「罪びとを招くために」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第86章1―17節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章13―17節
・ 讃美歌:17、113、506
十二弟子の一人?
本日ご一緒に読む聖書の箇所、マルコによる福音書の第2章13節以下には、主イエスがレビという人に「わたしに従いなさい」と語りかけ、彼が主イエスに従う者つまり弟子になったことが語られています。このレビが、おそらく主イエスの十二人の弟子の一人であり、主イエスの復活の後、伝道へと遣わされた十二人の使徒の一人となったと思われます。思われます、というのは、この福音書の3章16節以下にある十二人の使徒のリストには「レビ」という名前がないからです。本日の箇所のレビは「アルファイの子レビ」となっていますが、3章18節には「アルファイの子ヤコブ」という名前があります。おそらくこれが、本日の箇所のレビと同じ人物だろうと思われるのです。マタイによる福音書を読みますと、本日の箇所と同じ出来事を語っている9章9節以下に出てくるのはマタイという人です。そしてマタイによる福音書における十二使徒のリストには「徴税人マタイ」という名前があります。これも同じ人のことでしょう。ですから、レビなのかヤコブなのかマタイなのか、名前においてちょっと混乱がありますが、徴税人であったこの人が主イエスの弟子となり、十二使徒の一人となったことは間違いないでしょう。
主イエスの一言によって
ところでレビは主イエスの「わたしに従いなさい」という一言で、弟子となりました。こういう話は1章の16節以下にもありました。ガリラヤ湖の漁師だった二組の兄弟、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが、主イエスの「わたしについて来なさい」という一言によって弟子となったのです。十二人の弟子たちの中で、どのようにして弟子になったのかが語られているのは、この四人と本日の箇所のレビだけです。つまり福音書はこれらの話によって、人はどのようにして主イエスの弟子になるのかを語っているのです。主イエスがある日突然「わたしに従ってきなさい」と声をかける、すると四人の漁師は、舟や網を捨てて、父親さえその場に残して従って行ったのです。本日の箇所のレビは、徴税人という安定した仕事を捨てて従って行ったのです。主イエスの弟子となるとはそういうことだ、と福音書は語っています。彼らは何を考えて主イエスに従って行ったのか、どうして何もかも捨てて弟子になることができたのか、ということはどちらの話においても全く語られていません。このことについては後でまた触れたいと思います。
徴税人レビ
またこのレビという人は、この箇所以外にはどこにも登場しません。彼が主イエスの弟子としてどのような働きをしたかは全く分からないのです。つまりレビは、「弟子になった」ということのみにおいて聖書に登場しているのです。「何だ、それだけか」と思ってはなりません。彼が主イエスの弟子となったことこそが、特筆すべき重大な出来事だったのです。それはどういう意味で重大な出来事だったのでしょうか。
レビは「徴税人」でした。税金を徴収する人です。それは今の私たちの社会における税務署の職員とは全く違った意味を持ったことでした。15節に「徴税人や罪人」という言葉があります。16節にも、この二つの言葉が同格として並べられています。当時のユダや人たちの間で、徴税人はまさに罪人の代表格だったのです。何故かというと、彼らが徴収していた税金は、私たちの払う税金のように自分たちの国や社会のために用いられるのではなくて、彼らを征服し支配しているローマ帝国のために、あるいはこの場面はガリラヤ地方での事ですから、ローマ帝国の保護の下にようやく支配権を保っているガリラヤの領主ヘロデのために用いられるものだったからです。自分たちを征服し苦しめている他国の支配者のための税金を徴収されていたのです。それはユダヤ人たちにとってこの上ない屈辱であり苦しみでした。しかも、「支配の天才」であるローマは、その税金を徴収するのに大変巧妙なやり方をしました。直接ローマの役人が徴収するのではなくて、現地のユダヤ人の中に、税金を取り立てる人、「徴税請負人」を立てたのです。それが「徴税人」です。その人たちは、敵に魂を売った裏切り者として当然仲間のユダヤ人たちに恨まれ、憎まれます。それだけではありません。ユダヤ人は神様の民ですから、徴税人は神をも裏切り、神の民でない異邦人の手先になっている、そういうとんでもない罪人とされていたのです。そんな仕事は普通なら誰も引き受けないでしょう。しかしそこがローマの巧妙なところで、この仕事には役得がつけられていました。契約した請負額をローマに納めさえすれば、後の分はその人のものとなるのです。だから決められている以上に取り立てればその分は全部自分の儲けになるのです。文句を言う奴がいたら、ローマの役人に訴えればよい。強大なローマの権力が後ろ盾になっていますから、ユダヤの人々は、理不尽と思いながらも払わざるを得ないのです。金持ちになるためにはこれに優る仕事はありません。だから徴税人は皆金持ちでした。そして彼らがそうやって私腹を肥やしていけばいくほど、ますます人々からは憎まれ、罪人として蔑まれ、忌み嫌われていったのです。レビはそのような徴税人の一人でした。人々から不当な税を徴収し、私腹を肥やしている、まさに罪人だったのです。そしてその罪のゆえに人々に憎まれ、嫌われ、それに対抗するように彼の方も人を憎み、嫌い、孤独の内に自分一人の世界に閉じこもっている、そういう生活を送っていたのです。このレビが、主イエス・キリストとの出会いによって大きく変えられ、全く新しい人になった。本日の箇所はそのことを語っています。徴税人であったレビが主イエスの弟子となったということが、まさに特筆すべき重大な出来事だったのです。彼の人生を一変させた主イエスとの出会いはどのようにして起ったのでしょうか。
収税所に座っていたレビ
一つ言えることは、レビ自身がこの出会いを求めたのではない、ということです。彼は14節にあるように、収税所に座っていたのです。これはつまり、自分のオフィスに座っていつもの仕事をしていたということです。この点において彼は、聖書に出てくるもう一人の有名な徴税人であるザアカイとは違います。ルカによる福音書の第19章に出てくるザアカイは、主イエスが町を通っていかれることを聞いて、一目見たいと思って出かけて行き、木の上に登ったのです。しかしレビは、イエスを見に行こうともしませんでした。主イエスの評判はこの時ガリラヤ中に広まっていました。主イエスがおられる家には大勢の人々が押し寄せて来たし、13節で主イエスが再び湖つまりガリラヤ湖のほとりに出て行かれると、群衆が皆そばに集まって来たのです。レビの収税所はカファルナウムからガリラヤ湖畔への道沿いにあったようですから、多くの群衆が自分のオフィスの前を通っていそいそと主イエスのもとに向かうのを彼は見ていたのでしょう。しかし彼はじっと座ったままで腰を上げようとはしませんでした。彼はどのような思いで座っていたのでしょうか。「俺には関係ない。イエスの教えや救いなどいらない。そんなものが何になるか。この世でモノを言うのは金だ。どれだけ金を儲けることができるかで自分の人生の価値は決まるんだ。イエスの説く神の教えなど、負け組の貧乏人が聞けばいいんだ。俺は最後まで勝ち組でい続けるんだ」と、新自由主義経済の申し子のようなことを思っていたのかもしれません。あるいは、「イエスの所に出かけていくこの人たちが本当は羨ましい。自分も彼らと一緒にイエスの教えを聞き、神様の救いにあずかりたい。でも自分は徴税人だ。どうしようもない罪の泥沼にはまり込んでいてもうはい上がれない。自分のような者が行っても相手にしてもらえないだろう。『ここはお前のような罪人の来る所ではない』と冷たくされるに違いない」、そう思ってあきらめていたのかもしれません。いずれにせよ彼は主イエスのところに行こうとはせずに、収税所に座っていたのです。
主イエスの語りかけによって
そのレビを、主イエスが御覧になったのです。14節に「レビが収税所に座っているのを見かけて」とあります。「見かけて」というとたまたま目に入ったという感じですが、原文の言葉は「見た」です。主イエスがレビを見つめたのです。主イエスはこれまでにも何度か、カファルナウムとガリラヤ湖畔を往復しておられます。だからレビの収税所の前を何度か通ったことがあったのだと思います。そしてそこに座っているレビの姿を見てこられた。そして今、収税所の前に立ち止まり、レビをじっと見つめて、「わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。レビと主イエスの出会いはこのようにして起りました。それはレビが求めたことでは全くなくて、主イエスが、主イエスの方から、目を留め、語りかけて下さったことによって起ったのです。
主イエスの語りかけによってレビの人生は一変しました。彼は「立ち上がってイエスに従った」のです。座っていた彼が立ち上がったのです。日常の生活、仕事の中に、罪の中にどっぷりと浸かり、座り込んでいた者が、立ち上がり、新しく生き始めたのです。主イエスの「わたしに従いなさい」という語りかけによってそれが起りました。彼はその一言によって立ち上がり、主イエスに従って行ったのです。このことによって、彼の人生は全く新しくなったのです。
立ち上がることができたのは
彼はどうしてそのような新しい歩みを始めることができたのか、何を考えて主イエスに従って行ったのか。先ほども申しましたように、福音書はそういうことを全く語っていません。福音書は、弟子となった人の心の動きには関心を抱いていないのです。ところが私たちはそういうことばかりを考えがちです。四人の漁師たちやレビは、こういう条件が整ったから、こういう状況に置かれていたから、またこういうふうに考えたから主イエスに従っていくことができた、弟子になることができた、という納得できる説明が欲しいのです。それは裏返して言えば、自分にはまだこういう条件が整わないから、こういう状況にないから、主イエスに従うことができない、弟子になることができない、という言い訳を捜している、ということでもあります。しかし聖書が語っているのは、人間の側の事情や条件が整ったらば、その人は弟子になることができる、などということではありません。聖書が告げているのは、罪の中に沈み込み、生き生きとした喜びある人生を失って座り込んでいる者に、主イエスが目を留めて下さり、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さるという事実と、その呼びかけに応えて立ち上がり、主イエスに従って行く時に、その人の人生が一変する、新しくなる、という事実のみです。そしてはっきりと言えることは、この主イエスの呼びかけに応えることなしには、レビはあの収税所の椅子から、罪に支配され、憎しみと敵意に取り囲まれた孤独な生活から、立ち上がることはできなかった、ということです。レビだけがそうなのではありません。私たちは皆、自分の罪の中に、お互いの罪によってもたらされる敵意や憎しみ、優越感や劣等感の中に座り込み、自分の孤独な世界に閉じこもっている者なのではないでしょうか。そこから、自分の力で立ち上がることができないのです。主イエスが私たちのところに来て下さり、私たちを見つめて、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さることによってのみ、私たちは新しく立ち上がることができるのです。
証し、伝道
立ち上がってイエスに従ったレビは何をしたでしょうか。彼は主イエスを自分の家に招いて食事の席を設けたのです。そしてこの食事の席に、自分の仲間たちを、自分と同じように罪に陥っており、そのために人々に憎まれ、蔑まれ、その仕返しとして自分の方も人を憎み、意地悪をし、孤独な世界に閉じこもっている人たちを招いたのです。多くの徴税人や罪人がレビの家で主イエスと食事を共にしたのです。そのようにして彼は、徴税人や罪人たちと主イエスとの出会いの場を設けたのです。このことこそ、信仰者がなすべき何よりも大事な、中心的な働きだと言うことができます。主イエスを自分の家庭に、自分の生活の中にお迎えし、主イエスと共に生きていく、それが信仰を持って生きることです。その歩みの中で、自分の家、家庭に、自分の生活の中に、他の人をも招き入れ、その人と主イエスとの出会いの場を作る、そういうことこそが、信仰者のなすべき証しであり、伝道です。レビのしたこのことは、信仰者のなすべきことのお手本なのです。
主イエスの十字架の予感
しかし私たちがここで見つめなければならない大事なことがありあす。それは、レビがこのように立ち上がって主イエスに従い、信仰者として生き始め、主イエスを家にお迎えしたことによって、主イエスご自身は、ファリサイ派の律法学者たちから批判されたということです。彼らは直接主イエスに言うのではなく、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。ファリサイというのは、「分離された者」というような意味です。彼らは律法を厳格に守ることにおいて、一般の人々とは違う、分離された、神様の前で特別に正しい者として生きようとしていたのです。その人々にとって、主イエスが徴税人レビの家の客となり、大勢の徴税人や罪人たちと食事を共にしているのはとんでもないことでした。食事を共にすることは、特別な親しさ、仲間であることの表れと考えられていました。ですから主イエスが徴税人や罪人たちと食事を共にしているのは、自分も徴税人の仲間であり、罪人たちと一つだ、ということを意味していたのです。自分たちと同じように人々に神の教えを説いている人がそんな者たちと仲間であることなど、彼らには耐えられませんでした。それは自分たちをも、また神をも冒涜することだと思ったのです。律法学者たちの主イエスへのそういう批判はこの箇所の前の所、2章7節にも語られていました。主イエスがある病気の人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのに対して律法学者たちは、「人の罪を赦すことは神様ご自身しかできないのに、こんなことを言うイエスは神を冒涜している」と思ったのです。本日の箇所のファリサイ派の人々の批判もその延長上にあると言えるでしょう。2章から3章にかけて、律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する反感、敵意が次第に大きくなっていったことが語られています。その敵意は3章6節においては、「どのようにしてイエスを殺そうか」という相談を始めるまでになっていくのです。つまりこのあたりからもう、主イエスの十字架の死を予感させる暗いメロディーが流れ始めています。この日レビが主イエスの弟子となり、主イエスを自分の家に招いて食事を共にし、多くの徴税人、罪人たちをもそこに招いたことは、主イエスの十字架の死へと遠くでつながっているのです。私たちはこのことをしっかりと見つめなければなりません。主イエスが、罪の内にうずくまっているレビを見つめ、「わたしに従いなさい」と声をかけ、レビがそれによって立ち上がり、新しくされ、主と共に生きる喜ばしい人生を与えられた、その救いの恵みは、神様の独り子であられる主イエスが、罪人と一つになって下さり、ご自身が罪人として断罪され、十字架につけられて殺されるという、主イエスの苦しみと死によって裏打ちされているのです。罪の内に座り込んでいる者が立ち上がり、新しく生きるために、罪のない神の独り子である主イエスが、その罪を代わって背負って下さっているのです。私たちが、罪の中から立ち上がって新しく生き始めることができるのは、主イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによってなのです。
病を癒す医者として
ファリサイ派の人々のこの批判を聞いた主イエスは17節でこうおっしゃいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。私は病人を癒すために来た医者だ、と主イエスはおっしゃったのです。その病気とは、肉体の病ではなくて、罪です。レビが徴税人として、罪の内に、人と愛し合うことができず、憎み憎まれながら孤独に生きている、その人生は病んでいるのです。世の中金が全てだ、と思っている人生は病んでいるのです。自分は罪人だからもうイエスのところに行くことはできない、追い返されるだけだ、と思って座り込んでいる人生も病んでいるのです。私たちのそういう病を癒すために、主イエスはこの世に来て下さり、私たちの前で立ち止まり、私たちをじっと見つめて、「わたしに従いなさい」と語りかけて下さっているのです。「わたしに従いなさい」という主イエスの語りかけこそ、私たちの病める人生が癒されて本当の健康を与えられ、立ち上がることができるための処方なのです。そしてこの医者である主イエスは、ご自分を必要としている病人、つまり罪人のためにこそこの世に来て下さり、病人と、罪人と一つになって下さったのです。そのために律法学者たちから批判され、神を汚す者として十字架につけられ殺されてしまったのです。そのようにして主イエスは、私たちの病を、罪を、ご自分の身に全て背負って下さったのです。
罪人を招くために
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。主イエスは、罪人をこそ招いて下さいます。「わたしに従いなさい」というお言葉こそ、その招きの言葉です。罪の中に座り込み、自分の心の中で堂々巡りしている孤独な世界に閉じこもってしまう私たちを、主イエスは招いて下さっています。主イエスに従う信仰へとです。主イエスの弟子として生きることへとです。そこにこそ、私たちの新しい人生が開かれます。主イエスの十字架の死による罪の赦しに支えられて立ち上がり、神様に愛されている子として生きる本当に健康な歩みがそこに与えられるのです。レビは主イエスを自分の家に招き、食事に招待しました。しかし本当に招かれていたのはレビの方だったのです。主イエスは、レビを、また彼の仲間の徴税人、罪人たちを、そして私たちを招くために、この世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さったのです。主イエスの招きに応えて、私たちも立ち上がり、主イエスに従って、新しい人生を歩み出そうではありませんか。