り除かれることを求めるのではなく、み心が行われることを祈り願うことこそが信仰者としてのあるべき姿だ」、などという教訓が導き出されてしまうかもしれません。しかし彼の言葉をそのように読むのは間違いです。彼は決して、「どちらでもいいですが」などと言っているのではありません。「御心ならば」と訳されている言葉は、正確に訳せば「もしあなたが意志するなら」となります。「もしあなたが意志するなら、そのあなたのご意志によって、私は清くされる。私の病は癒される。苦しみから解放される」、という確信を彼は語っているのです。あなたの、主イエスのご意志は、どんなに不可能と思えるようなことでも実現する、私が抱えている重い皮膚病も癒され、苦しみから解放される、私に必要なのは、そのあなたの、主イエスのご意志です、そのご意志を与えて下さい、と彼は必死に願い求めているのです。病気が治っても治らなくてもどちらでもよい、などという暢気なことを言っているのではありません。彼は自分の病の癒しを切に願い求めて主イエスのもとに来たのです。しかし彼は、その癒しが、主イエス・キリストのご意志によってのみ与えられることを知っています。だから自分が求めるべきなのは、主イエスがそれを意志して下さることなのだということ知っているのです。その主イエスのご意志を求め、そのご意志に従って歩むところにこそ、救いがあり、癒しがあり、慰めがあるのです。それが、主イエスのみ前にひれ伏し、礼拝をした彼の思いです。そしてこれこそ、礼拝をする者に最もふさわしい、正しい思いであると言えるでしょう。様々な悩みや苦しみをかかえながら神を礼拝することはよくあります。そのような思いを持って教会の礼拝に集うことも多いでしょう。そこで私たちがしがちなのは、悩みや苦しみからの救いを求める自分の思いや願いだけを見つめ、それを神に、主イエスに、何とか聞いてもらおうとすることです。しかしそれだけでは、どこかの神社で手を合わせるのと、あるいはご利益を売り物としている新興宗教の礼拝と変わりません。しかし私たちは、主イエスのご意志、み心にこそ救いがあり、苦しみ悲しみからの癒しがあり、慰めがある、ということを知らされているのです。そのご意志、み心を求めていくことが、私たちの礼拝なのです。主イエスのご意志、み心こそが決定的に大事であり、それを求めていくことにこそ救いがある、という信仰の、そして礼拝の一番大事な精神を、この重い皮膚病を患っている人は教えてくれているのです。

あなたのみがご存じです
本日共に読まれた旧約聖書の個所は、エゼキエル書の第37章、いわゆる「枯れた骨の復活」の個所です。預言者は、主の霊によって、枯れた骨で満ちた谷に連れていかれました。枯れた骨の満ちた谷、それはもはや命の痕跡が何もない、荒涼とした、殺伐とした風景です。その骨が生き返ることなど、とうてい期待することはできない、絶望の世界と言ってもよいでしょう。その谷を前にした預言者に、主は言われるのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。預言者はこう答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。「あなたのみがご存じです」とはどういう意味でしょうか。「神さまのみがご存じなのであって、私にはわかりません」ということでしょうか。英語で「God knows.」と言うと、「神は知っている」というよりも「誰も知らない、誰にもわからない」という意味です。しかしここで言われているのは、そういうなげやりなことではありません。「あなたのみがご存じです」とは、あなたが、神が意志されるならば、枯れた骨が復活するという不可能なことも実現する、ということです。人間の目には全く絶望としか見えない現実が、神のご意志によって新しくされ、そこに喜びと希望が、新しい命が与えられる、そのことを預言者は、枯れた骨の復活の幻によって示されたのです。「主よ、み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というこの人の言葉も、この「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と同じだと言うことができるでしょう。

私は意志する
そして主イエスは、この人の礼拝と言葉とをしっかりと受け止めて下さったのです。3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった」。この病気の人に触れるというのは、当時は考えられないことでした。そんなことをすれば、汚れが自分にも移ってしまうと思われていたのです。だからこの病を負った人は人々の中で住むことが許されなかったのです。しかし主イエスは手を差し伸べて彼に触れて下さいました。誰も触れようとしない彼に触れて下さったのです。しかしそこに主イエスのやさしさや愛、あるいは自己犠牲を見ているだけでは不十分です。3節の最も大事なポイントは、そこではなくて、「よろしい、清くなれ」というみ言葉にあります。この「よろしい」こそが最も大事なのです。「よろしい」と訳されている言葉は、直訳すれば「私は意志する」です。これは勿論彼が「もしあなたが意志されるなら」と言ったことへの応えです。主イエスが意志して下さるなら、自分の病気も癒され、清められる、その主イエスのご意志を願い求めて礼拝をした彼の思いを、主イエスはしっかりと受け止めて下さって、「私はあなたが清くなることを意志する」と言って下さったのです。その主イエスの意志によって、重い皮膚病はたちまち癒され、彼は清くされたのです。彼が癒されたのは、誰も触れてくれない自分に主イエスだけは手を伸ばして触れてくれた、そのやさしさや愛によってではありません。主イエスが、彼の癒しを、彼が清められることを意志して下さった、そのことによって、そのことのみによって、彼は癒されたのです。主イエスが彼に触れて下さったのは、やさしさや同情ではなく、そのご意志の表れでした。主イエスのご意志は、彼を捕えている病の力よりも強いのです。重い皮膚病を打ち破り、彼の汚れを取り除いて清くし、新しく生かす、そのご意志をもって主イエスは彼に触れて下さったのです。「私は意志する、清くなれ」という主イエスのお言葉こそ、彼の救いの宣言だったのです。主イエスの前にひれ伏して礼拝をし、主イエスのご意志、み心をこそ求めていく中で、彼はこの救いの宣言を受けたのです。まことの礼拝において与えられる神の救いの恵みがここに描き出されています。主イエスのご意志、み心の実現をこそ求めていく礼拝においてこそ、私たちを本当に生かし支える神の恵みが与えられるのです。このことは、「山上の説教」の6章33節に教えられていた、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」というみ言葉の実演であると言うことができます。あるいはまた、この重い皮膚病の人の姿こそ、7章21節以下にあった、「主よ、主よ」と言うだけでなく、「わたしの天の父の御心を行う」人の姿であると言うこともできます。「主よ、主よ」と言いつつ、結局自分の思いや願いを第一にして、それをかなえてくれる神のみを求めていくのではなくて、神の御心にこそ救いがあることを信じてそれを求めていく者こそが、本当の意味で「御心を行う者」なのです。

私たちへの問いかけ
主イエスのご意志にこそ私たちの救いがある。そのことは、主イエスがそのご意志によって、私たちのために、十字架の死への道を歩み、その苦しみを引き受けて下さったからこそ言えることです。主イエスのご意志とは、ご自分が私たちの罪を背負って、身代わりになって苦しみを受け、死んで下さることでした。私たちは今、レント(受難節)の日々の中にあって、そのことを覚えつつ歩んでいます。主イエスはご自分の苦しみと十字架の死とによって、私たちを、天の父なる神の子として下さり、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さる天の父の恵みによって生かされる者として下さったのです。そしてその主イエスを父なる神は復活させて下さいました。病や肉体の死にも勝利し、枯れた骨をも復活させて下さる神の力によって私たちが生かされていくことこそが、主イエスの、そして父なる神のご意志です。聖書はそのことを告げています。私たちはその主イエスのご意志、み心を求めて神を礼拝します。そして聖書のみ言葉によって、その主イエスの、また父なる神の恵みのご意志、み心を常に新たに示されつつ歩んでいくのです。この人はそのようなまことの礼拝の恵みを体験し、それによって癒やされ、新しく生きる者とされました。多くの人々が主イエスに従い、あるいは従おうとしていたけれども、このようなまことの礼拝とその恵みに与ったのは、この重い皮膚病を患った人だったのです。このことは私たちへの問いかけでもあります。あなたがたは主イエスのみ言葉を聞いている、主イエスに従ってもいる、しかしそのあなたがたは本当の礼拝に生きているか、本当に主イエスの前にひれ伏し、主イエスのご意志にこそ救いがあり、癒しがあることを信じて、それを求めているか、そう私たちは問われているのです。この重い皮膚病の人と共に、主イエスのみ前にひれ伏して、主のご意志の実現をこそ求めるまことの礼拝をしたいと願います。その礼拝において、主イエスは私たちに手を差し伸べ、触れて下さり、「私は意志する、清くなれ」と語りかけて下さるのです。

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