「キリストを知る者」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第49章14-18節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章20-30節
・ 讃美歌:352、511、288
家に帰って
本日は マルコによる福音書第3章20節から30節を共にお読みしたいと思います。主イエスはカファルナウムの町から立ち退き、湖に行かれ、山に登られ、十二人の弟子を選んで使徒と名付けられました。その後再びカファルナウムに帰って来られました。そして「イエスが家に帰られると」(20節)とあります。主イエスは家の中に入られますが、ここでの家とはご自分の生まれ育った家を指しているのではありません。マルコによる福音書の第1章において、主イエスがご自分の弟子となったシモンとアンデレの家を、ご自分の住処となさったという記事があります。このシモンとアンデレの家は主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点となっておりました。少し前の1章29節にはこうあります。「すぐに一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。」とあります。主イエスのガリラヤの地における宣教の拠点のとなったのがこのシモンのアンデレの家であったということです。主イエスはこの家に帰り、休息し、くつろぐことを必要としておられました。シモンとアンデレも自分の家に帰ったので休もうとしました。しかし、休むことはできないのです。「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」(20節)とあります。群衆が家の中にまで押し迫ったのです。主イエスは押し寄せる群衆のためにご自分の休息さえも犠牲にされたと言えます。私たちはこの箇所から主イエスのそのようなお姿を読むことができます。主イエスはご自分も休まれ、弟子たちと親しく過ごそうと考えたけれども、そのようには出来ませんでした。そこには様々な意図を持った人が押し寄せて来たのです。
身内の人たち
その群衆にまざって、ある人たちが登場します。家に入られた主イエスのもとに大勢の人が押し寄せて来ております。けれどもこの人たちは必ずしも主イエスに好意を持っていたわけではないのです。本日の箇所の小見出しには「ベルゼブル論争」とあります。本日の箇所では、主イエスと律法学者の人々とのある論争が語られているのです。主イエスを否定しょうとする律法学者が来ていたのです。また、「身内の人たち」が来ていたのです。
まず「身内の人たち」ですが、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(21節)とあります。この「身内」とは、肉親、親戚、友人知人、近所の人たちを含めた言葉です。つまり、他の人たち以上に主イエスと近い関係にあった人たちということです。なぜ、ここで「身内の人たち」が来たのかと言いますと、主イエスの気が変になっているという噂が立っており、我慢できなくなって来たというのです。この「気が変になっている」という言葉は「エクセステー」という言葉です。この「エクセステー」という言葉は英語の「エクスタシー」という言葉の語源です。「エクセステー」の元の形は「エクスターシス」と言い、「自分の存在から外へ出てしまう」という意味の言葉です。自分の外に出てしまう、我を忘れる、我を失う、恍惚状態になる、おかしくなってしまう、という意味です。ただ自分の外に出るだけではありません。「身内の者たち」から見ると主イエスが自分たちの知らないところ行ってしまったと考えたのです。「身内の人たち」は、イエスの気が変になったという噂を本当だと思ったのです。
律法学者たち
また群衆の中にはエルサレムから下って来た律法学者たちもいました。この部分は「律法学者が エルサレムから来て 言っていた。」となっております。
律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、また「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っておりました。このように律法学者たちは主イエスのことを「ベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と断定しております。「ベルゼブル」とは、22節の律法学者たちの言葉にあるように、「悪霊の頭」です。当時、悪霊は人間に取りついていろいろな病気や障害を引き起こすと考えられていました。悪霊とは人間の生活を苦しめ、正常な生活を妨げる力です。その頭がベルゼブルと呼ばれていたのです。この律法学者の断定が、権威ある判断であるということが、この律法学者がわざわざ「エルサレムから来た」者であるとことによって強調されております。また、22節の「言っていた」という言葉も継続する動作を表す形ですので、律法学者たちが主イエスを頑なに否定し続けていたということが分かります。律法学者たちは主イエスの教え、またその存在を頑なに否定しており、また主イエスの身内の人たちは、主イエスと特別に近い関係であるがゆえに主イエスをまともな生活へと戻すためにと取り押さえるために来ました。けれども、ここでは、どちらにせよ、主イエスの本当のお姿、正しいお姿を見誤っていることにおいては同じなのです。
ベルゼブルに取りつかれている
主イエスは、このようにご自分のことを「ベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と呼ぶ律法学者に対して、また主イエスを取り押さえようとしている「身内の人々」に対して譬えをもって答えられました。これはマルコによる福音書において主イエスが最初に語った譬え話しです。23節以下です。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」と言われました。内輪で争っていたら、その国は成り立たない、ということです。サタンとは悪魔という意味です。サタン、ベルゼブル、悪魔と言われるものは人の心を乱すものであります。ベルゼブルという言葉のもとの意味は「家を支配する者」ということです。人の心の家を支配するのです。悪霊は神に背き、私たちを支配しょうとする力です。その悪霊の頭に対抗して主イエスが登場なさるのです。しかもそこで、「家」の話をされます。弟子のシモン・アンデレの家をわが家と定められた主イエスは、そこを拠点として、ひたすら神の国を語って伝道に励まれました。その主イエスが、ここで神の国、神のご支配を「家」にたとえて教えられるのです。神の国の支配が始まること、それは私たちにとって、真実の支配が、真実の家が与えられることを意味するのです。主イエスの語られた神の国の最初の譬えが、このように家の話しでした。主イエスは家をめぐってベルゼブルと争奪戦をしておられるのです。悪霊の頭であるベルゼブルとはわれわれの心を分裂させるものであり、その平和を乱す者であります。ここで神のご支配と悪霊の支配の間の全面衝突が起こっているのであります。私たちを真実の家に住まわせるための主イエスご自身の闘いです。人間を縛りつけるベルゼブルの力を主イエスが打ち破ろうとしているのだと語っているのです。
その上で、主イエスは続けて「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と言われます。ここで、主イエスは自らを強盗にたとえています。主イエス自身、強盗のようにしてこの家にやってくるのです。悪霊の頭よりも強い方として、私たち家を強力に支配している家の主を縛り上げるのです。私たちをとりこにしている「強い人」ベルゼブルを縛りあげ、その支配から解放してくださるのです。
聖霊を冒涜する者
家とは、私たちが寛ぐところです。けれども、私たちは家の中においても課題を抱えているかもしれません。ここでは、自分が解き放たれて、憩うところが家ということになります。28節において「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる」。ここでの人の子とは人間のことです。主イエスは「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」と完全な赦しを告げておられます。主イエスの赦しこそ、私たちの魂に寛ぎを与えるのです。主イエスの私たちのための戦いと勝利を信じ、それによる救いを信じるならば、私たちは、どんな罪を犯している者でも、赦されるのです。ここでは、こういうことをしても赦されるが、こういうことをしたら赦されない、と語られています。赦されない罪がある、と語られております。「聖霊を冒涜する者」は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うとあります。聖霊を冒涜する者とは、聖霊を汚す言葉、今ここで働いている聖なる霊を汚す言葉を語る者です。それは主イエスが汚れた霊に取りつかれていると思い込み、そう言い張る人々に対して語られたのです。主イエスご自身において働く霊を否定することです。聖霊を、汚れた霊であると言い張るのです。主イエスにおいて働いておられる霊が神の霊であるということを認めないのです。それが聖霊を冒涜することなのです。また、この「聖霊を冒涜する」という言葉は、聖霊を犯し続ける、汚し続けるという意味です。一回だけではないのです。主イエスは神の子などではない、主イエスによる罪の赦しを認めないとそう言い続けるのです。
ここで、主イエスは人間の罪を二つに分けて、一方に類する罪を犯してしまったら赦されるが、もう一方に類する罪を犯した場合は赦されないということを言っているのではありません。赦される罪と赦されない罪を区別しているのではないのです。ですから、何が普通の冒涜で、何が聖霊に対する冒涜かと分けて考えることは意味のないことです。又、自分の犯している罪は、果たして、聖霊を冒涜しているものなのかどうかと心配になることはありません。他人の行動を見て、あの人の行為は聖霊に対する冒涜に当たるなどと言うようなこともないのです。ここで言われているのは、罪や冒涜の言葉は全て赦されるということ。しかし、その赦しが与えられているのにも関わらず、それを受け入れないのであれば、その人は永遠に赦されないということです。聖霊に対する冒涜とは、与えられている赦しを受け取らないことです。主イエスの十字架と復活によって示された神の国の支配を知らされながら、それを自分の外に置き続けることです。
主イエスの十字架において
主イエスの十字架と復活の出来事こそ、神の国の支配を知らせる出来事であり、私たちをベルゼブルという悪霊から解放するものなのです。主イエスは悪霊、サタンに支配された人々の救いのために、十字架に赴かれたのです。ベルゼブルの働きによって、私たちはいつも自分の心の内で、自分の支配が及ぶところを建てようとします。しかし、主イエスは、私たちが自分自身で支配しようとしている家の中に押入って下さり、主イエスご自身が戦って下さるのです。主イエスの十字架の死は、人間の支配の下で、人間の手によって、主イエスが縛り上げられているかに見えます。しかし、そこでこの方が、十字架の死を歩んで経験して下さり、その十字架の死からの復活によって、死の力に完全に勝利してくださっているのです。この主イエスの業、主イエスの御言葉において、本当に縛り上げられているのは、私たちの罪そのものです。私たちの罪こそが私たちの家の主として君臨しているベルゼブルそのものなのです。
主イエスが私たちの家に押し入って下さいました。この出来事こそ、主イエスがこの地上に来られ、十字架にかり、私たちを罪から赦してくださる出来事です。それは、主イエスによって世に来ている神の国の支配を受け入れることです。神のもとから世に来られた、主イエスによってもたらされる、赦しを受け入れることです。
神の支配の到来
主イエス・キリストは既に悪霊の、サタンの力を打ち破り、勝利して下さっているのです。それによって、神の国がわたしたちのところに来ているのです。そのことを信じ受け入れること、それが、主イエスがここで私たちに求めておられることです。そしてそれこそが、ファリサイ派の人々が拒否したことだったのです。彼らは、主イエスにおいて、神の霊が働き、悪霊が打ち破られている、それによって神の国が到来している、ということを認めたくないのです。受け入れたくないのです。だからこのように、主イエスの業をベルゼブルによるなどと言っているのです。主イエスにおいて確かに、悪霊の力が、神の霊の力によって打ち破られ、神の国が、即ち神のご支配が私たちのところに到来しているのです。
神の支配を受け入れるというのは、主イエスが建てて下さる家を建てるものとされるということです。この地上における、主イエスの支配は、主イエスによって到来した神の支配を受け入れるものたちによって続けられるのです。主なる神は、主イエスによって罪赦されたものたちに聖霊を注ぎ、そのものたちを通して、神の支配、主の家を建てておられるのです。
神が生きておられ、愛をもって支配しておられるということを信じるところにこそ、私たちの真実の寛ぎがあります。私たちを真実の神の寛ぎの家に招くためにこと、主イエス・キリストはこの地上に来られたのです。神の国の支配を受け入れ、主イエスによる赦しを受けつつ歩む歩みは、神様によって与えられる命に生きる歩みです。そのような主イエスの立てて下さる家、支配において、私たちは真実の安らぎ、寛ぎを得るのです。