説教 「あなたのために祈った」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 ヨブ記第1章6-12節
新約聖書 ルカによる福音書第22章31-34節
シモン、シモン
ルカによる福音書22章を読み進めています。その14節から、主イエスと十二人の弟子たちのいわゆる「最後の晩餐」の場面を読み進めてきました。この場面は38節まで続きますので、本日の箇所も「最後の晩餐」の席での出来事が語られていますが、しかしこの箇所は、その前後で語られているほかの出来事とは大きな違いがあります。それは31節の冒頭に「シモン、シモン」とあるように、ここでは主イエスがシモン一人に語りかけているということです。本日の箇所を除けば、最後の晩餐の席で主イエスは十二人の弟子たちに語りかけています。しかし本日の箇所ではシモン一人に、しかも「シモン、シモン」とその名前を二度呼んで、語りかけているのです。主イエスが相手の名前を二度呼んで語りかけるとき、そこには主イエスの相手に対する深い愛情が込められています。その深い愛情のゆえに、主イエスはそのように呼びかけた後、相手の罪を指摘されることもあります。自分自身では気づけない罪に気づかせようとしてくださるのです。10章38節以下には、いわゆる「マルタとマリア」の物語が語られていましたが、そこでも主イエスはマルタに、「マルタ、マルタ」と呼びかけられてから、彼女が「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことを指摘されました。同じように主イエスは本日の箇所でも、深い愛情を持ってシモンに語りかけているのです。
シモン・ペトロ
シモンとは、34節では「ペトロ」と呼ばれているように、シモン・ペトロのことです。5章1節以下では、漁師をしていたペトロが、主イエスの最初の弟子の一人になったことが語られていました。また6章14節以下に、主イエスが選ばれた十二弟子の名前が記されていますが、その筆頭に「イエスがペトロと名付けられたシモン」とあります。つまりシモン・ペトロは、主イエスの最初の弟子であり、また十二弟子の中で一番弟子であったのです。ちなみにシモン・ペトロのシモンは名前ですが、ペトロは名字ではありません。「イエスがペトロと名付けられたシモン」と言われているように、主イエスがシモンにお与えになった名前が「ペトロ」です。この「ペトロ」という言葉は「岩」を意味します。つまり主イエスはシモンに、「岩」というニックネームをお与えになったのです。主イエスはどのような想いを込めて「ペトロ(岩)」というニックネームをお与えになったのでしょうか。そしてシモンは、主イエスが与えてくださった自分のニックネームをどのように受けとめていたのでしょうか。
小麦のようにふるいにかける
さて、「シモン、シモン」と呼びかけてから、主イエスはシモンにこのように告げました。「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。この福音書の4章1節以下で主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたことが語られていましたが、「サタン」は、その「悪魔」と同じと考えて良いと思います。4章13節では、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と語られていました。その「時」が来たことが、22章3節で「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と語られています。「時が来るまでイエスを離れ」ていた悪魔、サタンが再び活発に動き出し、そのサタンの働きによってユダが裏切ることで主イエスは十字架の死へと追い込まれていくのです。そしてサタンはユダの中に入っただけではなく、ほかの弟子たちも「小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」のです。「小麦のようにふるいにかける」と言われていることについては、幾つかの理解があるようです。脱穀した小麦をふるいにかけることによって、小麦の実がふるいを通過して、大きな石などの不純物を取り除くということかもしれませんし、あるいは小麦の実よりも細かい目のふるいを使えば、実よりも小さい不純物だけがふるいを通過して、実だけを残すことができるということかもしれません。そうではなく脱穀した小麦を上下にふるうことによって、軽いもみ殻を飛ばして、実だけを残すということかもしれません。いずれにしても「小麦のようにふるいにかける」とは、不純物を取り除いて純粋な小麦の実だけを集めることを意味しているのです。それと同じようにサタンは弟子たちをふるいにかける、と言われています。彼らをふるいにかけることによって、彼らの中から本当に主イエスに従う者と、そうでない者を選り分けようとしているのです。
ふるいにかける
旧約聖書にヨブ記という書物があります。共に読まれたヨブ記1章6節以下は、その冒頭の場面の一部です。そこにもサタンが登場します。神様の御前に神の使いたちが集まっているところに、サタンがやって来ます。そのサタンに神様が「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言いました。するとサタンは、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と答え、「ヨブの家族や財産を奪えば、ヨブは神を呪うに違いない」と言いました。ヨブは「無垢な正しい人」のように、神に従う者のように見えるけれど、それはヨブが順調で豊かで祝福された人生を送っているからで、それらが奪われたら神を呪うに違いない。だから試してみたら良い、とサタンは提案したのです。まさにサタンが提案したことが、「ふるいにかける」ということです。ふるいにかけることによって、ヨブが本当に神に従う者なのか、そうではないのかを試そうとしました。神様がサタンに「お前のいいようにしてみるがよい」と言われたので、サタンはヨブをふるいにかけるために数々の苦難や試練を与えていくのです。
同じようにサタンは、今、シモン・ペトロをふるいにかけて、主イエスに本当に従う者なのか、そうでないのかを試そうとしています。主イエスに従って行くというペトロの思いの真実さを、ペトロの信仰の真実さを試そうとしています。ヨブにとって、ふるいにかけられることとは、財産を奪われ、家族を奪われるという苦難でした。ペトロにとって、それは、主イエスが逮捕され、十字架に架けられるという事態に直面して、自分の身も危うくなるという試練でした。私たちはすでにペトロが十字架へと向かわれる主イエスに従っていくことができずに、主イエスを見捨ててしまうことを知っています。ペトロはふるいにかけられ、主イエスに従えない者であることが明らかにされるのです。主イエスに従って行くというペトロの思いが真実でないことが、ペトロの信仰が真実でないことが明らかにされるのです。続く32節の主イエスのお言葉は、このようにペトロが主イエスを見捨ててしまうことを前提として語られています。
神に願って聞き入れられた
しかしそのお言葉に目を向ける前に、「サタンは…神に願って聞き入れられた」と語られていることにも心を留めておきたいと思います。原文では「神に」という言葉はありません。聖書協会共同訳では「サタンは…願い出た」と訳されています。訳として原文に忠実なのは聖書協会共同訳ですが、しかしそれならサタンは誰に願い出たのか、という疑問は残ります。そしてサタンが願い出たのは、新共同訳が補って訳しているように、神様に違いありません。そう言われると、神様がサタンの願いを聞き入れるなんて、とんでもないと思われるかもしれません。しかしこのことは、サタンの働きも神様のご支配のもとにある、ということを告げています。聖書においてサタンは、決して神様に並び立つような存在ではありません。先ほどのヨブ記でも神様が「お前のいいようにしてみるがよい」と言って許可したから、サタンはヨブに苦難を与えることができました。ここでも神様が聞き入れたから、サタンは弟子たちに試練を与えようとしているのです。ヨブや弟子たちだけではなく、私たちも様々な苦難や試練に直面し、苦しみや悲しみを味わいます。とりわけ不条理な現実による苦しみや悲しみは私たちの信仰を激しく揺さぶり、私たちを神様から引き離そうとします。いわれのない苦しみや悲しみによって、私たちが神様を信じられないようにするのです。私たちはここにサタンの働きを見ないわけにはいきません。しかしサタンの働きが神様のご支配のもとにあるならば、そのような苦しみや悲しみも神様のご支配の外で起こっているのではないし、神様の許可なく起こっているのではありません。それは、神様がサタンを用いて私たちに苦しみや悲しみを与えている、と受けとめるべきではないでしょう。そうではなく私たちが経験するあらゆる苦しみや悲しみが、神様の御手の内にあることを見つめています。耐え難い苦しみや悲しみの中にあっても、なおそこに神様の導きがあるのです。その導きを見いだすのは簡単ではないかもしれません。しかし苦難と試練の中になお神様の導きがあると信じるからこそ、その苦難と試練に絶望することなく、私たちはその導きを求めていくことができるのです。
今、私たちが直面している世界の現実はまさに不条理な苦しみと悲しみに満ちています。ロシアとウクライナの戦争は終わりが見えず、イスラエルとハマスの戦争は、隣国を巻き込んで拡大しています。そのために多くの命が、とりわけ幼い子どもたちの命が奪われています。また日本でも世界でも、人々の不満や憎しみが膨らんで分断が進んでいるように思えます。それは、「赦せない」「受け入れられない」という感情が広がっているということです。まさに神様と人間を分断し、人間と人間を分断するサタンの働きが活発になっているように思えるのです。しかし「サタンは…神に願って聞き入れられた」というみ言葉は、そのような不条理な苦しみや悲しみ、分断に覆われている世界が、なお神様の御手の内にあり、そこになお神様の導きがあることを私たちに告げているのです。
しかし、わたしは
32節で主イエスは、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われます。「しかし、わたしは」というのは、「わたし」を強調した表現で、「しかし、このわたしが」、「しかし、ほかならぬわたしが」というニュアンスを持ちます。サタンも神に願って聞き入れられたけれど、「しかし、このわたしが、ほかならぬわたしが」、そのサタンに対抗して、「あなたのために」祈った、と主イエスは言われるのです。すでにお話ししたように主イエスは、これからペトロが主イエスを見捨てることをご存知の上で語っておられます。だからこそ「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われます。「立ち直ったら」と言われているということは、その前に崩れ落ちるときが来る、絶望するときが来る、ということにほかならないのです。
決意や覚悟による信仰
主イエスのお言葉を聞いたペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。「御一緒になら」と訳されていますが、直訳すれば、「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」となります。主イエスが一緒にいてくださるなら、と条件を言っているのではなく、主イエスと一緒に牢にも死にも行く覚悟を持っている、と告げているのです。主イエスはシモンにペトロという名前を与えられました。それは「岩」という意味の名前です。ペトロという名前をいただいて、「岩」のような固い決意を持って、強い覚悟を持って、主イエスに従って行こうと思っていたのではないでしょうか。まさにここでペトロはその「岩」のような固い決意を、強い覚悟を示しているのです。
この後、ペトロが主イエスを見捨てることを知っている私たちにとって、「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」というペトロの言葉は滑稽に思えるかもしれません。しかしこの言葉は、ペトロが信仰は覚悟を持つことだ、と考えていたことを示しています。ペトロは、自分が「岩」のような固い決意を持ち、強い覚悟を持って主イエスに従って行くのが信仰だと思っていたのです。そして私たちも、少なからずそのように思っているのではないでしょうか。牢や死を覚悟することまではなくても、信仰は、自分の決意や覚悟の問題だと思っているのです。「岩」のような固い決意を持ち、強い覚悟を持つことが信仰だと思っているし、そのような決意や覚悟がなければ、まだ信仰を持てていないと考えています。私たちも、ペトロのように、「主よ、あなたに従っていく覚悟を持っています」と告白するのが、信仰を告白することだと思っているのです。ですからペトロのこの言葉は、ペトロだけの特別な言葉ではありません。むしろ私たち皆を代表する言葉として受けとめるべきでしょう。私たちに先んじて、私たちの先頭に立って、ペトロは「主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です」と言っているのです。
決意や覚悟による信仰は崩れ去る
しかしそのような自分の決意や覚悟は、苦難や試練に直面するとき、簡単に崩れ去ってしまいます。ペトロは主イエスと一緒に牢に入っても死んでもよいという強い覚悟を持っていました。しかしそれから数時間の内に、主イエスを三度知らないと言うことになります。34節で主イエスは、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われています。ユダヤ人の社会では日没から一日が始まりますから、「今日、鶏が鳴くまでに」というのは、その夜が明けるまでに、ということです。主イエスと弟子たちは日が暮れてから過越の食事、最後の晩餐を始めましたから、このときすでに夜になっていたでしょう。その夜が明けるまでに、つまり数時間の内に、ペトロは三度「主イエスを知らない」と言うだろう、と主イエスは言われたのです。そして主イエスが言われた通りになります。「わたしを知らないと言うだろう」は、直訳すれば「わたしは知っていることを否定する」となります。また「三度」とは「徹底的に」「完全に」ということです。ペトロは夜が明けるまでに、徹底的に、完全に主イエスを知っていることを否定することになるのです。主イエスと一緒に牢に入っても死んでもよいという強い覚悟を持っていたのに、その主イエスを完全に拒みます。ペトロの「岩のような」固い決意と強い覚悟は木端微塵に砕かれてしまうのです。しかもペトロは牢に入れられそうになったのでも、死にそうになったのでもありません。大祭司の家の中庭で、何人かの人に見られ、「この人もイエスと一緒にいた」と言われただけです。まだ捕まってもいないし、まして処刑が決まったわけでもない。しかし何人かの人の視線と言葉に耐えられなくなります。自分も捕まるかもしれない、死ぬことになるかもしれない、という恐れに駆られます。その恐れによって、ペトロの「岩のような」決意と覚悟はあっという間に崩れ去るのです。私たちがどれほど「岩のような」固い決意、強い覚悟を持っていると思っていても、私たちの決意や覚悟は、本当は「岩のよう」では全然ありません。想像を絶するような苦難や試練に直面しなくても、ほんの些細な苦難や試練に直面するだけで簡単に砕けてしまいます。私たちの決意や覚悟による信仰は、ちょっと体調が悪くなるだけでも、ちょっと嫌な思いをしただけでも崩れ去ってしまうものなのです。そしてそのように自分の決意や覚悟による信仰が崩れ去るとき、ペトロも私たちも主イエスに従って行くという自分の思いが真実でないことを突きつけられ、自分の信仰が真実でないことを突きつけられ、崩れ落ちるしか、絶望するしかないのです。
信仰が無くならないように
しかしそのペトロに、そして私たち一人ひとりに、主イエスは「あなたのために」祈った、と言われます。「このわたしが、ほかならぬわたしが、あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われます。「信仰が無くならない」とは、ペトロや私たちの決意や覚悟による信仰が無くならないように、ということではありません。崩れ落ち、絶望するしかない中にあっても、僅かな信仰が残って、その信仰がいずれ回復するように、ということではないのです。ペトロの決意や覚悟による信仰は、完全に崩れ去り、完全に無くなりました。ふるいにかけられることによって、主イエスに従い得ないことが、その信仰が真実でないことが明らかになったのです。むしろ主イエスはペトロと私たちが新しい信仰に生きることができるよう祈られたのです。新しい信仰とは、主イエスが与えてくださる信仰です。この新しい信仰をペトロに与えるために、そして私たちに与えるために、主イエスは十字架に架かって死んでくださいます。私たちは自分の決意や覚悟によって信じ、救われるのではなく、そのような決意や覚悟が崩れ去った先で、主イエスが十字架に架かって死んでくださることによって救われるのです。この主イエスの十字架による救いにあずかって生きるのが新しい信仰であり、本当の信仰です。信仰とは、主イエスを信じ、主イエスに従って生きるとは、私たちの決意や覚悟に依り頼むことではありません。そのような決意や覚悟によっては主イエスを信じ続けることも、主イエスに従い続けることもできない私たちのために、それどころか主イエスを拒み、主イエスとの関係を否定してしまう私たちのために祈ってくださり、十字架に架かって死んでくださった主イエスに依り頼むことです。主イエスは私たちのために「信仰が無くならないように」と祈ってくださいました。そしてこの祈りを実現するために十字架に架かってくださったのです。私たちの信仰とは、この「信仰が無くならないように」という主イエスの執り成しの祈りに依り頼むことにほかならないのです。
あなたのために祈った
ルカ福音書の続きである使徒言行録は、ペトロが立ち直って、弟子たちの中心的存在となり、神様の救いを力強く人々に語っている姿を描いています。しかし崩れ落ち、絶望の中にいたペトロが立ち直るために、何か努力をしたとか、決意や覚悟を新たにしたとか、そのようなことはまったく描かれていません。ペトロが立ち直ったのは、十字架で死なれ、復活された主イエスがペトロに出会ってくださり、信仰を与えてくださることによってです。十字架で死なれ復活された主イエスが与えてくださる信仰こそが、自分の決意や覚悟ではなく主イエスに依り頼む信仰こそが、本当にペトロの信仰を「岩」のように確固としたものとしていくのです。私たちが信仰を持って生きることができるのは、その信仰を主イエスが与えてくださり、そしてその信仰を主イエスの祈りが支え続けているからです。そして主イエスの執り成しの祈りによってこそ、私たちの信仰は確かなものとされていきます。主イエスの執り成しの祈りに依り頼み、支えられ続ける信仰こそが、試練や苦難の中にあっても、なお崩れ落ちない「岩」のような信仰なのです。
主イエスは、今、このときも、私たち一人ひとりに向かって、「あなたのために祈った」と、「あなたのために祈った、だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語りかけてくださっています。私たちは主イエスの祈りによって崩れ落ちるときも立ち直ることができます。そしてこの祈りに支えられて生きる中で、兄弟姉妹を、隣人を力づける使命にも仕えていきます。自分の決意や覚悟では主イエスに従えない自分を救うために、主イエスが十字架で死んでくださったことを証しする使命に仕え、主イエスが与えてくださる信仰への招きを、主イエスの祈りに支えられている信仰への招きを語っていくのです。