「復讐からの解放」 牧師 藤掛順一
レビ記 第24章17~22節
マタイによる福音書 第5章38~42節
律法を完成する主イエス
主イエスがお語りになったいわゆる「山上の説教」を読み進めていますが、第5章の後半には、主イエスが旧約聖書の律法の教えを一つひとつ取り上げて、「しかし、わたしは言っておく」という仕方で、主イエス独自の教えを語っておられる部分です。独自の教えと言っても、主イエスは、律法を否定したり、廃棄しようとしておられるのではありません。17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われていたように、主イエスは律法の教えを完成しようとしておられるのです。
目には目を、歯には歯を
本日の箇所で取り上げられているのは「目には目を、歯には歯を」という律法です。この教えは本日共に読まれたレビ記24章17節以下にあります。特にその19、20節です。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。「同態復讐法」と呼ばれるこの掟は、今日の感覚からすると、ずいぶん残酷で野蛮な教えに感じられます。しかしこの律法の教えが語っているのは、私的な恨みで復讐をしてはならない、ということです。人から何か損害を受けた時に、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐していったならば、その復讐は決して「目には目、歯には歯」で止まることはないでしょう。目をつぶされた者は相手の命を奪おうとする、歯を折られた者は相手の腕の一本も折ろうとする、それが人間の復讐の思いです。そしてそういう復讐を受けた者は逆にさらなる復讐をもって返していくことになります。子供の喧嘩によくあるように、一発ぶたれたら二発ぶち返す、すると相手は三発ぶち返す、そういうふうに復讐が復讐を生んでエスカレートしていくのです。それは人間の本性に根ざすことだと言わなければならないでしょう。なぜそうなるかというと、私たちは、自分が人から受けた苦しみや損害にはまことに敏感であり、それを大きく感じるのに対して、自分が人に与えた苦しみや損害にはまことに鈍感であり、小さくしか感じないからです。だから、苦しみを受けた者が自分の感覚に基づいて復讐をしていったら、復讐は際限なくどこまでもエスカレートしていくのです。「目には目を、歯には歯を」という掟は、そういう私的な恨みによる復讐を禁じて、裁判において傷害の程度を認定して、それと同じだけの復讐で良しとしなさい、それ以上のことをしてはならない、ということです。ほうっておけばどこまでも膨れ上がっていく私的な復讐を、律法の与える秩序の下にコントロールしようとしているのです。「目には目を、歯には歯を」という表現は野蛮な印象を受けますが、実はこの律法は、残酷で野蛮な復讐をやめさせて、人間どうしの間に起こる憎しみによる傷つけ合いをある秩序の下に置こうとしているのです。
右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい
主イエスはこの律法に対して、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって本日の教えを語られました。主イエスはどのようにこの律法を完成させようとしておられるのでしょうか。
主イエスが先ず言われたのは「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということでした。右の頬を打って自分を苦しめる悪人に、手向い、対抗するのではなくて、むしろ左の頬をも向けて打たせなさい、とおっしゃったのです。これは主イエスを代表する教えとしてよく知られており、ここから、主イエスは無抵抗、非暴力の教えを語られた、と思われています。しかしこの教えは単に、悪人の暴力に対して暴力で対抗することを禁じている、というだけのことではありません。相手の右の頬を打つ、という場面を想像して見たいのですが、右利きの人が目の前の相手の頬を普通に打ったら、相手の左の頬を打つことになります。右の頬を打つためには、左手で打つか、それとも右手の掌ではなくて甲で払うように打たなければならないのです。手の甲で払うように打つ、という打ち方は、ユダヤ人たちの間で、侮辱的な、軽蔑を込めた打ち方であると考えられていたようです。つまり主イエスがここで見つめておられるのは、喧嘩の中での殴り合いではないようです。「だれかがあなたの右の頬を打つ」というのは、人から侮辱を受ける、ということなのです。人間としての尊厳を否定されるような打ち方をされるのです。それは単に喧嘩して殴られるよりもよほど深い傷を心に受けることだと言わなければならないでしょう。そのような苦しみ、侮辱、屈辱を人から受けた時にどうするか、ということを主イエスは問題としておられ、そこにおいて、「もう片方の頬をも向けよ」と言っておられるのです。それは、侮辱、屈辱を黙って受け、それに対抗して身を守ったり、抗議したり、復讐をするなということです。「目には目を、歯には歯を」という律法は、復讐の思いをコントロールするための教えでしたが、主イエスはそれを、一切復讐をするな、という仕方で完成させようとしておられるのです。
下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい
次の40節には、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とあります。「訴えて下着を取る」というのは、借金の差し押さえとして下着を没収しようとする、ということです。お金を借りている人が返せないと、貸した人が、返せないならこれをよこせと要求するのです。つまりこれは強盗に襲われるという話ではありません。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」がいるということは、その「あなた」は下着を取ろうとする人からお金を借りているのです。しかも「下着を」という言葉は、借りている「あなた」がとても貧しいことを示しています。その日暮らしの貧しい「あなた」が、僅かな金を借りて、返せないので下着を抵当に取られようとしているのです。主イエスはその「あなた」に「上着をも取らせなさい」と言っておられます。出エジプト記22章25、26節に、「上着を質に取る」ことについての掟がありますので、そこを読んでみます。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。ここに語られているのは、上着というのは貧しい人にとって寝具ともなるものだから、質に取っても日没までには返さなければいけない、ということです。つまり、どんなに貧しくて借金が返せない人であっても、夜を過ごすための上着まで取り上げてはならない、上着はその人が生きるための最低限の権利として奪われてはならない、律法はそのように定めているのです。ところが主イエスは、「下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい」とおっしゃいました。それは、貧しい人に認められている最低限の権利さえも放棄せよ、ということです。お金を貸している豊かな人が、貧しい「あなた」を苦しめ、僅かに残されたものすらも奪い取ろうとしている、その相手に、抵抗するな、要求されたものを差し出せ、と言っておられるのです。主イエスは弱い者、貧しい人の味方だと一般的に考えられていますが、果たして本当だろうか、と首をかしげざるを得ないようなことがここには語られているのです。
一緒に二ミリオン行きなさい
41節には「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」とあります。ミリオンは距離の単位で、聖書の後ろの付録の中の表を見ると、一ミリオンは1480メートルに当るとあります。その距離を行くことを強いる「誰か」とは、官憲、国家権力です。国家権力が、人やその所有物である家畜に、物を運ぶなどの労働を強いるのです。こういうのを「徴用」と言います。現在の私たちの生活には幸いにしてこういうことはありませんが、しかしいわゆる「徴兵制」はこれと同じことだと言えますし、戦時中には、国が朝鮮半島の人々を徴用して日本の工場や炭鉱などで働かせた、という事実がありました。また今そしてこれからの問題としては、有事の際に国が国民の権利を制限することができる、という法律が出来つつあります。「一ミリオン行くように強いられる」ことがそのような形で再び次第に現実味を帯びつつあるのです。そういう事態を見つめつつ主イエスは、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と言われました。強制された倍の働きをしなさい、というのです。つまり、徴用されても、そのことに不満や怒りを抱いて抵抗するのではなくて、むしろ進んで協力して、命じられた以上の奉仕をせよ、とおっしゃったのです。
最後の42節には「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」とあります。自分のものを欲しがる人には何でも与え、金を貸してくれという申し出を断ってはならない、と主イエスは言われたのです。
苦しめる相手を愛せ
「目には目を、歯には歯を」という律法を主イエスはこのように完成しようとしておられます。律法は、目には目、歯には歯でやめておけ、それ以上の復讐をしてはならない、と言っていたわけですが、主イエスは、一切復讐をするな、と言われたのです。悪人によって苦しめられても、しかも、人格を否定されるような侮辱、屈辱を与えられても、また豊かな者の横暴によって貧しい者が虐げられても、さらに権力者によって労働や奉仕を強要されても、それらのいろいろな苦しみを、抵抗せずに全て受け入れなさい、仕返しをしてはならない、とおっしゃったのです。いや、ただ抵抗するな、仕返しをするなというだけではありません。「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」「借りようとする者に、背を向けてはならない」ということに示されているのは、自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。苦しみを受け入れて忍耐するだけでなく、苦しめている相手を愛して、その相手に仕えることを主イエスは求めておられるのです。このことは、次の43節以下の、「敵を愛しなさい」という教えにつながっていきます。本日の、「復讐をするな」が消極的な仕方で語っていることを、「敵を愛しなさい」は積極的な仕方で語っているのです。
憎しみや復讐からの解放を見つめている主イエス
これらの教えによって主イエスは私たちに、深い問いを投げかけておられます。それは、人から苦しめられた時、いじめられたり、侮辱されたり、権利を奪われて理不尽な要求をされた時に、そのことをどう受け止め、相手に対して何を思い、どうするか、という問いです。「目には目を、歯には歯を」という律法の教えは、私たち人間がその問いかけに対して出すことができるおそらく最も良い結論です。つまり、自分を苦しめる相手に、憎しみに任せて復讐するのではなくて、裁判に訴えて、受けた損害や苦しみを客観的に判定してもらって、それと同等の損害、苦しみを相手に与えることで良しとしよう、ということです。人間どうしの間に生じた対立、トラブルをそのように解決して、争いや対立がいつまでも続かないようにするのです。それは今も通用している考え方で、今は「受けた損害」をお金に換算して、「賠償金」を払う、という形で紛争の解決がなされているのです。
しかし主イエスは、律法の教えよりももっと深いところを見つめておられます。主イエスは、憎しみや復讐の思いの根本にメスを入れようとしておられるのです。そして、憎しみや復讐の思いから私たちを解放して、その相手をも愛する者としようとしておられるのです。そのために主イエスは、憎しみや復讐の思いから解放されて、自分を苦しめる人をも愛する人の姿をここに示しておられるのです。
主イエスが見つめているもう一つの現実
主イエスがここで語っておられることは、この世の現実においては、とんでもないことです。これらのことを全てこの通りにこの世の中で実行したらどうなるでしょうか。抵抗する者がいなくなって悪人は大喜びするでしょう。豊かな者、強い者が貧しい者、弱い者を苦しめても誰も文句を言わなくなります。国家権力が、徴兵制をはじめとして、国民に何を強制しても、抵抗する者はいなくなります。それがこの世界の現実です。そういう現実を無視して語られたのだとしたら、それははなはだ無責任な教えです。しかし、主イエスは、この世界の現実から目を逸らして単なる理想や夢を語られたのではありません。主イエスが見つめておられるもう一つの現実があるのです。それは、「天の国は近づいた」という現実です。4章17節以来、主イエスはこのことを宣べ伝えて来られました。天の国、それは神のご支配です。神のご支配が、この世の現実の中に、今や打ち立てられようとしているのです。そのことを見つめつつ主イエスはこの教えを語っておられるのです。
天の国を実現して下さった主イエス
天の国、神のご支配はどのようにしてこの世に実現するのでしょうか。それは、主イエス・キリストのみ言葉とみ業、そして何よりもその十字架の死と復活によってです。主イエスは神の国を打ち立てるために、ここでお語りになったことをその通りに実行されたのです。悪人に手向かうことをせず、ご自分を侮辱し苦しめる者たちに抵抗することなく、その侮辱と苦しみを全て受け入れて十字架の死へと歩まれました。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けた」のは他ならぬ主イエスご自身だったのです。神の独り子であられた主イエスが、神としての権利や力をすべて放棄して、人間となり、しかも最も貧しく弱い者として生き、最後には罪人として死刑に処せられる、そういう道を歩まれたのです。それは、下着を取ろうとする者に上着をも取らせる歩みでした。一ミリオン行くように強いられた主イエスは、私たちの救いのために、十字架の死に至るまでの道を、進んで二ミリオン行って下さったのです。これらの主イエスのみ業、ご生涯によって、天の国、神のご支配がこの世に打ち立てられたのです。つまり、主イエスがここで語っておられる、憎しみや復讐の思いから解放されて、自分を苦しめる人をも愛する人の姿とは、主イエスご自身のことです。主イエスはご自分がこのように歩むことによって、侮辱や苦しみを引き受け、自らの当然の権利をも放棄して、罪人の救いのために十字架の苦しみを背負っていく、そういう徹底的な愛による神のご支配を打ち立てて下さったのです。
目に見えない神を信じる
一切の復讐を禁じているこの主イエスの教えは、このように、主イエスが十字架の死と復活によって確立して下さった天の国、神のご支配の中で語られています。憎しみや復讐の思いからの解放は、主イエスによってもたらされる天の国、神のご支配の中でこそ実現するのです。主イエスがこの世に来て下さり、十字架と復活による救いを成し遂げて下さったことによって、その天の国、神のご支配は既にこの世にもたらされています。けれどもそのご支配は、今はまだ、目に見える仕方で実現してはいません。私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して生きておられる主イエスは、今私たちの前に目に見える姿ではおられません。私たちに今働いて下さっているのは、天に昇られた主イエスと父なる神のもとから遣わされた聖霊です。聖霊の働きによって私たちは、目に見えない主イエスを信じ、主イエスが実現して下さった神のご支配を信じて歩むのです。信仰とはそのように、目に見えない神を信じて、目に見えないそのご支配の下で忍耐して生きることです。しかし神のご支配はいつまでも見えないままなのではありません。天に昇られた主イエスが、そこからもう一度この世に来られる日が来るのです。その時、天の国、神のご支配が目に見える仕方で完成するのです。私たちはその日を待ち望みつつ、見えない神の隠されたご支配を信じて生きているのです。
「すでに」と「いまだ」
つまり私たちの信仰の歩みには、「すでに」と「いまだ」という両面があります。神のご支配は主イエスによって「すでに」実現しているが、それは「いまだ」隠されているのです。この二つの面をしっかり見つめることが、信仰に生きるために大切です。一切の復讐を禁じている主イエスの教えは、主イエスによってすでに実現している神のご支配によって私たちに与えられる、憎しみや復讐から解放された姿です。それを、いまだそのご支配が隠されているこの世の現実の中にそのまま持ち込もうとすると、先程申しましたように、この世の現実に対して無責任なことになります。ですから私たちはこの世の社会においては、悪人の悪を抑制し、その犠牲になる人ができるだけ少なくなるようにしなければなりません。そのためには警察が必要だし、裁判の制度も必要です。「悪人に手向かってはならない」というみ言葉をそこでそのまま適用するわけにはいきません。また、強い者が弱い者を苦しめ、搾取しているこの世の現実の中では、弱い者の権利を守っていかなければなりません。下着を取られそうな者が上着をも取られないようにしなければならないのです。つまり、主イエスによる神のご支配がいまだ隠されてるこの世界においては、「目には目を、歯には歯を」という律法はなお大切な働きをしています。しかし私たちは同時に、主イエス・キリストによる神のご支配の下にすでに生かされています。主イエスが私たちのために、神の子としての権利を捨てて人となり、苦しみや侮辱を進んで引き受け、十字架の死に至る道を歩んで下さったのです。その救いにあずかった私たちは、主イエスご自身が示して下さった、復讐や憎しみから解放された者としての新しい歩みを、この人生の中で生き始めるのです。主イエスはその私たちの歩みを支え、導いて下さるのです。