「罪人を招く」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第58章1-12節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章13節-17節
・ 讃美歌: 203、507、197
はじめに
本日はマルコによる福音書第2章13節から17節を通して神様の御言葉に聞きたいと思います。本日与えられました箇所が伝えているのは、主イエスの弟子となった人の出来事です。信仰者とは、主イエスに招かれて弟子となった者です。本日の物語は、私たちの信仰の先達である者が、主イエスに出会い、その弟子とされていった出来事です。私たちはこの出来事から、主イエスの弟子とはどういう存在であるのかということを知ります。そして、それは同時に、私たちの主であるお方、イエス・キリストが、どういうお方であるかということを知ることになるのです。主イエスは、ご自分がこの世界に来られた目的をはっきりと告げて言われました。17節で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と主イエスは言われました。主イエスはこの目的のためにこの世を歩まれました。
収税人レビ
13節「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。」とあります。「再び」とありますので、何度かこのようなことが繰り返されたのでしょう。本日の箇所より少し先の4章の始めにも「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。」とあります。本日の箇所も主イエスが湖のほとりで教えられた姿を描いています。「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」とあります。このカファルナウムで、主イエスは会堂でも説教をされ、民家の中でも説教をされました。そして、湖のほとりでも御言葉を語られました。神のご支配を語り続けました。湖から帰る途中で収税所の前を通りました。カファルナウムには、今日の税関が置かれておりました。支配者はこの場所に関所を設けて、出入りする品物に税金をかけて取り立てておりました。その収税所にレビという男が座っていました。このレビという人はどういう人であったのか、この人の状況を知る手がかりは「収税所に座っている」(13節)という事実だけです。収税所に座っていたということは、税金を取り立てることを仕事としていた徴税人だったのです。道行く人々の中から、税金を取り立てるべき者たちを見逃すことのないように仕事に励んでいたのです。当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配の下に置かれていました。徴税人とは、支配者であるローマに納めるために、税金を取り立てる仕事を請け負った人たちなのです。ローマの支配は実に巧妙な仕方です。税金の取り立てを同じユダヤ人に任せることで、支配者への恨みや憎しみを逸らすのです。そのことにより過酷な税金の取り立てに対する不満は、敵国ローマの手先になっている徴税人に向けられました。もしそれだけなら、進んで徴税を請け負う人などいなかったでしょう。しかし、人々の不満を受ける徴税の仕事にはある利益がありました。ローマに納める税金の金額は決まっており、もしそれ以上集めることができたなら、差額は自分のものにすることを認められていました。ローマ帝国の権力を笠に着て、易々と自分の私服を肥やすことのできるのが、この徴税人の仕事でした。過酷な税金の取り立てをすれば、それだけ自分の収入が増えることになるのです。徴税人が築いた財産はすべて同胞であるユダヤ人から容赦なく取り立てたことの証しになります。これでは同じユダヤ人からよく思われるはずはありません。蓄えが増えれば増えるほど、どんどん孤独になっていくのです。財産が増えれば増えるほど人々からの不満を受けていたのです。それがエスカレートし、誰も人間扱いしてくれなくなるのです。やがて、徴税人といえば、罪人の代表のように見なされるようにさえなりました。
主の招きによって
レビ自身にそのような状況があったかどうかというのは分かりません。そのような生き方に嫌気が差していたかどうかということも分かりません。むしろ、同胞から憎まれれば憎まれるほど、築き上げた財産だけが頼りになり、更にお金を集めることが生き甲斐になっていたのかもしれません。やがてそのような生き方の中で開き直ってしまっていたのでしょう。恐らく、友達と呼べる相手など一人もいなかったでしょう。話ができるのは、同じ仕事に就いている仲間たちぐらいのものです。もっとも、仲間と言っても、心を割って本音で話し合える相手ではなかったでしょう。そして、自分以外の周りの者たちには心を閉ざし、その苦しみや痛みにも無関心になってしまうのです。彼は孤独の中に座り込んでしまっていたのではないでしょうか。しかし、そのようなレビが生まれ変わるときが来たのです。主イエスが通りかかって、収税所に座っているレビに目を留められました。主イエスはただ座っているレビをご覧になりました。そして、レビ自身が求めていたかどうかにかかわらず、主は一方的に声をかけられたのです。14節「わたしに従いなさい」と言われたのです。この主イエスの招きのお言葉にこのような意味が含まれています。そこは、つまり収税所はあなた、レビのいるべき場所ではない。あなたは神の御前から失われて、そんなところでただ独り、座り込んでいてはならない、さあ「わたしに従いなさい」と主は言われたのです。そして「彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。主イエスの招きの言葉によってレビは立ち上がりました。新しい一歩を踏み出したのです。これまで自分の財産を少しでも増やすことに関心がありました。けれども、今主イエスに従う歩みを始めるのです。レビは立ち上がって主イエスに従いました。
食卓の交わり
主イエスに従い弟子になったレビが最初におこなったことは、自分の家に主イエスと弟子たちとを招いて盛大な宴会を催しました。そこには大勢の徴税人や罪人たちも同席していました。ユダヤの人々は、一緒に食事をすることを、とても大事にしました。「食卓の交わり」と言って、同じテーブルで一緒に食事をすることは互いに親しい関係であるというしるしです。15節に「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。」とあります。そこでは多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していました。大勢の徴税人や罪人たちとは、律法を守らないで生きているためにユダヤ人からのけ者にされていた人たちです。主イエスはこのように徴税人や罪人、律法を守らないで生きている人と食事を共にしていることについて、非難をされます。ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスに「徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われたのです。(16節)ファリサイ派の律法学者は主イエスに直接聞かず、一緒にいた弟子たちに尋ねたのです。尋ねたというより咎めたのです。律法学者は律法の専門家です。律法学者やファリサイ派の人たちは神の掟である律法を忠実に守り、「正しく」生きることを求めた人たちです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉から来た呼び名だと言われております。律法学者やファリサイ派の人々はこう考えておりました。自分たちこそ神の掟である律法を忠実に守り、神の民として正しく生きる者であると考えておりました。それゆえに、律法を守らない人たち、また守れない人を蔑んで「罪人」と呼びました。自分たちはその汚れを受けることのないようにと、律法を守れない人たち、守らない人たちとの交わりを拒絶して、自分たちを罪人から分離したのです。それほどにファリサイ派は熱心であったということが言えます。神の掟、神様の言葉について、それは神様について熱心であったということです。その時に、神様について熱心ではない人、律法について熱心ではない人を自分と区別することで、自分との正しさを確保したのです。私たち皆がしていることです。自分の正しさを確保するために、自分とは違う人を非難してしまうものです。けれども、いつも自分が退けている人々の中に主イエスを見つけた時に、ファリサイの律法学者にはそれが耐えがたいものでした。批判する格好の材料だとおもいました。レビが招いたことによって主イエスに対する批判が生じました。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)とおっしゃいました。主イエスが「罪人を招くため」に来たとおっしゃるのです。ところが主イエスはここで招かれておられます。招いているのはレビです。当時、主イエスのように旅をする説教者は自分の教えを受け入れた人々の家に招かれて食事にあずかるというのが恒例でした。主イエスはここで、「わたしは罪人に招かれるために来た」とおっしゃっても良いぐらいのことです。けれども主イエスは「、罪人を招くためである。」と言われました。レビは主イエスを迎えながら、主イエスに迎えられている喜びを味わっています。ここでレビは招待する者ではなく、招待される側、お客さんになっています。レビは主イエスに声をかけられ、弟子となることができたことを喜んでこの宴会を催しているのであります。主イエスというゲストによって、初めて自分の催し、ここでは食卓が真実の祝福の中に置かれるのです。そのことを信じ、喜んでおります。これは食卓における食事だけではありません。レビは喜び驚いたことは、これまで今まで見たことがないような眼差しが、自分の生活に、自分に向けられているのです。このような歩みをしてきた自分が、「わたしに従いなさい」と招かれ、祝福されたのです。主イエスはいつでも弟子たちを召すときには「わたしに従いなさい」と言われました。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネに人生の大転換が起こったのです。彼らは漁師という職業を捨て、レビは徴税人という仕事を捨てました。しかし、主イエス・キリストに従うことが単なる職業の変更ではなく、もっと深い内面からの変革であることが、レビを通して私たちに示されます。レビは徴税人として生きてきたそれまでの歩みから離れ、主イエスの弟子となりました。自分は罪人ではない、神様に赦してもらわなければならないような者ではない、という自負、プライドを捨てて、自分が病人であることを認めて、主イエスによる治療を受ける者となることが主にイエスに従う歩みです。主イエスのこのお言葉は私たちに対する問いでもあります。このお言葉を聞いて、「イエス様はかわいそうな病人である罪人たちを癒すために来られたのだな。私は病気でなくてよかった」と思うのか、「イエス様私こそ、あなたに癒していただかなければならない病人です。罪人である私をどうか救って下さい」と告白して主イエスに従っていくのかということが問われます。
罪人を招く主
主イエスの言われた「わたしが来たのは、罪人を招くためである」とは主イエスが、罪人を招いて下さっていることです。病人である私たちが、医者である主イエスを招いて、往診をしてもらうのではないのです。私たちは招いてはいないのに、このファリサイ派の人々と同じように自分が病人、罪人であることに気付いてすらいなかったのに、主イエスの方から私たちのところに来て下さり、私たちを招いて下さったのです。レビは、主イエスによる救いを求めていたのではありません。彼は普段の日と同じように、収税所に座っていたのです。そこに主イエスが来られて、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さったのです。それは、彼に対する主イエスの招きのみ言葉でした。彼はこの招きに応えて立ち上がり、何もかも捨てて従って行ったのです。どうしてそんなに簡単に何もかも捨てて従っていくことができたのか、その理由はただ一つ、主イエスが招いて下さったからです。彼が何を悩み、考え、決断したかは大した問題ではありません。そのような人間の思いの中から信仰が生まれるわけではないのです。レビがそうだったように、私たちも、主イエスご自身が、「わたしに従いなさい」と招いて下さることによってこそ、悔い改めることができるのです。主イエスの招きは、ただ言葉だけで与えられているのではありません。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さいました。私たちの罪はこの主イエスの十字架の死によって赦されたのです。ご自身の命を私たちのために与えて下さる、その恵みによって主イエスが招いて下さっているから、私たちは悔い改めて主イエスに従っていくことができるのです。
主イエスこそが私たちを招いて下さっている。そのことが見えてくると、レビがここで催した盛大な宴会の本当の意味も見えてきます。この宴会は、レビが催したものです。彼が主イエスを招き、またそこに徴税人の仲間たちや、罪人たちをも招いたのです。そのようにして催されたこの宴会はしかし、「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という主イエスのみ言葉によって、主イエスご自身がレビを、そして多くの徴税人や罪人たちを招いて下さる宴席となりました。主イエスこそがこの宴席の主人として、罪人たちを招き、導いて下さるのです。レビに招かれて宴席についたすべての者たちも同様です。主イエスは彼らの病を癒す医者となってくださることによって、彼らの主となってくださったのです。主イエスの招きに応えて、古い自分と訣別し新しく生まれ変わることの印である洗礼です。そして聖餐とは、主イエスの恵みを味わう喜びの宴にあずかりつつ生きることです。そのような主イエスに従っていく歩みが弟子、信仰者の歩みです。