「わたしだ」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第6章45-56節
・ 讃美歌:127 、474
<恵みの体験>
先週は、主イエスが弟子たちを用いて、五千人以上の大勢の群衆に、五つのパンと二匹の魚を与え、すべての人が食べて満腹したこと。残ったものを集めると、十二の籠に一杯になった、ということを聞きました。
このことを通して、主イエスがまことに神の御子、救い主であること。また、ご自分のもとに集められた羊を、豊かに養い、満たして下さる羊飼いであることが示されました。
主イエスのもとに集められるのは、新しい神の民、教会です。わたしたちもまた、この主イエスのもとで、恵みを豊かに受け、養われ、導かれている群れです。
主イエスを救い主と信じ、洗礼を受け、主イエスに従って歩む者たちは、たくさんの恵みを経験します。自分の力や、人の力や、世の何かによっては決して得られない、平安や、慰めや、励ましを経験します。十字架の死と復活によって、罪にも、死にも、すべてに勝利された主イエスによってしか与えることのできない、恵みです。
決して癒されることのないような傷も、耐えられないと思われるような苦しみも、わたしたちには絶望でしかない死も、主イエスはすべてをご存知です。しかも、ご自分がそのすべてを担って下さり、十字架の死にご自分を引き渡されたのでした。そして、神は主イエスを死者の中から復活させられました。
そのようにして、救い主である主イエスは、わたしたちの傷を癒し、わたしたちの罪を赦し、わたしたちに新しい復活の命を与えて下さったのです。
わたしたちは、御言葉によって、その恵みを与えられ、立ち上がらせていただきました。涙をぬぐっていただきました。希望を与えていただきました。教会に連なる人々は、そのようにして、主イエスと共に歩んでいます。
主イエスを信じれば、良いことばかり起こるとか、困難がまったく無くなる、というのではありません。しかし、主イエスが共にいて下さるなら、わたしたちは必ずこの方に支えられて、導かれて、与えられた道を歩み通すことが出来るのです。
その恵みを経験する時、わたしたちは神を讃え、心から感謝し、主イエスへの信頼をますます強められます。いつも、主イエスが共にいて下さる喜びに溢れます。
ところが、わたしたちは何と自分勝手で忘れっぽいのかと思いますが、しばらくするとそのことを忘れてしまい、また困難が降りかかると、いつも共にいて下さる主イエスのお姿が、簡単に見えなくなってしまうのです。
今日の箇所も、そのようなわたしたちの姿、教会の姿と、しかしなお、わたしたちのために祈り、共にいて下さる主イエスのお姿が現されています。
<パンの奇跡の後で>
45節には「それからすぐ」とありますが、これはその直前に語られていた、五千人に食べ物を与えた出来事と結びつく物語であることを示しています。
弟子たちは、主イエスが自分たちに五つのパンと二匹の魚を配らせることで、五千人以上もの人が満腹になり、なおかつ十二籠もあまった、という驚くべき奇跡を体験しました。
当然、十二人の弟子たちもお腹いっぱい食べたでしょうし、満ち溢れる恵みを体験して、主イエスがやはり力ある方であることを、改めて強く思ったに違いありません。
ところがこの奇跡のすぐ後、主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダという場所に行かせた、とあります。そして、その間に群衆を解散させられたのです。
なぜこのようにされたのでしょうか。
ヨハネによる福音書6章の、同じ物語が語られているところには、このようにあります。
パンの奇跡の後、「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
主イエスは、すべての人の苦しみと罪を担い、ご自分の命を献げ、そのことによって罪の赦しを与えるために来られた救い主です。しかし、ユダヤの人々は、もっとこの世的な救い主、自分たちの地上の王国を再建し、繁栄させてくれるような、英雄的な王さまを求めていました。
人々は、主イエスが十字架の苦しみを受けるために来て下さった救い主であることを理解することが出来ません。彼らは、自分たちをわずかな食べ物で満ち足らせてくれた主イエスを、自分たちに利益を与えてくれる、自分たちが求めるような王さまに担ぎ上げようとしたのでした。
それで、主イエスは弟子たちが群衆に巻き込まれないように、弟子たちを群衆から遠ざけようと、舟に強いて乗せて先に行かせ、その後にご自分で群衆を解散させられたのでしょう。
そうして、主イエスは群衆と別れてから、祈るために山へ行かれたのです。
<逆風>
そうして47節に「夕方になると」とありますが、弟子たちを乗せた舟は、夕方になってもまだ湖の上にありました。そして、主イエスはそのまま陸地におられました。祈り続けておられるのでしょう。
舟はずっと逆風に悩まされ、弟子たちは漕ぎ悩んでいました。弟子たちの中にはプロの漁師もいましたが、そんな彼らでも手に負えない、大変な逆風だったのです。
このようなシーンは、マルコ福音書の4:35以下にもありました。この時は主イエスも一緒でしたが、やはり主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちを舟に乗せて、漕ぎ出したのでした。
そこに、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになります。しかし、主イエスはその舟の艫の方で眠っておられるのです。弟子たちは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、激しく主イエスを非難しました。
主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になった、という出来事でした。弟子たちは「この方はどなたなのだろう」と言い合った、とあります。
しかし今回は、主イエスは舟に乗っておられません。
今、弟子たちには「助けて」と救いを求める相手がいないのでしょうか。弟子たちは自分たちで何とかしなければならないのでしょうか。
実際、彼らはなんとか自分たちで向こう岸に辿り着こうと、必死になって漕いでいます。そして一晩中漕いでも、とうとう辿り着けず、夜明けになってしまったようです。
弟子たちは、舟で漕ぎ出すたびに、このような目に遭っています。しかもこれは、どちらも主イエスが弟子たちを舟に乗せたのでした。
主イエスに従う時、弟子たちはそのために困難や、逆風や、嵐に遭います。それはわたしたちの信仰の歩みであり、世にある教会の歩みです。
わたしたちは、主イエスのものだからこそ、主イエスに逆らう者や、反抗する者たちに苦しめられ、悩まされることがあります。また、信仰を持っているからこそ、思い悩み、困難を覚えることがあるのです。
しかし、その苦しみは、主イエスに従った者が、教会が、主イエス・キリストのものだからこそ、罪の赦しを与えられ、永遠の命を受けた者だからこそ、その恵みに生きるからこそ、遭遇する苦しみや困難です。
そうであるならば、わたしと一つになって下さっている、教会の頭である主イエスが、ご自分の命を捨てて救って下さった方が、わたしを、教会を、救って下さらないはずはないのです。共におられないはずはないのです。
主イエスが漕ぎ出させた舟は、信仰の歩みは、主イエスご自身が前進させ、主イエスが必ず目的地に辿り着かせて下さるのです。
<幽霊だ>
さて、48節には、陸地におられた主イエスが、「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。
主イエスは、陸地で祈っておられ、弟子たちと一緒に舟には乗ってはおられませんでした。しかし、主イエスは、弟子たちのことをずっと祈りの中で見ておられたのです。弟子たちのことを父なる神に祈っておられたのです。
主イエスは、その父の御心に従い、すべての人の罪を赦し、救いの御業を成し遂げるために祈っておられます。また、主イエスの救いの御業を宣べ伝えさせるために、弟子を選び、召し出し、地の果てまで、主イエスの証人として遣わすために、備えさせておられます。
主イエスの祈りには、いつも弟子たちが覚えられています。弟子たちにとって、お姿は見えないとしても、これ以上に力強い支えはありません。
今、わたしたちも、教会の歩みも、復活し、天に上られた主イエスのお姿を、この目で見ることはできません。しかし、聖霊によって、主イエスはいつも共にいて下さり、いつも神の右の座で執り成して下さっています。わたしたちのために祈り、支え、導いて下さっているのです。それは、わたしたちにとって、何よりも確かで、何よりも力強い支えであり、何よりも頼るべきことなのです。
しかし弟子たち、わたしたちは、目の前の逆風に捕らわれ、すぐに主イエスのお姿が見えなくなってしまいます。
これを何とかしなければ、何とか漕ぎ進んで、岸に辿りつかなければと、神に祈ることもなく、主イエスに助けを求めることもなく、ただただ自分たちで苦悩し、漕ぎ悩み、逆風を前に苦しんでいるのです。苦しみに目を奪われ、わたしを見つめて下さる眼差しを忘れてしまうのです。
主イエスは、そのような弟子たち、わたしたちの、弱く情けない信仰の姿を見つめておられます。祈りに覚え、見つめ、支えて下さっています。
しかしなお、信じることが出来ない者たちのために、主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来て下さるのです。
湖の上を歩く、というのも、この方がまさに神の力を持つ方であることを指し示しますが、それはわたしたちの思いを超えた仕方で、救いを与えて下さるということです。
わたしたちの目に、どんなに不可能に思えるような妨げがあっても、困難があっても、主イエスはそれをものともせずに、わたしたちのところに来て下さるということです。
48節には主イエスが「湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた」とあります。助けに来て下さったはずなのに、そばを通り過ぎられる、というのは、少しおかしな感じがします。
でも旧約聖書では、神がご自身を現される時や、共にいて下さることを示して下さる時に、罪深い人間は直接神のお姿を見ることは出来ないので、通り過ぎることで、ご自身を示して下さったことが語られています。
湖の上を歩いて、弟子たちを通り過ぎようとされた主イエスのお姿は、まさにこの方が神の御子であり、その栄光と力を、弟子たちに現わして下さった、ということなのです。
ところが、弟子たちの反応はどうだったでしょうか。49~50節に「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」とあります。また「皆はイエスを見ておびえたのである」とあります。
弟子たちは、湖の上を歩く人影を見て、「わーっ!幽霊だ!!」と叫んで、おびえまくったのです。少し滑稽にも思えてしまう描写です。
でも、想像してみて下さい。弟子たちは、夜の間ずっと逆風に悩まされ、まだ轟々と逆風が吹きつける中、どれだけ頑張って漕ぎ続けてもどうしようもなく、疲れ果てています。そこに、夜が明けるころ、まだ暗闇が濃い湖の上を、何かが歩いて通り過ぎていく。それが得体の知れないものだったら、どう考えても怖いと思います。でも、弟子たちは、「イエスを見ておびえた」とあります。主イエスのお姿を見たのです。でも、主イエスだと分からなかったのです。どうして、弟子たちは主イエスだと分からなかったのでしょうか。
それは、弟子たちが、主イエスはここにはおられない、と思い込んでいたからではないでしょうか。弟子たちがまったく、主イエスを見つめようとしていなかったから。主イエスの御力を頼っていなかったからではないでしょうか。
前回の嵐の時は、舟の中に主イエスが一緒におられました。その時は、一緒におられる主イエスを起こし、「わたしたちが溺れても、滅びてしまってもかまわないんですか!」と主イエスを責めて、あなたが何とかして下さいと詰め寄ったのです。
しかし今回は、主イエスは一緒におられませんでした。弟子たちは、離れて陸地におられる主イエスに助けを求めるなど、思いもよらなかったかも知れません。心の中に、主イエスを頼る思いがまったくなかった。あの方のせいで、またこんな目に遭った、という思いはあったかもしれません。しかし、ここにはおられない。今は、ただ自分の力に頼り、この困難を何とかしなければならない。そう思っていたから、主イエスが来られても、お姿を見ても、分からなかったのではないでしょうか。
もし少しでも、「主よ、助けて下さい」、「主よ、わたしたちを目的地へ導いて下さい」と心で願ったならばどうだったでしょうか。必死に求める助けです。もし、その求める中に、主イエスが湖の上を歩いて来られたなら、「まだ驚くべき御業で助けに来て下さった」「この力ある方が来て下さったからもう大丈夫だ」と、姿を見つけ、安心し、喜んだのではないかと思うのです。
しかし、主イエスの助けなど思いもしなかった。ただただ自分の力で何とかしようとし、しかしどうにもならず、打ちひしがれていた。それで彼らの目は塞がれ、主イエスのお姿に怯え、「幽霊だ」と大声で叫ぶしかなかったのではないでしょうか。
<わたしだ>
主イエスは、おびえる弟子たちに、すぐ話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
そうして、舟の中に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは心の中で非常に驚いた、とあります。そして、52節には「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。
つい先ほど、弟子たちは自分たちが用いられて、五千人以上の人々を、五つのパンと二匹の魚で満ち足らせるという、主イエスの奇跡の御業を目撃したところでした。主イエスの満ち溢れる恵みを、神の御力を、深い憐れみを体験したところでした。
しかし「この方がどなたであるか」を、まだ理解できないのです。心が鈍いのです。悲しいほどに、弟子たち、わたしたちの心は鈍いのです。恵みをすぐに忘れ、主イエスが救いを与えて下さることに信頼できず、自分の力に頼り、疲労困憊しているのです。
しかしそれでも主イエスは、来て下さいます。共にいて下さいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、すぐ、いつも、わたしたちに語りかけて下さるのです。
「わたしだ」という言葉は、今日お読みした出エジプト記の3:14をギリシア語にすると、神がモーセに対して「わたしはある。わたしはあるという者だ」と御自分の名を現わされた、「わたしはある」と同じ言葉です。新しい聖書協会共同訳という聖書では、「私はいる」と訳されていました。生きておられる神が、「私はいる」と名乗り、語りかけて下さる場面です。
そして、この天の父なる神に遣わされた救い主、まことの神の御子である主イエスが、またここで「わたしだ」「私はいる」と語りかけて下さるのです。
信じることが出来ない、忘れっぽい、心の鈍いわたしたちに、「わたしだ。わたしはいる。あなたと共に、わたしはここにある。だから、安心しなさい。恐れなくてもよいのだ」。そういって、ご自分を現して下さり、語りかけ、逆風を静め、向かうべきところへと導いて下さるのです。
<神の御子に祈られて>
さて、53節には、こうして一行はゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ、とあります。そこにも主イエスの力ある御業を知った人々が大勢いて、どこでも主イエスがおられると聞けば、病人を運んできた、とあります。病の人々は皆、癒されました。
しかし、ここでも人々は、主イエスの評判は知っていても、主イエスが宣べ伝えておられること、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」「神の許に立ち帰り、神のご支配を受け入れて、神に従って歩みなさい」ということを、何も理解していないのです。
ただ、その病の癒しだけが欲しい。自分の願いを叶えて欲しい。その思いによって、主イエスのところに集まっているのです。
ですから、主イエスが十字架に架かられる時には、主イエスの許に来た者は誰もいませんでした。
もっとも厳しい逆風の中を歩んでおられるのは、主イエスご自身です。人々の無理解、ユダヤ人指導者たちの殺意、そして、心が鈍い弟子たち。
しかしその中で、主イエスはひたすら父なる神に祈りつつ、これらのご自分を悩ませ、苦しませる者のために、救いの御業を成し遂げてくださるのです。逆風の中を、父なる神に従い抜き、歩むべき道を歩み通して下さるのです。
わたしたちは、多くの信仰の苦しみ、悲しみ、思い悩みを抱えます。しかし、それは主イエスが、困難を十字架の死に至るまで歩み通して下さることによって、救いを与えられた者だからこそ。わたしたちが、主イエスに結ばれ、神のものとされたからこそ、遭遇することなのです。
わたしたちは、まず、主イエスによって驚くべき恵みを受けて、満ちて余りあるほどの恵みを受けて、主イエスに招かれて、主イエスの弟子とされたこと。罪を赦され、新しい命を与えられたことを、思い起こさなければなりません。
そして主イエスは、いつもわたしたちのために祈り、見つめ、共にいて下さっているのです。わたしたちは、この方に頼るなら、この方が共にいて下さるなら、この方が祈っていて下さるなら、どんな逆風でも、安心して良いし、恐れなくて良いのです。「わたしだ」「わたしはいる」。主イエスがそう言って、共にいて、導いて下さいます。
今日あずかる聖餐は、パンと杯を通して、まさに、生きて天におられる主イエスが、その裂かれた肉と、流された血によって、わたしたちをご自分のものとして下さったこと、主イエスの体に一つに結ばれていることを覚える時です。そして、この主イエスのパンによって、わたしたちの信仰は、豊かに、溢れ出すほどに恵みを受け、養われていくのです。
この恵みに、すべての人を招こうと、主イエスはここに集められた一人一人の名を呼んでおられます。
「安心しなさい。わたしだ。わたしがいる。あなたと共にいる。恐れることはない」
この主イエスの御声は、いつも御言葉を通して聞こえてきます。どんな逆風でも、わたしたちは、主に養われる教会の群れは、いつもこの方と共にあり、この方を見つめているなら、安心して、恐れずに、歩んでいくことが出来るのです。