主日礼拝

主の体と血

「主の体と血」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記第24章3-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章22-26節 
・ 讃美歌:140、72、467

過越の食事
 この主日礼拝において、主イエス・キリストが弟子たちと共にとられたいわゆる最後の晩餐の場面を、マルコによる福音書によって読んでいます。この晩餐は、ユダヤ人の最も大事な祭である過越祭の食事、過越の食事でした。過越の食事はそれ自体が宗教的儀式であり、用意する食べ物も、食べる順序も、その中でなされる祈りも定められています。この食事の中心、言わばメイン・ディッシュは、過越の小羊の肉です。イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出した時、この過越の小羊が犠牲として殺され、その血がイスラエルの民の家の戸口に塗られました。その夜主なる神様は、エジプト中の長男、最初に生まれた雄を人も家畜も皆打ち殺されましたが、戸口に血の印のある家は通り過ぎて、過越して、イスラエルの民は守られました。この決定的な出来事によってイスラエルの民はエジプトからの解放を得ることができたのです。つまり過越の小羊は、イスラエルの民の救いのために犠牲となって死んだのです。そのことを覚え、神様が奴隷の苦しみから解放して下さった恵みを感謝するために過越祭が行われ、そこでは過越の小羊の肉を食べることを中心とする食事がなされているのです。最後の晩餐はこの過越の食事でした。本日の箇所には、その食事の中のごく一部の場面だけが語られています。パンを食べ、ぶどう酒の杯を飲むというところです。その他の、例えばメイン・ディッシュである過越の小羊の肉のことには全く触れられていません。それは、このパンが食され、この杯が飲まれる時に、主イエスが特別なことをおっしゃったからです。主イエスのお言葉によって、このパンと杯は弟子たちにとって、さらには主イエスを信じる信仰者たち全てにとって特別な意味を持つものとなったのです。

わたしの体、わたしの血
 22節に「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて…」とあります。「食事をしているとき」なのですから、この祈りはいわゆる「食前の祈り」ではありません。これは過越の食事の中でなされる祈りです。過越の食事のパンは、発酵させないで焼いたパン、私たちの感覚ではクラッカーのようなものですが、このパンを食べるに際して、この食事の主催者であるその家の主人がパンについての祈りをささげるのです。それがこの「賛美の祈り」です。その後パンが皆に配られるのですが、その時に主イエスは、過越の食事の儀式にはない特別なことをおっしゃったのです。「取りなさい、これはわたしの体である」。そう言って主イエスはパンを弟子たちにお与になったのです。このお言葉によってこのパンは特別な意味を持つものとなりました。また次の23節には「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった」とあります。ここはルカ福音書では、「食事を終えてから、杯も同じようにして」となっています。過越の食事においては、何度かぶどう酒の杯が飲まれることになっているのですが、この杯は、食事の中心部分が終わった後の杯でした。その杯が飲まれる時に、やはり主人がすることになっている祈りがこの「感謝の祈り」です。その祈りを唱えてから杯を回す時に、主イエスはこれも特別なことをおっしゃったのです。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。このみ言葉によって、この杯も特別な意味を持つものとなりました。このパンと杯は、主イエス・キリストの体と血とを表すものとなったのです。主イエスの復活の後、弟子たちは、このパンと杯に共にあずかる食事を礼拝の中で守っていきました。それが、私たちも原則として毎月第一の主の日の礼拝で行っている聖餐です。聖餐のことを、「聖晩餐」とか「主の晩餐」とも呼びます。午前中のこの礼拝で行われても晩餐と呼ぶのです。それは、主イエスが最後の晩餐において弟子たちに分け与えられたパンと杯に共にあずかるということだからです。

主イエスによって実現する過越の出来事
 主イエスがこのパンと杯を、ご自分の体と血であるとおっしゃったのはどういうことなのでしょうか。この食事は主イエスの「最後の晩餐」でした。この食事の後主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられて殺されるのです。主はそのことをはっきり意識して、このパンと杯をご自分の体と血であると言っておられるのです。そのことによって、主イエスがこれから十字架につけられて死なれるのは、捕えられて殺されてしまう、ということではなくて、主イエスご自身がご自分の体と血を、弟子たちに、そして私たちに、与えて下さるということであり、それによって弟子たちの、そして私たちの救いが実現するのだ、ということを示そうとしておられるのです。主イエスがご自分の体と血とを救いのために与えて下さる、そのことのしるしとしてこのパンと杯は分け与えられているのです。このパンと杯が、過越の食事のパンと杯であることが、そのことと結び合っています。過越の食事は、過越の小羊が犠牲となって死ぬことによってイスラエルの民の救いが実現したことを記念するものです。それと同じように、主イエス・キリストご自身が、私たちのための過越の小羊として、犠牲になって死んで下さったのです。その犠牲の死によって私たちの過越の出来事が実現したのです。生まれつきの私たちは、罪の力に支配され、その奴隷とされています。自分の力でそこから脱出することができないのです。その私たちの罪の赦しが、罪の奴隷状態からの解放が、主イエスの十字架の死によって実現したのです。主イエスは私たちの罪を全て背負って、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちの罪は贖われ、赦しが与えられたのです。主イエスの体と血である聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエスの十字架の死によって成し遂げられた過越、救いの出来事をかみしめ、その恵みを味わうのです。

新しい契約の血
 しかしここで見つめられているのは、主イエスの十字架の死が過越の小羊としての死だった、ということだけではありません。杯について主は「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃいました。「契約の血」ということで意識されているのは、過越の出来事よりもむしろ、本日共に読まれた出エジプト記の24章なのです。そこに語られているのは、エジプトから解放されたイスラエルの民が、シナイ山で主なる神様と契約を結んだということです。契約と言ってもそれは、人間どうしの取引の契約のような、対等な者どうしの契約ではありません。この契約によって主なる神様がイスラエルの神となり、イスラエルをご自分の民として下さる、そういう特別な関係を結んで下さったのです。つまりこれは神様の恵みによって与えられた契約であり、神様が民との関係を築き、与えて下さったのです。その契約が結ばれた時に、雄牛が犠牲として献げられ、その血が民にふりかけられたのです。犠牲の動物の血が、契約の、つまり神様との関係、交わりの確立の印となる、それが契約の血です。イスラエルの民はこの雄牛の血によって結ばれた契約によって、主なる神様の民とされました。主イエスはここで、ご自分が十字架の上で流す血が、多くの人のために結ばれる契約の血であると言っておられます。それは、主イエスの十字架の死によって、主なる神様が、多くの人々と新しい契約を結んで下さり、ご自分の民として下さるということを意味しています。主なる神様は、主イエスを救い主と信じる者たちとの間に、新しい関係を結び、彼らを新しい神の民として下さるのです。

聖餐の意味
 主イエス・キリストの十字架の死は、新しい過越の出来事であり、それによって神様は新しい契約を、主イエスの弟子たちとの間に結んで下さった、主イエスが弟子たちに分け与えて下さったパンと杯はそのことの印です。そしてそれが、私たちが今あずかっている聖餐の意味でもあります。私たちはこの意味をしっかりとわきまえて聖餐にあずからなければなりません。そうでなければ、聖餐のパンと杯は単なる一切れのパンと一口のぶどう液に過ぎません。意味をわきまえずに食べたり飲んだりしても、それによって何の恵みも受けることはできないのです。それゆえに聖餐は、主イエスを信じる信仰を言い表して洗礼を受けた人だけに与えられるのです。洗礼を受けるというのは、主イエス・キリストの十字架の死が自分のための過越の出来事であり、神様がそれによって自分と契約を結び、神の民として下さっている、その救いの恵みを信じて受け入れ、神様によって新しく生まれ変わらせていただいて、神の民の一員として新しく生き始めることです。その洗礼を受けた者においてのみ、聖餐は自分のために与えられた主イエス・キリストの体と血としての意味を持つのです。洗礼を受けることなしに聖餐にあずかって、それで何か意味や効果があると思ってしまうことは、聖餐のパンと杯自体に何か魔術的な力による御利益でもあるかのような誤解を生じさせます。聖餐のパンと杯は、それ自体が何かの力を持っているのではありません。洗礼を受けていない人が間違って受けてしまってもバチが当たることはありませんし、逆に何かの恵みを受けることもありません。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じて洗礼を受け、主イエスによって打ち立てられた新しい神の民である教会の一員とされた者があずかることによってこそ、それは主イエスの体と血とにあずかり、契約の血にあずかる恵みの食事となるのです。それゆえに教会は最初からずっと、洗礼を受けた人が聖餐にあずかる、という歩みを続けてきました。教会とは、洗礼を受けて聖餐にあずかっている者たちの共同体です。教会は、ある思想や考え方を共有する同志の結社ではありません。あるいは、何らかの活動を共にするために集まった団体でもありません。教会は、聖餐に共にあずかる者たちの群れなのです。教会員とは聖餐にあずかり、それによって養われている人です。だから教会員のことを「陪餐会員」と言うのです。洗礼を受けて、主イエス・キリストが十字架の死と復活によって成し遂げて下さった罪の赦しの恵みにあずかり、主イエスの血による新しい契約にあずかる神の民とされ、そして聖餐のパンと杯によって、私たちのために肉を裂き、血を流して死んで下さった主イエスの救いの恵みを味わい、それによって養われつつ生きる、それが私たちの信仰です。そしてそのような信仰の生活が確立していくためには、礼拝において常に、主イエス・キリストの十字架によって私たちの過越が成し遂げられ、罪が赦されたこと、そして新しい契約が与えられているという恵みが語られていかなければなりません。そのみ言葉が語られることによってこそ、聖餐は本当に主の体と血とにあずかる恵みの食卓となるのです。またそのようにみ言葉が語られる礼拝に、まだ信仰を持っていない方々、洗礼を受けていない方々もまた招かれることによって、主イエスを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けて神の民に加えられたい、共に聖餐にあずかり、主の体と血とにあずかる者となりたいという願いが起されていきます。そのようにして、神様の救いのみ業が前進していくのです。

主の体と血とにあずかる信仰
 私たちは、聖餐において主の体と血とにあずかりつつ歩むという信仰をもっと深められていきたいと思います。その信仰が深められるとはどういうことなのでしょうか。24節で主は「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃいました。注目したいのは、主イエスの血が「多くの人のために」流される、ということです。主の体と血とにあずかる信仰が深められるとは、このことをより深く意識させられていくことだと言うことができます。つまり、キリストによる救いは自分一人の事柄ではなくて、「多くの人」と共にあずかるものなのです。主イエスを信じる信仰は、仲間と共に生きる信仰です。しかもそれは、同じ信仰に生きている同志がいる、というだけのことではなくて、主の体と血とに共にあずかっている仲間、主の流された契約の血によって共に神の民とされている仲間です。教会は主イエス・キリストの体であって、私たちはその部分である、と聖書に語られていますが、それは単に同じ信仰を抱いている仲間、ということの譬えではなくて、一人の主イエス・キリストの体と血とに、多くの人々と共にあずかっている、ということなのです。つまり聖餐が、キリストの体である教会を一つに結びつける絆なのです。信仰者どうしの、また教会どうしの交わりの要に、聖餐があるのです。聖餐にあずかることによって私たちは、自分が主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを受け、神様の民とされるだけでなく、共にこのパンと杯にあずかっている兄弟姉妹と結び合わされ、交わりを新たにされるのです。そのことに思いが至るようになっていくことこそ、主の体と血とにあずかる信仰が深まることなのです。

教会の一致の絆である聖餐
 聖餐は、この教会に連なる者たちを一つに結び合わせる絆であるだけでなく、全世界の教会を結び合わせる絆です。外国に旅行してその地で教会の礼拝を守るときにそのことを強く感じます。その国の言葉でなされている礼拝は、語られていることはさっぱり分からないかもしれません。しかし、そこで聖餐が祝われ、それにあずかる時、言葉は分からなくても、ここに主イエス・キリストの体である教会があり、キリストの体と血とに共にあずかっている兄弟姉妹がいるのだ、ということを深く覚えさせられるのです。それは、外国の方が私たちのこの礼拝に集われた場合にも同じでしょう。聖餐に共にあずかる体験は、主イエス・キリストにあって私たちが一つであることの大切なしるしなのです。それゆえにこそ私たちは、聖餐をその内容に相応しく祝い、守らなければなりません。洗礼を受けて主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みにあずかり、主イエスが流して下さった契約の血によって立てられた新しい契約にあずかった者たちが、主イエスの体と血とをいただき、その恵みを味わい、それによって養われる、そういう聖餐の基本をしっかり守っていかなければならないのです。それを守ることによってこそ私たちは世界の諸教会と、キリストによって一つとなることができるのです。
 そのように私たちは、多くの人たちと共に主の体と血とにあずかり、そして共に聖餐にあずかる兄弟姉妹のことを覚えていきます。そのようにして、私たちのこの群れもキリストにおいて一つとなるのです。私たちの間にはいろいろな違いがあります。意見や感情のすれ違いによってなかなか人間関係がうまくいかないこともあります。口もききたくない、という思いを持つことだってあります。しかし主イエス・キリストが、自分にもその人にも、ご自分の体と血とを与えて下さり、それに共にあずかることによって一つのキリストの体の部分として下さっている、そこに、人間のいろいろな違いを越えた、私たちの一致の根拠があり、それを支える土台があるのです。聖餐にあずかることによって、主が、様々にすれ違う私たちの交わりの土台を新たに据えて下さっているのです。そのことが分かってくることが、主の体と血とにあずかる信仰が深まることなのです。

救いの完成の予告編
 25節で主イエスは「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とおっしゃいました。これはどういうことなのでしょうか。マタイによる福音書はこのお言葉をもう少し詳しく伝えています。26章29節です。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。ここから分かるように、主イエスは、「今度弟子たちと共にぶどう酒を飲むのは、神の国、わたしの父の国でのことだ」と言っておられるのです。主イエスは「神の国は近づいた」と語っておられました。その神の国がいよいよ実現、完成するその時に、再びあなたがたと共にこの杯を飲もう、と言っておられるのです。神の国が実現、完成するのは、この世の終わりにおいてです。今読んでいる14章の前の13章に語られていたように、世の終わりにおいては、大きな苦しみの後、主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られ、そのご支配が完成するのです。主イエスのご支配が完成し、神の国が完成し、私たちの救いが完成する、それが世の終わりです。その時に主イエス・キリストは私たちと杯を共にして下さるのです。主イエスは他の箇所でも、神の国の完成を、神様のみ前での盛大な宴会に招かれることに譬えておられます。つまり25節のお言葉は、今この地上で私たちが主の体と血とにあずかる聖餐を、世の終わりに実現する主のもとでの盛大な宴会へと結びつけているのです。聖餐は、世の終わりに神の国において私たちがあずかることを約束されている盛大な宴会の、この世における先取り、あるいは予告編です。私たちは聖餐において主の体と血とにあずかることによって、この世における信仰の生活のための養いと支えとを与えられるだけではなく、世の終わりに約束されている救いの完成の予告編を見るのです。神の国での恵みの食事の試食、テイスティングをするのです。聖餐の時にいつも読まれるみ言葉はコリントの信徒への手紙一の11章23節以下ですが、そこにこのような言葉があります「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。「主が来られるときまで」とはつまり主イエスの再臨によるこの世の終わりまで、ということです。聖餐は、この世の終わりまで祝われていくのです。それは聖餐が、この世の終わりに与えられる救いの完成の先取り、予告編、試食だからです。聖餐にあずかることによって私たちは、世の終わりに約束されている救いの完成を垣間見て、その希望に支えられて、なお苦しみ悲しみの多いこの世を、主イエスの救いにあずかる新しい神の民として歩んでいくのです。

復活の希望
 「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とあります。聖餐において、主イエス・キリストの死が告げ知らされています。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによる救いが告げ知らされているのです。しかしそれは「主がこられるときまで」のことです。主イエスがもう一度来られる時には、復活して生きておられる主イエスが、私たちと共に食卓について下さるのです。聖餐はその恵みの先取りです。つまり聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスの十字架の死の恵みにあずかるだけでなく、その主イエスが復活して永遠の命を生きておられる、その新しい命の恵みにもあずかるのです。主の体と血とにあずかる信仰が深められることによって私たちは、主の復活の命にあずかる希望をよりはっきりと見つめて生きる者とされていくのです。

聖餐を祝い、キリストの体と血とにあずかる教会
 主の体と血とにあずかるために主イエスが与えて下さった聖餐には、このように、主イエスにおける神様の救いの恵みの全てが凝縮されています。教会とは、この聖餐を祝い、主イエス・キリストの体と血とに共にあずかりつつ生きる群れです。本日このみ言葉を聞いた後で聖餐にあずかることができないのは残念です。しかし、教会の礼拝の中心は、たとえ聖餐が祝われない日であっても、聖餐において与えられている恵みです。私たちは毎週の礼拝においてみ言葉によってその恵みにあずかっており、聖餐にあずかる礼拝においてはその恵みをさらに目に見える仕方で、体全体で味わっているのです。

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