「種を蒔く人」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第126編5-6節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第4章1-20節
・ 讃美歌:492、529
<群衆に教える主イエス>
湖のほとりで教えておられた主イエスのもとに、おびただしい群衆が集まってきました。あまりに人が多かったので、主イエスは船に乗って湖に少し漕ぎ出し、そこから湖畔にいる群衆に語りかけました。
群衆は、ほんとうは話を聞くよりも、病を癒していただいたり、悪霊を追い出していただいたり、主イエスのそのような力を求めて集まってきたのだと思います。
そのことは前に、3章7節以下でも、語られていました。そこでも同じように、主イエスが湖に船を出された場面があります。それは、おびただしい群衆が主イエスのところに集まってきて、主イエスが群衆に押しつぶされそうになったからでした。主イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆主イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった、とあります。
人々には、今抱えている目の前の苦しみや悩みや、実際の痛みがあります。そのことが自分の心を覆ってしまっている。支配してしまっている。そのことの解決を求めて、または少しでも良くなることを望んで、押しかけてきました。わたしたちだって、苦しみや悩みの最中に、もし解決のための一縷の望みがあると知ったら、必死に、それこそ溺れる者は藁をも掴む思いで、そこに押しかけるのではないでしょうか。
イエスという方なら、その力で自分の願いを叶えて下さるかも知れない。奇跡を起こして、助けてくれるかも知れない。そう思った人々が押し寄せてきたのです。
でも、主イエスはまず教えておられた。教えておられたのは「神の国」です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」神から離れている歩みを悔い改めて、神のもとに帰ってきなさい。神のご支配の中で、神に従って歩みなさい。そういう、救いへの招きの言葉です。
そして、「よく聞きなさい」。また「聞く耳のある者は聞きなさい」と、御自分の話を注意して聞くように促されたのです。
<種を蒔く人のたとえ>
神の国について色々と教え、そこで語られたのは「種を蒔く人」のたとえです。主イエスは「神の国」、つまり「神のご支配」ということを「種蒔き」にたとえてお話になりました。
ところで、わたしたちが思う種蒔きと、当時の主イエスの時代や地域での種蒔きは、やり方が全然違います。
わたしたちの思う「種蒔き」は、土に肥料をやって、畝を造って、丁寧に土に穴を空けて、一粒一粒種を植え、水をやる、というようなイメージではないでしょうか。
しかし、主イエスの時代は、たとえば麦の種ですと、まず沢山の種をつかんで、いきなり地面に大胆にばらばらと蒔いて、そこに鋤を入れて、耕したそうです。ですから、種はあっちこっちに飛んでいきますし、全部が全部芽を出すのではなくて、上手いこと土の所に落ちた種だけが芽を出すのです。
この主イエスの話は、ある意味では、当時の人々にとてもイメージしやすいお話でした。種蒔きは日常生活の身近な一コマです。道端や、石ころだらけのところ、茨の中に落ちた種は、芽が出なかったり、枯れてしまったり、実がつかなかったりした。良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍にもなった。そういう話です。
人々はこれを聞いて思ったでしょう。ふんふん。それはそうだ。変なところに落ちてしまった種は育たないし、よい土地に落ちれば実る。当たり前のことだな。しかし、良い土地に落ちた種が百倍にもなるっていうのは、だいぶ大げさだ。どんな良い土地なんだろう。どんな種だろう。どうしてそんなに大げさに言うんだろう。
大体、麦の種はよく実って十倍程度だそうです。そうすると、種が三十倍にも、六十倍にも、百倍にもなる、という主イエスのたとえは、奇跡みたいな話です。
多くの人が、多少ひっかかりを覚えたかも知れません。しかし、これを聞いたほとんどの人々は、そのまま帰ってしまいました。首を捻りながら、あるいは噂の人物の話を聞けて満足しながら、あるいは自分の期待したこととは違うとがっかりして。
群衆が去ってしまったことは、10節で「イエスがひとりになられたとき」とあることから分かります。そしてそこには、十二人の弟子たちと、主イエスの周りにいた人たち、つまり従っていた者たちだけが残っていました。そして、このたとえについて尋ねたのです。
彼らも、何かひっかかったけれども、よく分からなかったのでしょう。
しかし、群衆と違ったのは、そのことを心に留めて、主イエスに尋ねた。主イエスのたとえ話に応答し、そこに留まったということです。
すると主イエスは、「あなたがたは神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われました。
主イエスのもとに留まり、さらにみ言葉を求めた人々には、神の国の秘密が明かされるけれども、主イエスから離れていってしまった人々には、たとえが語られたまま、神の国の秘密は明かされない、ということです。
この主イエスのたとえは、単に神の国を分かりやすく理解させるための「たとえ」ではありませんでした。聞いて、主イエスに近づき、求める者には神の国が明かされますが、主イエスから離れ、去っていく者、外に立つ者にとっては、神の国は秘められたままになる、そういう「たとえ」なのです。
そして主イエスは、十二人と周りにいた人たち、留まって、ご自分の許に来た人々に、先ほどの「種を蒔く人のたとえ」の説明をして下さいました。
<種を蒔く人のたとえの説明>
まず14節に、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とあります。蒔かれる種は「神の言葉」を指しています。そうであるなら、種を蒔く人は「主イエス」であると考えることが出来ます。
神の言葉は、主イエスによってあらゆる人々に語られます。しかし、すべてが実るのではないと言います。主イエスがどれだけ語っても、聞いた者がその言葉を心に留め、受け入れなければ、右から左へ通り抜けて、その人の内に実ることはありません。
道端のものは、神の言葉を聞いても、サタンがすぐに来て、彼らに蒔かれた神の言葉を奪い取ってしまいます。
石だらけのところに蒔かれたものは、16節にあるように、御言葉を喜んで受け入れるが、自分には根が無いので、しばらく続いても、後で御言葉のために迫害や艱難が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものは、御言葉を聞くけれども、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆い塞いで実りません。
そして、良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちのことで、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ、と言われています。
このたとえは、種を蒔かれた土地、つまり、神の言葉を聞いた人の状態によって、種がどのようになるか、ということが四通り語られているわけです。三つは失敗、一つは成功です。
さて、自分はどんな土地だろうか。わたしたちは、自分がどこに当てはまるかを考え始めるのではないでしょうか。
御言葉を聞いても、すぐに忘れてしまう。あんまり聞いていない。わたしはすぐにサタンに種を奪われる道端だ。
あるいは、喜んで御言葉を聞いていても、苦しいことや悲しいこと、何か納得のいかないことがあると、途端に神さまを疑ったり、信じられなくなってしまう。自分の心は石だらけの土地のようで、御言葉が中々根付かない。
あるいは、さまざまなことを思い悩んだり、この世のものに執着したり、たくさんの欲望、願望が沸き起こってくる。そういった自分の思いの方が、聞いた御言葉よりも大きくなってしまって、いつの間にか御言葉を端っこへ追いやり、覆い尽くしてしまう。自分は茨の土地のようだ。そんな風に考えるのです。
「自分は良い土地で、聞いた御言葉が百倍実っているぞ」などという自信のある方は、中々いないのではないでしょうか。
わたしたちは、このたとえを通して、種を実らせることが出来ない、自分自身の荒れ果て、痩せ細った、不毛な土地を思うのです。
<良い土地になるには?>
では、このたとえを聞いた者は、どうすれば良いのでしょうか。自分自身を良い土地にするために、自分で耕すのでしょうか。
土地は、自分で豊かになることは出来ません。種を蒔く農夫の手入れを受けて、整えられて、良い土地にされるのです。
大切なのは、この主イエスのたとえの説明を聞いている人々は、主イエスのもとに留まり、主イエスと共にいる人々であるということです。
20節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」とありますが、「聞いて受け入れる」というのは、ただ聞くだけではなく、その神の言葉を自分の中に受け入れるということ。それは、神の言葉によって、自分の在り方が変えられる、ということでしょう。その時、神の国の秘密の秘密を知ることが出来るのです。
この「神の国」をたとえた「種を蒔く人」のお話しは、ただ聞いて、自分の頭で理解して納得したり、分かるようなものではありません。
「神のご支配が近付いた」との声を聞いて、それを実現なさる主イエスのもとに来て、主イエスとの関係の中に身をおいた者が、主イエスが実現なさる神のご支配の中を生き始めるのです。神から離れて生きていた者が、神のもとに来て、神と共に生き始めるのです。そこに、神の恵み、豊かな実りが与えられます。
それは、これまでと180度違う生き方をすることです。自分の思いではなく、神の思い、神の御心を思って、生きていくことです。
そして、主イエスの語っておられることを、身をもって体験していくのです。救いの恵み、魂の癒し、人生の慰めを与えられていく。たとえの通りに、豊かな実りが与えられていく。神の国を告げる神の言葉は、この神の恵みの中で生きるようにとの招きです。
だから、主イエスの招きによって従った十二弟子や、主イエスの周りの人々に、主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられる」と言って下さったのでしょう。
主イエスは神の言葉によって、聞く者を耕されます。わたしたちは、この四つのどれかの土地だ、というより、むしろ道端も石ころも茨も全部当てはまる。わたしたちの弱い、破れかぶれの歩みが語られているのです。そこでは、御言葉が消えてゆき、何の実りももたらさずに失われていくようにも思えます。十二弟子さえ、この後、恐れ、裏切り、疑い、神の国を忘れてしまったかのような歩みをしていきます。
しかし、種を蒔く人は、何度でも種を蒔いて下さる。主イエスは、何度も何度も神の言葉を語って下さる。働きかけて下さる。そして、聞く者がそれを受け入れ、実らせることが出来るように、主イエスが聞く者一人一人を、整えていって下さるのです。
主イエスが共にいて、わたしたちのために働いて下さるなら、御言葉を語って下さるなら、わたしたちは神の言葉を聞き続ける中で、良い土地へと変えられていきます。
そして、三十倍、六十倍、百倍もの、人の想像を大きく超えた、奇跡とも思える実りが与えられる。わたしたち人生に、豊かな実りを与えて下さるのです。
<一粒の種となられた主イエス>
さて、種は、神の言葉と言われていますが、それはつまり主イエスご自身のことでもあります。
主イエスは、種を蒔く人でもあり、また種そのもの、神の言葉です。
この方は、人が知ることのできない神の御心を、すべての人々に示すために、神からこの世に遣わされた、神の御子です。この方ご自身が、その生涯や、教えや、御業において、神の御心やご計画を明らかにして下さる、神の言葉なのです。
神は、この世を愛して下さいました。そのために御子を遣わされた。主イエスはすべての人の罪の赦しのために、御自分の命をお与えになります。そのことを、ヨハネによる福音書12章24節で、主イエスがご自分を種にたとえて、このように言っておられます。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
一粒の麦、神の子イエス・キリストが、地に落ちて、死んで下さる。すべての人の罪を代わりに担って死んで下さるのです。これはこの後に訪れる御自分の十字架の死が、異邦人にも、全世界の人々にも及ぶような、多くの豊かな実を結ぶ。神から離れた罪人を赦し、すべての者を新しい命に招く、ということを語っておられます。
そして、神は主イエスを死者の中から復活させ、わたしたちもこの方を信じ、受け入れるなら、この命に結ばれて、復活が与えられることを約束して下さいました。神は、人が神から離れて、死んで枯れて虚しく滅んでいくことを望んではおられません。神のご支配に自分を委ね、主イエスの罪の赦しと復活の命に与るなら、主イエスに結ばれて、神と共に生きる永遠の命を生き、復活を将来の希望として持つことが出来るのです。この、主イエスと言う方の実りを受けるのです。
このことこそ、神と共に生きる者、神のご支配の下に身を置き、御言葉を受け入れる者が与えられる恵みです。
それは、決して、わたしたちが心から望んでいること、願っていることが見事に叶うということではありません。神は、本当にわたしたちに必要なものをご存知です。わたしたちには思いもよらない、最も良い、最も必要なもの、罪の赦しと永遠の命を、豊かに与えて下さるのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」。主イエスの神の国への招きを聞いて受け入れなさい。主イエスのもとに来て、神の言葉を聞き続けなさい。そう言われています。
<神の国の秘密>
これらの神の国や救いや希望は、主イエスのもとから去り、外に立つ人から見れば、絵空事のように、リアリティがないように感じることかも知れません。罪の赦しや、永遠の命、復活の希望は目に見えないし、神のご支配も疑ってしまう。人は罪を繰り返し犯すし、誰でも必ずいつか死ぬし、世の中は神のご支配より、悪や死が支配しているのではないかと思うようなことが起こります。
しかし、人の目に、神の国は隠されている、秘密にされているのです。これは目で見て確認したり、理解したりすることではなくて、信じる事柄です。しかしこれは、終わりの日に、必ず完全に明らかにされると約束されています。
しかし今、わたしたちがこのことを信じるためには、ただ主イエスを見つめるしかありません。頭で神を想像したり、考えたりしても、どこにも辿り着きません。神の御心を表し、実現するために、人となって歴史の只中に来て下さった神の子、神の言葉、主イエス・キリストの御業を見つめ、御言葉を聞くしかないのです。
主イエスが復活して天に上られた今は、わたしたちは聖霊によって、教会で語られる聖書のみ言葉を通して、復活の主イエスとの出会いを、神の言葉を与えられます。
わたしたちは、この生きておられる方の許で、御言葉によって変えられ、信仰を与えられ、主イエスと結ばれて、実りが与えられていくのです。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
主イエスは告げておられます。
神の救いの知らせを聞きなさい。神に立ち帰り、神を見つめ、神があなたを愛し、救って下さることを信じなさい。そのためにわたしが来た。あなたの罪の赦しのために十字架に架かったのだ。復活は、あなたが滅びないで永遠に生きるためなのだ。それを与えるから、このわたしの許に来なさい。わたしの恵みの中に入ってきなさい。
主イエスの招きです。聞く者はこの方の招きに対する態度を決めることを求められています。主イエスの恵みの中に入っているのか。外に立ったままでいるのか。
信じなさい、と言われています。
目に見えない神のご支配こそ、本当は、わたしたちの目に見えたり、感覚で知っている世界よりも、はるかに確かで、真実です。
神は見えるものも見えないものもすべてをお造りになった方であり、支配しておられる方であり、今も愛を持って世界を、わたしたちを、支え導いて下さっている方だからです。
神の恵みは、この世の何よりも頼りになり、わたしたちの人生、存在を根底から確かに支え、固く立つ場所を与え、実りをもたらして下さるのです。
それでも、わたしたちが目に見えるもの、感覚で捕えられるもの、理解できるものに、心を奪われることを、神に遣わされた方である神の御子イエスはよくご存知です。まるで道端のような、石ころだらけの土地のような、茨に覆われているような、わたしたちです。
しかし、そこに神の言葉を何度も蒔いて下さる。わたしたちの目には、種は奪われ、枯れ、実らないように見えても、主イエスの御言葉を聞き続け、主イエスの許にいるならば、主イエスは土地を耕し、石をとり、茨を抜いて、種を芽生えさせ、成長させ、豊かな実を百倍にも実らせて下さるのです。
そして、豊かに実ったら、わたしたちはその種をたずさえて、今度は主イエスと共に、まだ福音を知らない人のところへ種蒔きに出ていきます。主イエスはすべての者を、この恵みの中へと招いておられるからです。