「神は何でもできる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第52編1-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章23-31節
・ 讃美歌:122、208、455、74
主イエスのもとを立ち去った人
先週の礼拝において私たちは、一人の人が主イエスのみ前から悲しみながら立ち去ったという話を読みました。マルコによる福音書第10章17節以下です。この人は主イエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。彼は永遠の命、つまり神様が与えて下さる救いを得るために熱心に努力していました。主イエスが「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という十戒の後半の戒めをお示しになると、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言っています。その言葉に偽りはないでしょう。彼は小さい頃から十戒を熱心に守り、神様の前に正しい者として生きようと努力してきたのです。しかし永遠の命を得るにはそれだけでは不十分だと感じて、自分になお足りないものを教えてもらおうとして主イエスのもとに来たのです。主イエスはこの人を慈しみに満ちた目で見つめながら、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。この言葉を聞くと、彼は悲しみながら立ち去りました。主イエスがおっしゃる、そのようなことはとてもできないと思ったのです。それは彼が沢山の財産を持っていたからだ、と22節にありました。財産を全て捨てて主イエスに従うことはとても出来なかったのです。
弟子たちの驚き
本日ご一緒に読むのはこの話の続きの23節からです。この人が去って行くのを見送った主イエスは、弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とおっしゃいました。そうしたら弟子たちはこの言葉を聞いて「驚いた」と24節にあります。弟子たちはどうして驚いたのでしょうか。「財産のある人、金持ちほど、それを全て捨てて主イエスに従うことは出来にくい、財産のある者が神の国に入るのは、つまり神様の救いにあずかるのは、なるほど難しいことだ、自分たちはこの人ほど財産を持っていなかったから、主イエスに声を掛けられた時に、いろいろなものを捨ててすぐに従うことができた、財産のない我々は幸せだったのだ」、彼らは主イエスのお言葉をそのように理解して納得してもよかったのではないでしょうか。ところが弟子たちは主イエスのお言葉に「驚いた」のです。それは何故だったのでしょうか。
財産のある者が神の国に入るのは難しい
主イエスは更に言葉を続けて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。それを聞いて「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った」と26節にあります。「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が容易い」という主イエスのお言葉を聞いて、弟子たちの驚きはますます深まったのです。それは彼らが主イエスのお言葉を、「金持ちほど欲が深いから救われるのが難しい、自分たちのような貧しい者こそが救われるのだ」というふうには受け止めなかったことを示しています。彼らは主イエスのお言葉を聞いて、金持ちのみでなく自分たちも含めて、いったい誰が救われるのだろうか、果して救われる人などいるのだろうか、と真剣に問わざるを得なかったのです。それは彼らが主イエスのお言葉を正しく受けとめたということです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」という主イエスのお言葉は、財産がある人ほど、それを捨て去って主イエスに従うことは困難だ、だから救われるのが難しい、ということではありません。そうではなくて主イエスはこのお言葉によって、自分が持っている何らかの財産によって永遠の命を得よう、神の国に入ろうとしている人間の思い違いを正そうとしておられるのです。主イエスがあの人に「持っているものを売り払い、貧しい人々に施し、そして私に従いなさい」とおっしゃったのはそのためでした。彼は神様の戒めである十戒を子供の時から熱心に守り、神様に従う正しい者として生きてきました。周囲の人々も彼をそういう立派な人、信仰深い人として一目置いていたでしょう。彼は自分の善い行いという財産をせっせと積み立てながら生きてきたのです。その彼が、自分の正しさ、立派さ、信仰深さにさらに磨きをかけるために、主イエスのもとに来て、永遠の命を受け継ぐために自分にはさらに何が必要でしょうか、と尋ねたのです。それに対して主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃいました。しかしその「一つ」は彼が期待していたような、自分の正しさという財産をさらに増やすための何かではなくて、自分がこれまで守り、蓄え、拠り所としてきた財産を全て放棄して、自分の人生を主イエスに委ね、神様の支えと養いのみによって生きる者となることだったのです。それは彼のこれまでの生き方を根本からひっくり返すようなことでした。主イエスが何かとても困難な善い行いをするようにおっしゃったのだったら、彼は喜んで、また頑張ってそれをしたでしょう。しかし、自分が善い行いによって積み上げてきた財産、富を拠り所とすることをやめ、それらを捨ててただ神様の恵みに身を委ねることは、彼には出来なかったのです。主イエスはそういう彼の姿を見て、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とおっしゃったのです。それはもはや、金持ちは救われないという話ではありません。「財産のある者」とは、自分が努力して善い行いに励むことによって積み上げてきた自分の正しさ、立派さという財産を拠り所とし、それによって救いを、平安や安心を得ようとしている者のことです。そのような者は、神の国に入ることが難しいのです。神様の救いにあずかることが困難なのです。神様の恵みよりも自分の正しさに依り頼んでいるからです。その人にとって救いとは、結局のところ、自分は正しい、立派に生きていると思って安心できることなのです。信仰もまた、そういう自己満足を得るための手段になっているのです。
地上の富と天の富
このことは別の言い方をすれば、天に富を積むか、地上に富を積むか、ということです。主イエスは先週の所の21節で、持っているものを売り払って貧しい人々に施せば、天に富を積むことになる、とおっしゃいました。先週も申しましたがこれは、財産を全て貧しい人々に施すという素晴らしい善い行いをすれば、天国銀行の自分の口座に沢山の預金をすることができる、あるいは天国カードのポイントを沢山ゲットできる、そういう天の預金やポイントを貯めることによって救いという特典を得ることができる、ということではありません。私たちが善い行いによって貯め込もうとする預金やポイントは、実は天にではなくて地上に積まれている、地上の富なのです。なぜならそれによって得られるのは、地上の歩みにおいて自分が満足することだし、また人々からあの人は立派だと褒められることだからです。天に富を積むというのは、地上の歩みにおいて自分が持っているものを見つめることをやめて、神様の恵みにこそ依り頼むことです。つまり天に富を積むためには、自分が積み上げている地上の富は捨てなければならないのです。そのことができなかったためにあの人は去って行ったのです。弟子たちは主イエスのお言葉によって、自分たちもあの人と同じだと感じたのです。表面的に見れば、彼ら弟子たちはあの人とは全く違って、様々なものを捨てて主イエスに従う弟子となっているわけですから、彼とは違って自分たちは救われるのだと思ったとしても不思議ではありません。しかし彼らは、主イエスに従っている自分たちも、神様の恵みにより頼んでいるのではなくて、自分が正しい者、信仰深い立派な者となることによって救いを得ようとしているのではないか、自分たちも結局自分の富、財産を捨てることができず、地上に富を積んでいるのではないか、と感じたのです。彼らが主イエスのお言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったというのはそういうことでしょう。主イエスのもとを悲しみながら立ち去った金持ちと自分たちは同じだ、ということを示されたところに、彼らの驚きがあったのです。
誰が救われるのだろうか
私たちも、主イエスのお言葉によって同じように驚かされます。主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったのです。らくだが針の穴を通るというのは、要するに不可能なことです。自分の財産、豊かさ、正しさ、立派さ、それらの自分が積み上げ蓄えているものに依り頼んで神の国に入ろうとすることは不可能だと主イエスは宣言なさったのです。しかし私たちはいつだって自分の豊かさを追い求め、それに依り頼もうとしています。経済的に豊かになろうとしているだけでなく、少しでも立派なこと、善いこと、正しいことをして生きようと努力しており、そして多少なりともそれができたと思うと嬉しくなり、自分もそこそこによくやっていると思い、自分の人生を確立できたような気になって安心するのです。また私たちが信仰を持って生きようとするのも、あの金持ちと同じように、自分の善い行いや立派さという財産をさらに積み上げて、より確かなものにするためであることが多いのではないでしょうか。つまり私たちは、主イエスによって自分を今よりもっと豊かにすることができると思っているのです。しかし主イエスは、そういうことによって救いを得ることは不可能だとおっしゃっています。だから私たちも弟子たちと共に、「それでは、だれが救われるのだろうか。私たちの中のだれも救われることなどできないのではないか」という深い驚きを抱かずにはおれないのです。
人間にできることではない
主イエスは27節で、驚いている弟子たちに、そして私たちに、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃっています。「人間にできることではない」。つまり、「だれが救われるのだろうか。だれも救われないのではないか」と驚いている私たちに主イエスは、「その通り、人間の力によっては誰も救われないのだ」とおっしゃるのです。自分の正しさ、立派さという豊かさに頼り、そこに安心を見出そうとしている限り、つまり自分で積み上げた富に頼っている限り、神の国に入ることは、神様の救いにあずかることは決してできないのです。あの金持ちの姿がそのことを示しています。彼は子供の時から一生懸命に善い行いを積み重ね、地上の富を蓄えてきました。しかしそれによって救いの確信を得ることはできなかったのです。まだ何か足りない、神の国に入るにはまだ不十分だという思いから抜け出せないのです。自分の善い行いによって救いの確信を得ようとしても、どこまでいってもそれは得られません。神様の救いにあずかり、救いの確信を与えられ、真実の平安を得ることは「人間にできることではない」のです。
神は何でもできる
しかし主イエスはそれに続いて「神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。ここに、私たちが神の国に入り、神様の救いにあずかり、まことの平安を得るただ一つの道があります。それは、何でもできる、つまり全能の、神様の力によってということです。私たちが自分の力で神の国に入ること、救いにあずかることは、らくだが針の穴を通るような不可能なことです。神様の全能の力のみが、その救いを与えることができるのです。その全能の力は主イエス・キリストにおいて現されています。神様の独り子であり、まことの神であられる主イエスが、人間となってこの世に生まれ、歩んで下さった、そこに、神が人間になって下さるというあり得ない奇跡、神様の全能の力によるみ業があります。さらにその主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちの救いのために、神の独り子が死んで下さった、それも神様の全能の力による救いのみ業です。そして父なる神様は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さり、その主イエスの復活の命に私たちもあずからせて下さいます。それも神様の全能の力によることです。主イエス・キリストにおいて実現し、また約束されているこれらの救いのみ業の全体が、神様の全能の力を示しているのです。神の全能、神は何でもできるということを私たちは、私たち罪人の救いのために独り子の命をも与えて下さったという救いのみ業においてこそ見るのです。 「人間にできることではないが、神にはできる」というみ言葉はこのように、主イエス・キリストによって実現する救いのみ業のことを言っているのです。間違えてはいけないのは、人間の力は救いを得るのに不十分だから、足りない所を神様の力によって補ってもらう、ということではないということです。私たちは、神様に力を貸してもらって救いを得るのではありません。神様は人間の力の補いをする存在ではないのです。神様は、人間にはできない救いを、ただ神様の力によって成し遂げて下さるのです。その救いにあずかるために必要なのは、「人間にできることではない」という事実をしっかりと受けとめ、自分の正しさや豊かさにしがみついている手を離して、神様の恵みに身を委ねることなのです。そこにこそ、神の全能の力による救いが開かれて行くのです。
捨てて、従う
さて28節には、ペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったことが語られています。このペトロの言葉は、27節で主イエスがおっしゃったことを全く理解していない、とんちんかんな発言のようにも思われます。人間の力で神の国に入ることはできない、ただ神の力のみによってそれが実現するのだと主イエスはおっしゃったのに、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と自分たちの実績を強調するようなことを言っているわけです。しかし主イエスはこの発言を正面から受け止め、それに答えて下さいました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。つまり、様々なものを捨てて主イエスに従った者にはこれこれの報いが与えられる、と主イエスはおっしゃったのです。このお言葉と、先程の、人間の力によって救いを得ることはできない、ただ神の力によってのみそれは実現する、というお言葉とはどう結びつくのでしょうか。一見矛盾しているように思われるこのお言葉は、実は深く結びついています。自分の正しさ、善い行いに頼るのでなく、ただ神様の全能の力、その恵みに依り頼み、自分が地上に積み上げている富から手を離して、神様の恵みという天の富をこそ求めていくなら、私たちはそこで、地上のいろいろなものを放棄し、捨てて、主イエスに従っていくことになるのです。自分が地上に積み上げているものを何も手放さずに、それを全部抱えたままで主イエスの弟子となることはできません。弟子たちは、それまでの生活を捨てて主イエスに従ったのです。主イエスはあの金持ちの男にも、「わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。それは決して、一切を捨てて主イエスの弟子になるという立派な行いをすればその見返りとして救いが得られる、ということではありません。人間の善い行いによって救いを得ることはできないのです。「人間にできることではない」とはそういうことです。しかし、「神にはできる。神は何でもできるからだ」という神様の全能の力による救いは、私たちがその恵みに身を委ねて生きるところにおいてこそ、つまりこの世のものを捨てて主イエスの弟子となり従っていくところでこそ実現するのです。そういう意味でペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っていることには意味があります。信仰者として生きていくとは、この世のものを捨てて主イエスに従うことなのです。
信仰者に与えられるもの
主イエスはこの29節以下で、そのようにこの世のものを捨てて弟子となって生きる者には、神様がそれを百倍にして返して下さる、ということを語っておられます。「わたしのためまた福音のために」とは、主イエスによって神様が与えて下さっている救いの恵みを受けて生きるために、ということです。そのためにこの世の何かを捨てることによって、私たちはこの世の人生においても決して貧しくなってしまうことはありません。神様は私たちのこの世の人生をも、豊かに養い、導いて下さるのです。兄弟、姉妹、母、父、子供という家族を百倍与えられる、それは教会の兄弟姉妹という家族を与えられることだと言ってよいでしょう。信仰者となり、神様の恵みに身を委ねて生きることによって私たちのこの世の生活は、貧しく狭く縮こまってしまうのではなくて、むしろ大きく広がっていくのです。この世のものに依り頼むことをやめ、神様の恵みにのみ依り頼んでいくことによって、私たちは世捨て人になるのではなくて、この世との関わりを、そこにおける働きや人間関係を、より豊かに与えられていくのです。そこには「迫害も受けるが」ともあります。この世のものではなく神様の恵みに依り頼んで生きることによって、この世の生活で様々な軋轢が生じ、苦しみを受けることも確かにあります。しかしその苦しみと共に、百倍豊かな人生が与えられるのです。そして「後の世では永遠の命を受ける」。この世の何十年かの歩みのみが私たちの人生なのではありません。主イエスを復活させて下さった全能の神様の下で生きる私たちは、世の終りに主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる者とされることを信じ、その希望に支えられて、この世の苦しみや悲しみによって絶望することなく歩み続けることができるのです。人間の力、地上の富に依り頼むことをやめ、主イエスの父である全能の神様の恵みに身を委ねて生きる信仰者には、このような祝福が約束されているのです。
先の者は後に、後の者は先に
31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とおっしゃいました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。そこにも、神様の救いが人間の実績によって得られるのではなく、ただ神様の恵みによって与えられることが示されています。人間の実績、どれだけ立派な善い行いができるかを比べるなら、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかしその順序は神の国、神様による救いにおいては関係ありません。むしろ神様は、ご自分の恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神様の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神様の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちが、自分の力、実績によって救いを得ようとしているなら、そのような順序の逆転は納得できない、受け入れることができないということになるでしょう。しかし私たちの救いは、私たちの努力や実績によってではなくて、ただ神様の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神様の全能の力によって与えられるのです。自分の正しさや善い行いという実績にしがみつくことをやめて、この神様の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍豊かな人間関係が与えられていくのです。