「日曜日は誰のものか」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; サムエル記上、第21章 1節-7節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第6章 1節-5節
・ 讃美歌 ; 303、203
1 この日、主イエスは弟子たちと一緒に麦畑を通って歩いておられました。おそらく小麦の畑だと考えられています。小麦は農産物を列挙する時いつも最初に記されるほど、とても大切な食料でした。大麦よりやや遅れて11月に種を蒔き、翌年の5月末に収穫したのです。主イエスが弟子たちと歩いておられた時も、小麦が黄金色に輝き、収穫にふさわしい季節を感じさせていたのでしょう。主イエスと共に歩む、地上での道行きは、決して楽なものではありませんでした。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9:58)、主イエスはそうおっしゃいました。主はこの地上にあって決して安住の地を見出さなかったのです。その歩みに従った弟子たちもそうでした。弟子たちも主と共に、しょっちゅう移動していたのです。衣食住について、いつもしっかりとした当てがあるわけではありません。ゆっくり休むことができない場合もあっただろうし、整った衣服を着ることもなかっただろうと思います。同じように食事も、毎日十分に食べることなどできなかったはずです。日が暮れてから、連れて来られる病人たちを癒すために、主が明け方まで働かれたことも福音書には記されています。数日間、食べ物を口にできないような日もあったに違いありません。弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べ始めたのも、彼らが幾日も食べ物を口にできなかった末でのことだったのではないでしょうか。
この出来事を見ていたのか、後から聞いたのか、ファリサイ派のある人々が弟子たちに食って掛かってきました。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」(2節)。弟子たちが空腹に堪え切れず、麦の穂を摘んで食べたのは、よりにもよって安息日のことだったのです。安息日にはすべての労働が禁じられていました。安息日は、元の言葉では「休みの日」を意味します。一週間の第7日目を、イスラエルの人々は神の命令に従って休みの日として守ったのです。金曜日の夕方の日没と共に始まり、土曜日の夕方の日没まで続いたこの安息日を、イスラエルの人々は休みの日とし、仕事を休んだのです。主なる神はモーセを通してイスラエルの人々に戒めを与えられた時、こう言われました、「あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである」(出エジプト31:13-17)。弟子たちが、あらゆる労働を禁じているこの安息日に麦の穂を摘み取ることは、この神の定めた戒めに叛いていると受けとめられたのでした。
弟子たちはこのファリサイ派の問いに困り、とまどったかもしれません。何と答えてよいのか分からなかったかもしれません。ただお腹がすいてどうしようもなかっただけだったのです。あるいはこのことが神の戒めに叛くことになると知っていた弟子たちは、もしかしたら事前に主イエスのお許しを得ていたのかもしれません。そして主がよいとおっしゃってくださったのだから大丈夫だと思い、安心して麦をほおばっていたのかもしれません。でも、「なぜおまえたちは神の戒めに反することをあけっぴろげにやっているんだ」と問われた時に、彼らは必ずしもはっきりと答える言葉を持ち合わせてはいなかったように思われるのです。
その時、間に入って答えてくださったのは、主イエスご自身でした。主が弟子たちに代わって答えてくださったのです。あの徴税人レビが主イエスに呼び出され新しい人生を歩み出した、その祝いの席で、主の弟子たちが罪人と共に食事をすることを責められた時と同じです。あの時も問い詰められた弟子たちに代わって答えてくださったのは主イエスでした。主が弟子たちの言葉と業について、責任を負ってくださったのです。問われているのは弟子たちなのに、答えてくださるのは主イエスなのです。私は先日、イギリスで生活されたことのある方から、その様子をお伺いする機会がありました。それによると、子供が友達を家に招待した時には、その友達が隣の家の芝生で走り回り、悪さをした時、招いた子供の方の責任になるというのです。その友達を招いたのは、あなたなのだから、あなたにお友達を指導し、悪さをしないように導く責任があるというのです。また大人が他の家の子供を預かるときには、その子に夕方の軽食を食べさせ、宿題を終えさせ、その子の親に引き渡すまでが、預かった大人の責任になるというのです。主イエスもまたそのようにして、ご自分の選び、引き受けられた弟子たちについて、その言葉と行いのすべてにわたって責任を負われたのです。だからこそ弟子たちに問われた問いをも引き受けてくださり、これに答えてくださったのです。私たちの人生もまた、主が引き受け、主が責任を負ってくださる人生なのです。答えられないような人生の問い、どうしてこうなるのか分からない苦しみや試練、いわれのない非難や中傷、その最中にあっても私たちは、主がそれらを引き受けてくださり、私たちの嘆きと訴えに答えてくださる慰めに与かることができるのです。
2 主イエスとファリサイ派との論争、それは律法と呼ばれる神の戒めをどう解釈するかという、解釈論争とも言えるものです。ファリサイ派の人々は、先ほど引用したような安息日の規定を守るために、39か条の禁止事項を設けて、さらにその禁止事項を守るために234の行為を禁じていたと言われています。元々は主がこの世界を創造され、祝福の下に置いてくださったことを喜び祝うために定められた安息の日です。主が六日間働き、その御手の業によって成ったこの世界を喜び、七日目に休まれたこと、そのことを祝い、神をたたえるための日です。そしてそのことが真実に行われるためには、人間の手の業をやめ、神の恵みの御業を仰ぐことが必要なのです。そのために定められたのが安息日の掟だったのでした。けれども今、掟だけが一人歩きをして、逆に人々を苦しめ、本当の安息に与かることができなくさせてしまっていたのです。ファリサイ派の人々は熱心でした。神の掟を守り、神の戒めに従い、神の御心にかなう人間になりたいと必死だったのです。けれども、やがてその熱心が、掟を守るという自分の行いによって、自分の正しさを証明するという考え方に変わっていきました。そして掟を守らない人たちを軽蔑し、自分たちの交わりから断ち切る生き方を生んでいったのです。
けれどもこうした律法の解釈に対して、主イエスも聖書の引用によってお答えになるのです。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」(4節)。この主の言葉は、先ほどお読みいただいた旧約聖書のサムエル記上21章に記されている出来事のことを指しています。サウル王の激しい妬みによって命を狙われる身になったダビデは親友ヨナタンに助けられて着の身着のまま、ノブの地へと逃れてきました。そこで祭司アヒメレクに、自分は特別の任務を託された者だから供の者たちの分も合わせ、食料を分け与えてくれと頼んだのです。実際にはダビデは嘘をついていました。自分はサウルに反逆者と見なされ、逃亡の身にあるのです。お供の者たちもいません。しかし祭司しか食べることを許されない、祭壇に捧げられ、聖別されたパンを食べたのです。通常の律法解釈によれば、これは神の戒めに叛いたことになります。けれども、今与えられている試練を乗り越え、ダビデが生きるためには、このパンを食べる以外に道はないのです。他の方法はないのです。その時、「サウルの下を逃れて生きよ」という天からの声を聞いたダビデは、確信をもってパンを食べたのです。それは律法によれば祭司以外は食べてはならないパンです。けれども、ダビデは、律法に聞いたのではなく、律法を定めておられる神ご自身の声に聞き、今この時に神が望んでおられることに新しく聞いたのです。
主がこの出来事を引用するのは、ダビデがこのようにして律法を神の望んでおられるように受けとめ、解釈する権威を持っていたことをファリサイ派の人たちに思い出させるためでした。そして今、彼らの目の前におられるのは、そのダビデよりも偉大な方なのです。律法を解釈する一番の権威、それはその律法を定めたお方自身にこそあります。ある決まりを定めた理由、その意図していること、それを確認する一番確かな方法は、その決まりを定めた人に聞いてみることです。同じように、神の定めの本来意図していることに聞くには、神ご自身に聞くのが一番なのです。ファリサイ派の人たちが気付かないで目の前にしているお方、この方こそが神であり、この律法を定めたお方ご自身であるのです。それゆえに主はおっしゃったのです、「人の子は安息日の主である」。安息日は神の民が、神の御許にある永遠の安息に与かるために備えられました。神の安息に与かり、今この地上における歩みにあって、既に神のものとされた自由と喜びに生きるための安息日です。人がまことに神に心を向けて、神のものとされて歩むために備えられたのが安息日なのです。だからもし、安息日を守ることが絶対的に大事なこととなって、あのファリサイ派のように、今目の前におられる生ける神に出会うことができないとするなら、それは本末転倒になってしまうのではないでしょうか。安息日は神の民が生きるために与えられたのであり、神の民が安息日のために与えられたのではないのです。
もしあの弟子たちが激しい空腹のために主についていくことができず、畑の中に置き去りにされるとしたら、それこそ主の御心にかなうことではありません。その時、主は律法で禁じられた安息日の摘み取り、手もみによる麦の刈り入れをよしとしてくださったのです。この場合はそうすることが神の律法が目指していることにかなっていたからです。主イエスとともに歩むことを妨げるものを取り除き、まことの自由と喜びに満たされて歩むためにあるもの、それが律法であり、神が望んでおられることなのです。
結 私たちにとっての安息日、それは日曜日です。多くの人たちにとって、この日はウィークデイの忙しさから解放されて、自分の好きなように過ごせる日です。自分の思い通りになると考えている日です。旅行ができ、レジャーを楽しめる日です。自分が自由に過ごし、自分が王様になれる日です。けれどもそれは一時的に気持ちを紛らわすことであったり、とりあえずの自分らしさを取り戻す時であったりでしかありません。また月曜日を迎えると思うと、重苦しい気持ちにとらえられるのです。私たちが自分の手の働きによって立とうとしている時、仕事中毒になって人間のわざをやめることができない時、私たちは本当の安息に与かることができません。しかしもし私たちが日曜日に礼拝に集い、そこで主イエスに出会うのならば、私たちは本当の安息に与かることができます。ユダヤ教の安息日が私たちの信仰において日曜日に変わった理由、それはキリストの復活にあるのです。主イエス・キリストは律法に叛いてしか生きられない私たち反逆の民の重荷を、すべてお引き受けになり、十字架の上で苦しみ死なれたのです。しかしそれらすべてに打ち勝たれ、甦られた祝いの日、それがこの日、日曜日に他なりません。たとえすべての人間のわざを捨て去っても、あるいは齢を重ねた末に力に満ちた労働ができなくなっても、そんなこととは関わりなく、神に肯定され、喜ばれている自分の存在を知ることができる日、それが日曜日です。そしてそのことを自分自身も素直に喜び、感謝することができます。すべてのわざをやめても保証されている私の存在価値を深く知らされる場所、それが礼拝です。そこにこそ本当の安息があり、そこにこそ、自分が本当に自分らしくなれる場所があるのです。
祈り 父なる神様、あなたが安息日の主である御子イエス・キリストを私たちの下にお送りくださった恵みに感謝いたします。私たちがどんなにうまく仕事のできない者であっても、また私たちがたとえ何の仕事もできなくなる時が来ても、とこしえに変わることのないあなたの安息に、いつでも与からせてください。あなたがよしとし、あなたが引き受けてくださっている私たちの人生です。どうか安息日の主であるあなたが、私たちの悩みや苦しみという律法の重荷を取り除き、日曜日が私たちではなく、あなたのものであることを知る幸いに与からせてください。そしてこの国と世界が、あなたの安息にまことの平和を見いだすことができますように、ご栄光を現してください。
安息日の主なるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。