夕礼拝

タリタ・クム

「タリタ・クム」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章1-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第5章21-43節
・ 讃美歌:231、327

<イエスさまの言葉>  
 「タリタ・クム」。聞き慣れない言葉です。これは、当時イエスさまが使っておられたアラム語で、「少女よ、起きなさい」という意味です。イエスさまの言葉が、聞かれたそのままで人々に伝えられ、書き留められ、語られてきました。
 それほど印象的であり、また聞いた一人一人が、このイエスさまの「起きなさい」というご命令を、自分に語られた言葉として聞き、また語ってきたのだと思います。
 少女に「タリタ・クム」と言われたように、イエスさまが手を取って下さり、わたしに向かって「起きなさい」と言って下さる。そうであるならば、自分の力では決して立てない状況でも、たとえ死の中からでも、立ち上がることが出来る。人を本当に生かす、イエスさまの命の言葉です。
 それは、この「タリタ・クム」という言葉自体が、何か呪文のような力を持っているということではありません。手を取り、言葉を語りかけて下さるこの方に、力があるのです。
 マルコ福音書の一つのテーマである、「イエス・キリストとはどなたか」ということが、今日のところで鮮明に描かれています。

<会堂長ヤイロ>  
 さて、この少女の物語には、先週共に聞きました「十二年間も出血の止まらない女」の物語が、間に挿入されています。
 はじめに、22節以下にあるように、少女の父親である会堂長ヤイロが、主イエスのところにやってきて足もとにひれ伏し、願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」ヤイロの娘の、切羽詰った病状が伝わります。
 「そこで、イエスはヤイロと一緒に出掛けて行かれた」とあります。そこに大勢の群衆も、一緒についてきて、主イエスに押し迫ってきました。  

 その途中、ヤイロは急いで主イエスを娘のところにお連れしたいのに、主イエスは群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言って、人を探し始めました。
 こんなに大勢の人が、押し合いへし合い、主イエスに触れているというのに、「触れたのはだれか」とお聞きになるのは、おかしなことです。  
 主イエスが辺りを見回しておられると、一人の女が小さくなって、震えながら進み出てきました。そして女は、十二年間も出血の止まらない病にかかっていたこと、主イエスの服にでも触れれば、癒していただけると思ったこと、そして、実際その通りに、病が癒されたことを、皆の前で語ったのです。  
 主イエスは女に言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」  

 さて、この一部始終を見ていたヤイロは、どのような思いだったでしょうか。娘が死にそうで、一刻一秒でも早く来てもらいたいのに、とヤキモキしたでしょうか。
 または、女性の十二年越しの病が癒されたと聞いて、やはり、主イエスの病を癒されるという噂のお力は本物だ。娘もきっと癒していただける。そのように、心を励まされたでしょうか。

 しかし、ヤイロの言葉や行いは、実は、ひれ伏して願ったことが書かれている22節と23節以外、もう何も語られていません。これ以降も出てきません。後はすべて、主イエスが何を言われたか、主イエスが何をなさったかが語られるのです。

 わたしたちは、苦しみや、悩みなど、差し迫った現実を前に、実に複雑な思いを抱きます。わずかな希望を見いだしたり、そうかと思えば諦めて絶望したり、でもやっぱり…と思って期待をかけたり、最悪のことを考えたり。自分でも理解の出来ない、色んな思いがわき出ては消え、心をかき乱します。色んなことが、心を強めたり、弱くしたりします。わたしたちの中に、確固たる思い、などというものはあまりありません。実に影響されやすく、揺れ動きやすい、あいまいなものを抱えています。主イエスに従う時さえ、わたしたちの心持ちはあやふやなものです。

 しかし、主イエスの足もとにひれ伏し、娘の癒しを願ったヤイロは、もう娘のことを主イエスにすべて委ねてしまった。主イエスの癒しの御手に、娘の生死を賭けたのです。
 それは強い信仰、というようなものではなく、とにかく藁にでもすがるような思いだったのだと思います。
 とにかく、主イエスにひれ伏し、願った。もはや何があっても、胸の中に、不安や、期待がうずまいていても、今ヤイロが出来ることは、主イエスのそばを離れず、御業を待つことのみなのです。ヤイロ自身は、何を語ることもできず、何をなすことも出来ない。
 しかし、苦しみや悩みの只中で、主イエスにひれ伏し、打ち明け、委ねるなら、主イエスが主導権を取って下さり、そのことを導き、御心に適う道を開いて下さるのです。
 その時、ヤイロの、わたしたちの人生の主語が「主イエス」になる。この方が、わたしの人生に語りかけ、わたしの人生を導き、その御業を行って下さるのです。

<死の知らせを聞き流す方>  
 さて、主イエスが女と話しておられる時に、会堂長の家から人々が来て言いました。
 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
 死は、わたしたちにとって不可逆的なものであり、全くコントロールできないことです。命の終わりであり、そこから肉体は朽ちて滅び、姿も失ってしまいます。死は、命に対して圧倒的な支配力を持っており、誰が何をしたって、抗うことは出来ません。
 人々は、どんな病を癒すことができるイエスさまでも、死んだものはどうしようもない。もう来てもらっても無駄だ。どうせ何も出来ないのだから、来てもらう必要はない、と思って、そのように言ったのです。

 この知らせを耳にしたヤイロの悲しみ、嘆き、絶望感は、想像して余りあるものです。愛する幼い娘の死の知らせに、胸が引き裂かれるような思いであったでしょう。目の前が真っ暗になる思いだったでしょう。
 わたしたちも、度々このような知らせを聞かなければならない時があります。それはもはや、どのような可能性も希望もない、起こった事実として、目の前に置かれるのです。

 主イエスは、その少女が死んだ知らせを、ヤイロのそばで聞いておられました。36節に「イエスはその話をそばで聞いて」とあります。ヤイロのそばには、主イエスがおられた。そして、悲しみの底に突き落とす言葉を、そばで共に聞いて下さっていたのです。

 そして、この「そばで聞いて」と訳されている言葉は、もう一つの翻訳があります。口語訳聖書では「イエスはその話している言葉を聞き流して」となっていました。
 死を告げ、人を絶望させる言葉を、この方は聞き流された。この悲しい知らせを告げる言葉に、動揺したり、動かされたりすることが一切なかったのです。
 それは、この方ご自身が、人を生かす言葉を語り、命を与える方だからです。

 主イエスは会堂長ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。
 ヤイロがまことに恐れて信じるべきは、人々のもたらした娘の死の知らせではなく、主イエスご自身です。この方は、人となって下さった、神の御子です。命をお造りになり、生も死も支配なさる神の御子です。このお方が、ヤイロと共にいる。ヤイロに語りかけて下さる。「恐れることはない。ただ信じなさい。」「わたしを信じなさい。」そう語りかけられるのです。
 ヤイロはこの時、実際、恐れないということも、純粋に主イエスをただ信じるということも、出来なかったと思います。しかし、「もう来ていただかなくて結構です」とは言いませんでした。
 娘の死の知らせを共に聞き、しかしそれを聞き流し、なおヤイロと共に娘のところに向かおうとして下さる主イエスに、もうひたすら付いて行くしか出来なかったと思うのです。

<主イエスをあざ笑う>  
 そして主イエスは、弟子の中から、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネの三人だけを選び、ヤイロと共に連れて行かれました。
 この三人が選ばれて主イエスに伴われるシーンは、あと二回あります。それは、山上で主イエスのお姿が変わる、「山上の変貌」と呼ばれる場面と、十字架にかかられる前の「ゲツセマネの祈り」の場面です。
 この三人の弟子たちは、特に「主イエスがどなたか」ということを証しするために選ばれています。三人が立ち会った重要な場面は、すべて、主イエスがまことの神の御子であり、救い主であることが明らかにされる場面なのです。

 主イエスが、ヤイロと、その三人の弟子と共に家に着くと、そこでは人々が大声で泣きわめいて騒いでいました。
 これは、マタイによる福音書ではもう少し詳しく「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆をご覧に」なったとあります。人々が大声で泣きわめき、笛を吹いたり、騒いだりするのは、当時の葬式の風習で、職業として嘆き悲しみ、騒ぐ人を雇ったのです。どんなに貧しい家でも、葬式の時には二人の笛吹き男と、一人の泣き女を雇ったと言われます。
 これは、少女が確かに死んだということです。人々は少女の死をしっかりと確認し、葬りの準備をし、人を雇い、葬式を行なおうとしていたのです。

 しかし、主イエスは家の中に入って、人々に「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。それを聞いて、人々はイエスをあざ笑った、とあります。
 人々は、確かに少女が死んでいることを知っています。嘆き悲しむしかない状況の中なのに、主イエスは「子供は眠っている」という。こんな時に、何を馬鹿なことを言うのか。常識のないことを言うのか。そんなことを言って何になるのか、とあざけり笑ったのです。主イエスの言葉は、この時、ここにいる人々にとっては、虚しく、無意味な、バカげたことに聞こえました。
 彼らにとっては、主イエスという方よりも、死の方が、よっぽど大きな存在であり、強い支配者であり、受け入れるに足るものだったのです。

<タリタ・クム>
 しかし主イエスはヤイロに、「恐れるな、信じなさい」。ただ「わたしを信じなさい」と言われたのです。あざ笑う者たちを外に出し、主イエスにひれ伏し願った子供の両親と、選ばれ、従ってきた三人の弟子だけを連れて、子供のいるところへ入っていかれました。
 そして、子供の手を取って「タリタ・クム」、「少女よ、起きなさい」と言われた。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した、とあります。
 両親と、三人の弟子たちが、これらのことを聞き、目撃させられました。まことにこの方は、信じるべき方であったのです。主イエスの言葉、ご命令は、死の中からも、少女を立ち上がらせる力があるのです。

 これは、主イエスが、わたしたちを死の支配から救い出して下さる方であることが示されています。これからなされる、十字架と復活の御業によって、わたしたちに永遠の命と復活の約束を与えて下さることの先取りです。まことの人となられた神の御子、救い主が、ここにおられるのです。
 マルコ福音書の1:1が「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出すように、この地上を歩まれたナザレのイエスというお方は、まことに神の子である。神が約束なさった救い主である、ということを、この出来事は証しているのです。

 ですから、これらの奇跡の御業は、人々を驚かせて従わせようとしたり、単に人の願いを叶えるために行われたのではありません。
 すべての御業は、イエスさまが神の子であり、救い主であり、わたしたちの罪を贖うために来て下さった方だ、ということを、救いを求める者に証しするものなのです。

 主イエスは39節で「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。
 神にとって、死はすべてを終わらせるものではありません。そこからまた起き上がらせることが出来るものです。眠っている、ということは、目覚めが与えられる、ということです。
 命を与え、またお定めになった時に命を取り去ることがお出来になる神さまは、死をも支配し、打ち破り、勝利なさる方なのです。

 今日読まれたイザヤ書44:2には「あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。」とあります。神は、わたしを造り、母の胎内に形づくられた方です。命の創造主です。この方だけが、死を前にしても「恐れるな」と仰ることができます。
 6~8節にもこうあります。「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。」
 「恐れるな。」と言われる方は、神です。ここで主イエスは「恐れるな」と、お語りになった。それは他でもない、この方が神の御子だからなのです。

<永遠の命>  
 わたしたちが、死の力に打ち勝つことが出来るのは、この神の力によってのみです。
 わたしたちが、神との交わりにある時、神と共に生きる時に、わたしたちはまことの命を与えられ、神によって生きることが出来ます。
 神との交わりを失うこと、神から離れることが、わたしたちのまことの死であり、それは地上の肉体の死のみならず、神から遠ざけられ、闇の中へと捨て去られる、本当の死、滅びです。    

 しかし、主イエスは、まさにこの滅びの死から、わたしたちを救い出すために、来て下さいました。神に造られた者が、神に背き、離れてしまう。神との交わりを失ってしまう。それを「罪」と言います。しかし神は、そのようなわたしたちをも愛し抜いて下さり、滅びないようにと、救いのご計画を実現して下さったのです。
 そのために遣わされた主イエスは、再びわたしたちが神との交わりに立ち帰らせるために、まことの人となってすべての者の罪を担い、神から離れてしまったためにすべての者が受けるべき滅びの死を、お一人で一身に担い、十字架に架かって死んで下さったのです。  
 そして、神さまは主イエスを死の中から復活させて下さいました。この方によって、すべての者に罪の赦しが与えられたこと。この方によって、わたしたちも死の中から解放され、神と共に生きる永遠の命が与えられること。終わりの日に、わたしたちも、神の力によって復活が与えられることを示して下さったのです。

 この十二歳の少女は、この時、主イエスによって死の中から生き返りましたが、いずれ年を取り、病にもなり、やはり死が訪れるでしょう。わたしたちも、イエスさまを信じても、神さまを礼拝していても、様々な理由で、皆必ず死んで、地上の肉体は滅び去っていきます。わたしたちにとって、相変わらず死は圧倒的な支配力と、恐れを与える存在に思えます。    

 しかし、わたしたちはここでこそ、「恐れることはない。ただ信じなさい。」との御声を聞くのです。わたしたちは、目の前の現実に、不安にもなるし、恐れもするし、泣いたり、騒いだりもします。
 しかし、この救い主、神の御子である、復活の主イエスが、すでに死に打ち勝って下さっており、わたしと共にいて下さるという事実を、恵みを、忘れてはいけないのです。「ただ信じなさい」と言われているのです。
 そのために、わたしたちは神を礼拝し、祈り、御言葉を聞き続けるのです。神との交わりの中に、留まるためです。
 地上の人生には死が訪れます。しかし、主イエスによって罪から贖われたわたしたちには、その訪れる死の向こうに、死に打ち勝たれた神の力による、復活の約束が与えられているのです。そしてそれは、神の国の完成の日、終わりの日に実現することなのです。
 必ず終わりの日に、死が滅ぼされ、「わたしはあなたに言う。起きなさい」との声を聞き、眠りから目覚めるかのように、わたしたちは死の中から起き上がらせていただくのです。
 キリスト者の死を、聖書は「眠り」と言います。終わりの日、神に呼びかけられ、目覚めるからです。  

 だから、わたしたちは、この希望を見つめ、主イエスの御言葉をただ信じていきたいのです。さまざまな言葉が、出来事が、わたしたちを傷つけ、悩ませ、悲しませ、絶望させようとします。けれども、そのような言葉は、聞き流してよい。わたしたちがそう出来なくても、聞き流すことがお出来になる方が共にいて下さり、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って下さる。そして、絶望の中で横たわる者に、「わたしはあなたに言う。起きなさい」と語りかけて下さいます。この主イエスの御言葉があるなら、わたしたちは、主イエスによって、立ち上がらせていただくことが出来るのです。
 この方の言葉だけが、真実であり、命であり、希望なのです。

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