夕礼拝

収穫の主

「収穫の主」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第126編5-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章1-16節
・ 讃美歌:202、78

主イエスと共にエルサレムへ向かう旅
 ルカによる福音書の物語は、先週お話ししたように、9章51節から新しい局面に入りました。50節までは主イエスのガリラヤにおける伝道が語られていましたが、51節からは主イエスがガリラヤからエルサレムへ向かう旅の途上における出来事が語られています。主イエスはご自分がエルサレムで十字架に架けられて死なれ、復活し、天に上げられる時が近づいているのを悟り、エルサレムに向かう決意を固められ、エルサレムに向かって歩み始められました。弟子たちは主イエスの決意や、この先エルサレムで何が起こるかも分かりませんでしたが、決然とエルサレムへ向かって進んで行かれる主イエスについていったのです。私たちも弟子たちと同じようにエルサレムに向かわれる主イエスについていきたいと思います。ルカ福音書を読み進めつつ主イエスと共にエルサレムへ向かって旅をしていきたいのです。

七十二人の任命
 本日の箇所の冒頭1節には、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。主イエスの弟子は使徒と名付けられた十二人の弟子たちだけではありませんでした。ほかにも名前の知られていない多くの弟子たちが主イエスに従っていたのです。「ほかに七十二人を任命」したとは、十二弟子のほかに主イエスに従っていた弟子たちの中から「七十二人」を任命したということです。なぜ「七十二人」なのだろうか、と思われるのではないでしょうか。ほかの写本では「七十二人」ではなく「七十人」となっているものもあります。いずれにしろ72とか70という人数には、どのような意味が込められているのでしょうか。この福音書の著者ルカは、おそらく旧約聖書創世記10章を念頭に置いて「七十二人」ないし「七十人」としたのだと思います。10章にはノアの子孫である70民族の名前が記されています。ギリシャ語訳旧約聖書では72民族です。そのためユダヤ教では伝統的に、この72ないし70という数字が、洪水後の世界のすべての国々、あるいは世界のすべての人々を象徴する数として用いられてきました。ですからルカにとって、「七十二人」ないし「七十人」の弟子たちの任命は、彼らをその数字が象徴する世界のすべての国々へ、すべての人々のところへ遣わすことを意味したのです。もちろん本日の箇所のすぐ後を読むと分かるように、ここで任命された七十二人の弟子たちはすぐに主イエスのところへ帰ってきますので、世界のすべての国々へ行ったわけではありません。しかしルカは、この七十二人の任命において、主イエスの十字架と復活、その昇天の後に、聖霊が降って誕生した教会の働きを見つめているのです。ルカ福音書の続きである使徒言行録において、復活したキリストは天に上げられる前に使徒たちにこのように言っています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)。「地の果てに至るまで」、世界のすべての国々で、すべての人々に、主イエス・キリストを証しすることが、教会に与えられている使命です。つまり伝道こそが教会の使命なのです。2000年に亘って教会はこの使命を担い続けてきましたし、今も担っています。ですから私たちは七十二人の弟子たちの任命と派遣を自分自身のこととして読み進めていきたいと思います。エルサレムに向かう主イエスについていく中で、弟子たちはただ主イエスと共にいるだけでなく、主イエスによって遣わされました。同じように私たちも主イエスに従い、主イエスと共に歩む中で、主イエスによって遣わされるのです。

主イエスより先に遣わされている
 1節の後半に「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。主イエスはご自身がこれから行こうとしている町や村に、弟子たちを先に遣わしました。弟子たちが先に行って、その後に主イエスがやって来るのです。このことは、実は私たちにも当てはまります。私たちが先に行って、後から主イエスがやって来るのです。そのような意識を私たちは普段あまり持っていないかもしれません。主イエスが先にこの世に来てくださり十字架と復活によって救いを実現してくださった。だから十字架と復活より後に生きている私たちは、その救いを受け入れ、信じて生きることができる。このような先に主イエスが来て、後から私たちがその救いに与っている、という意識の方が強いのです。もちろんその意識は間違っていませんし、それがないと私たちの信仰は土台を失ってしまいます。しかしそれだけを意識していれば良いというわけではありません。なぜなら復活したキリストは、今、天におられ、そして終わりの日に再びこの世に来てくださり、救いを完成してくださるからです。私たちは今、主イエスが再び来てくださるのを待ち望みつつ歩んでいます。つまり私たちは後から来てくださる主イエスを待ち望みつつ、その主イエスより先に、この世に遣わされて歩んでいるのです。
 私たちは何のために主イエスより先に遣わされているのでしょうか。9節で主イエスは弟子たちに、遣わされた町で「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と命じられています。「神の国は近づいた」と訳されていますが、「近づいて来ているけれど、まだここにあるわけではない」ということではなく、「近づいてきて、今、現にここにある」ということです。主イエスは弟子たちに「神の国は近づいてきて、今、現にここにある」と伝えなさい、と言われているのです。同じように私たちもそれぞれが遣わされた場所で、「神の国は近づいてきて、今、現にここある」と伝えます。キリストによって神様のご支配が、すでに始まっていると伝えるのです。すべての国々で、すべての人たちにこのことを伝えるために、終わりの日に再び来られる主イエスに先立って、私たちは遣わされているのです。

証言する
 しかし「神の国は近づいた」と伝えることは、私たちがそれを説明したり解説したりするということではありません。1節で「七十二人を任命し…二人ずつ先に遣わされた」と言われていました。主イエスが七十二人の弟子たちをペアにして遣わした背景には、旧約聖書における裁判の規定があります。旧約聖書では、裁判においてどんな犯罪も一人の証人によってではなく、二人ないし三人の証人の証言によって立証されなければならないと定められています(申命記19:15)。つまり弟子たちの言葉が確実であることを示すために、主イエスは弟子たちをペアにして遣わしたのです。しかしこの背景から示されるのはそれだけではありません。より重要なことは、弟子たちの言葉が裁判における証人による証言と同じように、主イエスについての「証言」であるということです。裁判における証人が自分の見た事実を証言するように、私たちも自分自身が経験した主イエスによる救いの恵みを証言します。すでに始まっている神様のご支配のもとで、自分自身が与っている恵みを証言するのです。「神の国は近づいた」と伝えることは、私たちが日々与えられ、味わっている救いの恵みを証しすることにほかならないのです。
 5節には「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」とあります。「平和があるように」は、ヘブライ語でシャロームと言い、ユダヤ人の挨拶の言葉です。しかしここでは単なる挨拶の言葉に留まらず、自分自身が経験している主イエスによる平和が「あなたにもありますように」と伝える言葉なのです。平和とはかけ離れた世界のように思える中で、主イエスによって神様と私たちの間に平和が実現した、と私たちは証しします。今、現にここにある神の国で生かされているからこそ、戦争や暴力が耐えない世界にあっても絶望することなく、主イエスのもとに平和があると証ししていくことができるのです。その私たちの証しが神様によって用いられ、6節にあるように平和を望む「平和の子」に、主イエスにある平和をとどまらせるのです。

収穫は多いのか?
 「神の国は近づいた」と伝えるために遣わされる私たちに、主イエスは言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。主イエスは伝道を収穫に譬えて語っています。そしてなによりもまず私たちに「収穫は多い」と約束してくださっているのです。収穫は多い。つまり主イエスによる救いを受け入れ、信じる者がたくさん与えられるのです。別の言い方をすれば、伝道は決して虚しくならない、ということです。しかし、どうでしょうか。私たちには、今、伝道が停滞しているように、収穫はむしろ少ないように思えるのではないでしょうか。長きに亘るコロナ禍は、伝道の停滞に拍車をかけているように思えます。そのような中で、一生懸命伝道しても、なかなか実りを得ることができず落胆してしまうことがあります。11月第四週の夕礼拝は「青年主体の夕礼拝」として守ります。どなたでも出席できる夕礼拝ですが、特に、青年への伝道を意識した礼拝です。先日、その案内カードが出来上がりました。300枚作成して、郵送したり配布したりしています。準備が進んでいることに感謝しつつも、その一方で、どれだけの青年がこの礼拝に来てくれるだろうかという不安もあるのです。

収穫の主
 けれどもそのような伝道が実を結ばないことへの落胆や不安は、本当は見当違いなものです。なぜなら私たちは自分の力で伝道の実を結ばせるのではないからです。私たちが畑を耕し、種を蒔き、世話をして育て、実を結ばせるのではありません。そのすべてをしてくださるのは「収穫の主」です。「収穫の主」である神様が、畑を耕し、種を蒔き、世話をして成長させてくださり、実を結ばせてくださるのです。実りが少ないのではなく、すでに畑いっぱいに実っています。私たちがするのは、その実りを刈り入れるだけです。「収穫は多いが、働き手は少ない」とは、その豊かな実りを刈り入れる「働き手」が少ないということなのです。しばしばこの「働き手」は牧師や伝道者のことであり、だから「収穫のために働き手を送ってくださるよう」に願うとは、神学校に行く人が起こされるよう祈り求めることだとされます。しかしそれだけではないはずです。それにも増して、私たち自身を収穫のための働き手として用いてください、と祈り求めることなのです。私たちのなすべきことは、自分の力で実りを増やすことではなく、すでに実っている豊かな実りを刈り入れることだけです。だから私たちは落胆したり不安になったりするのではなく、「収穫の主」が豊かな実りを結ばせてくださっていることに信頼し、自分自身が経験している主イエスによる救いの恵みを証しし、神様のご支配がすでに始まっていることを証ししていくのです。その私たちの証を用いて神様が人々を、「今、現にここにある神の国」へと呼び集めてくださるのです。確かに伝道が停滞しているように思えます。度々落胆や不安に襲われることがあるかもしれません。しかし主イエスは私たちに「収穫は多い」と力強く断言してくださっています。伝道は決して虚しくならないと約束してくださっています。自分の力に頼るのではなく、この主イエスの約束を信じ、たとえ伝道が停滞しているように思えるときも、私たちは伝道し続けていくのです。
 3-4節でも、私たちが自分の力に頼って伝道するのではないことが見つめられています。このように言われています。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持っていくな」。狼の群れの中に送り込まれた小羊は、自分の力で狼から身を守れません。自分の力では何もできないのです。同じように私たちも遣わされた先で、自分の力で何かできるわけではないし、何かできると勘違いしてはならないのです。「財布も袋も履物も持っていくな」とは、私たちが自分の能力や持ち物に頼って伝道してはならない、ということです。狼の群れに送り込まれた小羊がそうであるように、遣わされた先で私たちの能力や持ち物が役に立つわけではないからです。私たちは自分の能力や持ち物に頼って伝道しようと頑張ったり、伝道できるはずだと勘違いするのではなく、「収穫の主」が豊かな実りを結ばせてくださることに信頼し、伝道していくのです。

収穫の期間、伝道の期間
 4節の後半に「途中でだれにも挨拶をするな」とあります。5節では、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と言われていますが、先ほど申したように「平和があるように」は、ユダヤ人の挨拶の言葉です。だから遣わされたら一切挨拶するな、と言われているのではありません。そうではなく、どこかの家に行く途中では、あるいはどこかの町に行く途中では誰にも挨拶をしてはいけない、と言われているのです。目的地にたどり着くまでは、挨拶もせず仏頂面をしていた方が良いということなのでしょうか。ここで見つめていることは、伝道が収穫に譬えられていることに目を向けることによって示されていきます。作物の収穫は、急ぐ必要があります。豊かに実っても、安心してほったらかしにしておいたら、あっという間に作物は駄目になってしまうのです。たとえば台風が直撃して、実った作物が大きな被害を受けることがあります。ですから実りを刈り入れるのに、のんびりしてはいられません。収穫するまでは、誰にも挨拶しないぐらい急ぐ必要があるのです。私たちが自分の力に頼らないで伝道するとは、私たちが伝道を神様に丸投げすることではありません。伝道の使命は、神様が教会と私たちに与えてくださったからです。「収穫の主」の働きによって、すでに畑いっぱいに実っています。しかしその実りを収穫する期間は、限られています。主イエスに先立って遣わされている私たちにとって、主イエスが再び来てくださる終わりの日までが、収穫の期間であり、伝道の期間です。作物の収穫がそうであるように、伝道も、今、この時にしなければなりません。「収穫の主」が豊かに実らせてくださったものを無駄にしないために、今、この時、刈り入れなくてはならないのです。私たちは自分の力に頼って伝道するのではありません。しかし同時に私たちは、今、この時、しなければならない伝道に真剣に取り組んでいくのです。難しいことをするのではありません。ただ主イエスを証しするのです。主イエスについて説明するのではなく、自分自身が経験している主イエスによる救いの恵みを証しします。いつかではなく、今、それぞれが遣わされたところで証しするのです。

「神の国が、今、現にここにある」と伝えるときに
 その一方で、主イエスに先立って遣わされた私たちが「神の国は近づいた」と語って伝道しても、受け入れられないことがあります。10-11節で、主イエスはこのように言われています。「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と」。「神の国はあなたがたに近づいた」と語り、伝道しても受け入れられないのであれば、その町の人たちに対して、足についたその町の埃を払い落として抗議を示し、「神の国が近づいたことを知れ」と宣言して、その町から立ち去るのです。続く12節では「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」と言われていて、このことが13節から15節でさらに展開されています。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、ガリラヤの町です。これまで主イエスはガリラヤのあちらこちらで神の国を宣べ伝え、み業を行ってきました。しかしこれらの町の人たちは悔い改めず、「神の国が近づいた」ことを拒んだのです。裁きの時には、それらの町より旧約聖書で悪名高いソドムやテイルスやシドンの方が軽い罰で済む、と言われています。このことは遣わされる私たちにとって、とても重いことだと思います。自分が語った言葉によって、「神の国が近づき、今、現にここにある」ことを受け入れる者と、そうでない者が選り分けられることになり、受け入れない者には裁きの日に罰が与えられることになるからです。そうであるなら、なんとか相手が受け入れてくれるように語ったほうが良いのではないかと思います。相手の様子を窺って語ったり、相手の気を引くために誇張して語ったり、相手の反応次第でその時その時で違うことを語ってでも、受け入れてもらおうとするのです。しかしそれは「神の国は近づいた」という現実を捻じ曲げることです。私たちがすべきことは、「主イエスによって神の国が、今、現にここにある」という現実をそのまま伝え、自分が経験している主イエスによる救いを証しすることだけです。借り物の言葉ではなく自分自身の言葉で証しするだけなのです。そのとき16節で言われていることが起こります。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。驚くべき言葉であり、畏れを覚えずにはいられない言葉です。弱さと欠けだらけの罪人である私たちの言葉に耳を傾けることが、なぜ主イエスに耳を傾けることになるのかと畏れます。しかしそうであるにもかかわらず、私たちが自分の力に頼ることなく、相手の反応に合わせることなく、ただ「神の国が、今、現にここにある」という現実をそのまま伝え、自分自身が味わっている救いの恵みを証しするとき、それを受け入れることは主イエスを受け入れることであり、それを拒むことは、主イエスを拒み、主イエスを遣わした父なる神を拒むことになるのです。

伝道は大きな喜び
 私たちの伝道は、「収穫の主」が畑を耕し、種を蒔き、それを育み、実りを結ばせたものを刈り入れることです。農作物を育てる中で、刈り入れの時こそが最も大きな喜びの時であるに違いありません。共に読まれた旧約聖書詩編126編5-6節にこのようにあります。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。種蒔きの時は涙を流すほどの労苦を伴うのに対し、刈り入れの時は喜びの歌を歌うほどの喜びで満ちているのです。私たちの伝道において、「収穫の主」が涙を流すほどの労苦を担ってくださっています。「収穫の主」が実を結ばせてくださった実りを、私たちは喜びの歌と共に刈り入れさせていただくのです。だから私たちにとって、伝道は大きな喜びにほかなりません。教会と私たちには、伝道という喜びの使命が与えられているのです。主イエスは「収穫は多い」と約束してくださっています。主イエスに先立って遣わされた私たちは、この約束に信頼し、「神の国は近づいた」と伝え、主イエスを証しします。それぞれに遣わされた場所で、喜びの歌と共に、「神の国が、今、現にここにある」と語り、自分自身を生かしている主イエスの恵みを証しするのです。

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