「あなたの罪は赦される」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第103編1-13節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌 ; 7、521
再びカファルナウムで
本日の箇所は、主イエスが再びカファルナウムに来られた時の出来事です。ここは、弟子のシモンとアンデレの家がある場所です。以前訪れた時、主イエスは、シモンのしゅうとめの熱を癒し、多くの病人や悪霊に取りつかれた者を癒されたのでした。しかし、主イエスは次ぎの日の朝早く、祈るために人里離れた所へ出て行き、そのままカファルナウムに戻ることなく、近くの町や村へ行かれたのでした。しかし、数日たって、再び主イエスはカファルナウムに来られたのです。「家におられることが知れ渡り」と記されています。おそらくシモン、アンデレの家であったであろうことが想像されます。前回、主イエスに癒してもらえなかった人々が家へ押しかけて来たのではないでしょうか。「戸口の辺りまですきまもないほどになった」のです。そこで、主イエスは御言葉を語っておられたのです。ここで、どのようなことを語られたのかは記されていません。しかし、マルコによる福音書は、既に、主イエスの宣教の御言葉を1章において記しています。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスの御言葉とは、ご自身が世に来られたことによって、神の御支配が近づいていることを宣言する言葉です。この時も繰り返し、そのことを語っていたのです。
屋根をはがして
そこに、四人の男が中風の人を運んで来たのです。中風とは体が麻痺して動かなくなることです。この中風の人を何とかして癒してもらいたいとの願いから床ごと、この男を担いで来たのです。しかし、いっぱいになった群衆に阻まれて、主イエスの下に連れて行けませんでした。そこで彼らは、屋根にのぼり、主イエスのいる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。当時の家は平屋で階段がついていて屋上に上がれるようになっていたようです。それにしても、天井をはがして穴を開けるというのは尋常なことではありません。このことには、皆驚いたと思います。主イエスの周りに集まって話を聞いていたら、突然天井に穴が開き、床に寝かされた人がつり降ろされてきたのです。
この人たちがした行為は、私たちから見ると、あまりに非常識であると言わざるをえません。乱暴で大胆不敵です。人の家の屋根を破って、そこから主イエスの下に人をつり降ろすのです。あまりの非常識さに、怒りを抱いた人もいたかもしれません。もう少し別の方法がなかったのかと思わざるを得ないのです。主イエスが家から出てくるのを待っていれば良いのではないかと思ってしまいます。しかし、この人々は、そうはしなかったのです。もしかしたら、以前、この町に主イエスが来られた時にも見てもらおうとして、見てもらえなかった人なのかもしれません。朝早くに主イエスを捜しに来たら、もうすでに、主イエスは次ぎの町に行ってしまっていて、涙を呑んだのかもしれません。一刻も早く、主イエスが確実にいる時に、確実に出会える方法で、主イエスの下にたどりつきたい。今度こそは何としてでも癒していただきたい。そのような思いがあったのではないでしょうか。主イエスは、「その人たちの、信仰を見てとあります。非常識きわまりない、男たちです。しかし、この隣人の救いをひたすらに求める男たちの姿の中に主イエスは信仰を見て下さるのです。
とりなし
ここで注意したいことは、主イエスは、「その人の信仰」とは言わず、「その人たちの信仰」と言っておられることです。主イエスは、中風の人ではなく、この四人の男の行いに「信仰」をみておられるのです。この四人の男は、一人では主イエスの下にいけない人を、不届き千万な仕方で主イエスにもとに連れてきたのでした。
わたしたちがここから知らされるのは、中風の人、自分で主イエスのもとに救いを求めて行くことができない、行こうとしない人は、その人の救いを心から願う人、主イエスの下に連れて行く他の人を必要としているということです。
今年の指路教会のテーマは「とりなしの祈りに生きる教会」というものです。教会にとって「とりなし」は不可欠なものです。様々な理由で、主イエスの下に来ることが出来ない人、神様の救いから離れてしまっている人のために代わりに祈るのです。
時に、私たちは「とりなす」ことに怠惰になってしまいます。信仰を個人のことにしてしまう。他人の救いのことは、自分とは関係ないと思ってしまうのです。しかし、私たちの周りには、とりなしを必要としている人が必ずいるということを忘れてはならないと思います。いや、とりなしにおいてこそ、神様は信仰を見て下さり、救いを行って下さるということを忘れてはならないと思うのです。
逆を言えば、私たち自身も又、とりなされているということです。「中風」というと、一般的には、半身の不随、腕や脚が麻痺する病気を言います。しかし、ここで「中風」と訳されている言葉は「萎える」という意味を持つ言葉です。「虚脱状態」を表す言葉です。私たちは、神を求めることにおける虚脱状態とも言うべきものに陥ってしまうことがある。様々な困難の中で、神の救いを見失ってしまうのです。神の救いが自分に及んでいることが見えなくなってしまうのです。そのような中で、これで良いのだと開き直ってしまうことがあるのだと思います。しかし、そのような時に、私たちのために、とりなす人々がいる。私たちが祈れない時、主イエス・キリストを見失っている時に、自分の背後に、祈っている方がいる。又教会の祈りがあるということです。
それは、他でもなく、主イエスが、私たちのために、神様にとりなして下さった方であるからに他なりません。キリストにとりなされているものとして、私たちも互いにとりなすことが求められているのです。おそらく、この時、体が動くようになることを誰よりも願っていたのは、中風の人本人であったでしょう。しかし、主イエスは、そのような中風の男の願いにではなく、中風の男を連れてきた人々のなしたことに信仰を見て、救いを宣言されたのです。
罪の赦しと体の癒し
ここで、人々は意外な言葉を耳にします。主イエスは、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。この人々は、病を癒してもらいたい一心で、主イエスの下にやってきたのです。屋根をはがしてまで主イエスの下に連れてきたのです。ところが、主イエスの口から語られるのは、病を癒すための言葉ではなく、罪の赦しの宣言なのです。マルコによる福音書において、ここで、主イエスは初めて罪の赦しを語ります。これまで、主イエスは、御言葉を語る時、癒しを行い、悪霊を追い出してきました。しかし、そのこと以上に、主イエスがなすべきこと、この世に来られたことの目的は、「罪を赦す」ということなのです。
その場に居合わせた、当時の宗教的指導者である、律法学者は、「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか。」と心の中で考えます。罪を赦すということは、神のみがなすことができる業であるからです。主イエスは、この人たちの考えを察して問われます。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。「罪の赦し」を語るのと、「体の癒し」を語るのはどちらが簡単かというのです。果たしてどちらが容易なのでしょうか。
屋根をはがして、主イエスの下にやって来た人々は、当然、「体の癒し」を求めてやってきたのでした。中風の人にとって、体が動かないというのは、目に見える苦しみです。現実に、この人を縛っており、不自由を経験しているのです。それに比べて、罪というのは、目に見えないものです。実際問題として、この罪に縛られているということは、病の苦しみほど明確ではないのです。そのうような中で罪の赦しの方が易しいことだと考えてしまう。
私たちも、病の人の苦しみを前にする時、もどかしさを感じます。何とかしてあげたいけれども、いかんともしがたい。苦しみの中にある人を前にする時に、「起きて、床を担いで歩け」という言葉こそ、この人が必要としている言葉であると思えてしまうのです。そのような中で、「あなたの罪は赦される」という主イエスのメッセージが、苦しむ人にとって無意味なものに思えてしまうのです。
神を利用する思い
この、どちらが易しいかという主イエスの問の背後には、あなたにとってどちらが重大なものか、どちらを本当に神に求めているのかという問が含まれていると言っても良いと思います。私たちが神を求める時、そこで、何を求めているのかということです。私たちは、「罪の赦し」を簡単なこと、重要でないことにしてしまい、「起きて、床を担いで歩け」という言葉を期待して、神に近づこうとすることが多いように思います。癒されない病を、神の力によって直してほしい。努力しても叶えられない自分の願望を叶えてほしい。そのような思いで、神を求める。自分の力が及ばないことを神の力によって解決しようとする。私たちの信仰への「熱心」には、いつも、そのような思いがつきまとうのです。そこに、「奇跡」を求める私たちの思いがあると言っても良いかもしれません。「起きて、床を担いで歩け」。この人々の、一番の関心事です。そこに、奇跡的な業を求めて、神に近づこうとする人間の姿があります。ここで、「奇跡」とは、何か、超自然的な出来事や、驚くべき業を言っているのではありません。自分の願望を叶えるために、神を利用しようとする時に、私たちが求めているものであると言って良いでしょう。
しかし、そのような思いから神を求めても、そこで、出会うのは、真の神ではなく、私たちが作り出す偶像でしかありません。私たちは、奇跡を求める中で、自分が都合良く利用出来る偶像を求めてしまうのです。さらに、私たちの願いは際限なく続きます。奇跡を求めることによって、神を自分の都合によって利用しようとする態度は常に新たな偶像を求め続けるということになってしまうでしょう。たとえ奇跡によって、この人の肉体の麻痺がとれて、体が動くようになったからと言って、その人が真に救われたとは言えません。その時には、おそらく、新たな願望が生まれ、それを叶えてくれるだろう新たな偶像を作り上げてしまうことでしょう。そのような仕方で自分の都合の良い神を求め続けても、そこで神と出会うことはあり得ないのです。ここに、真の神を求め得ない人間の姿があります。「私たちの信仰」につきまとう罪と言っても良いかもしれません。このような態度でいる時に、自分の求めが応えられないことによって、神の救いを見いだせなくなり、信仰における虚脱状態を生むことになるのです。新たな麻痺状態を生み続けるのです。それだけではありません。そのような人間の罪が行き着く末は、真の神の子である主イエスを殺そうとする思いです。本日の箇所から始まる人々とイエスの議論は結局、3章6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあるように、イエスを殺そうという相談を始めるということに行き着くことになるのです。
私たちではなく神の求め
主イエスが先ず語られるのは、「起きて床を担いで歩きなさい」という言葉ではありません。私たちの願望を叶える言葉ではないのです。そうではなく、「あなたの罪は赦される」という、罪の赦しの宣言なのです。なぜなら、このことこそ、主イエスにとって一番の関心事、神の関心事だからです。それこそ、神から見た時に、私たちに取って重大なことであるからです。まさに、自分の求めによってしか神の下に来ようとしない人々の罪を赦すことこそ、神がなさることの中心だからです。
信仰において、大切なのは、私たちの関心事、私たちが何を求めるのかということよりも、神の関心事、神が何を求めておられるのかということではないでしょうか。私たちの求めは、偶像を作りだすことでしかありません。ですから、信仰において、私たちは、自分の求めから始めることは出来ません。何より、神が求めておられることこそ重要なのです。神は、罪の赦しを求めておられる。ご自身を求めずに偶像を追い求めてしまう私たちと共に歩むことを求めておられるのです。
竹森満佐一という牧師が説教の中で、「人間の生活にとって一番大事なことは、神を利用することや、神の力を自分が自分の生活に利用することではなくて、神と一緒に生きられるかということであります。」と述べた上で、「神と一緒に生きて行くということを考えると、ただ、神があると信じて生きているのではなくて、じつは神から信じられて生きて行くことなのであります。」と述べています。私たちの救いは、自分の願望のために神を利用することにあるのではなく、神と一緒に生きていくということにあるというのです。そして、私は神を信じているという私たちの側の信仰の熱心さではなくて、神が私たちを信じる熱心さを知らされることが重要だと言うのです。体の癒しということに限らず、罪が赦しということでさえ、私たち人間の方だけで求めているだけであったら、それですら一つの偶像でしかありません。神が、そのことを望んでおられるということを知らされることが大切なのです。
十字架の出来事
神の思いを、私たちは主イエス・キリストの十字架示される時に確信します。「父よ、彼らをお赦し下さい」。主イエスが十字架の上で祈られた祈りです。自分を十字架に架けようとする人々のために、主イエスは、とりなしの祈りを捧げられたのです。ここに、命をかけてまで、私たちを神の救いの内に導かれる主イエスの熱心さが示されています。真の神を求めない人々の罪を、神が、ご自身が望まれることによって、赦そうとして下さる。そのようにとりなして下さるのです。
中風の人を屋根から降ろすということに周囲は驚いたのではないかと言いました。この人々の友人の救いを求める熱心さでは確かに、私たちを驚かせます。しかし、彼らが友人の救いを求める熱心さにまして、神が、その人の救いのために熱心であられるのです。本当の驚きは、神の熱心さにあるのです。自らの御子を天から降ろし、十字架に架けることによって人々の罪を赦される神の救いの業にあるのです。全く非常識な仕方で、救いへと向かっていったのは、人々ではなく神の方なのです。主イエスが神の下から来られた方として、「あなたの罪は赦される」と語って下さっている。それは、私たちが思いもよらない形での救いの到来です。これこそ、私たちが奇跡と呼ぶべきものであると思います。「奇跡」とは、私たちの願望が叶えられることではありません。ほんとうの奇跡とは、神が御子を下し、十字架に架けることによって、私たちの罪が赦されていること。自らの願望によって神を利用してしまうものを赦して、神が私たちと一緒にいてくださるということにあるのです。そのことを知らされる中で、私たちは悔い改めて、福音を信じるものとなるのです。
起きて床を担いで
主イエスは、ご自身が、地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。自分こそ罪を赦す権威を持っているものであることを知らせるために、「起きあがり、床を担いで歩きなさい」と言われるのです。主イエスの業の目的は、何よりも先ず、罪を赦すということです。癒しの業は、その権威を知らせるためにあるのです。十字架で自らが罪を担って下さった方だからこそ、私たちを罪から救うことが出来るのです。真に立ち上がらせることが出来るのです。罪の赦しのない所で、この人が立ち上がっても、それは、この人の救いにはならないでしょう。主イエスの罪の赦しがある時に、本当の意味で中風の人は立ち上がることが出来るのです。自分が今まで寝ていた床を担いで歩み出すのです。
私たちは、時に自分の関心から、主イエスの下に近づきます。しかし、そこで、私たちが思ってもいない仕方で、罪が赦されていることを知らされる。神が、私たちの救いのために、私たちの下に来て下さったことを知らされるのです。「子よ、あなたの罪は赦される」。この言葉によって、私たちも、信仰における中風、麻痺状態から、立ち上がるのです。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を讃美したとあります。私たちは「驚き」を経験する時に神をたたえます。私たちの罪が、赦されている。神が一緒に歩んで下さっている。そのことの驚きの中で、神を讃えるものでありたいと願います。