主日礼拝

ヨハネとイエス

「ヨハネとイエス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章14-29節  
・ 讃美歌:322、463、510、78

洗礼者ヨハネの死
 本日ご一緒に読む聖書の箇所は、マルコによる福音書第6章14節以下です。ここには、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の第1章の始めのところに登場した人物です。簡潔な記述ですので、1章1?8節を振り返って読んでおきたいと思います。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、即ち救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。どのようにして準備したかというと、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ことによってです。ヨハネは人々に、悔い改めによる罪の赦しを得させようとしたのです。ということは、「あなたがたは罪人である。神に背き、あるべきでない状態に陥っている。悔い改めて赦しを得なければならない」と語ったのです。それは「反省して、もう二度と罪を犯さないようにしなさい」という道徳の教えではありません。悔い改めるとは、自分の罪を認めて神様に赦しを願うことです。罪を認め、悔い改めて神様の赦しをいただくことのしるしとして、ヨハネは洗礼を授けていました。それによって、救い主イエス・キリストを迎えるための準備をしていたのです。そのヨハネが捕えられたことが1章14節に語られていました。そこに語られているように、主イエスがガリラヤにおいて神の国の福音を宣べ伝え始めたのは、このヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。  ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデは、クリスマスの話に出てくる、新たに生まれた王を今のうちに殺してしまおうとしてベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれている人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、このアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していたが、ある年の自分の誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

当惑しながらも、なお喜んで
 ヨハネを憎み、殺そうとしたのはヘロデよりもむしろ妻のへロディアでした。彼女がヨハネを憎んだのは、ヨハネが彼女とヘロデの結婚を、律法で許されていない不正な結婚だと非難したからです。そのことが17?19節に語られています。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」。ヘロディアがヨハネを恨み、殺そうと思っていたのです。ヨハネの逮捕もヘロデ自身よりもヘロディアの思いによることだったと思われます。しかしヘロディアはヨハネを殺してしまいたいと思っていたができないでいた、その理由が次の20節です。「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。ヘロデは、自分が捕え、監禁したヨハネに会ってみたのです。領主である自分のことを公然と批判し、多くの人々が彼のところへ来て洗礼を受けたヨハネとはどのような人物なのか、興味を持ったのかもしれません。とにかくヘロデはヨハネに会ってみた。するとそこに驚くべき出会いが起ったのです。ヘロデが「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って」とあります。自分を批判し、罪人として厳しく断罪しているヨハネを、ヘロデは「正しい聖なる人」であると感じたのです。何によってそのように感じたのでしょうか。権力者の前でも物怖じせず、堂々と批判するヨハネの態度に感じ入った、ということもあるでしょうが、しかし根本的には20節後半の、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」という所が大事です。ヘロデは、ヨハネの語る教え、つまり彼の言葉に感銘を受けていたのです。その言葉は彼がこれまで聞いたことのないものでした。その言葉によって、それまで全く知らなかった新しい世界が目の前に開けてきたのです。その新しい世界は決して、すぐに喜んでそこに飛び込んでいけるようなものではありません。「非常に当惑しながら」とあります。彼を当惑させ、恐れさせるような世界です。つまりそこに一歩でも足を踏み入れたら、自分がこれまで通りではいられなくなる、これまで築き上げてきたもの、今しっかりと握りしめているものを手放さなければならなくなる、そういう恐れを抱かせるような新しい世界が、ヨハネの言葉によって目の前に開き示されたのです。そのような言葉は無視し、そんな世界は拒否してしまえばいいだろう、と思いますが、ヨハネの言葉にはヘロデの心を捉え揺り動かす何かがありました。ヨハネの言葉によって、ヘロデの心にある新しいことが起り始めたのです。その言葉によって開き示された未知の新しい世界に、自分が引き込まれていくことを彼は感じたのです。そして驚くべきことに、そのことを喜んでいる自分に気付いたのです。その世界に足を踏み入れたら、自分が変わらなければならない、大事にしているものを失わなければならない、ということが分かっているのに、そうなることを心のどこかで望み、喜んでいる自分がいる、ヘロデがヨハネの言葉に「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」というのはそういうことでしょう。

愛を込めて懇ろに
 ヨハネはヘロデに何を語ったのでしょうか。もしもヨハネがヘロデのご機嫌を取り、何とかして自分を釈放してもらおうとするようなことを語ったとしたら、ヘロデは当惑することはなかったでしょう。そんな言葉は飽きるほど聞いて来たのです。ヨハネの言葉にヘロデが心を動かされたのは、彼が、自分を生かすも殺すも自由である権力者の前で、いささかの恐れもなく相手の罪を指摘し、悔い改めを迫ったからこそです。いつも自分にへつらい、ご機嫌を取ろうとしている取り巻きに囲まれているヘロデにとって、そういうヨハネの言葉がとても新鮮に響いたことは想像できます。しかしヘロデが当惑したのはそのためだけではありません。罪を批判し断罪するだけの言葉なら、「当惑しながらもなお喜んで耳を傾ける」ことはなかったでしょう。兄弟の妻を奪って結婚することが律法で許されない罪であることぐらい彼は先刻承知なのです。「それは罪だ」と言われて当惑するヘロデではありません。「だからどうだというのか」と開き直るだけでしょう。彼が当惑したのは、ヨハネの言葉が、ただ彼の罪を責め立て、断罪するだけのものではなかったからです。ある説教者はこのように語っています。「ヨハネはヘロデを愛していたのだ。彼の言葉は愛の言葉だった。だからヘロデはそれをちゃんと聞くことができたのだ。このヨハネは、いつもこわい顔をして人の罪をなじってばかりいた人ではない。自分を迫害し捕えている王に対して、愛を込めて懇ろに、あなたは罪人です、早く悔い改めなさいと語ることができた人なのだ」。ここに、ヘロデの当惑の秘密があったと言えるでしょう。ヨハネは、愛を込めて懇ろに、ヘロデの罪を指摘し、悔い改めることを求めたのです。その言葉がヘロデの心を揺さぶったのです。それまで知らなかった全く新しい世界を示され、そこに引き込まれていくことを、当惑しながらもなお喜ぶ思いが、そういう言葉によって生じたのです。

神の言葉が語られる時に
 私たちはこのことを、ヨハネが、自分を迫害し、捕え、殺してしまうかもしれない権力者の前でも、愛に満ちた言葉を語ることができた、そのヨハネの愛がヘロデの心を動かした、と捉えてしまってはならないと思います。ヨハネは、自分の愛に基づく自分の言葉を語ったのではありません。彼が語ったのは神様のみ言葉です。ヘロデが心を揺り動かされ、当惑しながらもなお喜んで耳を傾けたのは、ヨハネの言葉ではなくて神様のみ言葉だったのです。ヘロデを愛し、愛を込めて懇ろにその罪を指摘し、悔い改めることを求めたのは神様ご自身だったのです。神様のみ言葉を聞く時に、こういうことが私たち一人一人にも起ります。神様は私たち一人一人にみ言葉を語りかけておられます。あなたは神に背く罪に陥っている、あるべきでない状態にいる、そのために様々な悲惨なことがあなたと隣人との歩みに生じている、悔い改め、心の向きを変えて、私のもとに帰りなさい、と愛を込めて懇ろに語りかけておられるのです。私たちはもともとは、自分が悔い改めなければならないとは思っていません。自分の力でそこそこに正しく立派に生きていると思っているのです。主イエスの教えに興味を抱いて聞いてみようかと思うことはあっても、それは自分の思いによって生きている歩みの何らかの助けになれば、ということであって、その教えを聞いて悔い改めようなどとは思っていないのです。ところがその私たちが、神様が愛を込めて懇ろに語りかけて下さるみ言葉を聞く時、ヘロデに起った驚くべき出会いが時として起ります。それまで全く知らなかった新しい世界を示されることがあるのです。それは足を踏み入れたならそれまで通りには生きておれなくなるような新しい世界です。そこに引き込まれていくことに私たちは当惑を覚えます。しかしそこには同時に喜びがあることも感じるのです。そのようにして私たちは神様のみ言葉を、まさに当惑しながらも喜んで聞くようになります。私たちの罪をただ断罪するのではなくて、愛を込めて懇ろに罪を指摘し、悔い改めを求めて語りかけて下さる、そういう神様のみ言葉を聞く喜びを知らされるのです。

神の言葉を拒む人間
 ヘロデはヨハネの語るそのような神様の愛のみ言葉を当惑しつつも喜んで聞いていました。しかし結局彼は、ヨハネを憎む妻へロディアの思惑によって、彼の首を切ることを命じてしまいました。軽卒に立てた誓いのゆえに、また自分の誕生日の宴席に招いた客たちの前で対面を保つために、そうせざるを得なかったのです。このことによって彼は、ヨハネを通して語られていた神様のみ言葉を結局拒んだのです。み言葉によって開かれ始めていた新しい世界への扉を自分でぴしゃりと閉じ、元の古い世界の中に引き蘢ってしまったのです。ヘロデがヨハネを殺したことにはそういう意味があります。ヘロデは心ならずもそうせざるを得なかったとも言えます。しかしそれは彼が結局、自分が変えられることを拒み、今持っているものを放棄してまで新しい世界に生きようとはしなかったということです。自分が今持っているものを守ろうとして、変えられること、新しくなることを拒み、結局神様の救いを告げるみ言葉に耳を塞ぎ、み言葉の示す新しい世界から自分を引き戻してしまうということを、私たちもよくするのではないでしょうか。

主イエスはヨハネの復活?
 ヘロデはそのようにして洗礼者ヨハネを殺してしまったわけですが、この箇所において、そのヨハネの死のいきさつは、既に起った出来事の回顧です。この箇所において現在のこととして語られているのは、14節にあるように、主イエス・キリストの名が知れ渡ってヘロデの耳にも入った、ということです。主イエスはガリラヤ地方で伝道をしておられ、その噂はガリラヤ中に広まっていたので、領主であるヘロデの耳にもそれが届いたのです。ヘロデの周囲の人々はイエスの噂を聞いていろいろと憶測しました。14節から15節にかけてそれが語られています。ある人は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言いました。他の人は「彼はエリヤだ」と言いました。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書3章19節以下に、この世の終りに主なる神様による裁きが行われる「主の日」が来ると語られており、その前に、預言者エリヤが道備えとして遣わされると預言されている、イエスはそのエリヤなのだ、という説です。また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言いました。イエスは旧約の昔に神様から遣わされた預言者たちと同じような預言者だ、ということです。このように主イエスについて様々な憶測が飛び交う中で、ヘロデははっきりと「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言ったのです。このヘロデの発言こそが、本日の箇所の中心です。ヘロデのこの言葉を語るためにマルコはこのエピソードを書いているのだし、ヨハネの死のいきさつはこのヘロデの言葉の背景を説明するために語られているのです。

神の言葉が再び
 イエスはヨハネの生き返りであるとヘロデは言った、そのことによってこの福音書は何を語ろうとしているのでしょうか。ヘロデは、伝わってきた主イエスの姿に、洗礼者ヨハネとの連続性を見たのです。つまり、ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神様のみ言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。「ヨハネの言葉に当惑しながらもなお喜んで耳を傾けていたあの頃は、自分の人生の中で一風変わった特別な時だった。あの時は、この私にもまだあんな気持ちが残っていたのか、と自分でも驚くような思いになった。しかし私はヨハネを殺した。殺したくはなかったがそういう成り行きになってしまった。そのことに一抹の後悔はあるが、しかし自分が今まで努力して築き上げてきたものを手放して新しい世界へと歩み出すようなことはとうてい出来なかったのだ。ヨハネを殺したことによって、あの風変わりな、当惑と同時に喜びをも感じていた時は終った。柄にもなく、神の言葉によって揺り動かされる時は終った。私が自分でそれを終らせたのだ。もう私と神との接点はない。神の言葉を聞いたあの一時は、私の人生の特別な一こまとして記憶の底にしまい込まれ、そして忘れ去られていくのだ」。彼はそう思っていたのです。ところがそこに、イエスという人が、あのヨハネ以上の権威と力とをもって立ち現れて来ました。そのイエスによって、抹殺してしまったはずの神の言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった懇ろな語りかけが、もう一度自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内にもう一度よみがえって来たのです。

主イエス・キリストが語りかけて下さっている
 私たちも時としてヘロデのように、神様のみ言葉を聞いて当惑しつつも喜んで耳を傾けるという体験をします。しかしやはりヘロデのように、自分が築いてきたもの、得たものを失いたくないと思い、変えられること、新しくされることを拒んで、み言葉に心を閉ざし、自分の生活からそれを抹殺してしまうことがあります。み言葉を聞いて心動かされた体験を、風変わりな、ちょっとなつかしい、過去の思い出にしてしまうのです。しかし神様はそのようにみ言葉を抹殺してしまう私たちに、やはりヘロデが体験したように、再び新たにみ言葉を語りかけて下さるのです。主イエス・キリストは、そういう方として私たちの前に現れます。私たちはみ言葉に心を閉ざし、それを抹殺して自分の心の部屋に閉じこもって生きようとしますが、主イエス・キリストはそのような私たちに出会って下さり、愛を込めて懇ろに、「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」と語りかけて下さるのです。  
洗礼者ヨハネは、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。彼は人々の罪を指摘し、罪を認め悔い改めて神様の赦しをいただくように勧めたのです。その彼の言葉は先程も申しましたように、愛のこもった懇ろな語りかけであり、ヘロデの心をも揺り動かすものでした。しかしこのヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた懇ろな語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては悔い改めの印だった洗礼も、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印となりました。洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。そして主イエスは、洗礼によって新しく生まれ変わった私たちのために、本日共にあずかる聖餐をも定めて下さり、私たちが主イエス・キリストの体と血とにあずかり、その救いの恵みを確信し、またそれによって養われていくための目に見えるしるしをも与えて下さったのです。私たちはヘロデのように、神様のみ言葉に心の扉を閉ざしてしまいがちな者ですが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉と聖餐とにおいて私たちに出会い、愛を込めて懇ろに語りかけて下さっています。この主イエス・キリストの語りかけに支えられ、導かれて、私たちは悔い改めることができます。変えられていくことができます。そして、それまで知らなかった新しい世界へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

関連記事

TOP