夕礼拝

生きている者の神

説教題「生きている者の神」
旧約聖書 出エジプト記第3章1-6節
新約聖書 ルカによる福音書第20章27-40節

サドカイ派
 ルカによる福音書20章を読み進めています。本日の箇所では、これまで登場してきた律法学者や祭司長たちとは異なる人たちが登場します。それがサドカイ派の人たちです。サドカイ派は、ファリサイ派とは異なるユダヤ教のグループです。エルサレム神殿に仕える祭司を中心としたグループで、そこに社会的身分の高い人たちが加わっていました。彼らはとても保守的で、聖書そのものを重んじました。この場合の聖書というのは、私たちにとっての旧約聖書のことです。しかもサドカイ派は、(旧約)聖書全体を同じように重んじたのではなく、最初の五つの書物を、つまり創世記から申命記までのいわゆる「モーセ五書」を、特別に重んじました。彼らは信仰と実践のあらゆることについて、モーセ五書に則って考えたのです。一方のファリサイ派が(旧約)聖書全体に加えて、様々な伝承も重んじたのに対して、サドカイ派はそのような伝承を一切認めませんでした。聖書の新しい解釈や伝承はできる限り排除して、「モーセ五書」のみを重んじたのです。またファリサイ派は、民衆に大きな影響を及ぼしました。彼らが民衆の中に入って行って、律法や律法をどのように守って生きれば良いのかを教えたからです。それに対してサドカイ派は神殿中心に活動し、祭司階級や身分の高い人たちに影響を及ぼしました。民衆とは積極的に関わろうとはせず、むしろ軽蔑感を抱いていたようです。さらにサドカイ派は、ローマ帝国による支配に対して武力をもって衝突することには反対していました。それどころか自分たちの権力と影響力を維持するために、その時々でローマに妥協していたのです。このようにサドカイ派の人たちは保守的で、現状維持を好み、自分たちの権力と影響力の保持のためには、国家の権力とも妥協する人たちであったのです。

保守的になり現状維持を好む
 このように言われると、サドカイ派の人たちはなんて嫌な人たちなんだろう、と思われるかもしれません。しかし私たちはサドカイ派の人たちばかりを悪く言えないように思います。十把一絡げにしてしまうのはよくありませんが、私たちは歳を重ねるごとに保守的で、現状維持を好む傾向が強くなります。私自身も自分では若いつもりでいますが、客観的には中年と呼ばれる年齢になり、そして自分自身でも、ふとした時に自分が以前よりも保守的になり、現状に甘んじている部分があると気づかされます。もちろん必ずしも保守的であることや現状維持を好むことが悪いわけではないでしょう。新しいものがいつも正しいとも限りません。ただ問題は、保守的になり、現状維持を好むようになるとき、私たちはしばしば新しいものを端から否定してしまうことがある、ということです。しかも自分たちが正しいと決めつけて、新しいものに対して上から目線で裁いてしまうことがあるのです。それでは、新しい解釈を信じている民衆に対して、上から目線で裁いていたサドカイ派の人たちと同じなのではないでしょうか。

復活の否定
 27節に「復活があることを否定するサドカイ派の人々」と言われているように、サドカイ派の人たちは復活を否定していました。それに対してファリサイ派の人たちは復活を信じていたし、彼らの影響を強く受けていた民衆も復活を信じていました。なぜサドカイ派は復活を否定し、ファリサイ派は信じていたのでしょうか。まず、ここで言われている復活とは、死んだ人がこの世で甦ることではありません。新約聖書には主イエスやペトロが、あるいはパウロが死人を甦らせたという奇跡が語られています。しかしこの奇跡で甦った人たちは、地上の生涯においていずれ死を迎えたのです。ここで言われている復活とは、そのように死んだ人がこの世で甦ることではなく、世の終わりに復活させられ、永遠の命に生きるようになることです。34節に「この世」という言葉があり、35節に「次の世」という言葉がありますが、「この世」ではなく「次の世」における復活、つまり世の終わりにおける復活のことなのです。この世の終わりの復活を、ファリサイ派は信じ、サドカイ派は否定していたのです。この両者の違いは、先ほどお話ししたサドカイ派が「モーセ五書」を特に重んじたのに対して、ファリサイ派が(旧約)聖書全体を重んじたことから生じました。世の終わりの復活は、旧約聖書ではそれほどはっきり語られているわけではありません。特に「モーセ五書」では復活は語られていません。「モーセ五書」より新しい時代の書物の幾つかの箇所でほのめかされている程度です。それらの箇所が段々と受けとめられるようになり、主イエスの時代には、ファリサイ派の人たちや多くの民衆が復活を信じるようになっていたのです。しかしあくまでも「モーセ五書」を重んじるサドカイ派の人たちは復活を信じようとしなかったのです。
復活について論じる
 このように復活を否定するサドカイ派の人たちが近寄って来て、主イエスに尋ねました。ここで彼らは、直前の箇所で律法学者や祭司長たちが遣わした人たちのように、主イエスの言葉じりをとらえようとしたのではありません。むしろ彼らは主イエスと復活について論じようとしたのです。おそらくサドカイ派の人たちは、同じような論争をファリサイ派の人たちとも繰り広げていたのだと思います。サドカイ派の人たちは復活についての論争に慣れていたのであり、どのように論じるかも十分準備できていたのです。それが28節以下でサドカイ派の人たちが論じていることです。

サドカイ派の論理
 そこでまず彼らは律法の一つの掟について言及します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」。この掟は旧約聖書の申命記25章5~10節に記されている制度です。兄弟がいて、兄が子供を残さずに死んだときには、弟が死んだ兄の妻をめとります。そして彼女の産んだ長男に死んだ兄の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならなかったのです。私たちの感覚からすると、夫を失った妻がその兄弟と結婚しなければならないのは、女性に対するとんでもない抑圧だと思います。しかしこの制度は、妻に対する義務というよりは弟に対する義務であり、死んだ兄の妻はその義務を果たさない弟を訴えることができました。現代の感覚とは合いませんが、当時は、家名の存続が今よりもずっと重んじられていたのです。
 この掟に言及してから、サドカイ派の人たちは極端な例を持ち出して、議論を進めます。29節以下にこのようにあります。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。彼らは七人の兄弟を想定して論じます。長男がある女性と結婚して、子供がいないまま死ぬと、先ほどの制度によって、次男がこの女性と結婚します。次男も子供がいないまま死ぬと、同じく先ほどの制度によって、三男がこの女性と結婚します。しかし三男も子供がいないまま死に、残りの兄弟も次々と子供を残さないで死んでしまうのです。そして最後にはこの女性も死にます。要するに七人兄弟は皆、この女性と結婚したのです。ここまでがサドカイ派が持ち出した極端な例です。そして彼らは、もしこの世でこのようなことが起これば、七人の兄弟とこの女性が復活したとき、いったいこの女性は七人の兄弟のうちの誰の妻になるのか、と問うたのです。ここで彼らは、もう一つの律法を前提としています。それは、兄弟の妻と結婚してはならない、という律法です。兄弟が生きているならば、兄弟の妻と結婚することは律法で禁じられていたのです。サドカイ派のロジックは、この世で兄が死んだら、弟が死んだ兄の妻と結婚しなければならないことになっているが、もし復活したら兄も弟も同じ女性と結婚していることになり、兄弟の妻と結婚してはならないと命じられていることに矛盾するではないか、というものなのです。もし復活があるなら、律法に矛盾が生じてしまうではないか。そんなことがあってはならないから復活はないはずだ、と彼らは言いたいのです。

思いやりの欠けた議論
 彼らの論理は、かなりしっかりした論理のように思えます。復活を認めるなら「モーセ五書」に記されている律法に矛盾が生じる、だから復活はないというのは、筋の通った議論にも思えるのです。しかしその一方で彼らの議論は、人への思いやりに欠けた議論です。このことは彼らがわざわざ七人の兄弟を想定したことに表れています。今見てきたように彼らの論理は、二人の兄弟を想定すれば成り立ちます。二人だろうが七人だろうが、復活したときに、兄弟が同じ女性と結婚していることに変わりはないからです。それなのにわざわざ七人の兄弟を想定したのは、話をドラマチックにするためであったと思います。しかしそこにはこの女性への思いやりはまったくありません。一人の夫を失う痛みも決して小さなものではないのに、七人の夫を失う痛みをこの女性に負わせています。夫を失う悲しみの中で、その弟と新たな家庭を築いていくのは大変なことであるに違いないのに、それを七回も繰り返させています。想像の話だから、仮定の話だから、なにを言っても良いということではないでしょう。いえ、想像の話だからこそ彼らの人への思いやりの無さがはっきりと現れているのです。彼らは自分たちの議論を劇的に見せることばかりを考え、ただ律法を振り回すだけで人の気持ちには心を向けなかったのです。私たちも自分を正当化するために極端な議論をするとき、しばしば人への思いやりの欠けた、心の通わない議論を、論理を振り回すだけの議論をしてしまうのです。

めとることも嫁ぐこともない
 しかしこのことより、さらに目を向けるべきことがあります。それは、サドカイ派の人たちが復活をまったく分かっていなかった、ということです。筋の通った議論をしているようで、彼らは根本的に復活について考え違いをしていたのです。34節以下で主イエスはこのように言われています。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。主イエスはこの世では「めとったり嫁いだりする」けれど、次の世では、つまり復活したら「めとることも嫁ぐこともない」と言われたのです。それは、結婚がこの世における制度であって、復活した後の世においては結婚という制度はない、ということです。その理由として主イエスは、復活した人たちは「もはや死ぬことがない」からだと言われます。もはや死ぬことがないから、結婚して子孫を残す必要がないということでしょうか。それなら結婚は子孫を残すためだけにするものなのか、という疑問が湧くかもしれません。しかし主イエスが言われているのは、子孫を残す必要がないということよりも、復活して永遠の命に生きている「もはや死ぬことがない」世界は、この世のあり方とはまったく異なる新しい世界である、ということです。ここでは結婚のことだけが取り上げられていますが、このことはこの世のあらゆることに当てはまります。サドカイ派の人たちの間違いは、この世の制度や規則やあり方の延長上に復活後の世界を考えていたことなのです。

見当違いな問い
 世の終わりの復活を信じている私たちも、復活後の自分たちがどのようになるかあれこれと疑問を持ちます。結婚している方であれば、復活後も夫婦であり続けるのだろうか、と思うかもしません。そうであれば嬉しいと思う方も、それは遠慮したいと思う方もいるでしょう。復活するとき、いったい何歳の自分で復活するのかも気になります。病や障がいを持っていれば、復活後もその病や障がいを負うのだろうかと考えるかもしれません。これらは確かに真剣な問いではあります。しかしこれらの問いは、サドカイ派の人たちと同じように、この世のあり方の延長上に復活後の世界を考えているという点で、見当違いな問いなのです。

天使に等しい者、神の子
 主イエスは、復活した人たちは「天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と言われました。「天使に等しい者」であるとは、私たちに羽が生えて飛び回っているというようなことではありません。「天使に等しい者」や「神の子」とは、復活した私たちが新しい体と永遠の命を与えられ、神様の栄光に与って生きることを見つめているのです。復活して新しい体を与えられ永遠の命に生きる私たちは、肉体的な衰えから解放され、病や障がいからも解放されます。この世のあらゆる制度や規則やあり方は、あくまでもこの世のものであって、復活後の世界に持ち込まれることはありません。私たちが復活を信じるとは、復活後の自分がどのようになるかをあれこれ考えることではなく、私たちが救いの完成に与り、復活させられ、永遠の命を生きるようになることを信じることです。この世のあらゆる苦しみや悲しみや痛みから解放されて、神様の栄光に与って生きる「天使に等しい者」、「神の子」として生きるようになることを信じることなのです。だからこそ私たちはこのことに希望をおいて、苦しみや悲しみに溢れているこの世にあって忍耐して生きていくことができるのです。

固有性は失われない
 とはいえこのことに一抹の不安を覚える方もあるかもしれません。復活によって新しい体と命を与えられるのであれば、この地上を生きている自分と復活後の自分はまったくの別人で、同じ人とは言えないのではないかと思うのです。しかしそれは無用の心配だと思います。なぜなら私たちに先んじて復活された主イエスが弟子たちに出会ってくださったとき、弟子たちは復活された主イエスが、地上を生きられた主イエスである、と分かったからです。この世のあり方の延長上に、復活後の世界があるわけではないとしても、この世を生きている私たちと、復活後の世界に生きる私たちはまったくの別人ではなく、その固有性において同一であり続けるのです。新しい体と命を与えられて新しい存在とされているにもかかわらず、復活後の世界でも私たちはそれぞれの固有性を失うわけではないのです。

み言葉の尽きることのない新しさ
 37節で主イエスはこのように言われています。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」。「『柴』の個所」とは、共に読まれた旧約聖書出エジプト記3章1~6節のことです。そこで神様は柴の間からモーセに声をかけられ、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。最初にお話ししたように、サドカイ派の人たちは「モーセ五書」を特別に重んじていました。そして彼らは「モーセ五書」には復活について書かれていないと考えていたし、だからこそ彼らは復活を否定していたのです。ところが主イエスは、「モーセ五書」の一つである出エジプト記に死者の復活が示されていると言われました。あなたがたサドカイ派の人たちは、「モーセ五書」には復活について書かれていないと考えているけれど、そうではない、と言われたのです。それは主イエスが、「モーセ五書」を新たに解釈したということでもあります。別の言い方をすれば、「モーセ五書」に記されている神様のみ言葉を新たに受けとめ直したのです。サドカイ派の人たちは保守的で、現状維持を好み、新しい解釈を拒みました。しかしそれではみ言葉の尽きることのない新しさを受けとめることはできません。み言葉は私たちに常に新しく語りかけているのであり、私たちはそのみ言葉を常に新しく受けとめ直す必要があるのです。

生きている者の神
 それにしても、なぜ神様がモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたことが、死者の復活を示しているのでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブは、モーセより前に生きた人たちであり、すでに死んでいた人たちです。主イエスは38節で「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われていますが、アブラハム、イサク、ヤコブの神であるなら、「神は死んだ者の神」であるようにすら思えます。その謎を解く鍵が、38節後半の「すべての人は、神によって生きているからである」にあります。「神によって生きる」とは、「神に対して生きる」と訳せます。それは、神様との関係において生きているということです。つまり主イエスは、神様は神様との関係において死んだ者の神ではなく、神様との関係において生きている者の神なのだ、と言われているのです。アブラハム、イサク、ヤコブは神様と関係を持って生きました。そしてその神様との関係は、地上の生涯を終えたら切れてしまうものでも、無くなってしまうものでもないのです。彼らは地上の生涯を終えてなお、神様との関係の内に置かれているのです。だから神様はモーセに、アブラハム、イサク、ヤコブがすでに死んでいたにもかかわらず、今もご自分が彼らの神であり続けていると、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり続けていると言われたのです。神様は彼らの死を越えて、彼らの神であり続けてくださっているのです。そしてその神様が、死を越えて神様との関係の内に置かれている者たちを、世の終わりに復活させてくださり、永遠の命を与えてくださるに違いないのです。神様が生きている者の神であるとは、そういうことなのです。

神との関係に生きる
 しかし同時にこのことは神様が、神様との関係において死んだ者の神ではない、ということでもあります。たとえ肉体的には生きていたとしても、神様との関係において死んでいるなら、神様に背き、神様から離れて生きているのであれば、神様はその人の神ではない、と言われているのです。厳しいお言葉です。そのように言われれば、到底、神様は私たちの神ではないように思えます。なぜなら私たちは神様に背き、神様から離れて生きていたのであり、神様との関係において死んでいた者であったからです。しかし忘れてはいけません。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われた主イエスが、この数日後に、神様との関係に死んでいた者たちが、神様との関係に生きられるようになるために、十字架に架かって死んでくださいました。そしてその死からの復活を通して、私たちが世の終わりに復活と永遠の命に与る道を切り開いてくださったのです。私たちは洗礼においてこのキリストの十字架と復活による救いに与ります。洗礼においてキリストと結ばれることによって、神様との関係に生きる者とされるのです。ローマの信徒への手紙6章は洗礼について語っていますが、その11節で、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と言われています。私たちは洗礼において主イエス・キリストに結ばれることによって、神様に対して生き、神様との関係に生きているのです。その神様との関係は、地上の生涯の死によって失われることはありません。神様は私たちが死を迎えるときも、死んだ後も、決して見捨てることはないのです。神様は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、死を越えて神様との関係の内に置かれている者の神であり続けてくださり、それゆえ死を越えて私たちの神であり続けてくださり、世の終わりに私たちを復活させて、永遠の命を与えてくださるのです。私たちが復活を信じるとは、このことを信じることにほかならないのです。
 これから聖餐に与ります。キリストの十字架と復活による救いの恵みを体全体で味わうことを通して、私たちは世の終わりの復活と永遠の命の約束を確かなものとします。私たちはこの復活と永遠の命の約束に希望をおいて、生きているときも、死を迎えるときも、死んだ後も私たちの神であり続けてくださる、主イエス・キリストの父なる神様に信頼して、すべてを委ねて生きていくのです。

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