夕礼拝

成長する種

「成長する種」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第17章22-24節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第4章26-34節
・ 讃美歌:16、412

<神の国を信じる>  
 4章1節から、「種を蒔く人のたとえ」、そして「ともし火と秤のたとえ」と、神の国についての色々なたとえ話が語られてきました。今日のところはそのたとえ話の続きと、締め括りになっています。  

 これまで、たとえで語られてきたのは「神の国」、つまり「神のご支配」についてです。
 主イエスは、神から離れて歩む、すべての人々に、神のもとに立ち帰り、神とともに生きるようにと招くために、神に遣わされて世に来られた神の御子です。
 そのために主イエスは、1章15節からあるように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということを人々に宣べ伝えてこられました。
 神の国、神のご支配とは、神を主人として、神に従って歩むことです。だから、この招きに応え、神の御子である主イエスに従っている人々は、すでに、神と共に歩んでいる。神のご支配の中を歩み始めている、と言うことが出来ます。
 彼らは、その歩みの中で、神のご支配とは実際にどういうものかを、身を持って見聞きし、知っていきます。そのような者たちに、主イエスは彼らが与っている神の国、神のご支配がどのようなものであるかを、教えて下さるのです。

 しかし、主イエスの神のご支配への招きを聞いても、主イエスから離れ、日常に帰って、また自分自身を主人として日々を歩み出している人々は、「外の人」と呼ばれます。彼らは御言葉の招きを聞いても、それに応じず、自ら神のご支配の外に立っているのです。そのような者たちにとっては、神の国は謎のままとなります。
 神の国は、話を聞いただけでは理解することは出来ません。神の国、神のご支配は、実際にその恵みの中に入り、そこで生かされるということだからです。だから、主イエスに従おうとしない人々は、神の支配について、本当に知ることはできません。

 それは、今でも同じです。自分の人生、命、生き方に関わることとして受け止めることなく、神のことや、主イエスの救いとは何であるかを知ることはできません。いくら本を読んでも、頭で考えても、説明してもらっても、自分のものにすることは出来ません。
 神を信じる、主イエスに救われる、とは、頭で理解したり、考えて辿り着く哲学や思想のようなものではなくて、神が自分の人生、命、すべての土台である、ということを知ることであり、生きておられる神と向かい合って共に生きることであり、その人の実存、存在、すべてがかかっていることなのです。

<神の国のたとえ>
 主イエスは神の国のたとえを、御自分に従ってきた者たちに向かって語られました。そして、目に見えない、神の国、神のご支配について、26節に「神の国は次のようなものである」と言って成長する種の話を。30節に「神の国を何にたとえようか」と言ってからし種のたとえ話を語り、神の国がどのようなものか、どのような希望かを教えて下さったのです。    

 このマルコによる福音書が書かれた時代、これを読んでいた教会の人々は、迫害を経験した人々です。彼らは、主イエスの十字架と復活による救いを信じ、神の恵みのご支配を信じて生きていました。しかし、信仰のゆえに、激しい迫害を受け、苦しめられ、痛めつけられ、悲しみを覚えていた人々です。
 目の前の厳しい現実と、信じている目に見えない神のご支配。その中にあって、主イエスの語って下さる神の国のたとえは、目に見えない神の国が、どんなに力強いか。どんなに確かで、希望あるものかを、彼らに確信させ、励まし、慰めるものであったに違いありません。

 わたしたちもまた、今生きている世の苦しみや悩み、目の前にある現実の中で、目に見えない神のご支配、神の国を信じて生きています。
 しかし時に、あまりに辛い出来事や、苦しみに遭遇すると、信仰を与えられていても、本当にここに神のご支配があるのだろうかと、疑いを持ってしまうことがあります。さまざまな不条理に、つまずくことがあります。教会の歩みが、力強いものではなくて、衰退しているように感じられることがあります。
 しかし主イエスは、信仰者が見つめるべきことを教えて下さいます。神の国のたとえは、このような弱さや疑問に晒されながら、信仰を持って今を生きるわたしたちにも、はっきりと希望を見つめさせてくれるものなのです。

<成長する種のたとえ>  
 さて、まず初めに「成長する種」のたとえです。みなさんは、植物を種から育てたことはあるでしょうか。
 わたしはすぐに世話を怠って枯らしてしまうので、最近は自分から植物は育てないようにしていますが、種から植物を育てた最後の記憶は、小学生の時のヒマワリだと思います。
 確かに種を蒔いた後、ある日芽が出て感動しました。そして、気が付いたらぐんぐん伸びて、毎日毎日背丈が伸びて、とても不思議でした。じっと見ていたら伸びる瞬間が見えるかな、と思うくらいでした。でも、見つめている分には何も変わらず、しかし一晩空けると確実に伸びていました。本当に不思議なことでした。  

 主イエスは、神の国も、このような成長する種のようなものだ、と言われました。
 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 土に蒔かれた種が、知らない間に芽を出し、成長するように、神の国も、人が把握できないところで、人の力によらないところで、成長していくというのです。
 わたしたちには、神の国がどのように実現していくのか、どのように完成に向かっていき、いつ完成の時が来るのかは、知ることができません。
 しかしそれは、土がひとりでに種に芽を出させ、実を結ばせ、収穫の時が来るように、神の国は、神御自身の御業によって、神の御力によって、どんどん前進し、必ず収穫の時が来る。終わりの日、完成の時が来るのです。  

 最初、種が土に蒔かれた時、それは土に埋もれて隠れていたように、神の国も隠されています。すべての人が、すぐに神のご支配を信じ、神の国を受け入れることが出来るのではありません。まず、主イエスが神の国の福音、救いへの招きを語りかけて下さり、その御声を、聞く耳を持って聞き、主イエスを自らの主人として受け入れることで、神のご支配の中を生き始めるのです。

 わたしたちは、主イエスの御言葉を通してこの生きておられる方と出会い、主イエスが十字架の死によって罪を赦して下さり、復活なさったことを信じています。この方だけが、ご自身において、御業において、御言葉において、わたしたちに神のご支配をはっきりと示して下さいました。わたしたちが見つめることが出来るのは、この主イエス・キリストというお方だけです。この方こそ、神の国の実現のために蒔かれた種です。わたしたちの救いは、神の一方的なお働きによって、ただ神の恵みと力によって、与えられていくのです。  
 そして、終わりの日、天に上げられた主イエスが再び来られて、神の国を完成させて下さることを待ち望んでいます。
 わたしたちに神の国を実現させて下さるのも、この世の終わりに、すべてを支配し、神の国を完成させて下さるのも、ひたすら神の御業なのです。

 ところが、わたしたちの現実の歩みは、この神の力強い御業に支えられ、前に進められているのに、すぐにそれを忘れてしまいます。
 自分の力に頼ったり、すぐに不安になったりします。信仰を与えられていても、苦しんだり、つまずいたり、弱さや不信仰を覚える、たどたどしい歩みです。そうやって、焦りや不安を覚えることばかりなのです。
 だからわたしたちは、自分自身のことでも、教会のことでも、目に見える成果や結果があると、安心します。きっとこれでいいのだ、大丈夫だ、間違っていない、と思えるからです。自分の努力や力も、目に見えるので、つい頼りにしてしまいます。そして、だめだったら、落ち込み、不安になり、心配してしまうのです。  

 でも、救いのみ業は、神のなさるみ業だ。神の国、神のご支配を前進させ、完成させて下さるのは神だ、と言われます。それが、成長する種のたとえなのです。 
 神の国は、わたしたち、人の力や、努力などによって、完成させることが出来るものではありません。わたしたちが頑張って神の国を来たらせるのではありません。救いは神の御業です。一人の罪人を赦し、神の御許へ招き、新しい命を与え、恵みのご支配の中に生かして下さるのは神です。神のご支配は、神のものです。神御自身が、前進させ、完成させて下さるのです。
 だから、わたしたちは、すでにこの神のご支配の中に置かれていることに感謝をしつつ、神を礼拝し、祈り、神との交わりの中で、従って歩んで行くだけです。目に見える結果や成果を求めたり、心配をしなくて良いのです。

 種が、人が寝起きしているうちに成長するのと同じように、神の国も、わたしたちの過ぎ行く日々の中で、寝起きをしているその最中にも、神が働かれ、神が成長させて下さっています。そのような、ダイナミックな神の力の中に、わたしたちも置かれているのであり、ともに前進させられつつ、神の国の完成の時を待っているのです。

 しかし、だからと言って、わたしたちは何もしないのではありません。カルヴァンという神学者は、このように言っています。
 「天国を奪い取って、それを地上にひきおろすのはあなたがたではないことを知って、ゆっくり進みなさい。あなたがたはただ神の国を告げなさい。」
 わたしたちは、見えることを気にするのではなく、見えないこと、しかし、見えることよりもずっと確かなことを信じて、神が完成させて下さることに信頼し、今、神から与えられている務めを、誠実に、喜んで、果たしていきたいのです。

<からし種のたとえ>  
 さて、次のからし種のたとえも、そのように成長していく神の国が、いったいどのようなものなのか、ということを教えています。  

 からし種は1ミリ以下くらいの大きさで、どんな種よりも小さく、パレスチナの地域で、とっても小さいことを表す慣用句として使われています。日本でも、小さいものを「芥子粒のようだ」と表現することがあります。  
 しかし、その小さいからし種を蒔くと、数週間で成長し、2.5メートルから3メートル、大きなものだと5メートルほどの高さに成長するそうです。  
 旧約聖書において、大きな木は、国や王国を表します。本日お読みしたエゼキエル書のところも、イスラエルの国の回復が、木の大きな成長にたとえられています。鳥が木に宿るのも、繁栄の象徴です。
 主イエスは、「それはどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と言われました。  
 神の国の福音は、蒔かれた時は、からし種のように、小さく、たよりなく、人々の目に留まらない、無視されてしまうような存在です。しかし、それは成長すると何よりも大きくなって、成長した葉の陰に鳥が巣を作るようになる。神の国は、想像を超えるほど大きく成長し、人々がそこに憩って安らぎを得るところとなるのです。  

 神の国の種が蒔かれるとは、まさに神の御子である主イエスが、まことの人となって、この世に来て下さったこと、と言えるでしょう。それは弱々しく、貧しく、とても惨めなお姿でありました。まさに一粒のからし種のように、無視され、人の目に留められないような、小さな存在となって、わたしたちの世に来られたのです。神の御子が人となられ、このような小ささ、弱さを担われた。そこから、神の国のご支配は始まりました。
 この方によって、神の救いのご計画が実現し、神のご支配が前進していくというのは、人々の目には、とても理解し難いことです。しかも、主イエスは十字架刑による死という、呪われた、悲惨な、軽蔑を受けるような仕方で死なれました。それはとても、すべての人を救う救い主、世界を支配なさる王、神に遣わされた御子のお姿ではありませんでした。  
 しかし、この方の十字架の死こそが、わたしたちが神に背いた罪を代わりに担い、罪の赦しを得させるためのものであったのです。世のすべての人々を救うものであったのです。それは、この方が、まことに神の御子であったからです。  

 この神の国のたとえを教えて下さったのは、これからまさにこの十字架に向かわれる、主イエスご自身です。
 主イエスが歩んでいかれる、その苦しみに満ちた十字架への歩みこそ、すべての人が罪を赦され、神と共に生きるための道を拓いて下さるためのものであり、この世に神の国を実現するためのものなのです。そして、神は、御子を復活させて下さり、罪にも死にも勝利し、神の国、神のご支配を、たしかに打ち立てられたのです。
 この主イエスの救いの恵みは、信じるすべての人々に与えられ、時も、場所も超えて、終わりの日まで宣べ伝えられ、最後には完成に至るのです。

<聞く力に応じて>  
 33節には、主イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた、とあります。また、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明されたのです。  
 4章以下で語られたことは、この見えない神の国を、教えるものです。聞く力とは、主イエスの御言葉に耳を傾け続けることです。主イエスは何度も語られました。  

 神の国は神によって、わたしによって実現する。そして、今わたしと共にいるこの現実こそ、神の国の現実であり、あなたたちは神のご支配の中を、確かに歩んでいるのだ。神の国は、あなたたちの力で実現するのではなく、神が、わたしが実現することである。神のご支配が、今は目に見えず、また小さく見えても、やがてそれは世界を覆い、すべてに満ち、完成の時を迎えるのだ。  

 この、今、神の国に生かされている恵みを見つめること、そして、終わりの日の完成を待ち望むこと。この、目に見えない確かなことに、わたしたちは目を向けたいのです。  
 わたしたちは、この目に見える世界の中にありながら、目に見えない、神のご支配の中に確かにおり、神によって与えられる豊かな実りが約束されている。収穫の時が与えられる。その神の恵みを信じて歩むようにと、導かれているのです。  

 本日あずかる聖餐は、主イエスを信じ、洗礼を受けた者が、この見えない神の国、見えない恵みを、確かに受け取り、信仰を強めていただくために定められた、目に見えるしるしです。聖餐は、終わりの日の、神の国の先取りです。主イエスを信じた者が、終わりの日に、その食卓に招かれ、神と親しく交わる。主イエスの十字架の死によって与えられた救いによって、神と共に在り、神と共に生きる。その恵みと約束を、確かに受け取っているしるしなのです。  

 主イエスは、神の国を成長させて下さいます。そして、すべての者を、この恵みの主の食卓に招くことを望んでおられます。御業をなさるのは神ですが、神は、わたしたちをそのために用いたいと言われます。わたしたちは、恵みの現実に生かされている喜びを、目に見えないけれども、神と共に生きているという最も確かな現実を、必ず神の国が完成するという希望を、一人でも多くの人々に、証ししていきたいと思います。

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