夕礼拝

主の名によって来られる方

「主の名によって来られる方」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 ゼカリヤ書第9章9-10節
新約聖書 ルカによる福音書第19章28節-40節

ルカ福音書が語るエルサレム入場
 ルカによる福音書を読み進めてきて、本日は19章28節以下を共に読みます。この箇所の小見出しに「エルサレムに迎えられる」とあり、ここではいわゆる主イエスの「エルサレム入場」が語られています。ルカ福音書は、9章51節以降、前回読み終えた19章27節まで、実に10章にも亘って主イエスがエルサレムへ向かう途上の出来事を語ってきました。いよいよ本日の箇所で主イエスはエルサレムへ入られようとしています。それは、この日から主イエスの地上のご生涯の最期の一週間の歩みが始まる、ということです。いわゆる「受難週」の歩みが始まるのです。主イエスは日曜日にエルサレムに入られ、その週の金曜日には十字架に架けられて死なれます。そして十字架の死から三日目に、つまりエルサレムに入場した日の翌週の日曜日に復活されるのです。私たちは、前回エルサレムへ向かう歩みが語られていた大きなまとまりを読み終え、本日から受難週の歩みが語られている新たなまとまりを読み始めようとしているのです。
 さて、先ほど見た、「エルサレムに迎えられる」という小見出しの横に、括弧の中に少し小さな字で「マタ」、「マコ」、「ヨハ」とあり、章と節を表す数字が記載されています。これはマタイ、マルコ、ヨハネ福音書の記載の箇所でも、主イエスのエルサレム入場の出来事が記されていることを示しています。つまり主イエスのエルサレム入場は、すべての福音書が記しているのです。しかしどの福音書でもまったく同じことが記されているかというと、そうではありません。特にルカ福音書には、ほかの福音書とは違う特徴的な点がいくつかあります。ですから私たちはこの出来事においてルカ福音書が強調して語っていることに目を向けていきたいのです。

「ムナのたとえ」と「エルサレム入場」の結びつき
 本日の箇所の冒頭28節では、「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と言われています。「このように話してから」というのは、前回の箇所で語られていた「ムナのたとえ」を話してから、ということです。先ほど、本日の箇所から受難週の歩みを語る新しいまとまりが始まると申しました。しかしそれは、本日の箇所と前回までの箇所の結びつきがない、ということではありません。むしろルカ福音書は「このように話してから」と記すことで、結びつきを示しています。その結びつきとは、どのような結びつきでしょうか。前回、「ムナのたとえ」の一ムナが何を意味しているかは、色々な考えがあるけれど、「神の言葉」と考えることができる、とお話ししました。そうであれば、「ムナのたとえ」では、今、天におられる主イエスが世の終わりに帰ってくるまで、預けられている神の言葉を世の人々に届けていくことが見つめられていたのです。主イエスが来てくださったことによって、すでにこの地上に、目には見えなくても神のご支配が実現していることを確信して、そのことを告げる神の言葉を届けていく者こそが、一ムナで十ムナをもうけた「良い僕」なのです。このたとえは、私たちがそのような者として生きるよう求めています。2000年以上前に、主イエスがこの世に来てくださり、十字架で死なれ、復活され、天に昇られることによって、すでにこの地上に目には見えなくても神のご支配が実現していることを信じ、世の終わりに主イエスがもう一度来てくださり、目に見える形で神のご支配を完成してくださることを待ち望みつつ、そのときまで、預けられた神の言葉を世の人々に届けて生きるよう、私たちは求められているのです。そのように生きることは、別の言い方をすれば、主イエスの弟子として、主イエスに従って生きることです。「ムナのたとえ」に続く、「エルサレム入場」の出来事は、主イエスの弟子たちが、それゆえに私たちが、主イエスに従って生きる中で与えられる経験を見つめているのではないでしょうか。主イエスは「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と語られていました。主イエスが先頭に立ち、その後に弟子たちが続いてエルサレムへ上って行ったのです。主イエスに従ってエルサレムに上って行く中で、弟子たちが経験したことは、今、私たちが主イエスに従って生きる中で経験していくことでもあるのです。このように、神のご支配を信じ、預けられた神の言葉を世の人々に届けることを見つめていた「ムナのたとえ」と、そのように生きる中で私たちが経験することを見つめている「エルサレム入場」の出来事は結びついているのです。

主イエスの弟子にスポットを当てている
 そう言われても、エルサレム入場の出来事において、主イエスの弟子たちにスポットが当てられているだろうか、と思われるかもしれません。私たちがエルサレム入場の場面として思い浮かべるのは、子ろばに乗った主イエスを、大勢の群衆が「なつめやしの枝」(口語訳では「しゅろの枝」)を持って、「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎える、というものではないでしょうか。確かにヨハネ福音書は、大勢の群衆が「なつめやしの枝を持って」、主イエスを迎えたと語っていますし、マタイ、マルコ、ヨハネ福音書は、大勢の群衆が「ホサナ」と叫んで主イエスを迎えたと語っています。しかしルカ福音書は、そのどちらも記していないのです。36節に「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」とあります。マタイ福音書では、「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」と語られているので、ルカ福音書でも、自分の服を道に敷いたのは、「大勢の群衆」ではないかと思います。しかし原文では、「人々」という言葉はないので、通常「彼ら」と訳せば良いのですが、その「彼ら」が「群衆」を指しているとは考えにくいのです。なぜならこの一文の前に、「群衆」という言葉が出てこないからです。おそらくこの「彼ら」は、自分の服を子ろばにかけた二人の弟子以外の弟子たちを指しています。二人の弟子以外の弟子たちが自分の服を道に敷いたのです。
 ルカ福音書が弟子たちに注目していることが、もっとはっきりと分かるのは37節です。このようにあります。「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」。確かにマタイ、マルコ、ヨハネ福音書でも、大勢の群衆が、「(ダビデの子に)ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んでいます。しかしルカ福音書では、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように…」と声高らかに神を賛美し始めたのは、群衆ではなく、「弟子の群れ」であったのです。それは、このとき主イエスの周りに群衆がいなかったということではありません。39節では「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって」と言われていて、主イエスの周りに群衆がいたことが分かります。それにもかかわらずルカ福音書は、群衆については一言も触れず、弟子の群れにスポットを当てているのです。「弟子の群れ」とは十二人の弟子だけでなく、ほかの弟子たちも含まれると思いますが、いずれにしても、主イエスを眺めているだけの群衆とは違い、主イエスに従う弟子たちに注目しているのです。「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び」とも言われていますが、それは、エルサレムへ向かう途上における主イエスのみ業だけでなく、その前のガリラヤ伝道におけるみ業も含まれているでしょう。つまりルカ福音書は、ガリラヤ伝道のときから、そしてエルサレムへ上って行くときも、主イエスに従ってきた弟子たちが、声高らかに神を賛美したことを強調しているのです。このようにルカ福音書は、エルサレム入場の出来事において、主イエスの弟子たちにスポットを当てています。それは、取りも直さず、主イエスに従って生きる私たち信仰者にスポットが当てられている、ということなのです。

使いに出た先で経験したこと
 そのことを踏まえた上で、エルサレム入場の出来事において、主イエスの弟子たちがどのような経験をしたのか、言い換えるならば、私たちが主イエスの弟子として生きる中で、どのような経験をするのかを見ていきたいと思います。主イエスは先頭に立ってエルサレムへと上って行かれ、29節にあるように「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニア」に程近いところまでやって来ました。エルサレムの東の方にケデロンの谷があり、さらにその東側にオリーブ山があるのですが、そのふもとにベトファゲとベタニアの二つの村がありました。29節にはベトファゲ、ベタニアの順で記されていますが、聖書の後ろの付録にある聖書地図6「新約時代のパレスチナ」によれば、エリコからエルサレムに向かうのであればベタニア、ベトファゲの順で通ったと考えられます。それはともかくとして、ベタニアとベトファゲに近づいたとき、主イエスは二人の弟子を呼び、このように言ってから、二人の弟子を使いに出しました。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい、もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。主イエスは何気ないことを命じられたように思えますが、よく考えると、かなり無茶なことを言っておられます。主イエスは、つないである子ろばをほどいて引いて来なさい、と言っておられるわけですが、その子ろばは、誰かの持ち物なはずです。持ち主がつないだはずの子ろばをほどいて引いて来なさい、と言われる。そう命じられた二人の弟子は、勝手にほどいて引いて来て大丈夫だろうか、と不安に思ったに違いありません。「だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と主イエスは言われるけれど、そう言ったからといって、相手は納得しないかもしれません。そもそも向こうの村に、「まだだれも乗ったことのない子ろばのつないである」のを見つけることができるだろうかも分からないのです。二人の弟子は不安だらけの中で出かけて行ったのです。しかしこの二人の弟子が出かけて行った先で経験したのは、32節に、「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」とあるように、主イエスの「言われたとおりであった」、ということです。大きな戸惑いや不安や恐れを感じつつも、二人の弟子は、主イエスによって遣わされた先で、主イエスの「言われたとおりであった」ことを経験したのです。

「言われたとおりであった」という経験
 このような経験を、主イエスの弟子として生きる私たちも経験します。もちろん今、主イエスは天におられますから、私たちはこの目で主イエスを見て、主イエスから命じられ、遣わされることはありません。しかし私たちは礼拝において、聖霊のお働きによって、天におられ、今も生きて働かれている主イエスと出会います。そして礼拝で語られるみ言葉を通して主イエスの語りかけを聞き、ご命令を聞き、主イエスによって礼拝からこの世へと遣わされていくのです。礼拝においてみ言葉を通して、主イエスは私たちに色々なことを語りかけ、命じられます。しかし直前の「ムナのたとえ」で語られたこととの結びつきを意識するなら、ここでは、主イエスが私たちに、預けられた神の言葉を、主イエスによる救いの良い知らせを、つまり福音を人々に届けなさい、伝道しなさい、と命じられている、と受けとめても良いのではないでしょうか。しかし私たちは伝道しなさいと言われても、どう伝道したら良いだろうか、と戸惑います。伝道とは礼拝に招くことだから、人々を礼拝にお誘いすれば良いのだ、と思ってみても、お誘いしたのに誰も礼拝に来てくださらなかったらどうしようとか、勇気を出して、直接お声がけしてお誘いしても断られてしまったらどうしようとか、そのような不安や恐れがあるのです。まもなく迎える6月には、指路教会では二つの伝道礼拝が行われ、第三週の主日礼拝は春の伝道礼拝として、第五週の夕礼拝は青年伝道夕礼拝として行われます。ですからとりわけ今、私たちは、主イエスに伝道しなさいと命じられ、遣わされていることを意識して歩んでいますが、その中で、戸惑いや不安や恐れを感じずにはいられません。しかし不安を抱える中で、私たちは、主イエスによって遣わされた先で、主イエスの「言われたとおりであった」、という経験を与えられます。それは、伝道礼拝にお誘いした人が皆、礼拝に来てくださるということでも、直接、お誘いしたら拒まれることがないというこでもありません。来てくださらない方のほうが多いのが現実ですし、拒まれることもあるに違いないのです。しかし今回、来てくださらない方が、拒まれた方が、あるとき礼拝に来てくださるということが起こります。あるいは、私たちが考えていたのとはまったく違う形で、伝道礼拝に招かれる人が与えられることもあります。私たちは今までも、このような驚くべき経験をしてきたし、これからもしていくに違いないのです。二人の弟子と同じように、主イエスに伝道しなさいと命じられ、遣わされた私たちは、戸惑いや不安や恐れを感じつつも、遣わされた先で、主イエスによる救いを証しし、福音を届けていく中で、主イエスの「言われたとおりであった」という経験をしていくのです。

預言の実現のために用いられる
 さて、二人の弟子が、「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言った」とあります。持ち主は、自分たちの承諾も得ずに、なぜ勝手に子ろばをほどいて持っていこうとするのか、と思ったに違いありません。すると二人の弟子は、主イエスに命じられた通り、「主がお入り用なのです」と言いました。原文を直訳すれば、「主が、それを必要としている」となります。つまり主イエスは弟子たちを通して持ち主に、「主が、それを必要としているから、自分の持ち物である子ろばを手放しなさい」、と言われたのです。主イエスが子ろばを必要としているのは、その子ろばに乗ってエルサレムに入場するためです。しかしそれは、主イエスがそのように望んだということ以上のことを意味しています。共に読まれた旧約聖書ゼカリヤ書9章9節にこのように言われています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」。預言者ゼカリヤは、「王が、雌ろばの子であるろばに乗って、エルサレムに来る」と預言したのです。この預言が、主イエスのエルサレム入場において実現します。その預言の実現のために、言い換えるならば神のみ業の実現のために、主イエスは子ろばを必要とされたのです。だから主イエスは弟子たちを通して子ろばの持ち主に、「主が、それを必要としてるから、自分の持ち物である子ろばを手放しなさい」と言われました。そして子ろばの持ち主は、自分の持ち物を手放すことを通して、ゼカリヤの預言が実現するために、神のみ業が実現するために用いられたのです。私たちは自分の持ち物を握りしめているのではなく、自分の持ち物が本当は神様のものであると弁え、「主がお入り用なのです」という言葉に応えて、自分の持ち物を手放すことによって、神様のみ業に用いられることがあるのです。弟子たちに注目するならば、弟子たちは「主がお入り用なのです」と伝えることを通して、自分の持ち物を手放して神様のみ業に用いられる人を起こしたことになります。それは弟子たちの手柄ということではありません。弟子たちは主イエスに言われた通りに伝えたに過ぎません。それでも主イエスに言われた通り伝えることを通して、ゼカリヤの預言の実現に用いられる人を起こし、同時に、ほかならぬ弟子たち自身が、その預言の実現に、神様のみ業の実現のために用いられることを経験したのです。私たちも主イエスの弟子として生きるとき、ほかの人との関わりの中で、自分の持ち物を手放して神様のみ業に用いられる人を起こすことを経験することがあります。そしてそのことを通して、私たち自身も神様のみ業に用いられていくことを経験するのです。

主イエスによる平和と支配の実現
 「王が、雌ろばの子であるろばに乗って、エルサレムに来る」とき、何が実現するのでしょうか。ゼカリヤは、9章10節でこのように告げています。「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ」。つまり戦いのない平和が実現し、地の果てにまで及ぶ王の支配が実現する、と告げられているのです。このことが、「主の名によって来られる方」であり、まことの王である、主イエスがエルサレムに入場し、その週の金曜日に十字架に架けられて死なれ、三日目に復活することによって実現したのです。そのように言われても、この世界のどこに「戦いのない平和」が実現しているのか、まことの王である主イエスの支配が実現しているのか、と思われるかもしれません。私たちの目に見える現実は、平和とは程遠い戦争ばかりの悲惨な現実です。しかし主イエスの十字架と復活によって、すでに天においては、主イエスによる救いと平和、そして主イエスによる支配が実現しているのです。だから弟子たちは「天には平和、いと高きところには栄光」と賛美しました。天においては、主イエスの十字架による救いと平和が実現し、神様のご栄光が現されたのです。そしてこの地上においても、目には見えなくても、主イエスによる平和とご支配は、すでに始まっています。だから私たちは、なお目に見える現実が平和とは程遠かったとしても、すでに主イエスがその十字架の死と復活によって、神様と人間との間にまことの平和を打ち立ててくださり、主イエスによるご支配を実現してくださったことを信じて歩むのです。

神を賛美しつつ生きる
 私たちは主イエスの弟子として、主イエスに従って生きる中で与えられる経験を通して、この信仰を確かなものとされていきます。このことを信じて、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と、神様を賛美するようになるのです。しかしそのように賛美しつつ生きる私たちの歩みは、決して順調なだけではありません。むしろ私たちは度々躓いたり、失敗したりするのです。エルサレム入場のときに神様を賛美した弟子たちは、数日後には、主イエスの十字架を前にして、主イエスを見捨てました。そのことを考えれば、弟子たちは、自分たちの賛美の言葉が意味していることを十分には分かっていなかったと言えるでしょう。しかしそのような弟子たちの賛美を、主イエスは肯定されるのです。弟子たちの賛美を聞いたファリサイ派の人たちが「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったのに対して、主イエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われました。弟子たちに自分の先生を賛美するようなことは止めさせるよう、主イエスに言ったファリサイ派の人たちに対して、主イエスは、もし弟子たちが黙れば、石すらも叫び出す、と言われたのです。それは、誰もこの賛美を妨げることはできない、ということにほかなりません。
 私たちは主イエスの弟子として生きる中で、主イエスの「言われたとおりであった」という経験を与えられ、自分の持ち物を手放して神様のみ業に用いられる人を起こすという経験を与えられ、また自分自身をも神様のみ業に用いられるという経験を与えられます。そのことを通して、私たちに神様への賛美が起こされていくのです。その賛美の言葉の本当の意味が、なお十分に分からないことがあり、神様を賛美しつつも躓いたり、失敗したりすることがあったとしても、誰も妨げることのできない神様への賛美を与えられて、歩んでいくことができるのです。主イエスの弟子として生きる中で与えられる経験を通して、私たちは主イエスによる救いの恵みに心から感謝して、声高に神様を賛美しつつ生きるよう導かれていくのです。

関連記事

TOP