「つまずく人々」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第46章8-13節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第6章1-6a節
・ 讃美歌:288、294
<この方はどなたか>
マルコによる福音書は、約2000年前に、確かにユダヤの地に生きておられ、十字架に架かって死なれた、ナザレ村のイエスという方がどなたなのか、ということを語っています。
マルコが1:1で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出すように、この方を「神の子イエス・キリスト」と証しします。イエスという方は、人の罪を赦すために、神が遣わして下さった神の子である。そして、旧約聖書の時からの神の救いの約束を実現する、救い主である。そう語っているのです。
4章35節から5章にかけて語られて来た、いくつかの奇跡の出来事は、そのことを証しする「しるし」です。湖の突風を静めたこと、「大勢」という名の悪霊を追い出したこと、出血の止まらない病の女性を癒したこと、そして、死んだ会堂長の娘を生き返らせたこと。主イエスは、恐れや、苦しみや、悲しみの中にあり、必死にもがいて救いを求めている人々に、守りと、癒しと、喜びを与えて下さいました。
この方は、すべての人を救うために、すべての人の罪を担い、死から解放し、神の恵みのご支配を実現するために、まことの神でありながら、まことの人となって、この世に来て下さった方なのです。
でもはっきり言って、このようなことは信じがたいことです。神の子が人となって世に生まれる、なんていうことがあるんでしょうか。神の子が人の罪を赦すために、死から解放するために、代わりにその罪を担って、十字架刑という苦しく悲惨な刑で死なれる、などということが、あるのでしょうか。死者の中から復活するなんて、あるのでしょうか。
しかしこれらは、わたしたちが納得したり、理性で合理的に理解したりして、把握する事柄ではありません。わたしたち人間の思いを超える、神のご計画、神の御業です。わたしたちは、この恵みを信じなさい、受け入れなさい、と言われているのです。
でもそれは盲目的に、こう言われてるんだから、鵜呑みにしなさい。とやかく言わず黙って、何も考えずに受け入れなさい、ということではありません。思考停止を促すものではなく、人間の知識や理屈で、主イエスを知ることは出来ない、ということです。
神は、主イエスは、生きておられる方です。今も働いておられ、人に語りかけて来られる方です。わたしたちは、聖霊に導かれて、この方と聖書の御言葉を通して出会い、語りかけられます。礼拝し、祈ることで、返事をし、交わることが出来ます。そういう意味で、人と人が出会って、共に過ごし、語り合って、お互いを人格的に知っていくように、神はご自分を低くしてわたしたちと交わって下さり、御自分のことを知らせて下さるのです。
そのために、主イエスはこの世に来られました。このイエス・キリストというお方を、わたしたちは交わりの中で、関係の中で、本当に「知る」ということが出来るのです。そして、主イエスのなさって下さった御業が、出来事が、わたしの慰めのためである、わたしの救いのためである、と知るのです。この方が人となってお生まれになったことが、この方の十字架の死が、この方の復活が、すべてわたしと関わりのあることなのです。
しかしそのためには、わたしたちは、自分の思いや、考えや、思想・哲学などで、この方を客観的に把握しようなどとすることを、止めなければなりません。一歩引いたままで、主イエスとの関係は築けません。それは、会ったこともない人のプロフィールだけを読んで、想像して、その人物のことを知っているつもりになっているようなものです。
わたしたちは、聖霊のお働きによって、今も生きておられる主イエスと出会い、語りかけを聞き、それに答え、この方との関係が与えられていく中で、恵みを与えられていく中で、この方がどなたか、ということが本当に分かっていくのです。
そうして、この方こそ、わたしの救い主だ。救いのために、わたしたちのところに人となって来てくださった、神の子だ、と知ることが出来るのです。
<故郷のナザレで>
今日の聖書箇所は、主イエスの故郷のナザレ人々が、主イエスにつまずいてしまったことが語られています。最後の6節に主イエスが「人々の不信仰に驚かれた」と出てきます。主イエスを信じ、頼り、受け入れることが出来なかったのです。
しかし、ナザレの人々の不信仰は、誰にでも当て嵌まることかも知れません。
主イエスの故郷は「ナザレ」という村です。幼少期から、伝道を開始されるまで、ここで数十年も暮らしておられました。それまで、主イエスは家族と一緒に、家業の大工をしながら、村で普通に生活なさっていたのです。
そして、マルコ福音書の2:9には「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とあります。ここから、主イエスが救い主として、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの御業などを行ない、すべての人の罪の赦しのために十字架へと向かって行く歩みが始まりました。それは、だいたい主イエスが30歳くらいの時だったと考えられています。
そうして、ガリラヤ湖畔で活動し、カファルナウムや異邦人の地であるゲラサにも行かれたことが語られてきました。そして今日の箇所で、再び主イエスは故郷のナザレに戻ってこられたのです。
でもこれは、伝道の旅に疲れたので、ちょっと実家に帰省しよう、ということではなかったでしょう。6:1に「弟子たちも従った」とありますので、主イエスは故郷でも「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」ということを、人々に教えようとして、ナザレに行かれたのです。
2節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った」とあります。
マルコ福音書の1章21節以下にも、主イエスがカファルナウムという場所で、安息日に会堂に入って教えられたときのことが語られていました。
カファルナウムでも、人々はその教えに非常に驚いて、「権威ある新しい教えだ」と言いました。主イエスは、人々に尊敬されている律法学者たちのような、人の権威によるのではなく、救い主として、神の権威をもってお語りになったからです。それは、今まで人々が聞いたこともないような、新しい教えでした。そして主イエスのことはたちまち評判になりました。
そしてナザレにおいても、主イエスは力強い神の権威によって、人々が驚くような、新しい教えを語られたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じないさい」との、救いの宣言であり、神の恵みへの招きです。
ナザレの人々も、これまでの人々と同じように驚きました。
しかし彼らは、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と言って、そこに神の権威を見るのではなく、このようなことを語ることが出来るのはどうしてだろうか。大工の息子が、どこでこのような知恵を得たのだろうか。すばらしい奇跡などを、どうして起こせるのだろうか。そのように、驚きと疑問を抱いたのです。
<イエスにつまずく>
ナザレの人々は、神の権威に恐れを抱いたり、「この方はどなたなのだろう」と問いを抱いたりはしませんでした。
それは、彼らが「このイエスという人が誰かを、自分たちは昔から知っている」と思い込んでいるからです。そのよく知る人物が、神の権威を持つなど、全く考えられないのです。
ナザレの人々は、自分たちの知っている知識や記憶の中から、この新しい教えを語り、奇跡を行なうナザレ村のイエスについての答えを出そうとしました。
「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」
ナザレの人たちは、主イエスのこと、その家族のことをよく知っています。マリアの夫ヨセフは大工でした。ヨセフの名前がここには登場しないので、この時にはすでに世を去っていたのかも知れません。
しかし、ここで主イエスが「マリアの息子」と呼ばれているのは、不自然なことです。当時は、人を呼ぶときに父親の名を言うものであり、たとえ亡くなっていたとしても、「ヨセフの息子イエス」と言われるのが通常なのです。これはおそらく、処女であったマリアがヨセフと結婚する前に主イエスを身ごもったということを人々が知っており、ある疑惑や批難、軽蔑を込めた言い方に感じられます。
また、村の人たちは主イエスの兄弟一人一人の名前も人も、よく知っています。また「姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」というのは、村の中で妹たちが結婚していることを指していると思われます。
このように、ナザレの村の人々は、主イエスの過去についても、職業についても、家族一人一人についても、実際によく知っているのです。だから「イエスという人物はこういう人物だ」と、把握しているつもりでいるのです。
しかし、人々が把握している事柄から、主イエスが神の御子である、との真理に辿り着くことは出来ません。だから、故郷の人々は、自分たちの知らない主イエスを、受け入れることが出来ませんでした。教えを聞き、奇跡を知って驚いたのは、他の人々と同じです。しかしそこから、「この方はどなたなのだろう」という問いは、起こらなかったのです。
そして、「このように、人々はイエスにつまずいた」のです。
<不信仰>
主イエスは、このような故郷の人々に「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。これは当時よく知られていた格言だったようです。
そして、5節以下に、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」と語られています。
「何も奇跡を行なうことがおできにならなかった」というのは、少しひっかかる表現かも知れません。これは、主イエスが奇跡を行なうのに、人々の信仰が必要だ、ということではありません。主イエスは、風や波にお命じになることも出来るし、主イエスを貶めようとする人々の前でも、癒しの御業を行なうことがお出来になりました。
はじめに申し上げましたように、主イエスの「奇跡」は、「神の国は近づいた」「神のご支配が実現する」という福音を証しするために、行われているものです。
そして、これまで主イエスが奇跡の御業を行ってくださった所には、必死に救いを求める、病や、苦しみや、死の支配に捕らえられ、苦しめられ、傷ついている人々がいました。
主イエスはこれらの苦しみから、神の御力によって、人々を解放して下さったのです。そのようにして、神のご支配が御自分によって実現することを示し、神に立ち帰って、神と共に歩む恵みへと招いて下さいました。
そして、5章で特に描かれていたように、主イエスは、救いを求めた人々に、「信仰」を見て下さいました。病の癒しを求めて必死に服に触れた女に「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さったようにです。
それは決して、立派とか、強いとか、完璧な信仰ではありませんでした。最初は、とにかく病が癒されたいというご利益的な思いであったり、藁をもすがる思いで主イエスにすがったのです。全く自分ではどうしようもない状況の中で、主イエスの教えを聞き、奇跡の噂を聞き、その力を求めてきた、弱い、哀れな人々ばかりです。
その人々の中には、主イエスの力を信じたいけれども、なお疑いがあったかも知れません。「この方でも、苦しみから救って下さるのは無理かもしれない。それでも、もしかして…」という風に、主イエスの力に対する絶対の確信はなかったかも知れません。でもとにかく、人の限界を超える御業を、救いを、この方に求めたのです。
求める側の人間が確かではなくても、主イエスご自身が、全く確かな方です。不十分な思いでも、自分勝手な思いでも、それでも主イエスの方を向いて、頼って、求めて来た者を、主イエスはすべて受け止めて下さり、癒しを、恵みを、救いを、豊かに与えて下さるのです。それは、彼らが望んだ以上のこと、神と出会い、神との交わりに生きる恵みを与えるためです。この方は、そのような救い主なのです。
そうして、主イエスと出会った者は、この方がまことの救いを与えて下さると知り、救いの恵みを与えられて、まことにこの方を信じる者へと変えられていくのです。
このように、神が与え、神が導き、神が強めて下さるのが「信仰」です。
しかし、ナザレの人々は、救い主として歩まれる主イエスを受け入れるどころか、あのイエスがどうしてこんなことが出来るのだ、と自分たちの知識で評価しようとしたのです。頼ろうとせず、期待もせず、主イエスが教え、与えようとして下さっている恵みを、受け入れようとしないのです。
そのような思いで、神のご支配のしるしである奇跡を受け取ることはできません。受け取る気がないからです。主イエスが「奇跡を行なうことがお出来にならなかった」「人々の不信仰に驚かれた」というのは、そういうことなのだと思います。
差し出された恵みを、手を出して受け取ろうとしない。語られる言葉に、耳を傾けようとしない。そこに、神さまの恵みは注がれようがないのです。
<神によって知る>
さて、わたしたちはどうでしょうか。
人は知識や理屈によって、まことの神であり、まことの人となられた主イエスを知ることは出来ません。主イエスの出来事は、わたしたちが知っている、世の常識では有り得ないことであり、見たことも、聞いたこともないことだからです。
そしてわたしたちは、2000年前にナザレで生活しておられた主イエスのお姿を知りません。そうすると、わたしたちもまた、現在の知識で知ることができる範囲で、この方について結論を出そうとしたり、自分なりの理解を得ようとするかも知れません。歴史をつぶさに研究したり、納得できないことや奇跡を、理屈で合理的に説明したりする。しかしそこに信仰はありません。
そして、自分の理解できないことに、理由をつけて納得したからといって、それが何になるのでしょうか。慰めになるでしょうか。希望になるでしょうか。それは、主イエスをわたしたちの理解の範囲内に小さく閉じ込めることになってしまうと思います。
また一方で、わたしたちは自分勝手なイエス像を造り上げてしまう危険性もあります。主イエスはこういう方に違いないと、自分の理想像を当てはめるのです。それも、わたしたちの想像の限界までの方にしてしまうし、単に自分の願望を投影した方にしてしまう恐れがあります。
わたしたちは、神が示して下さったことからしか、神を知ることは出来ないのです。わたしたちが、神によって知らされていることは、神がわたしたちを愛するために、救うために、御子である主イエスを世に遣わして下さった、ということです。
神の御子が人となられたのは、苦しみの中にいるわたしと共にいるため。罪に打ちひしがれるわたしを救うため。死に捕らわれ、絶望するわたしを立ちあがらせるためです。
わたしのために、十字架に架かって罪を贖い、わたしのために、神が復活させて下さったイエス・キリストの御前に、まずわたし自身が立つ、ということが大切ではないでしょうか。少し距離を取って、知識を集めて、ああだ、こうだと言っても、このお方を知ることは出来ないのです。
しかし、そのようなわたしたちを導くために、復活し、天に上げられた主イエスは、聖霊を送って下さいました。わたしたちは聖霊によって、生きておられる主イエスと出会い、語りかけに耳を傾け、この方こそ救いを求めるべき方であること。恵みを与えて下さる方であることを知らされるのです。
そして、主イエスとの交わりの中で、それは具体的には、礼拝を守り、御言葉を聞き、祈り求める中で、神は御自分を現して下さり、一人一人を苦しみの中から、罪の中から、助け、慰め、救って下さるのです。聖霊はそのように、主イエスが十字架と復活の御業によって実現して下さった、神の恵みのご支配の中にわたしたちを生かし、信仰を与えて下さいます。主イエスに心から依り頼むことを、教えて下さるのです。
そしてその時、わたしたちは「この方はどなたであるか」との問いに、「この方はわたしの救い主です」と告白する者へと、新しく変えられていくのです。