主日礼拝

インマヌエル

「インマヌエル」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章18-25節
・ 讃美歌:

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18節以下も系図の続き
 10月から、主日礼拝においてマタイによる福音書を読み始めました。その初めのところ、つまり新約聖書の冒頭に記されているのは、主イエス・キリストの系図です。この系図について二週にわたって説教をしました。マタイ福音書の冒頭に、つまり新約聖書の冒頭にこの系図があることには大きな意味があること、またこの系図にはいろいろなメッセージが込められていて、よく読むととても面白いものだということを確認することができたと思います。とは言え、ここには人の名前ばかりがずらずらと並べられているわけで、退屈に感じることも確かです。だから最初の説教において、この系図は、聖書を読もうと一念発起して頁を開いた人が最初に体験する試練だ、と申しました。そして、これくらいの試練に負けてはならない、系図はせいぜい17節までで、18節からは、イエス・キリストの誕生の物語が始まるのだ、とも申しました。本日からようやく、その誕生の物語に入ることができるわけです。
 しかし実を申しますと、本日の18?25節は、系図の続きです。そう言うとびっくりするかもしれません。いやここからは主イエスの誕生の物語が始まっていて、17節までの名前の羅列とは違う、と思うでしょう。それは確かにその通りです。しかし、18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」とあります。その「誕生」という言葉は、1節の「イエス・キリストの系図」の「系図」と実は同じ言葉なのです。この言葉は「誕生」とか「始まり」という意味です。旧約聖書の最初の書である「創世記」のことを英語で「ジェネシス」と言いますが、それがまさにこの「誕生、始まり」という言葉です。創世記は主なる神のみ業によってこの世界が誕生し、始まったことを語っています。マタイ福音書の最初のところも、主イエス・キリストの誕生によって神の救いのみ業が始まったことを語っているのです。そしてマタイは、その救いのみ業は実はアブラハムから始まっていたのだと言っているのです。アブラハムに与えられた主なる神の祝福の約束が、その子孫たちへと継承されていって、そしてイエス・キリストの誕生によってついにその約束の成就、実現が始まったのです。つまりあの系図全体が、主イエス・キリストによる神の救いのみ業の始まりを語っているのです。つまりあの系図は、主イエスの後にも続いていくことを想定してはいません。主イエスの誕生によって完結しているのです。その系図の最後を飾るイエス・キリストの誕生の次第を語っているのが18節以下です。つまり18節以下も系図の続きであると言うこともできますけれども、逆に1?17節も実は、イエス・キリストの誕生の話の一部だった、と言うこともできるのです。いずれにせよ、17節までは系図で18節からはイエス・キリストの誕生の物語、と分けることはできないのです。

深刻な出来事
 このことの意味について後でもう一度触れたいと思いますが、先ずは本日の箇所に語られているイエス・キリストの誕生の次第を見ていきましょう。ここはクリスマスのシーズンによく読まれる箇所ですから、季節的にちょっと違和感があるかもしれません。しかしクリスマスまでもう二ヶ月を切っているわけですから、少し先取りしてこの箇所を読み、クリスマスに備えるのもいいだろうと思います。18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。使徒信条において私たちが毎週告白している「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」という、いわゆる聖霊による処女降誕の奇跡がここに語られているわけです。ルカによる福音書はこのことを母マリアの視点から語っていて、マリアに天使が現れていわゆる受胎告知をするわけですが、マタイ福音書は、マリアの夫ヨセフの視点で語られています。淡々と書かれていますが、ヨセフにとってこれはとても深刻な出来事でした。彼は、婚約者マリアが、自分によってではなく妊娠したことを知らされたのです。それは婚約者マリアへの信頼を失わせる出来事です。二人でこれから家庭を築いていく前提となる信頼が決定的に損なわれ、まだ歩み出してもいない家庭がもう崩壊の危機に陥ったのです。マリア自身は、ヨセフを裏切るようなことはしていません。他の男と関係を持ったりはしていないのです。でも妊娠して次第におなかが大きくなっていくという事実の前では、どんな説明も通用しません。ヨセフに納得してもらうこともできないし、世間にも認めてもらえません。「ふしだらな女」と非難されることを避けることができないのです。これは想像ですが、おそらくヨセフは、マリアが「私は過ちを犯しました、どうぞ赦して下さい」と謝ったら、全てを赦して彼女を迎え入れる気持ちがあったのではないかと思います。しかしマリアは、自分を偽って謝ることはできません。していないことはしていないのです。でもヨセフは、マリアに裏切られたという思いをぬぐい去ることができない。こうして二人の関係は崩れ去ろうとしていたのです。

正しい人ヨセフ
 それでヨセフは決心します。19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。「正しい人」であるヨセフは、マリアへの疑いを持ったままで夫婦となることはできずに、縁を切ろうとしたのです。彼が「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」というところに、彼の精一杯の優しさが見て取れます。当時の掟においては、婚約をしている女が他の男と関係を持つことは姦淫の罪であり、それを表沙汰にしたら、マリアは死刑になってしまうかもしれないのです。それをせずに、密かに婚約を解消するというのは、そうすれば、マリアが子供を生んでも少なくとも姦通の罪に問われることはなくなるからです。つまりヨセフが「正しい人であった」というのは、ただ間違ったことを嫌い、正義を貫こうとしていたというのではなく、優しさや思いやりを持っていた、ということなのです。先ほど、マリアが謝ったらヨセフは赦して妻として迎え入れる気持ちがあったのだろうと想像する、と申しましたことの根拠はここにあります。しかしそのヨセフの正しさ、優しさ、心の広さをもってしても、表沙汰にせず密かに縁を切ることが精一杯だったのです。

主のみ言葉
 20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。「このように考えていると」という言葉に、彼がマリアとのことで深く苦しみ、悩んでいたことが示されていると思います。そのように苦しんでいた彼のもとに、主の天使が夢に現れて語りかけたのです。天使は彼に、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。そして、マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだと告げ、生まれてくる子をイエスと名付けなさいと命じたのです。つまり主なる神は、マリアはあなたを裏切ったのではなくて聖霊によって身ごもったのだ、だから安心して彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子どもにイエスと名づけなさい、とお命じになったのです。イエスという名前は「神は救い」という意味です。だから「この子は自分の民を罪から救うからである」と語られているのです。マリアが生む子は、神の民を救う救い主となる、救い主に相応しいイエスという名前をあなたがその子につけなさい、と主はヨセフに命じたのです。
 子どもに名前をつけるというのは、自分の子であると認める、今の言葉で言えば認知するということです。ですから主なる神が彼に求めたのは、マリアを妻として迎え入れるだけでなく、自分のあずかり知らないところでマリアが身ごもった子どもを、自分の子として受け入れ、その父となることです。父となるということは、その子を守り育てるための責任を負うことです。現にこの後彼は、幼な子イエスを守るために、家族を連れてエジプトにまで逃げていかなければならなくなりました。そのような苦労の全てを引き受けることを、主なる神はヨセフに求めたのです。

ヨセフの信仰の決断
 この主なる神の言葉を聞いたヨセフはどうしたでしょうか。彼は、私にはそんなことをする義務も責任もありません、と言って断ることもできました。マリアの妊娠は、彼の全くあずかり知らないところで起ったことです。彼がそのために苦労しなければならない謂れは全くないのです。自分によらずに妊娠したマリアとの婚約を解消したからといって後ろめたいことは何もありません。世間の人々に同情されることはあっても、批判されることはないのです。しかし24、5節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」。つまりヨセフは主なる神のみ言葉の通りにしたのです。マリアは聖霊によって身ごもった、それは常識的にはあり得ないことです。それを証明できる証拠など何もありません。しかし彼は主なる神のお言葉を信じて、マリアを信頼して、妻として迎え入れたのです。そして彼女が身ごもっている子を無事出産できるように心を配ったのです。「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」というのはそういうことを意味しています。そして生まれた子に、主のお言葉の通りにイエスと名づけたのです。このヨセフの、主のみ言葉を信じて、それに従う決断と行動のおかげで、主イエス・キリストは、無事にこの世に生まれてくることができたし、イエスという名をもって成長していくことができたのです。

系図が繋がった
 ヨセフが主のみ言葉を信じてそれに従った、その信仰の決断と行動によって、主イエスは無事に生まれて来ることができたし、父親のない私生児にならずにすんだわけですが、このことにはさらに大きな意味があります。このヨセフの信仰の決断と行動によって、あのアブラハムから始まりダビデを経てイエス・キリストに至る系図が繋がったのです。あの系図の最後のところは、16節の「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっていました。つまりこの系図は、アブラハムからダビデを経て、マリアの夫ヨセフに至る系図なのです。しかし主イエス・キリストは、本日の箇所にも語られており、「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」と使徒信条にもあるように、マリアが、ヨセフによらずに、聖霊によって身ごもって生んだ子です。そうであるならば、この系図は、血のつながりにおいてはヨセフで途切れており、主イエスにつながっていないわけです。見てきたようにこの系図にはところどころに、例えば「ボアズはルツによってオベドを」のように、母親の名前が記されていました。それと同じように「ヨセフはマリアによってイエスを」と言えるのかというと、それはできません。ヨセフはそういう意味でイエスの父ではないのです。主イエスはヨセフによってではなく、聖霊によって生まれたのです。だったら、ヨセフに至るこの系図を「イエス・キリストの系図」と呼ぶのはおかしい、ということになります。この系図を読んでそういう疑問を持った方もおられるのではないでしょうか。しかしマタイ福音書は、これが「イエス・キリストの系図」であると言っています。そう言うことができるのは、ヨセフが、主のみ言葉に従ってマリアを妻として迎え入れ、マリアの生んだ子を自分の子として受け入れ、その父となったからです。彼のこの信仰の決断によってこそ、この系図は主イエス・キリストに繋がったのです。本日の箇所はその事情を語っています。本日の箇所に語られていることによってこそ、あの系図は主イエス・キリストの系図となったのです。本日の箇所も系図の続きだと言ったのはそのためです。主イエス・キリストが、「アブラハムの子でありダビデの子」として、つまりアブラハムから始まり、ダビデ王を経て受け継がれてきた神の祝福の約束を実現する救い主としてお生まれになったことは、このヨセフの信仰の決断によってこそ実現したのです。またそれによって、救い主メシアはダビデ王の子孫として生まれる、という旧約聖書の預言も成就したのです。

神の驚くべき恵み
 これは驚くべきことです。主イエス・キリストは、神の独り子であられ、まことの神であられます。父なる神は、ご自分の独り子を、弱く貧しい一人の赤ん坊としてこの世に遣わして下さることによって、私たち罪人の救いのみ業を実現して下さったのです。それが主イエスの誕生、クリスマスの出来事の意味であることを、私たちは聖書を通して教えられています。それだけでも十分に驚くべきことです。しかしマタイ福音書が語ってるイエス・キリストの誕生の次第をよく読むならば、神がして下さったことがさらに大きな、驚くべきことだったことが分かるのです。父なる神はご自分の独り子を、聖霊によってマリアの胎内に宿らせました。そのことによって神は、その独り子の運命を、ヨセフという一人の男の信仰の決断にお委ねになったのです。つまりその子が無事に生まれ、生き延びることができるか否か、ダビデの子孫として生まれるメシア、救い主として、イエスという名をもって生きていくことができるか否か、その全ては、ヨセフが、神のみ言葉を信じてそれに従い、自分によらずに妊娠した婚約者を妻として迎え入れ、その子を自分の子として受け入れ、育てていくための苦労を背負う、というヨセフの信仰の決断にかかっている、主なる神はご自分の独り子をそういう状況に置かれたのです。そこには、主なる神のヨセフに対する、つまりは私たち人間に対する、信頼と期待が示されています。しかしそれは言ってみれば博打のようなものです。大きなリスクを伴うことです。神は私たちを救って下さるために、大きなリスクを取って、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。ヨセフは、この神の信頼と期待に応えました。主なる神の言葉を信じて、他には何の証拠もなしにマリアを信じて受け入れ、マリアの生んだ子の父親になったのです。そのことに伴うあらゆる苦労を引き受けたのです。そんな義務も責任も全くないのにです。それは人間の思いでは馬鹿を見るようなこと、世間の人々からは、何というお人好しかとあざ笑われるようなことでした。ヨセフがそのように主のみ言葉を信じて従ったことによって、救い主イエス・キリストはこの世に誕生し、主イエスによる救いのみ業が実現していったのです。

インマヌエル
 またこのヨセフの決断によって、旧約聖書に語られていた救いの預言が実現したのだとマタイは語っています。その預言とは23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」です。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第7章14節です。インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味です。主なる神が共にいて下さる、そのことが、おとめマリアが主イエスを生むことによって、つまりヨセフの信仰の決断によって実現したのです。
 ここに、神が共にいて下さるとはどういうことなのかが示されています。神が共にいて下さるとは、なんとなく一緒にいて支えて下さっているということではありません。主なる神は、ご自分の独り子の運命をヨセフの信仰の決断に委ねられた、そのようにして私たちと共におられるのです。天使のお告げによってヨセフは、共におられる神の語りかけを聞いたのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたがマリアを受け入れてくれなければ、聖霊によって宿ったこの子は生きていくことができないし、救い主としての業を行うことはできない、だからこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父になって欲しい。そのための苦しみを引き受けて欲しい」、そのように神が語りかけておられるみ声を聞いたのです。ご自分の独り子の運命を、この自分に委ねておられる、神がそのようにして自分と共におられることを彼は知ったのです。インマヌエルとはそういうことです。「神は我々と共におられる」ということを、「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けて下さる」とだけ思っているうちは、インマヌエルは分からないのだと思います。神は、み言葉を信じてそれに従って生きるという私たちの信仰の決断を求め、期待し、待っておられるのです。その期待に応えてみ言葉を信じて生きていく時にこそ、神が共におられることが分かっていくのです。

神は我々と共におられる
 これまでに何度か、「足跡」という詩を紹介したことがあります。自分の人生の歩みを、海辺の砂の上の足跡として振り返る、そういう夢を見た、という詩です。最初のうちは、自分の足跡と、主イエスの足跡と、二組の足跡が並んでいる。ところがある所から足跡は一組になっている。しかもそれは自分の人生の危機の時だった。「主よ、あの危機の時にあなたはどうして共にいて下さらなかったのですか」と問いかけると、主イエスは、「いや、あそこから先は、私があなたを背負って歩いていたのだ」とお答えになる、という詩です。この詩は確かに、「神は我々と共におられる」というインマヌエルの恵みの一面をよく表しています。私たちは、自分の足で歩いているつもりでいても、実は共にいて下さる主イエスに背負われている、神の力に支えられているということが多々あるのです。しかし、このことだけでは、インマヌエルの恵みの一面しか捉えることができていないと言わなければならないでしょう。神は時として私たちに、自分を背負ってくれとおっしゃるのです。あなたが背負ってくれなければ、この先一歩も進むことができない、重いだろうけれども、つらいだろうけれども、私を背負って歩いて欲しい、とおっしゃるのです。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、それに応えて、幼子イエス・キリストとその母マリアを背負ったのです。そのことによって彼は、共にいて下さる神を知ることができた、インマヌエルの恵みを本当に味わうことができたのです。
 主イエス・キリストがこの世に一人の人間として生まれて下さったことによって、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みが実現しました。私たちがその恵みを本当に味わい知ることができるのは、それぞれが負っている様々な悩み苦しみの現実の中で、神のみ言葉を聞くことによってです。しかも神は私たちに、私の業の一端を担ってくれとおっしゃるのです。私のために重荷を負ってくれとおっしゃるのです。私たちの信仰の決断と行動に、ご自身を委ねて下さるのです。そのみ言葉に応えて、主を信じ主に従って歩み出していく時に、インマヌエル、神が共にいて下さるという恵みが本当に私たちの現実となっていくのです。

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