「主イエスの母、兄弟」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第1編1―6節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章31―35節
・ 讃美歌:230、113、502
主イエスの母、兄弟
クリスマスに備えるアドベント、待降節の第二週に入りました。私たちの救い主イエス・キリストが、一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さったことを喜び祝い、感謝する思いを深めながら私たちはこの時を過ごしています。主イエス・キリストの誕生の物語を語っているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書です。どちらの物語においても、当然のことながら、主イエスを生んだ母マリアが大事な登場人物となっています。クリスマス物語のいろいろなエピソードはどれも、マリアの出産にまつわる物語であるわけです。けれども、私たちが今礼拝において読み進めているマルコによる福音書には、クリスマスの物語がありません。主イエスの誕生のことは語られていないのです。主イエスの母がマリアという名前だったことも、6章3節に一度語られるだけです。そういうマルコ福音書の中で、主イエスの母が登場する唯一の箇所が本日の所、3章31節なのです。
ここには主イエスの母と共に兄弟たちが登場します。マタイとルカによれば、主イエスは母マリアが生んだ最初の子でした。その下に、弟や妹が生まれたのです。マリアの夫ヨセフは早くに亡くなっていたと言い伝えられています。つまりこの時主イエスの家族は、母マリアと弟妹たちでした。その家族が主イエスのもとにやって来たのです。先週読んだ21節には、「身内の人たち」が来たとありました。それが31節の「母と兄弟たち」と同じ人々なのか、それとも21節の身内の人たちの中にいた母と兄弟たちだけが31節に登場しているのか、そこははっきりしません。とにかく31節において、家族の者たちが主イエスのもとに来たのです。彼らは何をしに来たのか。21節によれば、イエスを「取り押さえに来た」のです。それは、「あの男は気が変になっている」という噂を聞いたからです。30歳になっていたのに家を飛び出し、伝道の活動をするようになったイエスのことを、彼らは「おかしくなった」と思い、そんなことはやめさせて家に連れ帰ろうと思って来たのです。
人間として生きた主イエス
主イエスにこのような家族があったことは、マタイやルカ福音書を併せて読んでいる私たちにとっては特に驚くことではないかもしれませんが、最初に書かれた福音書であるマルコ福音書のみを読んだ人は驚いたのではないでしょうか。この福音書において主イエスは最初から神様に遣わされた救い主として登場し、権威をもって「神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えておられました。その主イエスに家族がおり、しかも主イエスの活動を理解せずに取り押さえに来たことを読んだ時、人々は、ああ主イエスも私たちと同じ一人の人間として生きておられ、家族のしがらみの中におられたのだ、ということに気付かされたのではないでしょうか。マルコはまさにそのことを示すためにこの箇所を書いていると言えるでしょう。主イエスは、マリアという母親から生まれ、その母のもとで育てられ、弟、妹たちがおり、そういう家族の一員としてこの世を生きておられたのです。主イエスの誕生の物語、クリスマスの出来事を語らないマルコ福音書において、この箇所は、ともすれば見失われがちなそのことを明確に示すという働きをしていると言うことができると思います。
外に立ち
さて31節には、イエスの母と兄弟たちが来て、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。ここに、彼らと主イエスとの関係、あるいは彼らが主イエスに対して意識していた「距離感」のようなものが示されていると思います。彼らは、外に立っているのです。その「外」というのは、32節に「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」とある、その人々の外です。主イエスの周りに座っている人々の輪の中に入るのではなく、その外に立って、そこから人をやってイエスを呼ばせたのです。「呼ばせた」というのも、「呼び出した」という感じです。そこに働いている彼らの思いはよく分かります。彼らは、イエスは気が変になったと思っているわけです。そのイエスの周りに集まっている大勢の人たちも、イエスの影響を受けて気が変になっている、今の言い方で言えば集団催眠状態みたいになっているに違いない、その人たちとイエスとは、相互に影響を及ぼしながらお互いにおかしくなっているのだ、だからイエスを正気に戻すためには、その人たちと引き離さなければだめだ、その人々の輪から外に出して、我々家族とだけの場を作って、そこで、もうこんなことはやめて家に帰るように説得しようと思ったのでしょう。これはまさに現在、カルト教団にはまってしまい、マインドコントロールに陥っている人を救出するために取られている手段です。マインドコントロールを解くためには、その人をその集団から切り離すことが必要なのです。そうしないといつまでも、本人が自分でものを考えることができるようにならないからです。
どちらが本当に正気なのか
「外に立ち」という言葉から母や兄弟たちのそういう思いが伝わって来るわけですが、しかしマルコはこの言葉にもう一つの大事な意味を込めて語っていると思います。先ほど申しましたように、身内の人たちは「あの男は気が変になっている」という噂を聞いて主イエスを取り押さえに来たわけですが、その「気が変になっている」という言葉のもともとの意味は、「外に立つ」であるということを先週の礼拝において申しました。自分自身の外に立ってしまっている、つまり本来の自分でない、別の自分になってしまっている、そういう意味で、「外に立つ」という言葉が「気が変になっている」という意味を持っているのです。31節でイエスの母と兄弟たちが「外に立ち」と語る時にマルコは、その「気が変になっている」という言葉を「外に」と「立つ」とに分解して用いています。意図的にそうしているのだと思います。つまりマルコはこの言葉によって、本当に「外に立っている」のは、気が変になっているのは果して誰なのか、という問いを発しているのです。気が変になっている、それは先週の箇所で言えば悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれているということです。悪霊の支配下に置かれ、本来の自分の言葉を失い、悪霊の言葉を語るようになり、悪霊の命じるままに行動するようになっている、それが気が変になることです。そのことが起っているのは、主イエスなのか、それとも、主イエスにおいて神様の救いのみ業が行われ、悪霊の支配からの解放が起っていることを認めずに主イエスを拒み、その働きをやめさせようとしている身内の者たち、家族の方なのか、という問いです。別の言い方をすれば、主イエスのもとに集まって来て、その周りに座り、み言葉を聞いている人々と、その輪の外に立ってイエスを呼び出し、連れ帰ろうとしている人々と、いったいどちらが本当に正気なのか、主イエスのもとに集ってみ言葉を聞いている人々の輪の外に立ち、外からあれこれと主イエスについて、そのお働きについて批評し、良いとか悪いとか判定している、そういう人々こそ、文字通り外に立っており、正気を失い、人間の本来のあり方を失い、悪霊に支配され、気が変になっているのではないか、マルコはそのように読者に問いかけているのです。
わたしの母、わたしの兄弟とはだれか
今申しましたようにここには、主イエスの周りに座っている大勢の人々と、その外に立ってイエスを自分たちの所に呼び出そうとしている家族の者たちの姿とが対照的に描かれています。そのコントラストの中で、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」という語りかけがなされました。それに対して主イエスの「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」というお言葉が語られたのです。このお言葉は、「外に立って私を捜しているような母や兄弟などは知らない。そんな者たちは私の母でも兄弟姉妹でもない」という響きを持っています。主イエスは外に立っている母や兄弟たちに対して大変冷たい、厳しいことをおっしゃったのです。ここに描かれている特に母マリアの姿は、あのルカ福音書のクリスマス物語において、天使から主イエスを身ごもることを告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたマリアとは似ても似つかない、別人のような姿です。しかしこの両方の姿が、まさに母マリアの、そして私たちの姿なのではないでしょうか。私たちは、まさにマリアと同じように、主のみ言葉を聞き、そのみ前に跪いて「お言葉通りこの身に成りますように」と祈ることもあれば、み言葉を聞く者たちの輪の外に出てしまって、そこから自分の思いによって主イエスのことをあれこれ批判する者となってしまうこともあるのです。
ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる
私たちがそのように「外に立つ者」となってしまう時、主イエスはとても厳しい言い方で、「そのような者は自分と関係がない」とおっしゃいます。そしてそれに続く34、35節で、周りに座っている人々を見回しながら、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃったのです。「周りに座っている人々」、それは主イエスのみ言葉を聞こうとして集まって来た人々です。あるいは、主イエスによる癒しを求めてきた病人たちでもあったでしょう。み言葉よりも癒しの奇跡を求めていた人の方が多かったのかもしれません。しかしそうではあっても、彼らは主イエスによる救いを求めて、それを期待して集まって来たのです。そして主イエスの周りに、弟子たちの群れの中に共に座っているのです。彼らは主イエスの救いのみ業を外から傍観者的に見て批評するのではなくて、自分自身の事柄としてそれを切実に求め、主イエスのもとに集う人々の輪の中に入って来ているのです。主イエスはそのような人々に、あなたがたこそ私の本当の母であり、兄弟姉妹だとおっしゃったのです。
神の御心を行う人
主イエスのこのお言葉を読む時、私たちは、自分は果してどちらだろう、主イエスに「あなたがたこそ私の本当の母であり、兄弟姉妹だ」と言っていただけるだろうか、いやむしろ、「そのような者は自分と関係がない」と言われてしまうのではないだろうか、と不安を覚えるのではないでしょうか。そして考えるのは、いったいどのような者が、主イエスのまことの兄弟、姉妹、母と呼んでいただけるのだろうか、ということです。35節で主イエスは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言っておられます。主イエスの本当の家族となるためには、神のみ心を行うことが必要なのです。しかしそれはいったい何をすることでしょうか。どのように生きることが、神のみ心を行うことなのでしょうか。
主イエスは、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃいました。つまり主イエスの周りに座っていた人々こそ、「神のみ心を行う人」なのです。この人たちは、先ほど申しましたように、主イエスの教えを聞こうとして、あるいは癒しの奇跡を求めて、集まって来た人々です。彼らは、「神のみ心を行っている」と言えるような何かの活動をしていたわけではありません。良い行いに励んでいたとか、奉仕活動をいっしょうけんめいしていたのではないのです。ただ、主イエスの救いを求めて、そのみ言葉を求めて主イエスのもとに来て、その足もとに座っていたのです。主イエスはその人々を指して、「神のみ心を行う人」と呼んで下さったのです。ですから私たちは、「神のみ心を行う人」とはどのような人かを、自分たちの抱くイメージで決めてしまってはなりません。神様と人々に仕える立派な行いをしている人こそが主イエスの兄弟、姉妹、また母と呼ばれることができる、ということではないのです。
私たちの姿
「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と主イエスが言って下さったその人たちは、この後どうなったのでしょうか。32節にあったように、大勢の人がイエスの周りに座っていました。その中には、主イエスによって選ばれ、使徒として任命された十二人もいました。彼らは主イエスと行動を共にし、従っていったのです。しかしここに集まっているのは使徒たちだけではありません。彼らの中には、この時み言葉を聞き、あるいは病気を癒していただいたけれども、それっきり主イエスのもとを離れ、自分の生活へと戻って行った人も沢山いると思います。皆が主イエスに従っていったわけではありません。それどころか彼らの中にはひょっとしたら、この後主イエスがエルサレムにおいて捕えられ、ピラトによる裁きを受けた時に、「十字架につけろ」と叫んだ人もいたかもしれません。使徒として立てられて主イエスに従って行ったあの十二人にしても、その中には主イエスを裏切って逮捕の手引きをした人がいたし、他の者たちもその時には皆逃げ去ってしまったのです。主イエスのことを「知らない」と三度言ってしまった者もいます。つまり十二人の使徒たちを含めて、今主イエスの周りに座っている人々の内の誰一人として、「自分は神の御心を行う人として生きた」と胸を張って言える者はいないのです。この人々の姿もまた、私たちの姿なのではないでしょうか。私たちも、例えば今日、この礼拝に集い、主イエスの周りに座ってそのみ言葉を聞いています。主イエスによる救いを求める者たちの輪の中に私たちは今いるのです。しかし、だから自分はこれからもずっと主イエスに従って行く弟子として、信仰者として、神の御心を行う人として生きていく、と断言することなど私たちには出来ません。この人々がそうであったように、一時み言葉を聞き、主イエスの救いを求めたけれども、じきに離れ去り、自分の生活に埋没して生きる者となることはしばしば起るし、たとえ主イエスを信じて従って行ったとしても、試練にあうとたちまち裏切り、「十字架につけろ」と叫ぶようにすらなる、それが私たちの姿なのではないでしょうか。そういう意味では、主イエスの周りに座っている人々と、外に立っている母と兄弟たちとの間に、そんなに違いがあるわけではないのです。先ほど見たように、主イエスの母は、クリスマスの出来事においては、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」と信仰を告白し、主のみ心に従いました。そのような、信仰者の模範であったはずの母マリアが、しかしいざ息子である主イエスが伝道の活動を始めると、気が変になったと思い、取り押さえに来たのです。主イエスを囲む者たちの輪の外に立つ者となってしまったのです。母マリアですらそうなのですから、今主イエスを囲む者たちの輪の中にいる者が、外に立つ者となってしまうことは、いとも簡単に起るのです。
主イエスの招き
そうであるなら、私たちがこの箇所から読み取るべきメッセージは、主イエスの周りに座ってみ言葉を聞き、救いを求める者たちの輪の中にしっかり留まり、外に立つ者にならないように気をつけよう、それによって主イエスに「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言っていただけるような者になろう、という単純なものではあり得ません。外に立っている母や兄弟たちと、主イエスの周りに座っている人々との間に、本質的な違いはないのです。両者の間を隔てているのが、主イエスのもとに留まろうとする人間の思いであるならば、そのような私たちの思いがいかに脆いものであり、うつろいやすいものであるかということをこそ、私たちは見つめなければならないのです。その上で私たちがここで本当に聞き取らなければならないのは、外にいる者も中にいる者も本質的には違わない、そういう人間の現実の中で響いている、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」という主イエスのお言葉です。主イエスは、ご自分の周りに座っている人々に、そのように語りかけて下さっているのです。その人々は今見たように、主イエスのことを外から批評している人々と本質的には違いがありません。どんなことがあっても主イエスのもとに留まり、神のみ心を行っていく立派な人々などでは全くないのです。しかし主イエスが「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言って下さるのは、主イエスの招きに他なりません。主イエスは、今ご自分の周りに集い、み言葉を聞き、救いを求めている者たちを、ご自分のまことの母、兄弟として、つまり主イエスの家族として生きることへと招いておられるのです。そしてこの招きは同時に、今外に立ってご自分を呼び出そうとしている肉親の母や兄弟たちに対しても語られています。「ここにわたしの母、兄弟がいる」、つまり主イエスの足下でみ言葉を聞いている者たちこそ本当の母、兄弟、家族なのだ、あなた方も、外に立っていないで、この家族の輪の中に入って来なさい、私の本当の家族になりなさい、主イエスはそのように招いておられるのです。
み心を行う歩みへと
主イエスのみ言葉をそのように招きとして読む時に、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」というお言葉も新しい響きをもってきます。今神のみ心を行っているかどうかによって主イエスの家族であるか否かが決まる、というのでもなければ、み言葉を聞いてさえいればそれが神のみ心を行っていることだ、というのでもなくて、主イエスのもとに来て、その足下に座り、み言葉を聞いていくならば、私たちはそのみ言葉によって新しくされていくのです。造り変えられていくのです。そしてみ言葉に押し出されて、神のみ心を行う人となっていくのです。信仰というのは、決してただみ言葉を聞いているだけの生活ではありません。聞いたみ言葉によって私たちは変えられ、新しくされるのです。神のみ心が何であるかを知らされていくのです。生まれつきの私たちは、自分の思いによって生きています。自分の思いによって生きていると思っています。しかし実は悪霊に支配され、自分のではなくて悪霊の思いによって生きていたりするわけですが、その私たちが、主イエスの弟子たちの輪に加わり、主イエスのみ言葉を聞く者となることによって、神のみ心を知らされていきます。クリスマスに独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さり、そのキリストの十字架の死と復活によって救いのみ業を実現して下さった神様の恵みのみ心がはっきりと分かるようになっていくのです。そして、自分の思いよりもその神の恵みのみ心を大切にして、それを人生のベースとして生きていく者とされていくのです。そこに、主イエスのまことの家族としての、神のみ心を行う人としての歩みが与えられていきます。そういう新しい歩みへと、主イエスは私たちを招いて下さっているのです。