「御言葉の実を結ぶ」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; エレミア書 第4章1-4節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第4章13-20節
・ 讃美歌 ; 2、195
本日与えられた箇所は、主イエスが、ご自身が語られた種まきのたとえについての説明をしておられる場面です。先週は、「種を蒔く人のたとえ」と、「たとえを用いて話す理由」について語っている箇所を読みました。主イエスは、神の国を誰にでもわかりやすく教えるためにたとえを用いたのではありませんでした。むしろ、それによって分からない人がいることを承知の上でたとえによって語られたのです。神の国は、主イエスによって私たちに現されているのは確かですが、同時に隠されている神様の秘義でもあるのです。
神様のご支配は、主イエスの周りにいる人には、明かされる反面、外の人には隠されるのです。ここで「外の人」というのは、主イエスの下に留まっていない人のことです。この人々について、「見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない」と言われています。私たちは、主イエスの下に留まることをしないで御言葉を見聞きするなら、その御言葉を認めず、理解しないのです。聖書を読んでも、説教を聞いても、文字として目に入ったり、音として耳に入るでしょうが、本当の意味で神の言葉が聞くということにはならないでしょう。本日の箇所においても、主イエスが、たとえについて説明をされたのは、たとえを聞いていた全ての人に対してではありません。主イエスは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはすべてがたとえで示される」と言われていました。その通り、たとえを話されたすべての群衆にではなく、「十二人と一緒にイエスの周りにいた人々」に対してだけ、説明がなされたのです。ただ、主イエスの下に留まる時にのみ、御言葉を認め、理解し、神の国、神様の支配が私たちの内で確かなものとなるのです。主イエスの下に留まることによって、御言葉がその人の内で育てられ実を結ぶのです。
この時、主イエスの周りにいた人々は取り立てて優れた理解力のある人々であったわけではありませんでした。主イエスは、説明を始める最初において、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」と語られています。ここには、主イエスの叱責とも取れる言葉が記されています。周りにいた人々の無理解を信じられないと感じているようにも聞こえます。このたとえは、神の国について記した、最も基本的なものであったのでしょう。このたとえが分からなければ、他のたとえは理解できないというふうに言われています。主イエスは、あまりに理解しない弟子達に半分呆れて、たとえについて説明したのかもしれません。この時、主イエスのそばにいた人々も主イエスから見れば、呆れてしまうほど理解しないものたちなのです。そのような者達に主イエスはたとえについて説明されたのです。
しかし、注意をしたいことは、たとえの説明がなされることによって、神の国が理解されたわけではないということではないということです。聖書を読みますと、主イエスがたたとえについて説明をなしている場面はほとんど記されていません。たとえだけが語られるのです。聖書学者達の見解には、このたとえの説明の箇所は、マルコによる福音書が編纂される段階で、教会の信仰によって挿入されたものとするものが多くあります。ここで注意したいことは、神のご支配というのは、「説明」によって解明されることではないということです。私たちは、主イエスが地上を歩まれた時を生きているのではありません。私たちは、聖書の御言葉から、たとえ話の「説明」を聞きます。しかし、説明を聞くということが、神の国の秘密の知識を得ることになるわけではないのです。ここで、大切なのは、この説明を聞くことによって、たとえが理解できるのではなく、主イエスの下に留まり、その結果として神の国が現される大切なのです。たとえについての理解が与えられるのは、私たちが理解力を働かせることによって分かることではなく、神の御支配を身をもって示しておられる主イエスの周りに集まることなのです。私たちも主イエスのそばに座って、この説明の中に示されている、神のご支配について聞きたいと思います。
ここでの先週お読みした、たとえそのものを以下のようなものでした。種を蒔く人が種蒔きに出て行ったという話しです。種蒔きが種を蒔く。蒔かれた種の内、道端に落ちたものは鳥が来て食べてしまう。石だらけの所に落ちたものは、根が無く、かれてしまう。茨の中に落ちたものは、茨が伸びて覆いふさいでしまし実を結べない。しかし良い土地に落ちたものは、三十倍、六十倍、百倍にも実を結んだというのです。
主イエスはこのたとえについての説明において、最初に「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と語ります。この種まきのたとえで、蒔かれる種というのは、「神の言葉」なのです。そして、種が落ちる様々な土地というのが、神の言葉を聞く者たちのことです。私たち人間は土地として現されているのです。そして、それぞれの土地に共通するのは、神の言葉を聞くということです。神の言葉が語られ、私たちが、それを聞いた後の反応が示されているのです。
道端のものとは、御言葉が蒔かれて、それを聞いてもサタンが取り去ってしまうもの。石だらけのところのものとは、御言葉を聞き、受け入れつつも、根が無くて、艱難や迫害によって続かなくなるもののことです。そして、茨の中に蒔かれたものというのは、御言葉を聞いても、この世の思い煩い、誘惑、欲望などによって御言葉は実らないもののことです。そして、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」のです。主イエスの御言葉は私たちの下で何倍にもなるというのです。
先ほども述べたように、ここで種というのは御言葉です。しかし、それぞれの土地に落ちた種がどのようになったかを説明する段階になって、このことがはっきりしなくなるのです。最初の道端に落ちて鳥に食べられてしまった種については以下のように言われています。「そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」。ここでは、明らかに、種が御言葉で、蒔かれる土地が私たち人間であることがはっきりしています。しかし、次に示される石だらけのところの場合は少し異なります。「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。ここには、「自分には根がないので」と記されているのです。まるで、御言葉を聞いた人が、種であるかのように言われているのです。又、良い土地に落ちた種については、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」といわれています。ここでも、蒔かれた種が、御言葉を受け入れる人たちであると語られています。
御言葉は聞かれると、聞いた人自身が、蒔かれた神の言葉そのものになるということです。御言葉は蒔かれ、聞かれると、その人自身が御言葉を体現するものとなって、神の言葉を現していくものとなるのです。神の言葉は、聞かれ、受け入れられることによって、単なる言葉ではなく、それが肉となって、私たちを通して世に示されていくのです。御言葉が蒔かれた人自身が変えられて、今度は、その人が、神の言葉となって世に蒔かれていくのです。
私たちは、学問的な探求や、巷に氾濫する様々な情報をかき集めて知識を得るのと同じように、御言葉を聞くのではないのです。私たちが知的欲求を満たそうとしたり、学問的な真理に到達しようとする思いの中で、御言葉が聞かれることはありません。神の国とは、思想や教理に留まるものではありません。私たちの内に肉となり、私たちを変革し、実を結ばせるものです。神のご支配というのは、私たちの間で実を結ぶものなのです。
しかし、私たちは、このたとえの説明を聞いて、「果たして自分は御言葉の実を結んでいるのか」という思いがいたします。確かに、聖書によって、御言葉に聞き、生きる指針が与えられた、とか、御言葉によって変えられる経験をしたということはあるでしょう。しかし、ここで言われているように、三十倍、六十倍、百倍もの、実を結ぶなどと言われますと、いささか困惑してしまいます。この種まきのたとえは、当時の人々にとって身近なことでありました。種を無造作に蒔いてから土地を耕す当時の農法から考えれば、様々な土地に種が落ちるというのは普通のことであったのです。これを聞いた人々は、すぐにこの状況を思い浮かべることが出来たことでしょう。確かに農作物が何倍もの実を実らせるということはあるでしょう。しかし、説明にあるように、御言葉が自分の内で、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶというのはイメージできなかったのではないかと思うのです。私たちも、このたとえの説明を聞いて、自分自身を省みる時に、自分はとても、「良い土地」であるとは言えないという思いではないでしょうか。むしろ、様々な土地のケースを振り返る時に、何倍もの実を結ぶ土地よりも、それ以外の土地の方が、自らを現しているように思うのです。時に、サタンの力に翻弄されて御言葉が取り去られてしまうことがあります。御言葉を受け入れることに対して抵抗する力に支配されてしまうのです。艱難や迫害によってつまずいてしまうことがあります。苦しみの中で受け入れたはずの御言葉が育たなくなってしまうのです。思い煩いや、誘惑、欲望が心に入り込んできて、御言葉が育たないことがあります。世にある、様々なものに心を奪われることによって、御言葉が実を結ばないのです。それらの方が自分の現実であるかに思えるのです。
しかし、私たちは、そのこと自体を否定的に考えることはありません。これらの反応は御言葉が蒔かれ、それを聞く時に私たちの間に必ず起こることであるといってもよいのです。様々な土地に落ちた種のたとえが私たちに示すのは、御言葉を聞くということは、私たちに喜びをもたらすだけではなく、御言葉を聞くことによって、始まる苦しみや戦いもあるということです。それは、御言葉を聞くことに伴う、戦いであり、苦しみであると言っても良いかもしれません。福音書は、主イエスが、神のご支配の到来を告げた時に、汚れた霊が叫びだしたことを告げています。私たちに御言葉が蒔かれる時に、それに対抗する力も働きだすのです。又、御言葉を聞き受け入れたがための艱難や迫害というものを経験します。それまで経験しなかったような思い煩いを経験することもあります。誘惑でなかったものが誘惑になり、欲望を欲望と認識するようになります。御言葉が蒔かれることによって、それらは、必ず起こることであると言ってよいでしょう。それらのものによって、御言葉が実らないというのも、私たちの現実なのです。
主イエスの弟子達も又、いつも主イエスの傍で御言葉を聞いていながら、それを理解することが出来ませんでした。この時、主イエスの周りにいた人々、主イエスが無理解を嘆きながら、たとえの説明をされた弟子達は、主イエスが語られたたとえを聞いて、神の御支配を受け入れることが出来たのでしょうか。決して、そうではありません。この後の弟子達の歩みは、まさに、道端、石地、茨の中に落ちた種のようなものでした。主イエスを捕らえようとする力に迎合し、主イエスを銀貨で売ってしまうものがいます。主イエスを三度も否んでしまうものがいます。そして、皆、主イエスを見捨てて逃げてしまうのです。その歩みは、決して、御言葉が実を結んだというような歩みではありませんでした。それは、御言葉を、生かして実らせるよりは、むしろ、育たなくさせ、殺しにしてしまうような歩みだったのです。
しかし、大切なのは、蒔かれた種がどうなったかということに目を向けることではありません。このたとえは、「種を蒔く人」のたとえなのです。何よりも、種を蒔く人が種を蒔きに出て行ったということに注目させようとしているのです。御言葉の種を、育たせ、実らせることが出来ないことの多いものに向かって、繰り返し、種を蒔き続ける。ただ、蒔くだけではなく、蒔いた後に土を耕して、良い土地にしようとして下さる方がおられるのです。
このたとえを語られた主イエスは、御言葉を理解できず主イエスを見捨ててしまった弟子たちに、十字架の死から復活して再び現れて下さいました。ヨハネによる福音書には、復活の主イエスは、三度否んだペトロに対して、三度、自分を愛するかと問われたことが記されています。それに対して、ペトロは、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えるのです。一度、主イエスを捨ててしまい自ら、主イエスを愛しているとは言い得ないものです。御言葉の実を結ばせることが出来るとは言えない不確かさの中にいるものです。しかし、復活の主は、そのペトロの破れ愛の限界を、ペトロ自身よりもよく知っていてくださるのです。そして、ペトロは、再び現れて下さる主イエスに委ねつつ、主イエスを愛していると語るのです。復活の主イエスと出会うというのは、私たちの限界を知らされつつも、その限界を私たちよりも深く知り、それを乗り越えてくださる、主イエスの力を知るということです。復活の主と出会う時に、私たちが御言葉を受け入れるということも、種を蒔き耕してくださる主イエスに委ねることが出来るのです。この出会いの中で、ペトロは新たにされて、主の御言葉を語りはじめたのです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉に従って、主イエスの務めをなすものとされたのです。御言葉に生かされて、その働きを担うものとされたのです。主イエスへの立ち返りの中で、ペトロは主イエスによって「良い土地」とされて御言葉の実を結ぶものとなったのです。
このたとえの説明において「実を結ぶ」という言葉は、たとえ話の中での「実を結ぶ」とは異なる言葉が用いられています。単純に多くの実りを得るということだけではなく、真の命に生きることを意味しています。御言葉の実を結ぶというのは、復活の主によって新たな命に生かされることを意味しているのです。それは、キリストの愛によって生かされているものとして、自分自身も愛に生きるようになる者となることです。 主イエスご自身が、蒔かれた御言葉として、世に来てくださり、御言葉を受け入れられない頑なさを持った私たちが、生きることが出来るように、十字架で身を捧げて下さっている。この方に出会う中で、私たちは、この方と共に、新たに生かされるようになります。この復活の主イエスとの出会いの中で、私たちは新たな命に生き始めるのです。
ローマの信徒への手紙4章7節には次のようにあります。「ところで兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。主イエスの死と復活に結ばれて、今までは罪に死んでいたものが、キリストによって与えられる復活の命に生かされることを経験する。そして神に対して実を結ぶのです。復活の主を知らされることが、新しい命に生かされることこそ御言葉に聞くことであり、私たちが良い土地として整えられることなのです。そして、この出会いの中から、今度は、神の言葉を携えて、世に遣わされていくものとなるのです。
そのような時、私たちは単なる知識としてキリストを知っているのではありません。キリスト自身が、父なる神の下から肉となって来られたことにより、御言葉を示されたのと同じように、私たちの内で御言葉が肉となるのです。キリストの愛に生かされているものとしてこの世を生きているのです。その生き様と通して、神様の支配が表されていくのです。私たちが御言葉によって生かされている人によって、神様を知らされたように、私たちも御言葉を現すものとなるのです。
神の国、神様のご支配は確かに実を結んで行きます。主イエスによって御言葉が蒔かれている、私たちは自分が、御言葉の実を結んでいるとは思えないことがあります。しかし、自ら肉となって神のご支配を示している主イエスによって、繰り返し御言葉が蒔かれていることを知らされたいと思います。主イエスの十字架と復活が示される中で、自らの罪をこの方に委ねつつ、新たな命に生かされる時に、確かに、私たちの内で、御言葉が実を結んでいくのです。