夕礼拝

神のものは神に

2024年7月28日
説教題「神のものは神に」 副牧師 川嶋章弘

サムエル記上 第8章4~9節
ルカによる福音書 第20章20~26節

文脈の中で
 本日の箇所の25節にある、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスのお言葉は、よく知られています。そしてしばしばこの言葉は、キリスト者が国家と宗教の関係を考える際に引き合いに出されます。国家の権威が及ぶ領域と神様の権威が及ぶ領域の区別を語っていると考えられたり、いわゆる政教分離について語っていると考えられたりします。しかし聖書を読むとき、私たちがいつも気をつけなくてはならないのは、一つのみ言葉だけを取り出して論じないということです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスのお言葉だけを取り出して論じるのではなく、主イエスがこの言葉を語られた文脈の中で論じる必要があるのです。これから見ていくように、この主イエスのお言葉は、主イエスが積極的に教えられた言葉ではありません。主イエスを罠にはめようとする悪意ある質問をかわすために主イエスがお答えになった言葉なのです。

枠構造
 このことはこの箇所の構造からも示されます。この箇所の初めと終わりに同じ言葉があり、その言葉がこの箇所を挟み込んでいる枠となっています。それが、「(言葉じりを)とらえる」という言葉で、20節では「イエスの言葉じりをとらえ(ようとした)」と言われ、26節では「イエスの言葉じりをとらえることができず」と言われています。これらを続けて読めば、「イエスの言葉じりをとらえ(ようとした)」、「イエスの言葉じりをとらえることができ(なかった)」となり、この出来事全体の流れを示しています。つまりこの枠構造から示されるのは、この箇所全体が主イエスの言葉じりをとらえようとした人たちの失敗を語っている、ということであり、国家と宗教の関係を語っているということではないのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、あくまで主イエスの言葉じりをとらえようとした人たちが失敗したという出来事の中で語られたものなのです。もちろんこのことは、この主イエスのお言葉を真剣に受けとめなくて良いということではありません。私たちはこの言葉が告げていることをしっかり受けとめていきたいのです。しかし同時に、この言葉が置かれている文脈を見失うことのないようにしたいと思います。

直前の箇所と切り離せない
 さらに大きな文脈の中でこの箇所を読むことも大切です。この箇所は前回お読みした9~19節と切り離して読むことはできません。9~19節で主イエスはたとえをお語りになりました。このようなたとえです。ある人が、新しく作ったぶどう園を農夫たちに貸して長い旅に出ました。この主人は、農夫たちにぶどう園を貸すだけでなく大きな自由も与えました。数年が経ち収穫のときになったので、主人はぶどう園の収穫を納めさせるために僕を農夫たちのところへ送りました。すると農夫たちは僕を傷つけ、何も持たせないで返したのです。主人はほかの僕を送りましたが、農夫たちはこの僕も傷つけ、何も持たせないで返しました。さらに主人が送った三人目の僕も、農夫たちは傷を負わせてほうり出しました。そこでぶどう園の主人は、自分の愛する息子を送ってみることにしたのです。しかし農夫たちは跡取り息子を殺せば、ぶどう園の主人の相続財産が自分たちのものになると考えて、息子をぶどう園の外で殺してしまったのです。主イエスはこのたとえで、農夫たちの姿を通して律法学者や祭司長たちの姿を明らかにしています。農夫たちが主人から預かっているぶどう園を自分のものとし、主人から与えられた大きな自由を乱用して自分勝手にしたように、律法学者や祭司長たちも神様から預かっているものを自分のものとし、神様から与えられた大きな自由を乱用して自分勝手に生きている、と主イエスは言われたのです。19節では、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」と言われていました。ユダヤ教の宗教指導者たちは、主イエスのたとえに登場する農夫が自分たちのことを指している、と気づいたのです。それで彼らは激しく怒って主イエスに手を下そうとしましたが、民衆を恐れてできなかったのです。

機会をねらっていた
 この出来事に続いて本日の箇所の出来事があります。冒頭20節に「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあります。「そこで、機会をねらっていた彼ら」とは、先ほどの律法学者や祭司長たちのことです。彼らは、先ほどお話ししたように、主イエスが自分たちに当てつけてたとえを話されたことに激しく怒り、主イエスに手を下そうとしましたが、民衆を恐れてできませんでした。しかし彼らはそれで諦めたわけではありませんでした。主イエスを「総督の支配と権力」に引き渡す機会を虎視眈々と狙っていたのです。当時、ユダヤはローマ帝国の支配のもとにあり、ローマ帝国が派遣した総督によって統治されていました。ですから主イエスを「総督の支配と権力」に渡すとは、総督に主イエスを告発することです。その告発が受け入れられれば、主イエスはローマ帝国によって捕らえられ、処罰されることになるのです。彼らはそのチャンスをねらっていたのです。

正しい人を装う回し者
 チャンスが来ると、彼らは主イエスのところに「正しい人を装う回し者を遣わし」ました。「回し者」はある英語訳の聖書ではスパイと訳されています。スパイにとって大切なことは自分の正体を隠すことです。それでこのスパイは「正しい人」を装って、自分の正体を隠したのです。「装う」という言葉は名詞になると「偽善」を意味します。「正しい人」を装うスパイは、まさに「偽善者」であったのです。
 回し者らの狙いは、主イエスの言葉じりをとらえる質問をすることでした。しかしいきなりそのような質問をすれば、疑われてしまうかもしれませんし、相手にされないかもしれません。だから彼らは、核心を突く質問の前に、長々と心にも無いことを言いました。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」。まさに「正しい人」を装った偽善者の言葉です。しかしスパイがなかなかその正体を周りの人に見破られないように、この回し者たちの言葉も、周囲にいた人たちには、「正しい人」の言葉、信仰深い人の言葉、主イエスに教えを乞おうとしている真剣な言葉に聞こえたに違いありません。周囲にいた人たちは、そのような質問に対して、主イエスがお答えになるに違いないと思ったはずです。「正しい人を装う回し者」たちの狙いはそこにあったのです。彼らは主イエスに「先生」と呼びかけ、真剣に教えを乞うように装うことによって、主イエスが彼らの質問に答えなくてはならない状況を作りました。彼らは巧みに主イエスを追い込んでいったのです。

納税賛成か反対か
 そこでいよいよ、回し者たちは核心を突く質問をしました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。ここで言われているのは、神の民であるユダヤ人が、自分たちを支配している異邦人である皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか、ということです。この質問は実に巧みな質問でした。回し者たちも、彼らを遣わした律法学者や祭司長たちも、この質問によって主イエスの言葉じりをとらえられるに違いないと考えていたはずです。なぜならこの質問に対して、主イエスが「律法に適っている」と答えても、逆に「律法に適っていない」と答えても、彼らは主イエスを追い詰めることができたからです。もし主イエスが、皇帝に税金を納めるのは律法に適っていないと答えれば、つまり皇帝への納税反対と答えれば、回し者たちは主イエスをローマ帝国に対する反逆罪で告発することができました。そうすれば総督によって主イエスは捕らえられ、処罰されたに違いないのです。回し者たちが、そして彼らを遣わした者たちが狙っていたのはこのシナリオでした。主イエスに皇帝への納税反対と答えさせることで、主イエスを反逆罪で総督に引き渡そうと企んでいたのです。しかし仮に主イエスが、皇帝に税金を納めるのは律法に適っていると答えたとしても、つまり皇帝への納税賛成と答えたとしても、それはそれで主イエスを追い詰めることができるはずでした。なぜならそのように答えるならば、主イエスは民衆の期待を裏切ることになり、民衆から見放されるに違いなかったからです。これまで律法学者や祭司長たちは、度々主イエスを殺そうとしてきましたが、その度に主イエスを支持する民衆を恐れて、殺すことができませんでした。しかし民衆が主イエスを見放すなら、もはや民衆を恐れる必要はありません。民衆の目を気にすることなく主イエスを殺すことができるのです。とはいえなぜ、皇帝への納税賛成と答えることが、民衆の期待を裏切ることになるのでしょうか。当時、ユダヤ人はローマ帝国が派遣した総督の統治の下で、帝国の重い税金に苦しみながら生活していました。ですからユダヤ人の願いは、ユダヤがローマ帝国から解放され、重い税金からも解放されることにあったのです。ユダヤ人はローマ帝国に勝利し、ユダヤを異邦人から解放する救い主を求めていました。そして主イエスこそがそのような救い主であると期待していたのです。それなのにもし主イエスが皇帝への納税賛成と答えれば、それはローマ帝国によるユダヤの支配を認めることであり、民衆にとっては受け入れられないこと、民衆の期待を裏切ることであったのです。このように回し者たちの「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問は、主イエスの答えがどっちに転んでも、主イエスを追い詰めることができる、巧みで悪意に満ちた質問であったのです。

たくらみを見抜いて
 しかし主イエスは、24節で「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた」とあるように、回し者たちのたくらみを見抜いておられました。彼らが主イエスに皇帝への納税反対と言わせようとしていたことも、仮に主イエスが皇帝への納税賛成と答えても、主イエスを追い詰めることができると考えていたことも見抜いておられたのです。そこで主イエスは、「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」と言われました。回し者たちが「皇帝のものです」と言うと、主イエスは「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

デナリオン銀貨
 デナリオン銀貨は、聖書の後ろにある付録の「度量衡および通貨」にあるように、ローマの貨幣で、一日の賃金に当たりました。ですから一日の終わりに、その日の賃金をこのデナリオン銀貨一枚で渡すことも多かったはずです。最も流通量の多い銀貨で、誰もが財布やポケットに入れているような銀貨であったのです。そのようなデナリオン銀貨を見せなさい、と主イエスは言われました。きっと回し者たちは、自分の財布やポケットに入っていたデナリオン銀貨を取り出したに違いありません。その彼らに、主イエスは「そこには、だれの肖像と銘があるか」とお尋ねになりました。デナリオン銀貨の表にはカエサル、つまり皇帝の横顔が彫られ、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」という銘が、その肖像を囲んで刻まれていました。だから回し者たちは「皇帝のものです」と答えたのです。すると主イエスは、「皇帝のものは皇帝に(返しなさい)」と言われました。デナリオン銀貨に彫られた皇帝の肖像とその銘は、この銀貨がローマ皇帝の権威のもとで発行され、流通していることを示しています。だから皇帝の権威のもとにあるものは皇帝に返すように、と言われたのです。つまり主イエスは皇帝へ税金を納めるよう言われたのです。26節の終わりに、回し者たちが「その答えに驚いて黙ってしまった」とあるように、主イエスは悪意ある質問に対して、相手を驚かせ、黙らせるほどの説得力ある巧みな言葉で返されたのです。

現実を無視する偽善
 しかし主イエスが回し者たちにデナリオン銀貨を取り出させたのは、単にそれが皇帝の権威のもとに流通していることを確認するためだけではなかったと思います。むしろ彼らの偽善を明らかにするためであったのです。彼らの、そして彼らを遣わした律法学者や祭司長たちの偽善とはなんでしょうか。彼らは、自分たちを支配しているローマ帝国に税金を納めることが、神様の御心に適っているのか、神様の選ばれた民イスラエルのなすべきことなのかを問うています。それは、正しい問いのように思えます。しかしこのことを問うている彼ら自身が、自分の財布やポケットにデナリオン銀貨を入れていたように、皇帝の権威のもとで発行され、流通しているローマの貨幣を使って生活していたのです。ある人は、「貨幣は人類の寛容性の極みでもある」と言いました。貨幣は「人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のもの」だからです。「貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる」のです。ユダヤ人は、ローマ人と文化や宗教が異なっていたにもかかわらず、またその支配に反発していたにもかかわらず、同じ貨幣を用いて、ローマ人に物を売ったり、ローマ人から物を買ったりしていました。同じ貨幣を使うことで円滑な生活が成り立っていたのです。このようにユダヤ人自身が帝国の権威のもとに成り立っている経済システムの中で、帝国の貨幣を用いて生活しているという現実がありました。それにもかかわらず、その現実を無視して、帝国へ納税するのが御心に適っているかどうかと問うのは偽善ではないでしょうか。正しい問いのように見えて、現実を軽んじて、無視して、理想ばかりを語っている、正しさを装った偽善的な問いなのです。主イエスが皇帝へ税金を納めるよう言われたのは、自分が生きている現実を直視し、自分が生きている社会の秩序を重んじて、そこで果たすべき責任と義務を担いなさい、ということなのです。
 確かにユダヤ人は、自ら望んでローマ帝国の支配のもとで生きていたのではありません。帝国の重い税金に苦しめられてもいました。ユダヤが帝国から解放されることを願ってもいました。しかし同時に彼らは帝国の経済システムの中で、また帝国が整備した道路などのインフラを用いて生活していたのです。一方の現実だけを見て、理想ばかりを語るのではなく、この両方の現実を、この複雑な現実を直視する必要があるのです。異邦人の皇帝に税金を納めるのは御心に適っていないという理想だけを語る前に、自分たちがその皇帝の権威による秩序のもとで生活していることに目を向けなくてはならないのです。

現実を直視して
 私たちも複雑な現実を生きています。確かに私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかり、神の国に入れられ、神のご支配のもとで生かされています。私たちはこの目に見えない神のご支配を信じて生きているのです。しかしその一方で私たちは日本という国に生き、私自身であれば、横浜市に住民表があり、そこで暮らしています。私たちは日本の経済システムの中で日本の貨幣を使い、また道路や鉄道、学校や病院などの様々なインフラを使って生活し、この社会の秩序のもとで生きているのです。もちろん私たちは、日本の経済システムやインフラのなにもかもが素晴らしいと思っているわけではないでしょう。問題があると感じていることも多々あります。それでもこの社会で生きているという現実を直視するなら、私たちはこの社会の秩序を守り、果たすべき責任と義務を担っていく必要があります。理想ばかりを語って、自分が生きている現実を直視しないなら、私たちは主イエスの言葉じりをとらえようとした回し者たちと同じなのです。

社会のただ中で信仰生活を送る
 そのように神のご支配のもとで生かされつつ、この社会の中で生きていくのは、決して楽なことではありません。悩むこともしばしばです。神様の御心とこの社会のあり方が対立するように思え、葛藤することもあります。しかしキリスト教会は、特に私たちプロテスタント教会は、社会から離れて、社会から撤退して信仰生活を送るのではなく、社会の真っ只中で信仰生活を送ることを大切にしてきました。その信仰生活には、理想ばかり語っていられない難しさがあり、白黒つけられない複雑さがあり、悩み葛藤しつつ生きる苦しさがあります。それゆえ同じ課題や問題に対して信仰的な決断をするときも、人によって違いが出てくるのです。しかし主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われることを通して、そのようにして生きるようにと私たちに語りかけておられるのです。ですからこの主イエスのお言葉は、私たちが国家の権威の及ぶ領域と神様の権威の及ぶ領域を分けて生きることについて、いわゆる政教分離について語っているのではありません。神様のご支配とこの世の支配を区別するのではなく、神様のご支配のもとで、この世の支配を尊重して生きるよう告げているのです。

神のものは神に
 主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。この箇所の直前で語られていた主イエスのたとえと結びつけて考えるなら、「神のもの」とは、主人が農夫に預けたもの、つまり神様が私たちに預けてくださっているものです。農夫たちは主人に収穫の一部を納めませんでしたから、「神のものは神に返しなさい」というのは、私たちが、農夫たちのようになるのではなく、神様から預かっているものの一部を神様に返しなさい、と言われているようにも思えます。つまり献金が見つめられているようにも思えるのです。しかしそうではありません。農夫たちの問題の根本は、主人に収穫の一部を納めなかったことではなく、主人から預かったものを自分のものとしてしまい、主人から与えられた自由を乱用したことです。ですから「神のものは神に返す」とは、神様から預かったものを自分のものにすることなく、神様の御心に従って、神様のために、神様のご栄光を現すために用いていくことです。私たちが持っているものはすべて神様から預かっているものであることをわきまえ、それらを神様のために用いていくことこそ、「神のものを神に返して」生きることなのです。その中で私たちは「皇帝のものを皇帝に返し」ます。国家や社会も神様のものであり、神様が私たちに預けてくださっているものです。そこで生きる私たちは、自分の義務と責任を果たして生きていくのです。「神のものを神に返す」ことと、「皇帝のものを皇帝に返す」ことは、決して分離することでも対立することでもありません。私たちは「神のものを神に返し」、神様から預かっているものを神様のために用いる中で、この社会の秩序をも守っていくのです。そのように生きることが、理想ばかりを語って、現実を直視しない偽善に陥らずに生きることです。神のご支配のもとに生かされつつ、この世の現実の中で、この世の現実を直視して生きることなのです。
 農夫たちはぶどう園の主人が送った愛する息子を殺しました。同じように私たちは神様が遣わした独り子イエス・キリストを十字架に架けました。しかし神様は十字架で死なれたキリストを復活させ、キリストの十字架と復活によって私たちを救ってくださいました。救われた私たちに、神様は多くのものを預け、大きな自由を与えてくださっています。私たちは救われたことに感謝して、神様から預けられているものを神様のために用い、「神のものは神に返して」生きていきます。同時に自分が置かれている社会の中で、自分の義務と責任を果たして、「皇帝のものは皇帝に返して」生きていくのです。キリストによって救われた私たちは、この地上の生涯にあって、救いの完成に至る途上にあって、そのように生きていく者とされているのです。

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