主日礼拝

喜び祝いつつ

11月12日(日)主日礼拝
「喜び祝いつつ」 牧師 藤掛順一

旧 約 詩編第100編1-5節
新 約 マタイによる福音書第6章16-18節

私たちに求められている義
 私たちは今、礼拝において、マタイによる福音書の第6章を連続して読んでいて、先週、「主の祈り」が語られているところを読み終わりました。本日はその続きの16~18節からみ言葉に聞きます。ここには、断食についての教えが語られています。教会の歴史においては、断食が信仰の一つの表現とされてきましたし、今でも断食して祈ることは行われています。しかし私たちの教会の流れにおいては、信仰生活において断食を実践している人はそう多くありません。断食をしていない人は、この教えは自分と関係がない、と思うかもしれません。けれどもそう簡単に決めつけてしまわずに、この断食についての教えがどういう流れの中で語られているのかを先ず確認したいと思います。

 マタイによる福音書の第5章から7章は、主イエスがお語りになったいわゆる「山上の説教」です。第5章の20節で主イエスはこうおっしゃいました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。主イエスは、ご自分に従う弟子たち、ひいては私たち主イエスを信じる者たちに、義を、つまり正しい善い行いを求めておられるのです。しかもその義が、旧約聖書に記されている神の掟である律法を厳格に守っていた律法学者やファリサイ派の人々にまさるものでなければならない、とおっしゃったのです。その義、正しい行いとはどのようなものかを主イエスは5章21節以下で、「あなたがも聞いているととり、昔の人は何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という仕方で語られました。昔の人に命じられていたこと、それが律法です。「しかし、わたしは言っておく」に導かれて語られているのが、それにまさる、主イエスに従う者たちの行うべき義です。そこに語られていたのは、旧約聖書の律法よりも厳しい掟を頑張って行うことではなくて、主イエスによって神の子とされ、父である神の愛の中で歩むところに与えられる生き方でした。主イエスを信じて神の子とされた者は、天の父となって下さった神の愛の中でこのような義に生きることができる。その義は、律法学者やファリサイ派の人々が自分の力で頑張って行っている義にまさるものだ、ということが第5章の後半に語られていたのです。

人に見てもらおうとして、人の前で
 第6章に入ると、最初の1節に、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とあります。「善行」と訳されている言葉は、5章で「義」と訳されていたのと同じ言葉です。第5章に語られていた、神の子とされ、父である神の愛の中で歩むところに与えられる善行、義を行っていくときの注意がこの第6章に語られているのです。それが「見てもらおうとして、人の前で善行をするな」ということです。人の前で、人に見てもらおうとしてしてするのでは、それは神の前での善行にならないのです。そのことが、施しと祈りと断食という三つの具体的な善行について語られているのです。施しについては2~4節に、祈りについては5~15節に語られていました。その中で「このように祈りなさい」と「主の祈り」が教えられたのです。そして第三の断食についての教えが本日の16~18節です。この三つはいずれも当時、神の前での善行、神を信じる者がなすべき信仰の行為として重んじられていました。あなたがたもこれらの善行を行いなさい、しかしそれを、見てもらおうとして、人の前でしてはならない、と主イエスは教えておられるのです。

偽善への戒め
 これらの三つの教えに共通して語られているのが、「偽善者」という言葉です。「見てもらおうとして、人の前で」善行をする人々のことを主イエスは偽善者と呼んでおられるのです。偽善者というと私たちは普通、心の中では悪いことを考えているのに、表面は善人であるように見せかけている人のことだと思っていますが、ここで言う偽善者とは、「見てもらおうとして、人の前で」善いことをしようとする人、つまり、人の評価、評判を気にして、人からほめてもらうことを求めている人、ということです。それは、心が神の方ではなくて人の方を向いている、ということです。神が求めておられ、神が喜んで下さるからではなくて、人に誉められたくて、あの人は正しい立派な人だと言われたいから善いことをしている、それがここで言う偽善者なのです。自分はそういう偽善と無関係だ、と言える人はいないでしょう。私たちは誰でも、自分が何か少しでも良いことをしたら、それを人に誉めてもらいたい、認めてもらいたいと思います。自分からそれを吹聴することはなくても、人が、「あの人は黙っているがこんな善いことをしている」と言ってくれることを願っています。逆に、自分がした善いことが人に少しも気づかれず、評価されないとがっかりしてしまい、拗ねてしまうことがあります。私たちは皆、「見てもらおうとして、人の前で」という偽善の思いを持っているのです。そういう偽善を戒めるための一つの例として断食が取り上げられているのです。ですからここに語られていることは、具体的に断食をしていないとしても聞くべきことなのです。

断食の意味
 ここで先ず断食の意味を考えたいと思います。断食とは言うまでもなく一定期間食を断って、空腹の苦しみを自らに課すことです。つまりそれは、わざと自分に苦しみを課す「苦行」です。その中心的な意味は、悲しみと嘆きの表現であると言われています。深い悲しみや嘆きの中にいる時に私たちは、食事も喉を通らない、ということがあります。それを逆にして、食事を断つことによって悲しみや嘆きを表わすのです。その悲しみ嘆きとは、神の前での、自分の罪に対する悲しみ嘆きです。自分は神のみ心に背き、逆らっている罪人だ、ということを心から悲しみ、嘆き、悔い改めるのです。イスラエルの人々においては、断食はそういう悔い改めの表れとして位置づけられていました。それは私たちの信仰においても真剣になされなければならないことです。実際に断食をするかどうかはともかく、自分の罪を嘆き悲しみ、神の前にそれを悔い改めることは、私たちの信仰においてもとても大事なことなのです。

主の祈りを祈るなら
 いやそれは大事だとか何とか言うよりも、主イエスが教えて下さった「主の祈り」を真剣に祈るなら、その中で私たちが実感させられることです。主イエスは、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るように教えて下さいました。私たちが今祈っている言葉では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。この祈りにおいて私たちは、自分の罪を赦してください、と日々神に祈り求めています。つまり自分には神に赦していただかなければならない罪があることを日々意識しているのです。そしてそれだけでなく、神に罪を赦していただくことは、自分に罪を犯している者を赦すことと切り離すことができない、ということもこの祈りによって示されています。そして本日の箇所の直前の14、15節には、そのことがもう一度畳み掛けるように繰り返されていました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。これは決して、私たちが人の自分に対する罪を赦したら、そのことと交換条件で神も私たちの罪を赦してくれる、ということではありません。そんな神との取引きのようなことを言っているのではなくて、私たちは、自分に罪を犯した人を赦そうと真剣に努力していく時にこそ、自分の罪を神が赦して下さるとはどういうことなのかが分かっていくのだ、ということでしょう。主の祈りを真剣に祈るとは、人の罪を赦そうと真剣に努力することなのです。それによって私たちは、罪を赦すことがいかに難しいことであるかを知ります。自分は人を赦すことができない者であることがそこではっきりと見えてくるのです。人を赦そうとはしないくせに、神には赦してもらおうとする、そういう身勝手で我儘な者であることを思い知らされるのです。そのことを私たちは嘆き悲しまずにはおれません。断食の意味である、自らの罪を嘆き悲しむことは、主の祈りを真剣に祈っていくところに必然的に起ってくるのです。それを断食という形で表わすかどうかはともかく、自分の罪への嘆き悲しみは、主の祈りを祈っている私たち皆に共通する思いなのです。

断食が偽善に陥る
 断食はこのように本来、自分の罪を神の前で嘆き悲しむ悔い改めの思いの表れでした。ところがその断食が偽善に陥ることを主イエスはここで見つめておられます。それは断食が、神への謙遜の印として、施しや祈りと並ぶ立派な信仰の行為と見なされるようになったことによって起ってきたことです。そうなると、それを「見てもらおうとして、人の前で」することが生じます。断食をしていることを、いかにもそれらしい姿で人に見せようとする、そのために「顔を見苦しくする」ということが始まったのです。そうなってしまったら、それはもう自分の罪を悲しみ嘆いていることにはならない、自分の断食を誇ろうとしているだけだ、ということは私たちにもわかります。人間の心というのは複雑なもので、自分がいかに謙遜に自分の罪を嘆いているか、ということを誇るという、謙遜を装った傲慢に陥るのです。

彼らは既に報いを受けている
 主イエスはそういうことに対して、「そんなのは本当の断食ではない」とか「それは謙遜ではなくて傲慢だ」という言い方はしておられません。主が言われたのは一言、「彼らは既に報いを受けている」ということです。施しについての教えにおいても、祈りについての教えにおいても同じことが語られていました。それは、人に見せようとして、人からの評価を求めて断食をしている者は、「あの人は熱心に断食をしている信仰深い人だ」と人に誉められることでもう報いを受けてしまっている、それ以上の、神からの報い、神が彼の悔い改めを受け止めて罪を赦して下さることは求めていない、彼にとっては、人からの報いが全てになっている、ということです。つまりその人の断食は神の前での断食になっていないのです。私たちは、断食していることを人に見せびらかすなんていやらしい、と思います。しかし主イエスが問題にしておられるのはそういうことではありません。問題なのは、その断食が本当に神の前で、神に心を向けてなされているかどうかなのです。

人に気づかれないように
 人に見せるために断食するのでは意味がありません。しかし主イエスは、だから「そんな断食はやめてしまいなさい」とはおっしゃいませんでした。そうではなくて「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」とおっしゃったのです。顔を見苦しくして、断食していることを人に見せのでなく、むしろきれいに身づくろいをしなさいということです。「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とあります。身づくろいをするのは、断食していることを人に気づかれないためです。ということは、全てのことにおいて、普段通りの、つまり食事をきちんととっている時と同じ生活をし、同じように人と接しなさいということです。本当はお腹がすいてたまらない、という状態であっても、普段通り元気に、明るく生活しなさいというのです。別の言い方をすれば、断食などしていないふりをしなさい、ということです。それは施しについての教えにおいて、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と言われていたこと、また祈る時には「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」るように教えられていたことと同じです。人に知られないように、ただ神のみが見ておられるところでしなさい、ということです。そうすることによって、私たちのする善い行いは偽善から解放されるのです。人に見せるための行いではなく、神のまなざしのみを見つめた行いになるのです。人からの報いではなく、隠れたことを見ておられる父なる神の報いをこそ求めるものとなるのです。

喜び、祝いつつ
 このように主イエスは、私たちのなす善い行いつまり義が、人の目を意識するのではなくて、神のまなざしの前でなされることによって、偽善から解放されて、神に愛され子とされているからこそできる、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義となるために、この第6章の教えを語って下さっているのです。その意味で、この断食についての教えは、これまで読んできた施しや祈りについての教えと同じことを語っています。しかしこの断食についての教えには、さらに深い意味が込められているように思います。そのことは17節の、「あなたは断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という主イエスのお言葉から分かるのです。このお言葉が語っているのは、単に、自分が断食していることを人に分からないようにしなさい、ということではありません。「頭に油をつけ、顔を洗う」というのは、普段通りの生活をする、ということではなくて、むしろ祭を喜び祝う身づくろいを意味しているのです。断食していることを隠すだけではなくて、むしろ喜び、祝いつつ歩むことを主イエスは求めておられるのです。このことは、この後の9章14節以下に語られていることと繋がります。そこには、ある人々が主イエスに「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねたことが語られています。主イエスの弟子たちは断食をしていなかったのです。この問いに対して主イエスはこうお答えになりました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。つまり、主イエスの弟子たちが断食をしていなかったのは、花婿が共にいる婚礼の祝いの時を生きていたからなのです。その花婿とは勿論主イエスです。この世に来て下さった神の独り子である主イエスに従い、主イエスと共に歩んでいる弟子たちは、婚礼の喜び、祝いの時を生きているのであって、そこには、悲しみと嘆きの印である断食は相応しくないのです。このことを併せて読むことによって、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という主イエスのお言葉には、喜びと祝いに生きよという意味が込められていることが見えてきます。主イエスは、あなたがたは悲しみ嘆くのではなくて、喜び祝いつつ歩みなさい、と言っておられるのです。

罪を嘆き悲しみつつ、喜びと祝いに生きる
 しかし勿論私たちは、自分の罪を嘆き悲しまざるを得ない者です。主の祈りを真剣に祈りつつ生きようとするなら、いやおうなく、人の罪を赦せないのに自分の罪は赦してもらおうとする身勝手な自分を見出さざるを得ないのです。そのことを嘆き悲しんでいるのが私たちの現実です。その私たちに、主イエスは、喜び、祝いつつ生きよとお命じになっているのです。それは、自分の罪を嘆き悲しむことなどしなくてよい、ということではありません。しかし、自分の、そして人々の罪を嘆き悲しんでいる私たちのところに、神の独り子主イエス・キリストが来て下さったのです。主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。独り子主イエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さり、主イエスと共に神の子として下さる神の救いが実現したのです。その救いのしるしとして主イエスは、「天にまします我らの父よ」と呼びかける「主の祈り」を与えて下さったのです。私たちが主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされ、主イエスに従う弟子、信仰者として、主の祈りを祈りつつ生きていくということは、主イエスの十字架の死によって罪を赦され、神の子とされた喜びと祝いの中を生きていく、ということなのです。だからといって私たちの罪が無くなってしまうわけではありません。自分の、また人々の罪のゆえの嘆き悲しみは相変わらずあります。いや、主イエスが私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さったことを知ることによって私たちは、自分の罪の深さ、深刻さをよりはっきりと示されるのです。神の独り子主イエスが十字架にかかって死ななければ赦されないほどに自分の罪は深かったのだ、という事実に愕然とするのです。その嘆き悲しみは消えることはありません。しかし、自分の、また人々の罪のゆえに私たちが抱く嘆き悲しみは、主イエス・キリストの十字架によって実現した神による罪の赦し、私たちの天の父となって下さった神の救いの恵みによって包み込まれているのです。それゆえに私たちは、自分の罪を見つめて嘆き悲しみつつ、しかしそのことによって暗く陰気な生き方をするのではなくて、主イエス・キリストによって神が与えて下さった罪の赦しの恵みに感謝して、主イエスが共にいて下さることを喜び祝いつつ生きていくのです。「断食をするとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という主イエスのお言葉には、そういう深い意味が込められているのだと思います。

 「山上の説教」において主イエスのみ言葉を聞き、主の祈りを祈りつつ歩む私たちは、自らの深い罪を示され、嘆き悲しまずにはおれません。しかしそれと同時に、天の父なる神が、その独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さり、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して、神の子として下さっていることをも示されるのです。それゆえに私たちは、自らの罪を嘆き悲しみ悔い改めつつ、しかしそれ以上に、主イエスによって与えられている救いを喜び、祝いつつ生きていくのです。

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