「主の晩餐」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章22-26節
・ 讃美歌 ; 304、76
過越の食事
主イエスと弟子たちはエルサレムで、過越祭のための準備を整え、過越の食事をしています。この食事はユダヤ人が最も大切にしていた過越の祭の中で祝われるものです。この場において、主イエスは、ご自身の弟子の一人が裏切ることを予告しました。そして、実際に、食事の後、主イエスはユダの裏切りによって祭司長や律法学者に引き渡されることになるのです。この食事は所謂、最後の晩餐と言われているものです。十字架につけられる直前、主イエスは弟子たちと食事を共にしたのです。そもそも、過越の食事とは、イスラエルの民が主なる神によってエジプトから導き出され救われたことを記念するために守られるものです。出エジプトの際、主なる神がおっしゃった通りに、自分の家の門の鴨居と柱に犠牲に捧げた小羊の血を塗った家は、主が罰を下すことなく過越されたのです。それによってエジプトを脱出することが出来たのです。イスラエルの民は繰り返し、この食事を守ることによって、主の救いの御業を思い起こし、心に刻んだのです。
この過越の食事は、宗教的な行事ですから普通の食事とは異なります。食べる物や、方法が決められていたのです。主イエスはその方法に則って食事を進めていました。ここで、「賛美の祈り」、とか「感謝の祈り」と言われているのは、そのような儀式の一つなのです。しかし、聖書は、過越しの食事のすべてを記している訳ではありません。過越の食事において、最も重要なのは、本来は、犠牲として捧げられる小羊です。しかし、聖書は、小羊については記しません。パンやぶどう酒を手に取られた時の主イエスの姿に注目するのです。この食事においては、小羊以外にも、酵母を入れないパンを食べました。パンやぶどう酒は、小羊が過越の食事のメインであるのに対して付随的なものです。しかし、主イエスと弟子たちが守った食事においては、パンとぶどう酒にこそ大きな意味があったのです。
新しい過越
主イエスは、この時、ただ主なる神の過越しを覚えたのではありません。主イエスは、ここで過越の食事に新たな意味をもたせているのです。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これはわたしの体である』」とあります。主イエスは規定に従って賛美の祈りを唱え、パンを割き、弟子たちにお配りになったのです。しかし、ここで主イエスは、全く規定通りに行っているのではありません。「取りなさい、これはわたしの体である」とおっしゃったのです。更に、杯を取り、規定通り感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡します。弟子たちはその杯から飲むのです。その時も主イエスは、規定にない言葉を加えて、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と仰いました。つまり、主イエスは、過越の食事におけるパンとぶどう酒を、ご自身の肉と血として弟子たちに差し出されたのです。そのことによって、これから向かう十字架の死の意味を示しておられるのです。教会は、この最後の晩餐を繰り返し、聖餐という形で守って来ました。地上を歩む神の民、キリスト者の群れである教会は、繰り返し、この最後の晩餐を覚え、その食卓に与るのです。それは、主なる神の救いを覚えるということにおいては過越の食事と同じです。聖餐の意味を考える時、過越しの食事から考えなくてはなりません。それは、過越しの食事を受け継いでいるのです。しかし、それは過越の食事とは異なります。そこにははっきりと新しい意味が加わります。聖餐において教会は、出エジプトの出来事ではなく、主イエス・キリストの十字架の出来事を覚え、それに与るのです。
肉と血
主イエスはここで、御自身の体としてパンをお裂き、御自身の血としてぶどう酒を回します。主イエスがこれから向かわれる十字架で、肉を裂かれ、血を流すのは、食事に与る者たちの為であるということを示しておられるのです。ここで主イエスが一つのパンをお裂きになったということには大きな意味があります。そのことによって主イエスは、ご自身の体が、人々のために裂かれるということを示しておられるのです。十字架において、御自身が犠牲の小羊として身を裂くというのです。 更に、ここで、ぶどう酒が象徴している主イエスが十字架で流される血について、「契約の血」であると語られています。この「契約の血」とは何かを知るためには、主イエスの十字架が契約、救いの約束であることを知らなくてはなりません。イスラエル、神の民とは、神との契約に生きる群れです。イスラエル、神の民は、神と契約を結ぶことによって生まれました。神が神となって下さり、民が神の民であることを約束することによって誕生したのです。それが、モーセの出エジプトの後に結ばれたシナイ山での契約です。その時のことが出エジプト記の第24章に記されています。モーセによって十戒と契約の書が読まれ、民がそれに対して、「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行います」と答えます。その後、モーセは和解の捧げ物である雄牛をささげ、モーセは血の半分を祭壇に振りかけ、もう半分を民に振りかけます。そして「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と語ったのです。契約を結ぶ時、犠牲の動物を捧げ、その血を契約のしるしとしたのです。そこには契約を守ることに対する誠意が示されているのです。主イエスの血も、神と民との約束を示しているのです。
キリストによる新しい契約
イスラエル、神の民は、モーセの、犠牲の雄牛の血を用いた契約によって、誕生しました。ここで、主イエスの血も、シナイ契約とは別の新しい契約が結ばれたことを意味しているのです。聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、それは、旧い約束と新しい約束という意味です。新約聖書が記す主イエスの十字架は、神様が人間を救う新しい約束なのです。
神様と契約を結ぶことによって成立したイスラエルの民は、その契約に誠実に歩むことが出来ませんでした。絶えず、神さまの下を離れて歩んだのです。そのような民に対して、主なる神は、キリストによって新しい契約を結ばれたのです。この契約について記されているのが、本日お読みした旧約聖書、エレミヤ書の第31章です。ここで、預言者は、主なる神がご自身の民と新しい契約を結ぶ日が来ることを語っています。ここで、先ず出エジプトの後に結ばれた契約を民が破ったことが語られます。その上で、33節以下では「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と書かれています。新しい契約において、再び、神の民とされ、その時、もはや民の罪に目を留めることがないのだと言うのです。主なる神が、一人子である主イエスを遣わし、その主イエスが十字架で肉を裂き犠牲となることによって民の罪が赦され、再び神と民との関係が回復されたのです。そこに主なる神の救いの約束があるのです。しかも、旧い約束においては、モーセが犠牲の動物を捧げ、その約束を守るしるしとしたのに対し、新しい約束においては、神の子である主イエスがご自身の血によって、その契約を守る確かさを示して下さったのです。この約束によって、神の民とされたものの救いは確かなものとなるのです。
招かれ一つとされる弟子たち
主イエスの十字架が、主イエスの犠牲による救いの御業であり、それが、旧約聖書によって約束されていた新しい契約であることを見て来ました。そのことをはっきりと示しているのが聖餐なのです。聖餐のパンとぶどう酒によって、救いの恵に与るのです。この食卓は、この救いに招かれた者たちの食卓です。主イエス・キリストを信じる信仰がないところで聖餐は意味がありません。主イエスに対する信仰を言い表し、洗礼を受けて神の民とされた者が共に与るのが、この食卓なのです。聖餐に与る時に一つのパンが割かれるということによって、主イエスの肉体が犠牲として裂かれると申しました。しかし、そこにはもう一つの意味があります。それは、一つのパンに象徴される一つのキリストの体が裂かれて、それが分与されるということです。主イエスの十字架の犠牲に与るということは、共にその救いに与る者たちと一つとされるということです。教会においては、この聖書の記述に従って、実際に、一つのパンを割いて分け合うということを行っている教会もあります。聖餐において、一つのパンを分け合うことで、教会に連なる者が、一つの体の部分であることを示されるのです。モーセの契約によって神の民イスラエルが誕生したように、キリストによる新しい契約は教会という新しい神の民の群れを形成するのです。イスラエルの民が過越の食事を祝ったように、教会の群れによって聖餐は守られるのです。この食卓には、主イエスの弟子しかいませんでした。主によって選ばれ、弟子とされた者が一つの体とされているということが大切なのです。洗礼を受けるとは、聖餐に与る者になるということを意味するのです。そして主イエスの伝道は、この聖餐に与る者の群れ、聖餐共同体を築くことに他なりません。聖餐という食卓に与るための唯一の資格は、神によって選ばれ、信仰を与えられて洗礼を受けているということなのです。
ここで主イエスは、自分と同じ思いを抱いている、自分に従う立派な者を集めて食事を共にされたのではありません。この食卓は、唯、仲の良いものたちの食卓ではありません。又、主イエスに従うことにおいて破れの無い、清く正しい立派な弟子たちの集まりでもありません。このパンと杯が配られる直前、主イエスはユダの裏切りを予告したのです。この食卓には、主イエスを裏切るユダも含まれているのです。ユダだけではありません。他の弟子たちも十字架に向かう主イエスを見捨て、主イエスのもとを離れていってしまう者たちなのです。あなたを見捨てることはないと語った弟子も、その言葉の通りに歩むことが出来ませんでした。そのような者たちが、ただ、信仰を与えられて、主イエスが肉を裂き、血を流して下さったことによる救いの恵に与る者として、聖餐の食卓に与るのです。聖餐は、人間的に見た相応しさによってこの食事に与るのではありません。聖餐は、ただ、主イエスに呼び集められ、主の弟子とされ、教会の枝とされている者が与る食卓なのです。
多くの人のために
この食卓における交わりは、一般的にわたしたちが考える食卓の交わりとは大分異なっています。わたしたちは、食卓を囲む時、そこに誰を招くかということを考えます。親しい人との食卓は楽しいものです。逆に、あまり親しくない人と食事をするのは時に苦痛なこともあるでしょう。人間が主催する食事においては、いかに気が合うかとか、同じ思いを抱いているかが重要になります。しかし、聖餐は、神が選び招いて下さっているということだけが条件なのです。ですから、それに与る時、そこに人間的に見て自分と気の合わない人がいたり、自分とは全く異なる考えを抱いている人がいたとしても共に与ります。そこで、そのような人々も主がこの食卓に招いて下さっていること、主イエスが共に選んで下さって一つとされているということを知らされるのです。聖餐に与る時に、わたしたちは、共に与っている人々が共に主の弟子とされ、一つにされていることを示されるのです。
主イエスが流す血について「多くの人のため」に流されるということが言われています。この食卓において、わたしたちは、共に与る隣人を示されます。人間的には好きになれず、時に憎しみを持ってしまうような人であっても、そこで、共に主に同じ食卓に招かれているのだということを示されるのです。
更に、ここで語られている「多くの人々」という言葉は、未だ洗礼に与っていない人々も含む言葉であると言って良いでしょ。聖餐の食卓を人間的な思いで考える時、聖餐に与れる人と与れない人がいると不公平だとか、主イエスの救いは、一部の人のためだけのものなのかとの疑問をもつこともあるかもしれません。しかし、主イエスの救い、主の十字架の犠牲はすべての人に開かれています。その血は、弟子たちだけではなく多くの人々の罪の贖いのために流されているのです。ですから、主イエスの招きに応えて、救いに与り洗礼を受けることを祈り求めて行くのです。
神の国で新たに飲む日
25節では「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われています。ここで、神の国と言われているのは、神様の救いの御支配が完成する世の終わりの時です。神様の救いの御支配が実現する時、そして、その時まで「ぶどうの実から作ったもの」つまりぶどう酒を飲まないというのです。この言葉は、主イエスが間もなく十字架につけられ世を去ることを表す言葉です。もう、今のように食卓を囲んで共にぶどう酒を飲むことはないだろうと言うのです。そのような意味で、これは、十字架を決定づける弟子たちとの訣別の言葉と言って良いでしょう。しかし、今後一切、このような食卓を囲まないということではありません。救いが完成する時に、再び食卓を囲んで杯を交わすことが約束されているのです。そのような意味で、これは希望の御言葉なのです。
ここで主イエスは、過越の祭との関係だけでなく、神様の救いの御業が完成する日との関係で、この食事を意味づけておられます。救いの完成の時とは、主イエスと食卓を囲む時です。わたしたちは、その食卓に与る時を聖餐において、既にこの世で体験するのです。終わりの時というのは、神様の救いがわたしたちにはっきりと示される時です。現在地上にあってはその時のことが分かりません。しかし、聖餐によって、その終わりに与えられる恵の食卓を既に先取りして受けるのです。そのことによって、終わりの日の救いを示されつつ、その時を待ち望むのです。
第一コリントの11章で、パウロが聖餐について語っています。そこで、パウロは、主が聖餐を定められたことを語った上で、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」と語っています。この世で聖餐に与ることによって、十字架による主の救いを知らせて行くというのです。主が救いを成し遂げて下さったことを知らされて、世に押し出され、そこでその救いを表して行くようになるのです。
復活の主イエスとの食事
又、ここで覚えておきたいことは、終わりの日が来る前に、主イエスが十字架につけられ三日目に復活なさった後、主イエスは弟子たちと食卓を共にしたということです。使徒言行録第10章41節でペトロの言葉の中に、「イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたち」と言う表現があります。この復活の主と共に囲んだ食卓も又、復活の主イエスと弟子たちの食事であり、そのような意味で聖餐に繋がる食卓であると言って良いでしょう。そこでも、確かに神様の御支配が実現しているのです。聖餐の食事において、主の犠牲としての死と、罪と死の力に対する勝利である復活を示されていくのです。その時、復活の主と共に囲んだ食卓において弟子たちは、最後の晩餐の時よりもはっきりと、神の国の到来、神様の救いの実現をはっきりと知らされて恵の内に食事をしたのです。主を捨てて逃げてしまうような自分たちの救いがこの方によって実現していることを知らされたのです。聖餐に与って行くとは、繰り返し主の食卓を囲む中で、徐々に、救いの恵の豊かさを知らされていくことであると言って良いでしょう。わたしたちは、繰り返し、聖餐に与ります。そこで、わたしたちの罪のために主イエスの体が裂かれたことの意味を深く知らされて行きます。更には、世の終わりに、神様の救いの御支配が完成し、神様の救いがはっきりと示される時に、わたしたちは再び、主と共に食卓に着くことを知らされるのです。
信仰を与えられたわたしたちは、絶えずこの主イエスの食卓に与りつつ、主イエスがご自身の肉と血を差し出して約束して下さる救いを覚えます。そして、その救いを多くの人々に知らせつつ、主イエスが招いて下さっている食卓に連なる人々が加えられていくことを祈り求めていくのです。そのような中で、終末においてはっきりとする救いの完成における食卓の姿を示されつつ、希望を持って歩む者とされるのです。