夕礼拝

御心のままに

説教題「御心のままに」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 エレミヤ書第49章12-13節
新 約 マルコによる福音書第14章32-42節

ゲツセマネの祈り
 棕櫚の主日を迎えました。本日から受難週が始まります。マルコによる福音書によればこの日、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムへ入場されました。この週の木曜日には弟子たちと過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」を持たれます。その後、ゲツセマネで祈られ、主イエスを裏切ったユダに手引きされてやって来た人たちによって逮捕されました。そしてその翌日の金曜日。ユダヤ教の最高法院で裁判にかけられ、最終的にはピラトによって十字架刑に処されることが決まりました。この夕礼拝では、主イエスが捕らえられる直前に、オリーブ山の麓のゲツセマネで祈られた、いわゆる「ゲツセマネの祈り」の場面に目を向けたいと思います。主イエスと弟子たちが最後の晩餐を終え、エルサレム市街を出てオリーブ山へ向かったのは、すでに夜更けであったに違いありません。ゲツセマネで祈られた後、捕らえられた主イエスは、夜が明けるとすぐに死刑の判決を受け、その日の内に十字架に架けられて殺されます。ですから主イエスがゲツセマネで祈られたのは、十字架で死なれる半日と少し前であったことになります。まさに十字架で死なれる直前に主イエスはゲツセマネで祈られたのです。

三人だけを伴われて
 主イエスと弟子たちがオリーブ山の麓のゲツセマネに来ると、主イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。そして主イエスは、十二人の弟子の中でペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴われて、祈るために離れたところへ向かわれました。マルコ福音書ではこれまでも主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴われる場面がありました。5章21節以下で、主イエスが会堂長ヤイロの娘を甦らせる出来事に立ち会ったのはこの三人だけでした。また9章2節以下のいわゆる「山上の変貌」と呼ばれる出来事で、主イエスはこの三人だけを連れて山に登られました。山の上で主イエスのお姿が変わり、服が真っ白に輝いて、主イエスはそれまでの地上の歩みにおいて隠されていた神の子としての栄光を現されましたが、それを目撃することができたのはこの三人だけであったのです。ヤイロの娘を甦らせた出来事の最後で、主イエスは「このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」(5章43節)られていますし、山上の変貌の出来事でも「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9章9節)と命じられています。主イエスは誰にも知らせたり話したりしてはいけない重要な出来事に、ご自身の隠されている秘密が明らかにされる出来事に、この三人を立ち会わせられたのです。本日の箇所で主イエスが三人を伴われて祈られたのも同じです。主イエスはこれまでも祈られてきたし、弟子たちと共に祈られたこともあったに違いありません。しかしここで三人だけを伴われて祈られたことは、ここでの祈りがこれまでの祈りとは決定的に違う祈りであったということです。あのヤイロの娘の出来事や山上の変貌の出来事がそうであったように、このゲツセマネの主イエスの祈りにおいて、今まで隠されていたことが明らかにされるのです。その決定的な場に主イエスはこの三人だけを立ち会わせられたのです。

ひどく恐れてもだえ始め
 実際、ゲツセマネで祈られる主イエスのお姿は、今までとはかけ離れたものでした。主イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」、三人の弟子たちに、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われたのです。主イエスはご自分がこれから十字架で苦しみを受けて、死ななくてはならないことを分かっていました。それは、これまで主イエスが三度弟子たちにご自分の死を、ご自分が殺されると告げてこられたことからも分かります。また、数時間前の最後の晩餐の席でも主イエスは弟子たちに「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14章25節)と言われていました。ご自分の死を間近に控えていることを自覚しているからこそのお言葉です。ゲツセマネで三人の弟子たちは、主イエスがご自分の死を目の前にして、ひどく恐れ、もだえ苦しまれているお姿を目撃したのです。新共同訳では「わたしは死ぬばかりに悲しい」と訳されていますが、聖書協会共同訳では「私は死ぬほど苦しい」と訳されています。主イエスは死ぬほど悲しい気持ちになったというよりも、死ぬほど苦しまれたのです。また「わたしは」と訳されていますが、直訳すれば「私の魂は」となり、主イエスの魂が死ぬほど苦しまれている、と言われているのです。詩編42、43編では(42、43編はもともと一つの詩編であったと考えられていますが)、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか」(42編6、12節、43編5節)と繰り返されています。この詩人と同じように主イエスも死を目の前にして、その魂がうなだれ、呻くほどに苦しまれたのです。

死に対する私たちの恐れ
 このように主イエスがご自分の死を目の前にして、ひどく恐れ、もだえ苦しまれたことに、私たちは主イエスが私たちの抱いている死への恐れを本当に経験してくださった、と思うのではないでしょうか。私たちは日々の生活の中で、色々な恐れや不安に直面しつつ生きています。しかし私たちにとって最大の恐れ、最大の不安は、この地上の生涯において必ず死を迎えることだと思います。あるいは日々の生活の中で直面する色々な恐れや不安の根っこには死への恐れや不安がある、と言えるかもしれません。誰もが「死んだらどうなるのだろうか」という恐れと不安を抱きます。必ず死ぬならば、自分が今、生きている意味はどこにあるのだろうか、とも思います。私たちが普段、できるだけ自分自身や大切な人の死を考えようとしないのは、死に対する恐れの裏返しであると思います。あるいは「若さ」に最大の価値があるような社会の雰囲気や、「老い」に抵抗するための過剰なほどのサービスや商品が溢れているのも、死に対する恐れから来ているのかもしれません。またこの社会には「死んだら終わり」と考えている方も少なくありませんが、そのように考えるのも死への恐れと不安があるからではないでしょうか。そしてこの「死んだら終わり」という考えは、その人の生き方をも規定します。「死んだら終わり」なのだから、今をできるだけ楽しもうという生き方や、「死んだら終わり」なのだから、生きている内に自分が生きた爪痕を少しでも残そう、功績や業績を残そうという生き方になってくるのです。もちろん今を楽しんで生きるのも、功績や業績を残すために生きるのもそれ自体は悪いことではありません。しかしそのような生き方の根底にあるのが「死んだら終わり」という考え、死への恐れであるとしたら、結局、恐れに駆られて生きているに過ぎないのです。恐れと不安に駆られて生きるとき、私たちは自分のことばかり考えて隣人を思いやることができません。余裕がなく、寛容でいられないのです。しかし主イエスがご自分の死を目の前にして、私たちの生き方をも規定する死に対する恐れを、私たちと同じように経験して、味わってくださったのであれば、それは私たちにとって大きな慰めであるに違いありません。主イエスが死に対する私たちの恐れや不安を知っていてくださり、共に担っていてくださるからです。

死を恐れる主イエス
 けれどもその一方で私たちは、主イエスもやっぱり私たちと同じように死を恐れられたのだ、と少しがっかりした気持ちになるかもしれません。素朴に主イエスも死が恐かったのだ、と思ってしまうのです。確かに多くの人は、この地上の生涯において必ず迎える死に対する恐れや不安を持っています。しかし中には、恐れを見せずに死んだ人たちもいます。ソクラテスという人物は、死の直前まで友人たちと談笑し、飲み物を飲むように毒を煽って死んだそうです。本当に死を恐れていなかったのかどうか、その心の内は分かりませんが、少なくとも主イエスのように「ひどく恐れてもだえ始め」ることはなかったし、そのような姿を友人たちに見せることもなかったのです。キリスト教の歴史においても、殉教の死を遂げた人は少なくありません。本日の箇所で主イエスが伴われた弟子のペトロは、後にローマで殉教したと伝わっていますし、ヤコブも使徒言行録によれば、ヘロデ・アグリッパに処刑されています。主イエスよりも弟子のペトロやヤコブのほうが堂々と死んだようにも思えるのです。ほかにも恐れることなく殉教の死を遂げた人たちはいました。その人たちと比べて主イエスは、誤解を恐れずに言えば、見苦しいほどに死を恐れられたのです。
 あるいは「死んでもいい」、「死んだほうが楽だ」と思って生きている方もいます。そう思わずにはいられない方もいます。そのような方々は、死を目の前にしてひどく恐れ、もだえ苦しまれた主イエスのお姿に対して、そんなに生きることへの執着があったのだろうか、と思わずにはいられないかもしれません。そもそも主イエスご自身が死を恐れるな、と弟子たちに教えられたのではなかったでしょうか。「体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(ルカによる福音書12章4節)と言われたのではなかったでしょうか。それなのに今、ゲツセマネで主イエスは死を目の前にしてひどく恐れ、もだえ苦しまれておられる。言ってることとやっていることが違うのではないか、と思うかもしれません。

主イエスの死は、罪人の死
 しかし私たちがこのように思うのは、私たちが主イエスの死をまったく分かっていないからです。いや、分かるはずがないからです。主イエスの死は、私たちの誰もが地上の生涯で迎える死と同じではない。ソクラテスの死とも、ペトロやヤコブを始めとする殉教者の死とも同じではないのです。主イエスがゲツセマネでご自分の死を目の前にして、これほどまでに恐れ、もだえ苦しまれたのは、主イエスの死が「罪人の死」だからです。主イエスが罪を犯されたわけではありません。何一つ罪を犯されなかったにもかかわらず、主イエスは罪人の死を死なれたのです。私たちの代わりに死なれたのです。本来、神様に背いて生きている私たちこそ、罪人の死を死ななければなりませんでした。しかし主イエスは、罪人である私たちを救うために、私たちの代わりに罪人の死を死んでくださったのです。
 「罪人の死」とは、神様の怒りを受けて、神様に審かれて死ぬことです。主イエスは「地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」、このように言われました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。「杯」は、旧約聖書で神様の怒りを表すことがあります。共に読まれた旧約聖書エレミヤ書49章12節でもこのように言われています。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない」。「この杯をわたしから取りのけてください」という主イエスの祈りは、「神様の怒りの杯を私から取りのけてください」という祈りです。神様の怒りを受け、神様に審かれて、十字架で苦しみを受けて死ぬことから免れさせてください、と祈られたのです。ですから「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られた、「この苦しみの時」とは「神の審きの時」にほかなりません。主イエスがもだえ苦しむほどにひどく恐れたのは、神様に審かれる死、神様に見捨てられる死なのです。主イエスはこれまでもご自分の死を弟子たちに予告してきました。しかしこのゲツセマネの祈りにおいてこそ、主イエスが「罪人の死」を死なれることを、神様の怒りを受け、神様に見捨てられて死なれることを明らかにされたのです。その決定的な場に三人の弟子たちは立ち会っていたのです。

私たちは罪人の死が分からない
 しかし三人の弟子たちも、そして私たちも「罪人の死」が分かりません。神様の怒りを受け、神様に審かれ、神様に見捨てられて死ぬことが分かりません。だから三人の弟子たちも私たちも、「罪人の死」を本当に恐れることもできないのです。主イエスが三人の弟子たちを伴われたのは、単にご自分が祈っている姿を彼らに見せるためではないでしょう。彼らにも共に祈ってほしいと願ったからに違いありません。主イエスは、神様の怒りを受けて罪人として審かれる死を目の前にして、神様に祈るご自分と共に祈ってほしい、と弟子たちに願っておられたのです。だから主イエスは「目を覚ましていなさい」と、「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのです。しかし弟子たちは目を覚ましていることができず、眠ってしまいました。「ひどく眠かった」からです。夜も遅かったし、最後の晩餐のときに飲んだぶどう酒の酔いが回っていたのかもしれません。いずれにしても、目の前で、今まで見たことがない主イエスのお姿を見ても、ひどく恐れ、もだえ苦しみながら祈られる主イエスのお姿を見ても、彼らは目を覚ましていられなかったのです。主イエスは眠っている弟子たちをご覧になってこのように言われています。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。彼らは「わずか一時も目を覚ましていられなかった」のです。「ひどく眠い」というのは睡魔に勝てなかったというだけではありません。なにより三人の弟子たちは、主イエスがこれほどまでに恐れられている罪人の死が分からず、罪人の死を恐れることができなかったから、「わずか一時も目を覚ましていられなかった」のです。罪人の死が分からず、それを恐れることもできない弟子たちが、主イエスを孤立させていきます。主イエスと共に祈るのではなく、主イエスお一人をこの恐れの中に置き去りにしていくのです。ここに弟子たちの、いえ私たちの深い罪が示されています。私たちは自分の罪が分からない。罪が分からないから、罪人の死が分からない。罪人の死が分からないから、罪人の死を恐れることもできない。私たちは罪人であるだけでなく、自分が罪人であることすらも本当には分からないほどの、どうしようもない罪人なのです。この自分自身でも分からないほどに深い私たちの罪が、主イエスを孤立させ、神様から見捨てられる恐れの中に置き去りにし、十字架に架けたのです。

御心のままに
 神様の怒りを受け、罪人として神様に審かれ、十字架で死なれることへの深い恐れと苦しみのただ中で、しかし主イエスは、「アッバ、父よ」と神様に祈られました。「アッバ」とは、アラム語で子どもが父親を呼ぶときの言葉であり、子どもと父親との親しい関係、信頼関係の中で発せられる言葉です。ですから主イエスが「アッバ」と神様に呼びかけられたことに、主イエスの父なる神様への深い信頼が表れているのです。父なる神様に見捨てられ、死なれる直前にあっても、なお主イエスは父なる神様を信頼して祈られたのです。そして主イエスは祈られます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この「しかし」によって、主イエスは死なれました。けれどもこの「しかし」によって、私たちは救われたのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という主イエスの祈りによって、主イエスにとっての「苦しみの時」、「神の審きの時」が、私たちにとっての「救いの時」となったのです。「御心のままに」と祈られた主イエスが、罪人の死が本当には分からない私たちの代わりに、罪人の死を本当に死んでくださいました。神様の怒りを受け、罪人として神様に審かれ、神様に見捨てられて十字架で死んでくださったのです。主イエスは三度目に弟子たちのところに戻って来たときにこのように言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。「時」とは、主イエスが罪人たちの手に引き渡され、十字架で罪人の死を死なれる時であり、そのことによって私たちの救いを成し遂げてくださる時です。独り子を十字架に架けてまで私たちを救うという、父なる神様の御心が実現する時です。その時が来た。だから主イエスは神様の御心のままに、御心に従って、御心を実現するために、ご自分を裏切る者のところへと進んで行かれるのです。

「死んだら終わり」ではない道を切り開いた
 エレミヤは「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされる」と告げました。主イエスは神の怒りの杯を飲まなくて良いただお一人のお方です。しかしその主イエスが、十字架で神様の怒りの杯を余すところなく飲み干してくださいました。罪を何一つ犯されなかったのに、罪人の死を完全に死んでくださったのです。しかし神様は主イエスを死に渡されたままに捨て置かず、復活させてくださいました。来週迎えるイースターは、この主イエスの復活を喜び祝うときです。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちはもはや罪人の死を死ななくて良いのです。地上の生涯において必ず死を迎えるとしても、その死は、神様の怒りを受ける死でも、神様から見捨てられる死でもないのです。私たちは死を迎えるときも神様から見捨てられることはないのです。ペトロやヤコブをはじめとする多くの殉教者が死を恐れなかったとしたら、それは自分の死が罪人の死ではないと分かっていたからではないでしょうか。たとえ自分が死ぬとしても、神様の怒りを受け、神様から見捨てられて死ぬのではないと知っていたのです。罪人の死は、すでに主イエスが、主イエスだけが死んでくださった。そのことを知っていたのです。そして死が終わりではないことをも知っていました。主イエスの十字架と復活によって、地上の死を超えた、世の終わりの復活と永遠の命の約束が与えられている、と知っていたのです。ほかならぬ私たちもこのことを知らされています。だから私たちは、「死んだらどうなるのだろうか」という恐れと不安に、もはや支配されなくて良いのです。「自分が今、生きている意味はどこにあるのだろうか」と、もはや悩まなくて良いのです。もはや「死んだら終わり」という考えに駆られて生きなくて良いのです。主イエスが「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ってくださったからです。御心のままにと祈って、主イエスが私たちの代わりに罪人の死を死んでくださり、復活されたからです。「御心のままに」という主イエスの祈りが、「死んだら終わり」ではない道を切り開いてくださり、私たちに世の終わりに復活と永遠の命にあずかる約束を与えてくださったのです。ここに私たちの希望があります。ここだけに私たちを生かし、支え続ける希望があるのです。

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