「本当の幸い」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; ヨナ書、第3章 1節-10節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 27節-32節
・ 讃美歌 ; 22、113
1 (単なる印象ではなく)
主イエスの力ある言葉とわざを目の当たりにして、一人の女性が声高らかに叫びました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(27節)。主イエスの立派なお姿にすっかり心を打たれ、黙ってはいられなくなったのでしょう。感激し、叫びたい思いに駆られたのです。この女性の叫びは、私たちにもよく理解できるものではないでしょうか。特に親である者なら、誰でも共感できる思いであるだろうと思います。「あのように立派なお方の親ならば、さぞかしまたしっかりとした方に違いないだろう。あのような立派な息子さんの母親である人は幸せだ。その人はきっと特別に神様から祝福された方なんだろう」。これが、この女性の中を行き巡っていた思いであります。さらに言えば、彼女はこうも思ったに違いありません。「ああ、私もあんな息子を持つことができたらなあ。ああいう子どもを産み育てたかったなあ。それに比べてうちの子はどうしたことだろうか。ああ、あんな子どもを持つことができれば親も冥利に尽きるなあ」。隣の彼女の子どもがいたらどう思ったであろうかと、ひやひやさせられるような言葉を、この女性は発しているのです。そういった実の子の思いにまで配慮するような心を失ってしまうほどに、主イエスの印象は強烈であったのでしょう。
けれども、この女性の最大限のほめ言葉に対して、主イエスは意外とつれないのです。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(28節)。主イエスの偉大なお姿を目の当たりにして、感嘆の声を発すること、それだけでは不十分だ、私のことを本当に理解したことにはならない、私の伝えたいことを本当に受け止めてくれたことにはならないんだ、主イエスのそんな叫びが、逆に聞こえてくるような思いがするのです。
先日私たちの教会は、アメリカからウィリアム・ストーラーとおっしゃる先生をお招きし、説教をしていただきました。また他の教会でも、いくつかの講演が行われました。私もそれを伺うことができましたが、先生は
ある講演で、こんなことをおっしゃいました。「わたしは教会で説教を終えた後、玄関に立つと、教会員にいろいろと声をかけられます。その時、『先生、今日はためになるお話をありがとうございました』とか、『先生、ありがとう。楽しみましたよ』とか声をかけてくださる方があります。でも私が一番聞くことを願っているのは、『あなたの説教はいきいきと私たちの主イエス・キリストを描き出し、私を生けるキリストと新しく出会わせてくれました』、こういう声なのです」。あの女性が、「あんな子どもを持てたらいいなあ!」という感激の叫び、印象に基づいた評価で終わったのと同じように、「いやあ、よいお話でした。楽しみましたよ」といった感想で終わってほしくはない、というのです。
教会はいい所だ、よいお話を聞かせてくれる。子どもも通わせれば、教育上もいいかもしれない。そういう信頼を周囲から寄せられること、肯定的な印象を持たれること、それは教会にとってうれしいこと、願わしいことです。けれども、そこで終わってしまってはいけないのです。教会が本当に伝えたいこと、また説教がいきいきと描き出したいと願っていることはその先にあるのです。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。大事なことは、今わたしの語っている御言葉を聴くこと、わたしの存在と一つになっている言葉を聴いて、それを守る者へと変えられることだ、そう主はおっしゃる。「あなたは立派な人だ。私もあなたのような息子を持ちたいものだ」、これだけで終わってしまっては、この女性の上には何の変化も起こってはいない。「いやあ、よかった、よかった。いい出会いをした」、そう思ってご満悦で帰っていくだけで、この女性自身の上には何の変化も起こってはいないのです。それではいけない。大事なことは、よい印象を受けてご満悦気分に浸ることではない。印象に基づいて批評をする評論家気分に留まるのでもない。そうではなく、まさにこの自分自身が変えられることなのです。主イエスの御言葉により、主イエスご自身によって、その存在を揺さぶられ、頑なな心を打ち砕かれ、自分自身が新しく造りかえられることなのです。血筋や身分の上での誇りを求めるのではなく、まさにこの自分自身もまた、あの悪霊を追い出していただいた男のように、自分の中に巣くう悪霊を追い出していただき、御言葉によってその心を治めていただくことなのです。
2 (天からのしるし)
実はこの時の女性の思いはひとり彼女だけの思いではありませんでした。むしろ周囲の人たちにも広く共有されていた思いだったのです。今日の箇所の直前で、主イエスは悪霊を追い出しておられます。それを目の当たりにした人々の反応はどうだったでしょうか。14節の後半にこうあります。「悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」。人々はびっくりしたのです。驚いたのです。
一見するとこの反応は、主の力ある御業に対してふさわしい応え方であるように思われます。けれども、よくよく考えてみるならば、人々は感心する以上のことはしなかった、ということでもあるのです。ただ「へえ~、大変なもんだ」と言って、感心するだけに終わってしまった。「驚く」、「感心する」、という反応は、一時的なもので、過ぎ去っていくものなのです。それがいつまでも続くわけではない。町の大通りで行われている大道芸を見物して、感心する。けれども、それが終わったなら「ああ、面白かった」と言って人々は帰っていくのです。そしてまたいつもと同じ毎日が始まるのです。それは人々の生き方を変える出来事、存在を造りかえる出来事にはならないのです。ちょうどあの女性が主イエスに抱いた思いが、母親としての感心、感嘆の念に終わり、それ以上ではなかったのと同じなのです。
単に驚いたり感心したりするだけでは、本当の意味で主イエスと出会ったことにはなりません。だからこそ、人々はなお確かな証拠を求めようとするのです。16節にあるように、人々は主イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたのです。今のままでは、このお方が本当の意味でどういう方なのか、まだ分からない。だからもっとしるしを見せてくれと言って主イエスのもとに群がり集まってくる。群衆の数がそうやってますます増えてきたのです。「あなたの母親はなんと幸いなことでしょう!」と叫ばれ、また周囲に人々が群がるように集まってくる。もし私たちだったら、決して悪い気はしない。むしろうれしい、誇らしいような気分にさえなる。しかしそんな時、主イエスはこの集まってきた群衆をいったんは拒まれたのです。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29節)。
集まってくる群衆に向かい、「あなたたちはよこしまだ」とおっしゃったのです。主イエスに迫るようにして集まってきていた群衆の動きが、その時一瞬ピタリと止まったのではないでしょうか。続く主イエスの語りかけは、群衆の心の頑なさを暴き出す御言葉となるのです。「よこしま」という言葉は、本来まっすぐと向かうべきものに心が向かわず、目指すべきものから逸れていってしまう心のあり方です。しるしを欲しがる心は、そういう「よこしま」な心だ、神と出会う筋道からは逸れている、主はそうおっしゃるのです。
こういう「天からのしるし」を求める心は、私たちの誰にでもあるものです。苦しい時、困難に直面した時、私たちは神が何かことを起こして、この大変な状況から救い出してくださることを期待します。そして望んでいたとおりにことが進まないと、すぐに神様など本当にいるのだろうか、信仰をもって生きることにどれだけの意味があるのだろう、などという思いに捕らわれてしまう。その時、私たちは、このお方がどういうお方か、本当に神の子なのかどうかを判定する基準、材料を私たち自身が持ってしまっているのではないでしょうか。私たちが自分の基準を持って、この願いを叶えてくれたらあなたを神と信じようと言って、自分はふんぞりかえってお手並み拝見といった調子で主イエスの言葉と業を遠くから眺めている。自分自身に語りかけられている御言葉を聞かず、自分の判定基準をふりかざしている。そんな姿勢を主は「よこしま」とおっしゃる。見るべきものを見ていない。聞くべき言葉を聞いていないと諭されるのです。
3 (南の国の女王、ニネベの人々-終末の審き手)
けれども一つしるしとなるものがある、と主はおっしゃる。それは「ヨナのしるし」だというのです。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」(30節)。先ほど旧約聖書のヨナ書3章が読まれました。預言者ヨナはニネベの町に遣わされ、神から託された審きの言葉によって、民に悔い改めを迫った人物です。この人に託された言葉に聴き従うかどうかが、人々が救われるかどうかを決定したのです。そうするとここでは「しるし」の意味が違ってくる。人々が「しるし」を求めた時、それは人間の方でこれこれのことをしてくれたら神と認めてやろうという、人間の判断基準であった。ところが主が「しるし」とおっしゃる時、それは「神の審きの基準」としてのしるしとなるのです。主イエスご自身が「しるし」となる。このお方にどのような態度、姿勢を私たちが取るのか、そのことが私たち自身が救われるか、滅びるかを決するというのです。
南の国の女王は、列王記に出てくるシェバの女王のことで、この人は地の果てからはるばるソロモン王にお会いするためにやってきました。またニネベの人たちは、悔い改めを求めるヨナの説教を聞いて神に立ち帰ったのでした。この女王、またニネベの人々が今や裁きの時に立ち上がり、今の時代の者たちを罪に定める。神と共に、審き手として「今の時代の者たち」、つまり私たちの前に立ち現れる、というのです。これは主イエスの話を聞いていた群衆たちには受け入れがたいことだったに違いない。彼らも親しんでいたに違いないこれらの旧約聖書の話を、彼らはきっと自分たちの自尊心を満たすようなお話として聞いていたのです。「そらみろ、あの南の国の女王も、私たちの民族が生んだ偉大なるソロモン王にひれ伏したのだ。あの異教の国、ニネベの人々も神の前に悔い改めたのだ。やっぱり私たちは正しいのだ。私たちの信じる神が本物なのだ。周りの人たちが悔い改め、ひれ伏すのが当然なんだ」。こんなふうに、人々はあの旧約の物語を自分たちの宗教的・民族的な自己満足に奉仕するような物語としてしか聞いていなかった。だからこそ、その女王、ニネベの人たちがまさか自分たちを審く者として立ち上がる、などと語られるとは、夢にも思っていなかった。それはショッキングなことであり、プライドを打ち砕かれるような出来事であったに違いありません。
31節や32節に出てまいります「立ち上がり」という言葉は、「復活する」という言葉と同じであります。終わりの時、死んだ者たちが皆復活して、ある者は救われ、ある者は罪に定められ、滅びへと向かうのです。そういう、救いか滅びかを決する場面は、実は遠い将来に隠されているのではない。それはすでに今の時代の中にまで影響を与え、入り込み始めているのです。今、主イエス・キリストにどのような態度、姿勢をとるのか。立派な人だと感心し、いいお話を聞いたと言って終わってしまうのか、それとも「神の言葉を聞き、それを守る」者として生きるのか、それが終わりの時において天から現れる「人の子」に対する態度決定に直結しているのです。
4 (御言葉を聞き、それを守る-そこにのみ生きる)
今年度の教会の年間主題は「扉を開き、世に向かって」であります。けれどもそれは、「私たちは救われていて、教会の扉の外の人々はまだ救われていない。だから扉を開き、世に向かって宣べ伝えるのだ」とそういうふにだけ考えていればいいということでは決してありません。そう考えていたのがあの群衆たちではないでしょうか。彼らは、異邦の女王やニネベの人々によって罪に定められるぞ、と宣告されたのです。女王は知恵を聞くために、はるばる地の果てからやって来た。ニネベの人々は神の語りかけを聞いて悔い改めた。逆に言うなら、イスラエルの人々ははるばる出かけていって、神の知恵の言葉の前にひざまずく心を持っていなかったのです。まず自らが御言葉の前に悔い改めることを知らなかったのです。教会もまた、悔い改めを失う危険があるのです。
先日行われた教会学校の教師研修会でも、教会学校の説教の準備をするに当たり、いかに与えられた御言葉に自分自身が新しく出会えるかが鋭く問われました。「ああ、またあの話か」と思っているだけの内は、私たちの膝をくずおれさせ、深い悔い改めに導く語りかけは聞こえてこないのです。「神の言葉を聞き、それを守る」。この「守る」という言葉は、「目を覚ましてじっと見守る」という意味を元々持っています。神の言葉を聞き、目を覚ましてこの御言葉が私たちを治め、私たちの中で力を奮ってくださるのを見守っている。そこで初めて、人ごとではない。この私たちに向けて語りかけられる御言葉が聞こえてくるのです。私たちの生き方そのものがそこで揺さぶられ、存在が新しく造りかえられるのです。
私たちの頑なな心が打ち砕かれ、悔い改めて神に立ち帰る、みずみずしい心が与えられるために、主イエスは十字架におかかりになり、私たちの頑なさを代わってその身に負われたのです。私たちの頑固さを代わって担い、十字架の上で打ち砕き、御言葉を受け入れ、悔い改める心を私たちの心に新しく造り出してくださったのです。十字架の主と共に、私たちの頑なさは死んだのです。そして甦りの主と共に、私たちの内に、救いへの招きをいつも新しく聞くことのできる心が造り出されました。私たちはいつも、この御言葉を新しく聞き、悔い改めて主の恵みに立ち帰りつつ歩むのです。この主イエスに、ソロモン王を越える神の知恵があります。この主イエスに、ヨナにまさる神の言葉の取り次ぎがあるのです。そこでこそ、主イエスが本当の意味でどのようなお方であるのかを見させていただけるのです。心の目を開かせていただき、目の当たりにさせていただけるのです。
教会はなにを持っているわけでもありません。人を経済的に救う充分な財力を持っているわけではありません。広大な土地を所有しているわけでもありません。きらびやかな装飾が施されているわけでもありません。けれども、「神の言葉を聞き、それを守る」心に生きることを知っているのです。別の箇所でも主はこうおっしゃっておられます、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8:21)。私たちもまた、御言葉に生かされる歩みを通じて、イエスの兄弟となることができるのです。群がる群衆をいったんは突き放した主イエスの真意は、私たちが本当に主イエスがどなたであるのかを知らされることであったのです。自分の基準ではなく、神の眼差しの中を歩む者へと変えられるよう招くことであったのです。自分の誇り、自分の願望の実現ではない、神の御言葉に開かれ、悔い改めに開かれたみずみずしい心を授かり、どんな困難や苦しみの最中にも、「へりくだって神と共に歩む」幸いに生きることができること、これこそが「本当の幸い」なのであります。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、心頑なで、あなたや隣人に裁きの心を向けてばかりいる頑固な自らを御前に恥じるほかありません。どうか、他の誰にでもない、私共自身に向けられたあなたの御言葉に聞かせてください。その御言葉を大事に心に刻み、見守り、あなたが御言葉を通して私たちを内側から治めてください。御言葉を聞き、これを守り、悔い改める歩みを、どうか私たちの内にかたちづくってください。単なる賞賛や印象ではない、あなたのまことの御姿を、そのような歩みの中で、いつも新しく仰がせてくださいますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。