夕礼拝

十字架につけろ

説教 「十字架につけろ」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第53章6-8節
新約聖書 ルカによる福音書第23章13-25節

総督ピラトの判断
 ルカによる福音書23章を読み進めています。主イエスはユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受けた後、ユダヤを統治していた総督ポンティオ・ピラトのもとに連行され、尋問を受けられました。ピラトは主イエスをガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのもとに送り、ヘロデも主イエスを色々と尋問しましたが、主イエスは沈黙を貫かれました。それでヘロデは主イエスをピラトのもとに送り返したのです。すると本日の箇所の冒頭13節にあるように、ピラトは「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集め」て、このように言いました。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。最高法院の議員たちが、主イエスが民衆を惑わしていると訴えて、ピラトのもとに連れて来たことは、すでに2節、4節で語られていました。彼らは主イエスのことを「この男はわが民族を惑わし」ている、「民衆を扇動している」と訴えていたのです。ピラトはその訴えについて、「あなたたちの前で取り調べた」と言っています。それは祭司長たちや議員たちや民衆の前で、公に正式に取り調べたということです。その取り調べの結果、彼らが訴えているような犯罪は主イエスには何も見つからなかった、とピラトは説明しているのです。ピラトの説明は実に冷静で、理性的な、説得力のある説明です。さらにピラトはこの判断が自分一人の判断ではないことにも言及します。あのヘロデも同じ意見であった、と言うのです。ガリラヤ出身のイエスを管轄している、あのガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスですら、自分と同じ意見であった。だからヘロデは主イエスを自分のもとに送り返してきたのだ、と説明したのです。このように丁寧に説明した上で、ピラトは結論を述べます。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。ピラトは主イエスの無罪放免を主張したのです。このピラトの判断は感情的ではない、あくまでも取り調べに基づいた理性的な判断であり、しかも自分一人の判断ではなくヘロデの支持を得た判断でした。ルカ福音書は、ピラトが取り調べに基づいて理性的に判断したことを語ることによって、主イエスがローマの法に照らして無実であったことを強調し、また総督ピラトが主イエスの無実をはっきり認めたことを強調しているのです。

鞭で懲らしめて?
 ところで、ピラトは「鞭で懲らしめて釈放しよう」と言っています。主イエスが無罪であるならば、鞭で懲らしめるのはおかしいように思います。しかしここでピラトは、死刑の代わりに主イエスを鞭打ちの刑に処する、と言っているわけではありません。「鞭で懲らしめる」と訳された言葉は、もともと「教育する」「訓練する」という意味の言葉です。使徒言行録22章3節でパウロが自分について、「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」と言っていますが、この「教育を受け」がこの言葉の受け身の形です。当時は今とは違って、教育の一環として子どもや生徒を鞭で打つことがあったのでしょう。だから新共同訳は「鞭で懲らしめる」と訳したのだと思います。しかしこの言葉から「鞭で打つ」という意味を読み取るのは難しいと思います。マルコ福音書やマタイ福音書で「イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」と言われているので、その影響を受けて「鞭で懲らしめる」と訳したのかもしれません。そのようなことを踏まえて、聖書協会共同訳は「鞭で」を省き、「懲らしめたうえで釈放しよう」と訳したのだと思います。いずれにしてもこのピラトの言葉の中心は、主イエスを懲らしめることではなく釈放することにあります。主イエスは無罪であるから釈放しよう、と言っているのです。ただ、社会を騒がせたのは確かなので、鞭かどうかはともかくとして、なんらかの懲らしめを与えたうえで釈放しよう、いわば教育的指導を与えたうえで釈放しよう、と言ったのです。そしてそれは、無罪であるにもかかわらず、なんらかの懲らしめを与えるのだから、それで納得しなさい、というピラトから人々に対する提案でもあったのです。

17節が欠けている
 しかし人々は、このピラトの提案にまったく納得しませんでした。18節でこのように言われています。「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ」。福音書の物語に慣れ親しんでいる私たちは気づきにくいのですが、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」という人々の言葉はかなり唐突で、なぜバラバの名前が急に出てきたのかよく分かりません。実は聖書をよく見ると、16節の次が18節になっていて17節が欠けています。その代わりに短剣のマークがあります。この短剣のマークは、凡例(はんれい)によれば、「底本に節が欠けていることを示す。新約聖書においては、この部分の異本による訳文を当該書の末尾に付した」とあります。分かりにくい説明ですが、とりあえずルカ福音書の最後を見ると(162頁)、そこに「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」とあり、23章17節として、「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」とあります。「底本」というのは、翻訳の元になった原文のことです。しかし新約聖書の原文というのは一つの写本ではなく、いくつもの写本をつなぎ合わせたものです。できるだけもとの形に近づけるために、どのような写本を採用するかという学問的な手続きがあるのですが、その手続きによって17節はもともとなかったと判断されたのです。それが「底本に節が欠けている」ということです。ただいくつかの写本には17節があるため、ルカ福音書の終わりに記しているのです。17節を記した写本があるのは、人々が「バラバを釈放しろ」と急に叫び出した理由を説明するためでしょう。要するに17節は、学問的には原文から除いたほうが良いけれど、文脈を理解するためには、あると助かる、ということになるのです。

筋の通らない要求
 その17節にある「祭の度ごとに」の「祭り」とは「過越祭」のことですから、過越祭毎に囚人を一人釈放する恩赦の制度があったことになります。その制度を知っていたので、人々は主イエスを釈放するのではなくバラバを釈放しろ、主イエスを殺してバラバを釈放しろ、と叫んだのです。19節には、「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」とあります。バラバはエルサレムで政治的な暴動を引き起こして総督の統治を脅かし、その上、人まで殺したので死刑の判決を受けていたのです。人々は主イエスを釈放するのではなく、そのバラバを釈放しろ、と要求しました。しかしよく考えると、この要求は見当違いな要求、おかしな要求と言えます。なぜならピラトは主イエスが無罪だから釈放しよう、と言ったのであって、過越祭の恩赦で主イエスを釈放しようと言ったのではないからです。本来、過越祭の恩赦で主イエスの代わりにバラバを釈放しろ、という要求は成り立ちません。無罪の主イエスを釈放するのは恩赦ではなく当たり前のことです。しかし人々は当たり前のことを拒み、成り立たないはずの要求を押し通そうとしたのです。ピラトの言葉は人々にまったく届いていません。ピラトの思いと人々の思いは完全にすれ違っています。理性的に説明するピラトの姿とは対照的に、感情的で筋の通らない要求を強引に押し通そうとする人々の姿が浮き彫りにされているのです。

そしてついに、その声がまさった
 それでもピラトはなお主イエスを釈放しようと思い、改めて人々に呼びかけました。20節の「釈放しようと思って」の「思って」は、「意志して」という強い表現です。軽い思いではなく強い意志を持って、ピラトは主イエスを釈放しようとしたのです。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトは三度目にこのように言いました。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。ピラトは三度、主イエスの無罪放免を主張しました。それはピラトが主イエスの無罪を完全に認めていたことを、主イエスを釈放すべきだと判断していたことを示しています。ピラトの判断と意志ははっきりしていました。しかしそれでも人々の声は静まるどころか、ますます大きくなっていきます。23節でこのように言われています。「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた、その声はますます強くなった」。聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「ところが、人々は、イエスを十字架につけるように大声で叫んでやまなかった。そしてついに、その声がまさった」。「そしてついに、その声がまさった」。「十字架につけろ、十字架につけろ」という人々の叫び声がどんどん大きくなり、どんどん強くなり、ついにはピラトの声にまさったのです。人々の執拗な叫び声が、感情的な叫び声が、ピラトの理性的な判断と意志を飲み込んだのです。ついにピラトは人々の要求を飲む決定を下しました。25節でこのように言われています。「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」。このように言われると、ピラトが主イエスを人々に引き渡したように読めますが、主イエスを十字架に架けるのは人々ではなくローマの兵士です。ですからピラトは主イエスを人々に引き渡したのではありません。原文を直訳すれば、「彼らの意志に主イエスを引き渡した」となります。それは人々の意志に沿って、人々の求めるままに、主イエスを兵士たちに、そして十字架に引き渡した、ということなのです。

なぜピラトは人々の要求を飲んだのか
 このようにして主イエスが十字架刑に処されることが決まりました。しかしこの場面を読んで、私たちは不思議に思うことがあります。一つは、三度主イエスの無罪放免を主張した総督ピラトが、理性的に判断し、堅い意志を持って無罪放免を主張したように思えたピラトが、なぜ「主イエスを十字架につけろ」という人々の要求を飲んだのか、ということです。単に人々の執拗な叫び声に根負けしたということだけではないように思えます。実はルカ福音書はこの点について何も語っていません。マルコ福音書では「群衆を満足させようと思って」(15章15節)と言われ、マタイ福音書では「それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」(27章24節)と言われていますが、ルカ福音書は何も記していないのです。しかし根本的には、ピラトの最大の関心事は自分の統治の安定にあった、ということだと思います。ピラトは主イエスが自分の統治を脅かすとはまったく考えていませんでした。しかし主イエスを釈放することによって、人々がさらにエスカレートして暴動を起こせば、彼の統治を妨げることになります。確かにルカ福音書はピラトが主イエスの無実を認め、主イエスを釈放する強い意志を持っていたことを語ります。しかしその理性的な判断、堅い意志を捨ててでも、ピラトは自分の統治の安定を優先したのです。それが、ピラトが最終的に人々の要求を入れた理由です。ルカ福音書はピラトが人々の要求を飲んだ理由を何も語っていませんが、だからこそピラトの姿を通して、彼が何を最も優先したのかを示しているのです。

民衆
 さて、もう一つ私たちが不思議に思うことがあります。新共同訳は18節以降、繰り返し「人々」という言葉を使っています。「人々」が「一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ」のであり、「人々」が「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのであり、「人々」の叫び声が、ついにはピラトの声にまさり、ピラトの判断と意志を飲み込んだのです。しかしこの「人々」とは、一体誰を指しているのでしょうか。原文には「人々」という言葉はなく「彼ら」とあるだけです。その「彼ら」とは誰を指しているのか。それは冒頭13節の「祭司長たちと議員たちと民衆」です。ここで私たちは驚かずにはいられません。祭司長たちや議員たちが、主イエスを殺せ、主イエスを十字架につけろ、と叫んだのは当然と言えば当然です。これまでも彼らは主イエスを殺そうとしてきたからです。しかし主イエスを十字架につけろと叫んだ人々の中に、「民衆」が含まれていることに驚かずにはいられないのです。この民衆は、祭司長たちや議員たちと違って、主イエスがエルサレムに来て以来ずっと、朝早くから神殿の境内にいる主イエスのもとに詰めかけていた人たちです。21章38節にこのようにあります。「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。19章47、48節でもこのように言われていました。「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」。ユダヤ教の宗教指導者たちが主イエスを殺そうとしてもできなかったのは、民衆が夢中になって主イエスの話に聞き入り、主イエスを支持し、主イエスに期待していたからです。その民衆が、それほどまで主イエスを支持していた民衆が、ここでは「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けているのです。ルカ福音書はその理由を何も記していません。マルコやマタイ福音書のように、祭司長たちが民衆を説得(扇動)したとも記していないので、民衆の責任は軽いとは言えません。いえむしろ、民衆の責任をはっきりと見つめている。祭司長たちや議員たちと一緒になって、民衆も「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだことに、何の言い訳もできないことを見つめているのです。

熱狂が激しい敵意に変わる
 あれほど主イエスを慕い、夢中になって主イエスの話に聞き入り、主イエスを熱狂的に支持していた民衆が主イエスを裏切り、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました。なぜでしょうか。それは、主イエスが民衆の期待通りの救い主ではなかったからです。彼ら彼女たちは自分たちをローマ帝国の支配による苦しみから救ってくれる救い主を求めていました。力によってローマの支配を覆す英雄のような救い主を求め、主イエスがそのような救い主であると期待し、熱狂的に支持したのです。しかし主イエスは逮捕され、ユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受け、総督ピラトのもとに連行され、ピラトとヘロデの尋問に沈黙し続けました。その主イエスの姿を見て、民衆は幻滅したのです。自分たちの期待を裏切られた、と思ったのです。こんな人が自分たちの救い主であるはずがない、自分たちが期待していたのはこんな救い主ではない、と幻滅しました。熱狂的に支持していたからこそ、夢中であったからこそ、主イエスに幻滅したとき、その熱狂は激しい敵意に変わったのです。だから彼らは感情的で筋の通らない要求を強引に押し通そうとしました。都で暴動を起こしたバラバを釈放するよう訴えたのも、彼のほうが力によってローマの支配に抵抗してくれるかもしれない、と思ったからかもしれません。一見、唐突のように思える裏切りも、感情的で執拗で激しい敵意も、熱狂的に支持していたことの裏返しです。夢中になり、期待が大きかったからこそ、その期待が外れたときの敵意も大きなものとなったのです。ルカ福音書はこの民衆の裏切りを、「十字架につけろ」と叫び続けた民衆の責任をしっかりと見つめているのです。

私たちこそ「十字架につけろ」と叫び続ける者
 私たちは、主イエスを熱狂的に支持していたのに、期待外れだと分かると、手の平を返して主イエスを裏切り、激しい敵意を持って、感情的に執拗に「十字架につけろ」と叫び続ける民衆の姿を見て、なんてひどい人たちだと思って済ませるわけにはいきません。とりわけ民衆を含むユダヤ人が、主イエスを十字架に架けたと読むだけであったなら、主イエスの十字架の責任はユダヤ人だけにあると考えるのなら、私たちは聖書の読み方を誤っていると言わなくてはなりません。キリスト教会は、これまでもそのような誤りを犯し、ユダヤ人を差別したり、迫害したりしてきました。聖書の読み方を誤るとき、まことに悲惨な結果を生むことは、歴史が証明しています。私たちはそのような誤りを二度と繰り返してはならないのです。ルカ福音書が見つめているのは、神様の恵みによって選ばれ、神様の民とされた者たちが、自分の期待が外れると、神様が遣わした救い主を、激しい敵意を持って、感情的に執拗に「十字架につけろ」と叫び続けたことです。ユダヤ人だけではなく、私たちも神様の恵みによって選ばれ、神様の民とされた者たちです。私たちは神様の一方的な恵みによって選ばれ、教会へと招かれ、信仰を与えられ、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかり、キリストの体である教会の肢とされ、神様の民とされたのです。しかしその私たちこそ、自分の願いを叶えてくれる主イエスを、自分の期待通りにしてくれる主イエスを求めてしまいます。そして自分の願いが叶えられないと、自分の期待が外れると、自分が期待していたのはこんな救い主ではない、こんな人が自分の救い主ではない、と主イエスに幻滅してしまいます。主イエスが自分の救い主ではないのではないかと疑うようになり、遂には主イエスを裏切り、拒んでしまうのです。私たちはこの民衆の姿に自分自身の姿を見なくてはなりません。ほかならぬ私たちこそ、激しい敵意を持って、感情的に執拗に、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続ける者なのです。洗礼を受け、救いにあずかり、神様の民とされたにもかかわらず、なお私たちは日々、主イエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んでいるのです。

私たちのために主イエスは十字架で死なれた
 しかしまさにそのような私たちのために、まことに恩知らずで、自分に都合の良い救い主を求めてしまう私たちのために、主イエス・キリストは十字架で死なれるのです。そのことを共に読まれたイザヤ書53章6節以下がはっきり指し示しています。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」。私たちは神様が牧してくださる羊の群れです。しかし私たちはしばしば神様のもとから逃げ出し、それぞれ好き勝手に生き、神様に背き、隣人を傷つけています。その私たちの罪をすべて、神様は御子イエス・キリストに負わせたのです。「屠り場に引かれる小羊のように…彼は口を開かなかった」というみ言葉は、ピラトとヘロデに対して沈黙を貫かれた主イエスのお姿を指し示しています。主イエスは捕らえられ、裁きを受けて、十字架で死なれました。私たちの背きのために、私たちの罪のために、神様は主イエスを死に渡されたのです。

神のご意志が実現する
 イザヤが預言した神様の御心、神様の御計画が主イエス・キリストの十字架の死において実現しました。本日の箇所の最後に「イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」とありました。すでに申したように、直訳すれば、「彼らの意志に主イエスを引き渡した」となります。ピラトの意志は、人々の執拗で感情的な叫び声に飲み込まれ、主イエスは人々の意志に引き渡されました。自分の願いが叶わないと、自分の期待が外れると、主イエスを十字架に架けようとする人々の、そして私たちの意志に引き渡されたのです。しかしまさにそこにおいて、主イエスが私たちの意志に引き渡され十字架で死なれる、まさにそこにおいて、神様のご意志が実現しました。主イエス・キリストの十字架の死によって私たちを罪から救う、という神様の救いのご意志が、神様の愛のご計画が実現したのです。ピラトの意志を超えて、人々と私たちの自分本位の意志、罪にまみれた意志を超えて、神様の私たちに対する救いのご意志が実現したのです。

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