説教題「今日も明日も、その次の日も」 副牧師 川嶋 章弘
詩編 第118編19-29節
ルカによる福音書 第13章31-35節
エルサレムへ向かう途上で
この福音書の9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とありました。ルカによる福音書はここから新しい局面に入ります。それまでガリラヤで伝道していた主イエスがエルサレムに向かって進んでいくからです。この9章51節から19章27節までが一つのまとまりで、そこではエルサレムへ向かう途上での出来事が語られています。先週、お読みした13章22節にも「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とありました。それに続く本日の箇所も、主イエスがエルサレムへ向かって進んでおられる、その歩みの中での出来事を語っているのです。
ヘロデの意志
事の発端は、ファリサイ派のある人たちがやって来て、主イエスに「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(31節)と言ったことにあります。ここに登場するヘロデとは、ガリラヤ(とペレア)の領主であったヘロデ・アンティパスのことです。この福音書の3章19-20節では、ヘロデが自分の兄弟の妻であったヘロディアと結婚したことについて洗礼者ヨハネに責められたので、ヘロデがヨハネを牢に閉じ込めた、と語られていました。また9章9節では、すでにヘロデがヨハネの首をはねていたことが明らかにされていますし、人々の間で評判になっていた主イエスにヘロデが「会ってみたいと思った」とも語られています。ヘロデが主イエスに会ってみたいと思ったのは、主イエスが自分の支配を脅かすのではないか、と不安になったからです。だから主イエスに会って、主イエスが自分の支配に対する脅威となるかどうかを見定めたかったのです。もちろん脅威となるようなら、ヨハネを殺したように、主イエスも殺すつもりであったに違いありません。自分の領土で騒ぎを起こすな、自分の支配を脅かすな、というのがヘロデの思いであったのです。
ヘロデの領土にいた
ですから本日の箇所でファリサイ派の人たちが言っているように、ヘロデが主イエスを殺そうとしていたとしても不思議ではありません。ファリサイ派の人たちは「ここを立ち去ってください」と主イエスに言っていますが、「ここ」とはヘロデの領土のことです。彼らは「ヘロデがあなたを殺そうとしているから、ヘロデの領土から立ち去るように」と言ったのです。彼らが主イエスにこのことを伝えたのは、主イエスの身の安全を慮ったからなのか、それともヘロデと共謀して、主イエスをヘロデの領土から追い出そうとしたからなのか、どちらなのかはっきりしません。いずれにしても、エルサレムへ向かって進んでいた主イエスは、この時、ヘロデ・アンティパスの領土にいたのです。
悪霊を追い出し、病気をいやし
このファリサイ派の人たちの言葉を聞いた主イエスのお言葉が、32節以下で語られています。といっても主イエスはこの人たちだけに話しているのではなく、そこに集まっていたユダヤ人たち皆に向かって話しています。主イエスはまずこのように言われています。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」(32節)。「あの狐」とはヘロデのことです。日本でも、「巧みに人をだます人」を狐にたとえることがありますが、主イエスの時代にも、「ずる賢い人物」を狐にたとえることがあったようです。ずる賢い、狡猾な人物と見なされていたヘロデに、自分が「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と伝えるよう、主イエスは言われました。悪霊を追い出すこと。病気をいやすこと。これまでこの福音書が語ってきたように、どちらも主イエスの働きを代表するものです。また、先ほど見た22節に「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあったように、主イエスの働きには教えることもありました。それは何らかの知識を教えたということではなく、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせたということです。主イエスはすでに神の国が到来し、神のご支配が始まっていることを示されるためにこそ、悪霊を追い出し、病気をいやされたのです。「悪霊を追い出し、病気をいやし」とは、この主イエスの働きの全体を見つめているのです。
三日目にすべてを終える
主イエスは「三日目にすべてを終える」とヘロデに伝えるよう言われています。「三日目に」というのは、文字通り「三日目」というよりも「もうすぐ」ということです。今日、明日は、神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気をいやすけれど、もうすぐそのすべてを終える、と言われたのです。この主イエスのお言葉は、表面的には、自分がもうすぐすべてを終えてヘロデの領土から出て行くことを言い表しています。先ほどお話ししたことですが、ヘロデは、主イエスが自分の支配に対する脅威となることを恐れていました。自分の領土で騒ぎを起こすな、自分の支配を脅かすな、と思っていました。そのヘロデに対して、「自分はもうすぐあなたの領土を出て行く」、と主イエスは言われたのです。そうなれば主イエスがヘロデの領土で騒ぎを起こすことも、ヘロデの支配を脅かすこともなくなります。主イエスのお言葉は、ヘロデの懸念、心配が杞憂であることを示しているのです。
自分の道を進まねばならない
しかしそうであるならば、ヘロデの思い通りになった、ということなのでしょうか。あるいは主イエスの身を案じたのであれ、ヘロデと共謀して主イエスをヘロデの領土から追い出そうとしたのであれ、ファリサイ派の人たちの思い通りになった、ということなのでしょうか。そうではありません。確かに主イエスは、ほどなくしてヘロデの領土を出て行きます。けれどもそれは、ヘロデやファリサイ派の人たちの思い通りになったのでもないし、ましてヘロデに殺されるのを恐れて、その領土から立ち去ったのでもないのです。続く33節で主イエスはこのように言われています。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。冒頭の「だが」は、とても強い否定の言葉です。確かにもうすぐ主イエスはヘロデの領土から出て行く、「だが」それは、主イエスが「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」からなのです。原文には「自分の道」という言葉はありません。ただ「わたしは今日も明日も、その次の日も進まねばならない」とあるだけです。しかし主イエスのお言葉の意味を明らかにする適切な補いだと思います。主イエスはヘロデの圧力に負けたからでも、ファリサイ派の人たちの心配に促されたからでもなく、「自分の道」を進んで行かなければならないからヘロデの領土を立ち去るのです。ヘロデに殺されることを恐れ、命の危険を避けるために立ち去るのではなく、「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」からこそ、ヘロデの領土から出て行くのです。
神のご意志
主イエスにとって「自分の道」を進まれることは、神のみ心に従うことにほかなりません。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」の「ねばならない」は、神のご意志、神のみ心を言い表すときに使われる言葉です。主イエスが今日も明日も、その次の日も自分の道を歩まれることこそ、神のご意志なのです。主イエスが自分の道を歩まれていくその先に、なにがあるのでしょうか。エルサレムがあります。十字架の死と復活、そして昇天があります。主イエスが今日も明日も、その次の日も自分の道を歩まれ、エルサレムへと進んで行かれ、そこで十字架に架けられて死なれ、三日目に復活させられ、天に昇られることこそ、神のご意志であり神のみ心です。主イエスは物見遊山の旅をしていたのではなく、この神のご意志が実現するために、今日も明日も、その次の日も自分の道を進まれたのです。ヘロデの意志が実現するためでも、ファリサイ派の人たちの意志が実現するためでもなく、神のご意志が実現するために、神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気をいやしながら、主イエスはエルサレムへ向かって進んで行くのです。
神のご意志は、32節の「三日目にすべてを終える」という主イエスのお言葉にも示されています。この言葉は、表面的には主イエスがもうすぐすべてを終えてヘロデの領土から出て行くことを言い表していました。しかしこの言葉に神のご意志が示されていることに目を向けるとき、私たちは表面的でない意味を受け止めることができます。「三日目にすべてを終える」は、原文では受け身の文章です。つまり「三日目に終わらせられる」となります。主イエスご自身が三日目にすべてを終わらせる、と言われているのではないのです。では誰が終わらせるのでしょうか。誰によって終わらせられるのでしょうか。神によってです。聖書はしばしば神のみ業を受け身の文章で語ります。「神によって」という言葉はなくても、神のみ業を受け身の文章で語るのです。ここでも「神によって」という言葉はありませんが、神によって三日目に終わらせられる、と言われている。そうであるなら、それは主イエスがもうすぐすべてを終えてヘロデの領土から出て行くことだけを言い表しているのではありません。主イエスがヘロデの領土から出てエルサレムへ向かい、そこで十字架に架けられて死なれ、三日目に復活され、天に昇られることのすべてが、神によって終わらせられることを、別の言い方をすれば、完成させられることを言い表しているのです。
私たちはここで主イエスとヘロデのやり取りが語られているように思います。ヘロデの主イエスに対する敵意とそれに対する主イエスの応答が語られているように思うのです。しかしそれ以上のことが語られています。主イエスがエルサレムへ向かう途上の出来事として、このことが語られることによって、その主イエスの歩みが神のみ心によるものであることを私たちに示しているのです。そして神のみ心は、主イエスがエルサレムで十字架に架けられて死なれ、復活され、天に昇られることによって私たちを救うことにあります。このすべてが神によって終わらせられ、完成させられることこそが、ここでは見つめられているのです。この神のみ心が実現するために、つまり私たちを救うために、主イエスは今日も明日も、その次の日も、エルサレムへ向かって自分の道を、十字架への道を歩まれている。このことをこそ私たちは受け止めなくてはならないのです。
エルサレムで死ななくてはならない
「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(33節)という主イエスのお言葉も神のみ心を見つめています。このことは、エルサレム以外のところで死んだら預言者ではない、ということを言っているのではありません。ユダヤ人とユダヤ人社会にとっての中心地であるエルサレムでこそ、神によって遣わされた主イエスは死なねばならない。それが神のみ心であることを見つめているのです。ルカ福音書にとってエルサレムは特別な場所です。弟子たちが復活の主イエスと出会う場所であり、主イエスによる救いが世界へと広がっていくのもエルサレムからです。ユダヤ人社会の中心地から、その真っ只中から、主イエスによる救いの良い知らせが広がっていくために、主イエスはエルサレムで死ななくてはならなかったのです。
エルサレムへの嘆き
34節で主イエスは「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われています。エルサレムへの嘆きが語られているのです。しかしこの嘆きの言葉は主イエスのお言葉というより、神が主イエスを通して語られた言葉として、神の嘆きとして受け止めるのが良いと思います。「お前の子ら」、つまり「エルサレムの子どもたち」とは、エルサレムに住んでいる人たちだけでなく、すべてのユダヤ人、すべてのイスラエルの民のことです。神は、イスラエルの民が、ご自分が遣わした預言者たちを殺してきたことを嘆いておられるのです。
神の招きを拒む
神は繰り返し繰り返し、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、イスラエルの民を集めようとしてきました。集めるとは、救うことです。捕囚によって散らされたイスラエルの民を集めることは、イスラエルの民を救うことにほかなりませんでした。詩編107編2-3節では「主は苦しめる者の手から彼らを贖い 国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から」と言われています。神は捕囚によって世界中に散らされたイスラエルの民を東から西から、北から南から「集めて」くださり、救い出してくださったのです。そこには「めん鳥が雛を羽の下に集める」ような、神の愛があります。この愛のゆえに、神は預言者を遣わし、預言者が語る言葉を通して、イスラエルの民が神のみ翼の陰に身を寄せ、神の慈しみと守りに覆われて生きるよう招かれ続けたのです。しかしイスラエルの民はこの招きに応じようとしなかった。この神の招きを拒み、神が遣わした預言者たちを殺してきたのです。
イスラエルの民だけではありません。私たちこそ、「めん鳥が雛を羽の下に集める」ような、神の私たちに対する愛を拒んできました。雛はめん鳥の保護の下でしか生きられません。私たちも同じように、神のみ翼の陰でしか、神の守りの下でしか生きられないはずなのです。それなのに私たちは自分の力で生きることができると、神なしに生きることができると勘違いしてしまいます。しかしその結果、私たちはどうなっているのでしょうか。自分の力ですべてを担おうとして、しかし到底担うことができずに苦しんでいる、息も絶え絶えになっているのではないでしょうか。人間関係で苦しんでいます。隣人を愛することができず傷つけてしまうことがあり、隣人から傷つけられたと思うこともあります。自分自身との関係にも苦しんでいます。自分自身を愛することができず傷つけてしまうことがあるのです。そうやって私たちは生きることに疲れ切ってしまっている。これらの重荷は、神が私たちに負わせたのではありません。神は私たちをみ翼の陰に身を寄せて生きるよう招いてくださっています。しかし私たちはその招きを拒むのです。そのことを告げているみ言葉に耳を傾けようとしないのです。「お前たちは応じようとしなかった」とは、私たち自身の罪を突きつけるみ言葉です。私たちは神の招きを拒み、神から離れて生きてしまうことで、自分自身に重荷を負わせているのです。
平和を覚える日
先ほど、讃美歌371番「このこどもたちが」を賛美いたしました。普段、あまり歌わない讃美歌だと思いますが、本日の礼拝でこの讃美歌を歌うことにしたのは、本日が平和を覚える日だからです。日本基督教団の暦で8月第一主日が「平和聖日」であるだけでなく、今日、8月6日は78年前に広島に原爆が投下された日です。6日の広島への原爆投下、9日の長崎への原爆投下、15日の終戦。私たちは8月の歩みの一歩一歩の中で、これらのことを覚えていきます。私自身を含め、多くの人はこの戦争を経験していません。それでも受け継がれてきた記憶があるし、これからも受け継いでいかなくてはなりません。そして戦争の現実は、私たちが生きているこの時代にもあり続けています。371番の2節にこうあります。「戦いあらそい ここにかしこに 地をとどろかして 燃えさかる時、子らは泣きさけぶ、血を流しつつ。主よ、とどめたまえ、いくさを、いくさを」。この言葉は、今、ロシアとウクライナの戦争の現実に直面している私たちの祈りの言葉ではないでしょうか。私たちは、「主よ、とどめたまえ、いくさを、いくさを」と祈らずにはいられないのです。神が一日も早く、この戦争を終わらせ、平和をもたらしてくださることを祈り求めずにはいられないのです。
み翼の陰に生きることこそ本当の平和
けれども聖書が告げる平和は、単に戦争がない状態ではありません。私たちが神のみ翼の陰に生きることこそ、本当の平和です。神は、神の招きを拒み、み翼の陰に生きようとせず、神に背き、隣人を傷つけてばかりいる私たちのために、主イエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちがみ翼の陰に生きられるようになるために、主イエスは今日も明日も、その次の日も自分の道を、十字架への道を歩んでくださり、十字架で死んでくださったのです。「めん鳥が雛を羽の下に集める」ような、いやそれにはるかにまさる神の愛によって、独り子を十字架に架けるほどの私たちに対する神の愛によって、私たちはみ翼の陰に身を寄せて生きられるようになったのです。神の慈しみと守りに覆われて生きられるようになったのです。このことを信じて、受け入れて生きるところにこそ、本当の平和が与えられ、隣人との良い関係が与えられていくのです。
再び来られる主イエスを賛美して迎えられるように
35節で「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」と言われています。「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時」とは、主イエスがエルサレムへと入場されるときのことではありません。エルサレム入場のとき、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19章38節)と言ったのは弟子たちですが、ここで主イエスは弟子たちではなく、集まっていたユダヤ人に向かって「お前たち」と言っているからです。ですから「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時」とは、復活して天におられる主イエス・キリストが再びこの地上に来てくださるとき、世の終わりの裁きのとき、救いの完成のときのことです。そのときユダヤ人たちは、そして私たちは主イエスを見ます。しかしそのときまでは、私たちは天におられる主イエスをこの目で見ることができないのです。「お前たちの家は見捨てられる」と言われています。世の終わりに私たちは見捨てられ、裁かれるのでしょうか。私たちは、そんなことはない、と神の裁きを軽んじることはできないし、軽んじてはなりません。けれども世の終わりに私たちは「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って、再び来てくださる主イエスを迎えることができるのかもしれません。神の愛と招きを拒み続け、主イエスを十字架につけたユダヤ人が、いえ、ほかならぬ私たちが、悔い改めて神に立ち帰って生きることによって、世の終わりに私たちは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と声高らかに賛美して、再び来てくださる主イエスをお迎えすることができるのです。そうなることを神は切に願っておられる。切に願って、今も、私たちが神に立ち帰り、神のみ翼の陰に生きるよう、本当の平和に生きるよう招き続けてくださっているのです。だから私たちは、世の終わりに見捨てられ、裁かれることを恐れて、ビクビクして生きるのではありません。そうではなく、世の終わりに私たちが、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と声高らかに賛美して、主イエスを迎えてほしいという神の切なる願いを受け止めて生きるのです。私たちが神のみ翼の陰に生き、本当の平和に生きることができるようになるために、主イエスは今日も明日も、そして次の日も自分の道を進まれて行きます。私たちはそこに示されている神のみ心と愛を受け止め、神に立ち帰って生きるよう招かれ続けているのです。