「神の前に豊かになる」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第49編1-21節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第12章13-21節
一人の群衆が割り込んできた
先週からルカによる福音書の12章に入りました。その1節には「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」とあります。「まず」と言われているのは、主イエスがまず弟子たちに向かって話され、次に群衆に向かって話されたからです。12章1節から始まるこの場面は、13章9節まで続きますが、1節には「まず弟子たちに話し始められた」とあり、54節には「イエスはまた群衆にも言われた」とあります。つまり53節までは基本的に弟子たちに向かって、54節以下では群衆に向かって、主イエスは話されているのです。主イエスは自分のもとに集まって来た大勢の群衆ではなく、まず弟子たちに向かって話されたのです。ところが本日の箇所では、その冒頭で群衆の一人が主イエスに話しかけ、それに答えて主イエスが語っています。この箇所の直後22節には「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあり、主イエスは再び弟子たちに向かって話されていますから、本日の箇所は、主イエスが弟子たちに向かって話しているところに、一人の群衆が割り込んできて主イエスに話しかけたという場面なのです。
遺産相続のトラブル
群衆の一人はこのように言いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。この人は遺産相続についての不満を抱えていたようです。とはいえこれしか語られていないので、具体的にどのような不満なのかはよく分かりません。ユダヤ人の社会では長男が重んじられました。財産を息子たちに継がせるときには、長男に二倍の遺産を与えることになっていたそうです(申命記21章15-17節)。ですからこの人の兄弟とは、彼の兄のことであり、その兄がもっと自分に遺産を分けてくれるよう求めていた、ということなのかもしれません。兄の半分の遺産では満足できず、自分の分け前をもっと増やすよう求めていたのではないでしょうか。
私たちは主イエスに遺産相続のトラブルを解決してくれるよう頼むのは、見当違いであるように思います。しかし当時、ユダヤ教の指導者は、生活上の問題を律法の規定に従って裁定したり調停したりする役割を担っていました。ですからユダヤ教の指導者の一人と見なされていた主イエスに遺産相続のトラブルの解決を頼むのは不思議なことではなく、ごく自然なことだったのです。「先生」という呼びかけは、この人が主イエスを律法の先生と見なし、律法について教え、その規定に従って裁定したり調停したりする指導者と見なしていたことを示しているのです。
律法の先生とは違う
主イエスはこの人の求めに対してこのように答えられました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。この主イエスのお言葉は、この人の求めを冷たく拒んだ言葉のように思えますが、ここで主イエスが言われているのは、ご自分がユダヤ教の律法の先生とは違うということです。主イエスは人々の生活上の問題を律法の規定に従って解決するために世に来てくださったのではありません。律法の規定に従っていかに生きるかを示すためではなく、私たちが神様と共に生きられるようになるため、そして私たちが神様と共にいかに生きるかを示すために世に来てくださったのです。
貪欲
続けて主イエスは、この人だけでなく、そこにいたすべての人に向かってこのように言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。貪欲とは「もっともっと欲しい」という欲求です。それは、十分に持っているにもかかわらず、それ以上に「もっともっと欲しい」と求めることです。この人は兄の半分の遺産を受け取っていたのだと思います。そうであれば「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」というのは、この人が十分な(正当な)遺産を受け継いだにもかかわらず、それでは満足できずに、もっと遺産が欲しいと求めたということなのです。
もちろん貪欲は、遺産を始めとするお金だけに関わるものではありません。物質的なものであれ、そうでないものであれ、今、持っているものに満足せず、「もっともっと欲しい」と求めることが貪欲だからです。たとえば今の自分の地位や名声に満足できず、より高い地位や大きな名声を求めることがあります。あるいは今の自分の置かれている境遇に満足できず、より良い境遇を求めることがあります。必ずしもそのすべてが間違っているわけではないでしょう。しかしどこまで行っても満足せず、もっともっと欲しいと求めていくならば、私たちは貪欲に支配されているのです。そのような貪欲が起こるのは、あるいはそのような貪欲に拍車がかかるのは、自分と人を比べることによってです。自分と人を比べて、その人と同じ地位や名声を、その人以上の地位や名声を得たいと欲します。あるいはその人と同じ境遇を、その人よりも良い境遇を欲します。人と比べることによって、私たちはその人が羨ましくなり、自分の持っているものに満足できず、もっともっと欲しいと求めるようになるのです。主イエスはこのようなあらゆる貪欲に注意を払い、用心しなさいと言われたのです。
主イエスの譬え話
さらに続けて主イエスは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われました。16節以下では、主イエスがこのことについての譬え話を語っています。このような譬え話です。ある金持ちの畑が豊作でした。しかしこの金持ちの倉には、豊かに実った作物をしまっておく場所がなかったのです。そこでこの金持ちは、倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産を全部しまおうと考えました。そして新しい大きな倉に穀物や財産を全部入れたら、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、自分に言ってやると心に決めたのです。しかし神様は、この金持ちに言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。
愚かな者
ここで神様はこの金持ちを「愚かな者」と呼んでいます。それは、この人が新しく倉を建てようとしたからではありません。あるいはこの人が金持ちであるからでも貯蓄しているからでもありません。私たちはこの主イエスの譬え話が、財産を持たないで生きることを、あるいは貯蓄しないで生きることを求めている、と受けとめるべきではないと思います。そうではなくこの金持ちが、「これから先何年も生きて行くだけの蓄え」によって、自分の命を守れる、安心を得られると思ったことこそが、愚かなことなのです。その愚かさをこそ私たちは受けとめなくてはなりません。なぜなら私たちもしばしば自分の命が自分のものだと勘違いし、自分の力によって自分の命と人生を思うようにできると勘違いしてしまうからです。自分の力とは、自分の持っている財産だけではありません。自分の才能や境遇、地位や名誉、これまで成し遂げてきた成果やこれから成し遂げようとしている成果も、自分の力に違いありません。それらによって自分の命と人生を支えることができると思うなら、私たちは愚かな者なのです。ですからこの譬え話は、金持ちだけに関わるのではありません。自分は金持ちでないからこの主イエスの譬え話と関係ない、とは言えないのです。自分の命と人生をどのように捉えるかは、すべての人に関係あることです。財産があろうとなかろうと、豊かであろうと貧しかろうと、自分の力で自分の命と人生を支配できると勘違いしているならば、その人は愚かな者なのです。
人間は栄華のうちにとどまることはできない
そのような勘違いと愚かさは、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」という神様のお言葉によって打ち砕かれます。たとえ有り余るほど物を持っていたとしても、私たちは決して死を免れることができないのです。このことが共に読まれた旧約聖書詩編49編で見つめられています。その10-13節にこのようにあります。「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても その土の底だけが彼らのとこしえの家 代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。また18節にも「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない」とあります。たとえ豊富な知恵を持っていたとしても、財宝や土地を持っていたとしても、名誉を得ていたとしても、誰一人として永遠に生きることはできないし、墓穴を見ずにすむことはできません。だから「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」と言われているのです。これが私たちの免れようのない現実であり、私たち人間の罪によってもたらされた死という現実なのです。
今夜、死ぬかもしれない
「人間は栄華のうちにとどまることはできない」というみ言葉が告げているように、私たちは誰もが必ず死を迎えます。しかしそれだけではありません。「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた」と思っていた金持ちに、神様が「今夜、お前の命は取り上げられる」と告げたように、私たちは自分がいつ死を迎えるか分からないし、それゆえ今夜、死を迎えるかもしれないのです。栄華のうちにとどまることができないだけでなく、いつまで栄華のうちにとどまることができるかも分からないのです。この「今夜、死ぬかもしれない」という恐れを、私たちはいつもどこかで感じているのではないでしょうか。自分の命と人生は自分のものであり、自分の力によって支えられていると思って生きている人ですら、心の奥底ではこの恐れを感じているのです。私たちは日々、様々な恐れに直面していますが、私たちにとって最も根源的な恐れは、自分がいつ死を迎えるか分からない、ということにあるのです。
死への恐れが貪欲に駆り立てる
有り余るほど物を持っていても、自分がいつ死を迎えるかは分かりません。しかし私たちは、いつ死を迎えるか分からないからこそ、より多くの物を手に入れようとするのではないでしょうか。いつ死を迎えるか分からないという恐れが、「もっともっと欲しい」という貪欲に私たちを駆り立てるのです。すでにお話ししたように、「もっともっと欲しい」という思いは、確かに自分と人を比べて、その人を羨むことによって起こってきます。しかしそれだけでなく、いつ死を迎えるか分からないという恐れも、「もっともっと欲しい」という思いを引き起こすのです。有り余るほど物を持っていても、死を免れることができないにもかかわらず、より多く持つことで安心感を得ようとするからです。今までより、より多くのお金や物、より大きな名誉や高い地位、より大きな力を手に入れることによって、自分が死から免れたように、死への恐れから解放されたように錯覚できるのです。しかしそのような錯覚は長続きしません。あっという間にまた恐れに襲われるのです。だからその恐れからも逃れようとして、益々多くのものを求めようとします。益々「もっともっと欲しい」という思いに駆られるのです。一時、恐れから解放されることを求めて、一時、安心が得られることを求めて、益々多くのものを手に入れようとするのです。
このことが15節で見つめられているのではないでしょうか。もう一度15節をお読みします。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。いつ死を迎えるか分からないという恐れが、「もっともっと欲しい」という貪欲に私たちを駆り立てます。その恐れから一時でも解放されるために、より多くのものを求める貪欲に私たちは駆り立てられるのです。有り余るほど物を持っていても、自分の命はどうすることもできないと分かっているにもかかわらず、いや分かっているからこそ、「もっともっと欲しい」という貪欲に私たちは駆り立てられるのです。そのような貪欲に注意を払い、用心しなさい、そのような貪欲から身を守りなさい、と主イエスは言われているのです。
死んだら終わりと開き直る?
しかしどうしたらそのような貪欲から身を守ることができるのでしょうか。必ず死を迎えることへの恐れ。その恐れから逃れるために、より多くのものを求める貪欲。どれほど多くのものを持っていても、自分の命はどうすることもできない絶望。その絶望から逃れるために、益々多くのものを求める貪欲…。この悪循環から解放されるためにはどうしたら良いのでしょうか。死んだら終わり、と開き直ったら良いのでしょうか。今夜、死ぬかもしれないとしても、それを恐れて生きるよりは、死んだら終わり、生きている内がすべてと開き直って生きるほうが良い。このように考えている人は少なくないと思います。しかしそのように生きることによって死の恐れから本当に解放されることはありません。それだけでなく死んだら終わり、生きている内がすべてという生き方は、自分さえ良ければ良い、という無責任な生き方になりかねません。「もっともっと欲しい」という貪欲に自分の身を任せるような生き方になりかねないのです。
神が命を与え、取り上げられる
私たちが死への恐れから本当に解放されるのは、私たちの命が自分のものではなく、神様のものであることに気づかされることによってです。神様が私たちに命を与えてくださり、人生を導いてくださり、そしてお定めになっているときにその命を取り上げられることを信じて生きるとき、私たちは死への恐れから解放されます。そしてもはや死への恐れに支配されないのであれば、その恐れから一時、逃れるために、より多くのものを求めようとする貪欲に、「もっともっと欲しい」という思いに駆り立てられることからも解放されるのです。しかも私たちに命を与え、人生を導き、お定めになっているときにそれを取り上げられる神様は、得体の知れない神様ではありません。独り子を十字架に架けてまで、私たちを救ってくださった方です。それほどまでに私たちを愛してくださっている方です。私たちの命が、私たちを愛してくださっている神様のものであることにこそ、本当の安心があるのです。神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われました。この言葉を得体の知れない神様の言葉として聞くなら、私たちは「今夜、死ぬかもしれない」とびくびくして生きるか、そんなこと気にしても仕方がないと開き直って生きるしかありません。しかしこの言葉を、独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださっている方の言葉として聞くならば、その神様によって自分の命が取り上げられることに、私たちは安心して委ねることができるのです。もちろんだからと言って、死への恐れがなくなるわけではないでしょう。特に私たちにとって、大切な人の突然の死や理不尽な死を受け入れるのはとても難しいことです。それでもその命が神様によって取り上げられ、その命が神様の御許に迎えられていると信じるとき、私たちは大切な人の突然の死や理不尽な死による深い苦しみと悲しみの中にあっても、神様の慰めと平安に与ることができるのです。
神が復活と永遠の命を与えてくださる
それだけではありません。独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださっている神様は、お定めになっているときに私たちの命を取り上げられ、ご自身の御許に迎え入れてくださって終わりではないからです。十字架で死なれた主イエスが復活させられたように、私たちも世の終わりに復活させられ、永遠の命に与ることができるのです。その約束が私たちに与えられています。共に読まれた詩編49編16節でも「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」と告げられています。神様は私たちに命を与え、人生を導き、お定めになっているときにそれを取り上げられ、そして世の終わりに私たちを復活させ、永遠の命を与えてくださるのです。このことを信じて生きる歩みに、必ず死を迎えることへの恐れからの解放が、いつ死を迎えるか分からないことへの恐れからの解放が与えられます。そのとき私たちは、死への恐れによって「もっともっと欲しい」という貪欲に駆られることからも解放されるのです。
神の前に豊かになる
主イエスは21節で「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われます。「神の前に豊かになる」は、直訳すれば「神の中へ豊かになる」となります。それは、神様の中へ入れられ、その恵みの内に入れられて豊かになることであり、神様と共に生きることによって豊かになることにほかなりません。私たちが神様の前に豊かに生きるとは、私たちのために独り子を十字架に架けてくださった神様の愛の中で生き、いつ死を迎えるとしても自分の命を神様に安心して委ね、世の終わりの復活と永遠の命の約束に希望を置いて生きることです。それは、自分のために富を積む生き方とはまったく異なる生き方です。自分のために富を積むとき、私たちはそれが奪われないかびくびくして生きなくてはなりません。しかし神様の前に豊かに生きるならば、私たちは自分のものが奪われることにびくびくしなくて良いのです。たとえ自分のものが奪われても、神様の前に、神様の中で生きる豊かさはいささかも奪われることがないからです。確かに主イエスの譬え話は、貯蓄すること自体が愚かだと言っているのではありません。しかし神の前に豊かに生きるとき、私たちは自分の持っているものを失うことへの恐れからも解放されます。そのことによって私たちは、自分の持っているもの、財産だけでなく、力やスキル、地位や名誉を、自分のためではなく隣人のために手放していくことができるようになるのです。自分の持っているものを自分自身のためではなく、助けを必要としている人のために用いていくことができるのです。神様が命を与え、人生を導き、お定めになっているときにそれを取り上げられ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださることを信じて生きるとき、私たちは死への恐れから解放され、「もっともっと欲しい」という貪欲からも解放され、自分の持っているものを隣人のために用いて生きるよう導かれていきます。その歩みにこそ、神様の溢れるほどの豊かな恵みが与えられていくのです。