「自分の十字架を背負って」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第55章6-13節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第8章31-38節
・ 讃美歌 ; 218、503
受難予告とペトロの反応
主イエスは、弟子たちにご自身が苦しみを受け、殺され、復活することを予告されました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。これは主イエスの最初の受難予告です。「はっきりとお話になった」とありますように疑いの余地のない仕方で、ご自身が苦しみ、殺され、復活すると語られたのです。ここで、「排斥され」と言われている言葉は「捨てられ」という言葉です。無意味なもの、用のないものとして捨てられてしまうというのです。それを聞いた弟子のペトロは、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めました。断じて、そんなことがあってはならないと思ったのです。本日の箇所のすぐ前には、ペトロが主イエスに対する信仰を言い表したことが記されています。主イエスに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われて、「あなたは、メシアです」と答えたのです。メシアとはキリスト、救い主を意味しますが、ペトロは、主イエスこそ、キリスト、救い主であると答えたのです。しかし、その直後に、キリストが苦しみを受けて殺されることが予告され、それを受け入れることが出来なかったのです。それが、自分の考えていた救いを実現するキリストとかけ離れた姿だったからです。この時、ペトロが思い描いたのは、力強く、栄光に満ちた救い主でした。具体的には、ローマ帝国の支配を打ち破って、苦しみから救い出してくれる救い主でした。ですから、「あなたはキリスト」と告白したすぐ後に、そのキリストが人々から捨てられて殺されると言われてもそれを受け入れることが出来なかったのです。
人間のことを思う
何故ペトロが、主イエスの死を受け入れることが出来なかったのかは、主イエスの答えに示されています。主イエスはペトロを叱りつつ、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と言われます。ペトロは、「あなたはメシアです」と告白していながら、そこで、神のことではなく人間のことを思っていたのです。確かに、主イエスをキリストと告白しました。しかし、そこで、自分が考えている救いを成し遂げてくれる人として、主イエスを救い主としていたのです。ペトロが考えていた救いとは、屈辱的な支配を課している敵から解放され、栄誉を受けることです。主イエスは、そのような理想、思いを成し遂げるための救い主でしかなかったのです。自分の思いが先にあり、その実現のために、有用な方として、主イエスを受け入れていたのです。
主イエスは、ペトロに対して、「サタン」と叱責します。「サタン」とは「悪魔」のことですが、これは激しい非難の言葉です。しかし、ここでペトロは、普通の人がしないようなとんでもない悪事をやらかしてしまい、そのことを咎められているのではありません。ここで、悪魔というのは、神様の御心に沿って歩む道を妨害しようとする力のことです。そして誰でも、そのような力に翻弄されます。例えば、私たちも、聖書を読んでいて、自分が理解しにくい箇所があったり、受け入れがたいことが記されていたりすると、自分が理解しやすいように聞いてしまいます。自分の思い描く救いや、理想に合わせるように御言葉に聞くこともあります。又、福音の中にある躓きを取り除こうとする聖書の読み方もあります。神の子である主イエスが、十字架というのはどうも理解できない。又、主イエスは復活したというような話しは受け入れがたい。そのような思いから、主イエスを神と等しい方ではなく、神に最も近い理想的な人間と捉え、倫理的な教師にしてみたり、苦しみの中にある人々を権力から解放する革命家のように捉えたりするのです。そのような時に、自分の思いを神様の御心に優先させて、主イエスを自分の思う方向へと導こうとしているのです。
ここで、主イエスはペトロに、「引き下がれ」と言われていますが、これは「私の後ろに下がれ」ということです。主イエスは、自分の思いに従って、わきへお連れしたペトロを再び自分の後にしたがうようにさせたのです。主イエスに声をかけられて、後に従っていた時のように、もう一度、私の後ろに下がるようにと語られるのです。キリスト者の歩みとは、主イエスを自分の思いに従わせ、その道を曲げてしまのではなく、主イエスの後に従う歩みなのです。
「自分の十字架を背負って」
それでは、主イエスの後に従う歩みとはどのようなものなのでしょうか。34節には次のようにあります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分の十字架を背負って」従うようにと言われているのです。この「自分の十字架を背負って」というのは何を意味するのでしょうか。「十字架を背負う」とは、ゴルゴタの十字架で死なれた主イエスの苦しみを意味しています。この後、主イエスは十字架に架けられ、予告通り殺されるのです。もし主イエスに従うのであれば、主イエスに従って、その苦しみを担えというのです。つまり、主イエスのように、命を捨てろということになります。もちろん、ここで、主イエスが背負った十字架と同じ十字架を背負えというのではありません。主イエスの苦しみは、人間の罪を贖うための苦しみです。私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さったのです。私たちがそれと同じ十字架を負うのではないのです。
それにしても、十字架を背負えと言われると、私たちは、いささかしり込みしてしまいます。そのような言葉を聞くと、キリスト教が迫害される中で、強い信仰を貫いて死んでいった殉教者たちを思い起こすかも知れません。そして、自分は、そのような強い信仰に生きた人々とは違うと思うかもしれません。しかし、この言葉は、弟子たちだけではなく群衆も共に呼び寄せて言われたことが記されています。つまり、主イエスは、特別な人にではなく、主イエスに従う全ての人に言われているのです。ここで、主イエスは、「自分の」十字架を背負ってと言われています。私たちが、それぞれが置かれた場で、それぞれに応じた仕方で十字架を担うようにと言われているのです。ここで、単純に命を捧げれば、ここでの主イエスの教えに生きられるというのではありません。自分の主義主張、自分の名誉や尊厳のために命を捨てるということもあります。ここで、それぞれが担うべき十字架、苦しみとはとは、キリストの十字架に示される、神様による救いにのみ生かされることによって被る苦しみです。キリスト者として歩む、キリストに従う中で経験する苦しみです。
十字架を背負う苦しみ
では、キリストに従う中で経験する苦しみとはどのような苦しみなのでしょうか。ここで、主イエスは、「自分を捨て」と言われます。十字架を背負って歩むとは、先ず自分を捨てることなのです。主イエスの十字架によって与えられる、救いに生かされて歩む時、そこで、私たちが思い描くことが出来る理想的な救いを達成しようとする思いが断念させられるからです。自分の思いに縛られていれば、主イエスをその思いに従わせようとしてしまいます。そこでは、自分の栄誉や願望のために主イエスを利用しようとしてしまいます。しかし、主イエス・キリストに従うのであれば、そのような自分の栄光や自分の理想を追い求める思いは捨てなければならないのです。もし、私たちが、自分を捨てないで、自分の思いや自分の考える救いを実現しようとして歩んでいるのであれば、たとえ、そこに、困難や挫折があったとしても、それは十字架を担うことではありません。そのために、私たちが死んだとしても、それは、御心のために苦しむことにはならないのです。それは自分の栄誉や自分の誉れを目指しての苦しみです。ただ、主イエスの十字架と復活の前で、自分の思いが崩される時に、ここでの、苦しみを担うようになるのです。それは、主イエスによって示される、神様の救いの御業が、自分の思いとは違っていても、それに従う歩みをすることです。主イエスの後に従って歩めば、苦しみがなくなるのでも、自分の願望が叶えられるのではありません。むしろ、その歩みにおいてこそ、様々な試練とぶつかるのです。主イエスに従う歩みが、自分の救いにとって何の意味があるのか。こんなはずではなかった。主イエスの後に従っても本当に救いに与ることが出来るのだろうかとの思いになったりすることがあります。しかし、そこでも尚、キリストに従って行くのです。そのような中で、私たちは、キリストの十字架に生かされ、キリストを証して行くのです。
福音のために命を失う者はそれを救う
35節で主イエスは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである」と言われます。ここで、「自分の命を救いたいと思う」というのは、自分の思う救いを追い求めていくことです。自分の理想や自分の栄光を求めて歩む歩みです。しかし、そのような歩みをしても、命を失うというのです。そのような歩みの中で何かを手に入れたとしても、それは、自分の命を救い得るものとはならないのです。それは、36節で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか」と言われている通りです。ペトロが求めた救いは、ローマ帝国からの解放と、そこから得られる栄光でした。しかし、それは、ペトロを本当に救うことではありません。自らの救いを追求し、その結果、全世界を手に入れても、命が失われれば何の救いにもならないのです。そこで求められている救いは、罪に支配された人間を罪から救うための代価が支払われてはいないからです。 それに対して、「福音のために命を失う」というのは、主イエス・キリストが成し遂げて下さった救いを受け入れ、そのことによって生きることです。そこでは、苦しみがあり、肉体の命を失うこともあるでしょう。しかし、そこで、自分自身の力による救いに頼るのではなく、キリストの十字架と復活によって示されている福音にのみ頼っているのであれば、肉体の命は滅びても、主イエスと共に復活の命に与るのです。この方の十字架によって、罪に支配されて滅ぶべき私たちを救うための代価が支払われているからです。真の救いは罪の代価を支払うことによって命を救うものでなければならないのです。主イエスの十字架とは、人間の罪の代価として支払われたものであり、それによって、私たちの罪は贖われて、キリストによって与えられる命を生きるものとされるのです。ですから、私たちが、自分の命を救おうとして、救いを求めて歩むことによって救いが得られるのではなく、そのような人間の思いを捨て去って、ただ、主イエス・キリストの十字架をこそ、救いとする時に、救いが与えられるのです。主イエス・キリストが十字架と復活を通して、約束された、永遠の命を与えられるのです。
罪深い時代の中で、キリストを恥じる。
38節には、次のようにあります。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。ここで、先ず、この時代が、「神に背いたこの罪深い時代」であることが見つめられています。これは、主イエスが生きておられた時代だけに当てはまることではありません。罪が支配し、人々が神に背いて歩んでいる時代であればいつでも「この時代」なのです。これは、人間が自らの思いを、神様の御心よりも優先している時代です。ですから、人間が生きるいつの時代にも当てはまると言っても良いのです。そして、そのように、人間の思いが優先される中では、「主イエス・キリストとその言葉」は恥となります。ペトロも又、主イエスを恥としました。ペトロは、十字架のキリストお姿が予告された時、その弱く、惨めな姿を受け入れませんでした。更に、この予告通りに、主イエスが十字架につけられるために引き渡された時、「確かに、お前はあの連中の仲間だ」と言われて、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。主イエスに従う者たちの仲間だと言われて、呪いの言葉と共に、そのことを否定したのです。
主イエスに従うということが恥と思える時があります。それは、罪に支配され自ら救いを追求していく時に起こります。そのような時、主イエスの十字架による救いの御業が、私たちの救いにとって無意味なものであるかのように思えるからです。自分の思い描く救いにとって、主イエスの十字架が用のないものに思えてしまう。そのような中で、主イエスに従っていることを恥じとするのです。そして、恥じるとは、その恥じるものを心の中で捨てていることを意味しています。恥じる思いにおいて、主イエスを捨てているのです。主イエスによる救いを否定しているのです。しかし、そこに真の救いはありません。主イエスは、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言われています。主イエスの十字架を不用なものとしているのであれば、結局、終わりの時に、主イエスによって与えられる救いに与ることは出来ないのです。主イエスの十字架を恥じることによって、命に至る救いが否定されてしまうのです。
恥とする者を救う十字架
神様の御心に自らの思いを優先させる時、私たちは、神様の救いの御業が不用なものに思えてしまいます。主イエスを恥じとするのです。しかし、主イエスの十字架にこそ救いがあると知らされる時、この十字架による救いによってのみ生きる者とされます。そして、そこから、主イエスに従っていく者となるのです。主イエスに従う歩みとは、主イエスによって示される、十字架の救いを恥じとせず、むしろ、主イエスの後に従って、十字架の主イエスにのみ救いを見出して行く歩みです。そのような歩みの中で私たちは、自分の思いに従って、自分の救いに意味があるかないかを判断して、キリストに従おうとするのではなく、自分を捨てて、十字架を背負って主イエスに従う者とされるのです。主イエスが言われたように、「わたしのため、また福音のために命を失う」者となるのです。そのような歩むことによって、私たちは、主イエスが予告された復活にも与る者となるのです。
使徒言行録の5章41節には復活の主イエスに出会った後の弟子たちが、主イエスをのべ伝える中で、迫害を受け、苦しめられた時、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだとあります。主イエスの十字架と復活にこそ救いがあることを知らされたペトロは、十字架の主イエスを恥じるのではなく、主イエスのために恥を受けることをも誇りとするようになったのです。主イエスの十字架にこそ、真の救いがあることを知らされ、その救いに生かされることを感謝して歩む中で、主イエスの十字架を誇るようになるのです。「誇りにする」というのは自分の業を誇るのではありません。救いを成し遂げて下さった主イエス・キリストを誇るのです。自分の救いは、ただ、主イエスがなさる救いの御業の中にのみあることを知らされ、この方の御言葉に聞きつつ、その後に従う時に、自分ではなくキリストを誇る者とされるのです。そこに、十字架にのみを救いとする者の歩みがあるのです。