「わたしについてきなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第16章14節―21節
・ 新約聖書: マルコによる福音書第1章16-20節
・ 讃美歌:3、151、516
ヨハネの弟子と主イエスの弟子
主イエス・キリストが伝道の活動を開始なさった時のことを、先々週の礼拝において、マルコによる福音書第1章14、15節から聞きました。洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕えられた後、主イエスはお育ちになったガリラヤ地方で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語ることによって神の福音を宣べ伝え始めたのです。洗礼者ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と4節にありました。悔い改めて洗礼を受け、罪の赦しを得なさい、というヨハネのメッセージと、主イエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージは、悔い改めを求め、神様が与えて下さる救いにあずかるように勧めるという点で共通しています。ヨハネが主イエスの道備えをする者として位置づけられているのは、このメッセージの共通性にもよるのです。けれども、同じようなメッセージを掲げて登場したにもかかわらず、ヨハネの活動の結果と、主イエスの活動の結果とは全く違っていた、と福音書は語っています。ヨハネが荒れ野で活動を開始すると、5節にあったように、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のです。つまり多くの人々がヨハネのところに押し寄せて来たのです。ところが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って神の福音を宣べ伝え始めた主イエスのところには、人々は押し寄せて来ませんでした。本日の16節には「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」とありますが、これは明らかにお一人で歩いておられたのです。人々がその周りに群がっているということはありません。主イエスのもとには誰もやって来なかった、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスのメッセージは、誰の耳にも届かず、誰の心をも動かさず、空しく消えていってしまったかのようです。しかし本日の箇所には、その主イエスのメッセージを受け止め、主イエスに従って行った、主イエスの弟子となった四人の人々のことが語られています。ヨハネのもとに来た「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」とはえらく違う、たった四人の人々が、主イエスの言葉に応答して弟子となり、従って行ったのです。主イエスを信じて従っていく人々の群れは、つまり後に教会となっていった群れは、このようにして始まったのです。
ヨハネのもとに来た人々と主イエスの弟子となった人たちとの違いを福音書は鮮やかに描き出しています。ヨハネのもとに来た人々は、ヨハネの洗礼活動のことを知り、彼が語っている言葉を伝え聞いて、自分から彼のもとに出向いて行ったのです。しかし主イエスの弟子たちは、自分から主イエスのもとに行ったのではありません。弟子にしてください、と志願したのでもありません。主イエスが彼らの所に来られたのです。そして、「わたしについて来なさい」と声をおかけになったのです。彼らは自分の思いによってではなく、主イエスに召され、それに応えて弟子となったのです。そこに、ヨハネの弟子と主イエスの弟子の違いがあります。本日ご一緒に読む16~20節は、最初の四人の弟子たちが主イエスに召されて弟子になった出来事を語っています。そこに、主イエスの弟子として生きる信仰者の、つまり教会の根本的な姿が描き出されていると言うことができるのです。
人生の転換
この四人は二組の兄弟でした。シモンとアンデレという兄弟、そしてヤコブとヨハネという兄弟です。このヨハネは勿論洗礼者ヨハネとは全く別の人です。彼らは皆、ガリラヤ湖の漁師でした。16節には、シモンとアンデレが湖で網を打っていたとあります。19節にはヤコブとヨハネが舟の中で網の手入れをしていたとあります。つまり彼らはいずれも、普段の日と変わらない、漁師としての仕事をしていたのです。昨日と同じように今日も仕事をし、その生活は明日も、その次の日も、ずっと同じように続いていくと思っていたのです。ところがこの日、イエス・キリストが彼らのところに来ました。そして、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」のです。主イエスが彼らを「御覧になった」と語られています。これは、たまたま目に入ったということではありません。しっかり意識的に見たということです。主イエスは彼らをじっと見たのです。そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をおかけになったのです。ヤコブとヨハネの兄弟に起ったことも同じでした。19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると」とあります。やはり主イエスが彼らを「御覧になった」のです。じっと見つめたのです。そして「すぐに彼らをお呼びになった」のです。この「すぐに」という言い方はマルコに特徴的な、繰り返し出てくる言葉だと前に申しました。ここでは、主イエスが彼らを見つめたことと、彼らをお呼びになったことの密接な結びつきをこの言葉が言い表していると言えるでしょう。このように、シモンとアンデレにおいても、ヤコブとヨハネにおいても、主イエスが彼らのところに来て、彼らを見つめ、そして語りかけ、招いたことによって、彼らの人生が大きく転換したのです。それまでとは全く違う歩みが始まったのです。普段と同じように始まったこの日は、主イエスとの出会いによって特別な日となったのです。主イエスの弟子となる、主イエスに従って行く者となる、つまり信仰者となるというのはこういうことです。それまでとは全く違う歩みが始まるのです。人生が大きく転換するのです。それはヨハネの弟子となった人たちには起らなかったことです。彼らは、いろいろな悩みや苦しみをかかえている中で、あるいは時代の閉塞感の中で、悔い改めを求めるヨハネの教えや活動のことを聞き、そこには何か新しい展開が、救いへの道が、よりよい社会を築く鍵があるのではないかと期待して、自分から出向いて行ったのです。そしてヨハネの言葉に共感して、罪を悔い改め、洗礼を受けて赦しにあずかり、神に従う生活をしようと決心したのです。彼らも新しくなりたいと願っていました。そして自分の決意によって以前より少しマシな、人によってはかなり立派な生き方ができるようになったかもしれません。しかしそれは基本的には、自分の以前からの思い、考えの延長上にある歩みです。その歩みがある程度改善されたのであって、それまでと全く違う歩みが始まったわけではないし、人生がガラリと転換したわけでもありません。それは主イエスの弟子になった人々に起ったこととは全く違うのです。その違いはどこから来ているのかというと、ヨハネの弟子たちは、自分から求めてヨハネのもとへ行き、何かを得ようとしたのに対して、主イエスの弟子たちは、自分が求めて主イエスのもとに来たのではなくて、主イエスご自身が思いがけず自分のところに来て、「わたしについて来なさい」と声をおかけになったということです。主イエスの方から来て下さり、予期せぬ出会いを引き起こし、思ってもいなかった招きを与えて下さることによってこそ、それまで求めても考えてもいなかった全く新しいことが私たちに起り、人生の大きな転換が与えられるのです。それが、彼ら四人に起ったことであり、主イエスを信じる信仰者となることにおいて私たちにも起ることなのです。
わたしについて来なさい
主イエスはシモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけました。ヤコブとヨハネに対しては「お呼びになった」とだけありますが、同じことを語りかけたのだと考えてよいでしょう。「わたしについて来なさい」という主イエスの語りかけによって、彼らは弟子となったのです。この語りかけは、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わせである、というのが私たちの自然な受け取り方ではないでしょうか。主イエスが「ついて来なさい」と語りかけ、私たちが主イエスに「ついて行く」、それが弟子となること、信仰者となることだというイメージを私たちは持っているのです。「ついて行く」という言葉には、競争などで、先を走っている相手に必死について行く、というイメージがあります。マラソンにおいて、何キロまでは先頭集団になんとかついて行ったのだが、後は力尽きて脱落してしまった、という感じです。あるいはこの言葉が比喩的に用いられると、「僕について来てくれないか」という古典的なプロポーズの言葉になったりします。それに対して「あなたにどこまでもついて行きます」などというしおらしいことを言う女性はこの頃はあまりいなくなりました。むしろ「あの人にはとてもついて行けない」ということの方が多くなっているようです。「ついて行く」という言葉にはそのように、苦労して、大変な思いをしながら従って行く、というイメージがあります。しかしここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わせではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるいは「あとに」)」となります。つまり主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。それは先週の主日礼拝においてヒョン・ヨハン先生が語って下さったあのマタイ福音書11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と同じ言葉です。そこと同じように、「わたしのところにおいで」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。それは先週の箇所で、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」に続いて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と語られていたことと重なります。招きを受けて主イエスのもとに来た者は、主イエスの軛を負い、主イエスに学ぶのです。その軛というのは二頭の家畜を並べてつなぐものだとヒョン先生は教えて下さいました。その軛の片方は主イエスが負って下さるのです。主イエスが共に負って下さる軛のもう片方を私たちが負って、主イエスの導きに従って歩んでいくのです。それが主イエスの後について歩むことです。そのように歩むことによって、私たちの重荷を主イエスが共に背負って下さり、私たちは休むことができるのです。ですから本日の箇所の「わたしについて来なさい」というお言葉は、先週の礼拝において聞いた「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、基本的には同じ招きの言葉です。マラソンのトップランナーのような主イエスが、「君たち私について来れるかな、まあ頑張って遅れないようについておいで」と言っておられるのではないのです。
人間をとる漁師にしよう
主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」ともおっしゃいました。このお言葉も誤解されやすい面があります。つまり、「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今よりもっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味にこれを理解してしまったら全くの間違いです。人間をとる漁師にするということによって語られているのは、彼らが主イエスの後について行く者となることによって与えられる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生とはどういうものか、です。人間をとるとは、一つには、主イエスが神様の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、つまり伝道の働きを担う者となるということです。しかしそれだけではありません。この「人間をとる漁師」という言葉には、旧約聖書の背景があります。それが本日共に読まれたエレミヤ書第16章です。その16節に、「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる」とあります。人間を釣り上げる漁師が神様によって遣わされる、と言われているのです。どうして漁師なのかというと、17節に「わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない」とあります。つまり、魚が水の中に、また岩場の陰に身を隠しているのを巧みな漁師が釣り上げるように、神様の前から身を隠している罪人たちをこの漁師が皆釣り上げる、ということです。つまりこの漁師たちは、罪人に対する神様の裁きのために遣わされるのです。しかし14節から始まるこの部分全体が語っているのは、むしろ主なる神様によるイスラエルの民の救いです。「新しい出エジプト」という小見出しがつけられているように、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主が解放し、救い出して下さったように、今他国に捕え移されてしまっている民を解放し、再び故郷へと導き上って下さる日が来る、という救いの希望が語られているのです。その救いの日は同時に罪人に対する裁きの日でもあります。神様の裁きが実現することによって、救いもまた実現するのです。なぜなら、そこにこそ神様のご支配が、つまり神の国が完成するからです。神様のご支配、神の国の完成のために、人間をとる漁師が遣わされる、とこのエレミヤ書は預言しているのです。その預言が今や、主イエス・キリストによって成就しようとしています。神の国、神様のご支配が実現し、神様による裁きが実現し、それによって救いが実現する時が来ているのです。「時は満ち、神の国は近づいた」とはそういうことです。それゆえに、「悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスはおっしゃいました。悔い改めは、神様の裁きを意識することの中でこそなされます。その裁きを通しての救いを告げているのが福音です。だから、救いにあずかることと悔い改めることは分ち難く結びついているのです。主イエスの後について行く弟子たちは、主イエスによる神の国の実現を告げ知らせ、人々が悔い改めて救いにあずかるように促していくことによって、「人間をとる漁師」としての働きをしていくのです。
すぐに網を捨てて
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスのお言葉の意味を見てきました。主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレは「すぐに網を捨てて従った」と18節にあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と20節にあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族を離れて従ったということです。私たちはこれを読むと不思議に思います。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたのだろうか、また大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。
「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなるのか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もしていません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、ということも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」ということはそれを現しています。ですから二つのポイントと言いましたが実は一つです。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となるとは、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこに、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。
主イエスとの出会い
どうしてそんなことができるのだろうかと疑問に思う、それは、「献身することはどうしてできるのか」という問いです。何の条件も確認せず、また自分の側の状況をも顧みず、一切を捨てて主イエスに従って行くなど、余りにも無謀なこと、軽はずみなこと、無責任なことではないか、と私たちは思うのです。それはその通りでしょう。この世を生きている私たちは、何か新しいことを始めるに際して、やはりいろいろな条件を確認しなければなりません。自分の状況をちゃんと見極めなければなりません。思いつきや一時の心の迷いではなく、持続的にその道を歩んで行けるのか、自分自身の心にしっかり確認することも大切でしょう。そうでなければ無責任なことになるのは確かです。ただ、私たちがこの箇所においてしっかり確認しておくべきことは、主イエスの最初の弟子となったこの四人の人々にとっては、主イエスの後について行くことは不思議でも何でもない、必然的なことだったということす。それは彼らが、主イエス・キリストと出会ったからです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの招きを受けたからです。その出会いと招きこそが彼らをして、人間の側の一切の条件を乗り越えさせたのです。彼らがもし、自分の人生の導き手を捜し求めていく中で主イエスを知り、これは良い教えだ、この人をこそ自分の人生の師としようと思ったのだとしたら、こんなふうに一切を捨ててすぐに従って行くことはできなかったでしょう。そのようなことにおいては人生の転換は起らないのです。そこにあるのは、それまでの歩みの延長上における多少の変革、改善でしかないのです。洗礼者ヨハネの弟子たちに起ったのはそういうことでした。しかし主イエスとの出会いはそれとは全く違う仕方で起ります。それは私たちが様々な求めや願いをもって主イエスのもとにやって来て、主イエスにそれを叶えてくれる何かを見出した結果起るのではなくて、主イエスご自身が予期せぬ仕方で来て下さり、自分のことを見つめつつ「わたしについて来なさい」と語りかけて下さることによってこそ起るのです。その主イエスのまなざしに触れ、招きのみ言葉を聞いた者にとっては、人間の様々な条件は問題ではなくなります。主イエスについて行くことにこそ、喜びと希望のある新しい人生への転換があることが分かるのです。
献身への招き
私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事なことではあります。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くはないし、またそれらは決定的なものでもないのではないでしょうか。明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩みが保証されることは全くないのです。本当に確かな歩みは、私たちの側の条件を整えたり確認することによってではなくて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を献げることによってこそ与えられます。神様はそのご支配を、つまり神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さり、悔い改めて神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進のために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つめつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。