「慈しみ、見つめられる主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編32編1-11節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章17-31節
・ 讃美歌 ; 220、459
永遠の命を受け継ぐには
マルコによる福音書の第10章は、ご自身のもとに集まって来た群衆に向かって主イエスが語られた三つの教えが記されています。その内の最後の教えが本日の箇所に記されています。本日は、その前半17節~22節までの部分に聞きたいと思います。17節には、「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」とあります。ここで、「旅に出ようとされた」とある言葉は、直訳すれば、「道に出て行く」という言葉です。マルコによる福音書は主イエスが歩む道を意識して書かれています。ガリラヤからエルサレムの十字架に向かって歩まれる主イエスの道です。主イエスは力強い教えを語り、又、御業を行って人々を助けました。しかし、それは、神の子としての権威を示すためのものであって、根本的な目的ではありません。主イエスが世に来られたのは、父なる神さまの御心に従って、十字架へと進むことです。それこそ、神様の救いの計画の成就だからです。主イエスの周りの人々は、常に自分勝手な思いを抱き、主イエスを自分の下に留めておこうとしていました。しかし、主イエスは人間の思いや願望に答えられる方ではありません。神様の御意志に従って道を歩まれるのです。ここでも、主イエスは、教えを語った後、再びエルサレムの十字架に向かう道へと歩み出されるのです。
しかし、その時、「ある人が走り寄って」、主イエスの前にひざまずき、主イエスに尋ねたのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。永遠の命を受け継ぐとは、神様の救いに与るということです。この人は、ファリサイ派の人々しばしばしたように、主イエスをためし、陥れようとして質問をしたのではありません。この人は真剣な思いで主イエスに問いかけたのです。わざわざ走り寄って来て、ひざまずき、道を進もうとされる主イエスの歩みを止めてまでして尋ねたことにその思いは表れています。神様の救いに与るにはどうすれば良いのかを真剣に見つめ、その答えを真摯に求めていたのです。そして、主イエスに聞けば、その答えが分かると思ったのです。この人は、主イエスに向かって「善い先生」と呼びかけていますが、「善い」という言葉は、主イエスがこの後言われるように、神について用いられる言葉です。ここには、この人が、主イエスに対して相当の敬意を抱いていたことが示されています。
神おひとりのほかに
しかし、この人に対して、主イエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われます。主イエスは、ここで、自分が、神の下から遣わされた神の子であることを否定しようとしているのではありません。それでは何故主イエスはこのようなことを語られたのでしょうか。それは、主イエスに対して「善い先生」と呼びかけた、「この人」の態度を根本的に改めさせるためです。この人は、主イエスに対して「先生」と呼び、「何をすれば良いでしょうか」という問を投げかけています。主イエスから永遠の命を受け継ぐために自分が何をするべきかを聞き出そうとしているのです。この人は掟を守ることによって、神様の救いに与ることが出来ると考えていました。幼い頃から、律法を守って歩んできたのです。しかし、そのようにして、律法を守って来た自分の歩みを振り返ってみても、救いの確信が得られなかったのです。そのため主イエスに、さらに追加して守るべき掟を尋ねたのです。つまり、この人にとって、主イエスは、救いを成し遂げて下さる神の子ではなく、救いに与るために、行うべき業を教えてくれる律法の「先生」なのです。主イエスは、ここで、この人の、主イエスを一人の偉大な先生として見つめている姿勢を否定しておられるのです。主イエスを、「先生」と呼び、律法の教師として仰ぐ以上、主イエスは「善い」方ではあり得ないのです。神様に対して用いられるべき「善い」という言葉と、尊敬し、教えを請うべき人間に用いられる「先生」とは結びつかないのです。もし、この人が、主イエスを一人の教師としてではなく、神の下から来られ、私たちの救いを成し遂げて下さる救い主として仰いでいたのであれば、主イエスを本当に「善い」方として受け入れられたでしょう。しかし、この人にとって主イエスは先生なのです。ここで、この人の「善い先生」という呼びかけには、人間である律法の教師である主イエスの教えによって、神様の救いを得ようとする姿勢が表されているのです。主イエスは、ご自身を「善い先生」にしようとする、この人の思いを退けておられるのです。
続けて主イエスは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われます。ここで語られているのは、十戒の後半、隣人との関係についての掟です。しかし、主イエスはここで、しっかりと十戒を守って生きれば、救いが得られるということを言おうとして、このように語られたのではありません。主イエスが、強調しているのは「掟なら知っているはずだ」という部分です。原文では、この言葉が最初に来ています。「掟ならわざわざ私に聞かなくても良い」と言おうとされているのです。しかし、それは、「あなたは永遠の命を受ける方法を既に良く知っているのだから、それを実践しなさい」ということではありません。永遠の命を受け継ぐための掟を聞き出そうとして、御自分に掟を聞いても無駄であると言いたいのです。主イエスは、自分の業によって自分を救おうとして生きる中で、掟を尋ねるこの人の在り方そのものを問題にしておられるのです。
自ら獲得する歩み
この時、この人は、主イエスを最も素晴らしい律法の教師としていました。この人にとって、主イエスは、キリスト、救い主ではない、偉大な先生なのです。この人は主イエスから教えを受けたら、主イエスを離れ、その教えに従って、自分の力で永遠の命に至る道を極めて行こうとしているのです。この人は、これまでも、こつこつと努力してそのような道を生きてきたのです。しかも彼は、そのような教えを生きるために最善の努力を傾けてきたのです。そのような歩みによって、地位や財産をも得て来たのです。それは、一言で言えば、彼の人生はひたすら獲得する人生だったと言えるでしょう。そのように歩むこの人にとって、主イエスも、自らを高めて救いを手に入れるための手段に過ぎません。獲得する歩みは、自分が限りなく偉大になって行き、自ら神のようになっていく歩みなのです。この人は、自分の歩みが、そのようなものであることに気が付きませんでした。しかし、主イエスは、この人の生き方の中に、神の力によらず、自ら救いを獲得しようとする思いがあることを見抜いているのです。
子供の時から守ってきました
しかし、この人は、主イエスの言葉の意図が分かりません。「先生、そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と答えるのです。この人は、主イエスの答えにがっかりさせられたのでしょう。何か新しい掟を聞けると思ったら、もう掟は知っているだろうと言われて、自分が子供の時から守って来た掟を繰り返されるだけだったからです。実際、この人は子供の頃から、十戒が教えている掟を守って来たのです。その歩みをより完璧なものにするために主イエスに問いかけたのにも関わらず、納得の行く答えが示されなかったのです。掟を守ることによって永遠の命を得ようという歩みは、自分の業によって救いを得ようとする歩みです。それは自分自身を見つめる歩みです。自分の行い、自分の業を見つめ、これで十分だろうかということを見つめ続ける歩みです。
しかし、その歩みそのものの中に、人間の罪が潜んでいるのです。この人が、実際に十戒の教えに生きることが出来ていたかと言えば決してそうではありません。十戒とは、神様の恵によって救いが与えられたイスラエルの民に与えられたものです。つまり、神様の救いを経験した者が、神様に応答して歩むための教えなのです。しかし、この人は、自ら救いに与るための手段としてしまっていました。十戒を、救いを得るための手段として聞くのであれば、十戒で語られている御言葉を生きられないのです。掟を守っている自分を見つめ、自分の行った業を主張し、自分を誇り、他人を裁くようになります。形だけは守っているようでも、それを掟としてしまう所では、十戒が教える愛に生き得なくなってしまうのです。ただ神様の恵による救いを経験した者だけが、十戒を生きるものとされるのです。
主イエスは、この人に対して、掟に縛られ、自分で自分の救いを獲得しようとする熱心さの中で、主イエスの下にやってくるこの人の過ちを気づかせようとしているのです。しかし、この人は、それが分からず、もう既に自分はそれらのことは守っていると、自分の業を主張しているのです。
あなたに欠けているもの
自らの歩みを変えることが出来ず、主イエスの言葉の意味が分からないこの人に対して主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われます。ここで主イエスは、この人が、より完璧に永遠の命に近づくために必要な、十戒の教えに加えて、守るべきもう一つの掟を示されたのではありません。十戒には語られていないけれども、守らないといけないもう一つの掟は、「施す」ことであると語られたのではないのです。むしろ永遠の命を得るために最も大切なものが語られているのです。
ここで先ず注目しなくてはならないことは、「持っているものを売り払い」ということです。この人は、自分の持っているものに固執していました。それは財産に限りません。救いに至るために、積み上げてきた自分の業や、律法を守ってきた生活も含まれます。主イエスは、ここで、救いに至る掟を求め、自分の業を積み上げて行くことで救いを得ようとする歩みをやめなさいとおっしゃったのです。その時に、始めて、神様から与えられる恵を求めて、そこに救いを見出して生きるものとされるからです。自分で善い業を積み続ける中で、自分自身の業を見つめ、人々を裁きつつ歩む所には、真の救いがないのです。
ここで、主イエスが教えようとしておられる、持っているものを売り払って主イエスに従う歩みは、直前の箇所で主イエスが語られた教えにも示されています。直前の13節~16節において、主イエスは、子供が主イエスの所に来るのを妨げた弟子たちに憤り、「神の国はこのような者たちのものである」と言われたのでした。その上で、子供のように神の国を受け入れる者になることが求められていたのです。子供とは、生きていくために必要な知恵も財産も持っていません。ただ親や大人から与えられるものを受けることによってのみ生きることが出来るのです。ここで、子供のような者とは、自分が持っている何かを主張するのではなく、何も持っていない無力さの中で、ただ神様に委ねることしか出来ない者のことです。自らの罪を前にして、ただ神様からの救いの恵を受け入れる者となることが教えられていたのです。この人にとって財産とは、自ら所有するものによって救いを得ようとする歩みを象徴しているのです。ですから、ここで、財産を施すというのは、単純に慈善活動をすれば救いに与れるということが言われているのではありません。この人が救いに至るために、自らの業を積み上げ、獲得したものではなく、神様の救いの御業に依り頼むことによる救いに与るものとなるかどうかが見つめられているのです。
わたしに従いなさい
それは、「わたしに従いなさい」という主の招きに答えて歩み出すことです。それは、主イエスを永遠の命を獲得するための手段を教えてくれる律法の教師とするのでなく、救い主として受け入れ、その主に感謝をもって従って行く歩みです。主イエスは、十戒の後半の戒めについては語られたけれども、前半の部分、神を愛する戒めについては語られませんでした。主イエスが、その部分を軽視していたのではありません。又、彼が、そのことを十分に生きていて語る必要が無かったというのでもありません。彼にとって必要なものは、十戒の前半に記された神を神とする歩みです。主イエスは、神を愛し、主とすることをここで問題としているのです。
しかし、この人は、結局、主イエスのもとを立ち去りました。22節には「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」とあります。ここで「財産」という言葉が示すのは、経済的な富だけではありません。この世を生きる時に依り頼み、救いに至るために所有しようとするもののことです。ですから、ここでは、世間で言う「お金持ち」が神様の救いに与るにはどうすればよいのかという教訓が語られているのではありません。ここでは、この世で持っている富の量だけが問題となっているのではありません。財産にしろ、学歴にしろ、掟を守って歩むことにしろ、敬虔な信仰生活にしろ、何にしろ、人間が自らの救いを得ようとして、自らの力で積み上げようとする全てのものが見つめられているのです。この箇所に登場する「この人」にとっては、それが、子供の時から律法を破らずに品行方正に歩んできた歩みであり、そのような歩みの中で、コツコツと蓄えてきた財産であったのです。ここで、財産とは、自ら救いを得るための業を積み上げていく歩みを象徴しているのです。この教えは、私たちも含め、すべての人に語られていることなのです。財産を売り払い、貧しい者に施すと言うことの根本は、自ら持っているものに頼って、救いを得ようとすることをやめて、神様によって与えられる救いにこそ、自らの救いの根拠を見出して歩むようにということなのです。それは、主イエスの前で、何も持たない貧しい者となること、一人の子供のような者となることなのです。
主イエスの慈しみの眼差し
「この人」は結局、主イエスが語られた教えの意味を理解せずに、財産を捨てることも出来ず、主イエスのもとを立ち去ってしまいました。この人は、ただ一つ欠けているものを満たすことが出来なかったのです。しかし、主イエスは、この人を断罪し、裁く思いで見つめているのではありません。主イエスは、ご自身の下を立ち去る、この人を尚、慈しんで見つめておられるのです。「慈しむ」という言葉は、「愛する」という言葉です。主イエスの愛は、自らの歩みを変えることが出来ず、主イエスのもとを立ち去ってしまったこの人にも注がれているのです。それは、主イエスが、今まさに、歩みを進めようとされる道の先に十字架があることによって明らかです。主イエスの十字架は、まさに、主イエスのもとを立ち去ったこの人のように、自分の持っているものに頼り、自らの業を誇っている人間の罪と戦われた出来事なのです。人間が獲得する歩みを続ける先には、救いがありません。裁く思いを捨て去ることは出来ないでしょう。ただ、十字架において、罪の中にある人を永遠の命に生きるものとするために、神の子が身代わりとなって死んで下さった十字架の出来事を受け入れること、この救いの御業にすがることによってのみ神の国に入ることが出来るのです。
おわりに
私たちは、常に、自分の財産を捨てられないでいるのではないでしょうか。そのような中で、主イエスを「善い先生」と呼び、救いを得るための掟を聞こうとして、この方の下にやって来ることがあるのではないかと思います。しかし、そのような私たちを、主イエスは愛しておられるのです。自分で救いに至るための財産を積み上げようと歩む私たちに救いを与えるために、主イエスが十字架に架かって下さっているのです。この恵の出来事を知らされる中で、この方を、「先生」として、「掟」を教わろうとするのではなく、この方を「主」と崇めつつ、一人の貧しい僕となって、神様の恵を求め続ける者となるのです。そして、この方の愛の眼差しを受けながら、自分の力で救いに至るためにあくせくし、掟に縛られる歩みから解き放たれて、恵によって罪赦された者として主イエスに従う者とされるのです。そのような中で、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされる者となるのです。