夕礼拝

主イエスは救い主

「主イエスは救い主」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第20編1-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章18-27節
・ 讃美歌:

イエスは何者か
 ルカによる福音書は、これまで「イエスは何者か」という問いを人々が抱いてきたことを語ってきました。主イエスが、ご自分の足に香油を塗った罪深い女の罪を赦したとき、その場に居合わせた人たちは「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(7:49)と考え始めました。また主イエスが神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながらガリラヤの町々村々を巡っているという噂を聞いたガリラヤの領主ヘロデは「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9:9)と言いました。そして主イエスに従い共にいた十二人の弟子たちも「イエスは何者か」という問いに直面していったのです。主イエスが湖の舟の上で突風を静めたのを見て、彼らは「いったい、この方はどなたなのだろう」(8:25)と言っています。間近で主イエスのお言葉を聞き、そのみ業を見ているからこそ、「イエスは何者か」という問いが深まっていったのです。その歩みの中で、前回お話ししたように、主イエスは弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけで五千人もの多くの人たちを養われました。このみ業を目撃した弟子たちは「イエスは何者か」という問いの答えへと導かれていきます。旧約聖書の預言者を通して語られた、主なる神が祝宴を開いてすべての民を養ってくださるという約束が、主イエスにおいて実現し始めていることを示されたからです。

主イエスに従い共に歩む中で
 この「イエスは何者か」という問いは、私たちの問いでもあります。私たちは色々なきっかけを通して主イエスに出会い、「イエスは何者か」という問いを抱きます。今の時代、私たちはなにか分からないことや、なにか興味を持ったことがあれば、すぐにスマホで検索することができます。そうするとたちまちなんらかの情報がヒットするのです。当然、「イエス」というワードで検索すれば色々な情報を得られますし、ネット検索をしなくても書物から知識を得ることもできます。しかしそのように主イエスについての情報を得たり、知識を増やしたりすることによって「イエスは何者か」という問いが深まるわけでもなければ、ましてその問いへの答えが与えられていくわけでもありません。当時、多くの人たちが「イエスは何者か」という問いを持ちました。群衆はイエスについて「(洗礼者)ヨハネが死者の中から生き返った」とか、「エリヤが現れた」とか、「だれか昔の預言者が生き返った」とか、色々な噂をしましたが、だからといって「イエスは何者か」という問いが深まっていたようには思えません。領主ヘロデも会ってみたいと思うほど、噂のイエスが何者なのかを知ろうとしましたが、しかし答えが与えられたわけではありません。興味を持って、色々な情報や知識を得たとしても、それで主イエスが何者か分かるわけではないのです。別の言い方をすれば、距離を取って眺めているだけでは、主イエスが何者かは分からないということです。弟子たちのように主イエスに従い共に歩む中でこそ「イエスは何者だろう」という問いが深まり、その答えへと導かれていくのです。その歩みの中で、私たちは主イエスのお言葉を聞き、そのみ業を体験します。ときには、弟子たちの持ち物を用いてみ業を行ってくださったように、私たちの持ち物や私たち自身を用いてみ業を行ってくださるのです。傍観しているだけではそのようなことは起こりません。主イエスと共にいるからこそ良い意味でそのみ業に巻き込まれていきます。距離を取って眺めて情報や知識を得るのではなく、主イエスと共に生きる中で私たちは驚くべき主イエスのみ業を経験し、「イエスは何者か」を知らされていくのです。私たちの信仰の歩みは、主イエスの恵みのみ業を体験するたびに、主イエスをより深く知らされていく歩みなのです。

ほかならぬあなたはイエスを何者と言うのか
 このように弟子たちは「イエスは何者か」と問い、主イエスに従う中でその答えを見いだしていきました。しかしこの問いは、自分が問うだけではなく、主イエスご自身から問われるものでもあります。本日の箇所の18節後半にこのようにあります。「そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。主イエスは弟子たちに群衆がご自分のことを何者だと言っているか尋ねました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」と答えます。すると主イエスは弟子たちに言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。弟子たちも私たちも主イエスに従い共に歩む中で、「イエスは何者か」と問うだけではなく、主イエスから「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われるようになるのです。「あなたはイエスを何者だと言うのか」。このことに答えるのが信仰告白にほかなりません。私たちの信仰告白は、私と神様の一対一の関係においてなされることです。周りの人たちが洗礼者ヨハネと言っているからヨハネだと思うとか、エリヤだと言っているからエリヤだと思うというのではないのです。あるいは検索したサイトに書いてあったから、有名な研究者の本に書いてあったから、そう思うというのでもありません。ほかの人は関係ありません。ほかの人がなんと言っているかではなく、「ほかならぬあなたはイエスを何者と言うのか」ということが問われているからです。「イエスは私たちの模範となる教師」とか、「イエスは歴史上の偉人の一人」とか、色々な評判が聞こえてくる中で、ほかならぬこの私にとって「イエスは何者か」ということが問われています。ほかならぬこの私に出会ってくださり、語りかけてくださり、み業を行ってくださる主イエスは、この私にとって何者なのか、という問いに答えるよう求められているのです。

同じ信仰を共有している群れ
 その一方で、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、「あなたは」ではなく「あなたがたは」と問いかけていることも見逃すことはできません。主イエスは、私たち一人ひとりがこの問いかけに答えることを求めておられると同時に、私たちの群れが、つまり教会がこの問いかけに答えることをも求めておられるのです。この箇所で主イエスの問いかけに答えたのはペトロだけです。しかしそれはペトロだけしか答えなかったということではないと思います。ほかの弟子たちもペトロと同じ信仰を告白したのです。弟子たちは主イエスに従い共に歩む中で、同じ信仰を共有していたのです。同じように教会は、この信仰を共有している群れにほかならないのです。

神のキリスト
 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに、ペトロは「神からのメシアです」と答えました。「メシア」は旧約聖書が書かれたヘブライ語で「油注がれた者」を意味します。本日、共に読まれた詩編20編7節に「今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを」とありますが、この「油注がれた方」がメシアという言葉です。旧約聖書において、王が即位するときや、祭司が立てられるときに油が注がれました(サムエル記上16:13など)。そのため油を注がれた王や祭司が、「油注がれた者=メシア」と呼ばれたのです。詩編20編でも7節で「油注がれた方=メシア」と呼ばれているのは、10節の「王」にほかなりません。しかし王国が滅びた後の時代になると、メシアはやがて到来する「救い主」を意味するようになったのです。
 新共同訳は「神からのメシア」と訳していますが、ギリシャ語で書かれた原文を直訳すれば「神のキリスト」となります。新共同訳は不思議なことに、ギリシャ語の「キリスト(クリストス)」を、わざわざヘブライ語を使って「メシア」と訳しているのです。なぜそのように訳したのかは分かりません。また新共同訳は原文の「神の」を「神からの」と訳していますが、このように訳すと「神から遣わされたキリスト」と読めます。確かにそのような意味もありますが、それだけを強調すると、主イエスは神から遣わされた預言者の一人に受けとめられかねません。しかしここでペトロが告白しているのは、主イエスは神が油を注いだ方である、神ご自身が油を注いで立てた方である、ということです。ですから「神からのメシア」と訳すのではなく、「神のキリスト」と訳すほうが良いと思います。口語訳はそのように訳していました。聖書協会共同訳は「神のメシア」と訳していて、新共同訳の「神からの」は「神の」に変わりましたが、「メシア」の方は変わっていません。いずれにしてもここでペトロは「あなたは、神のキリスト、神が油を注がれたお方です」と告白しているのです。それは、「あなたは、神ご自身が立てた救い主です」と告白していることにほかなりません。ペトロが告白したこの信仰こそ私たちの信仰です。私たちは主イエスに従い共に歩む中で、ペトロと同じようにこの信仰の告白へと導かれます。「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いかけに、私たちは「あなたは神のキリストです」、「あなたは、神ご自身が私たちのために立ててくださった救い主です」と告白するのです。「イエスはキリストである」、「イエスは救い主である」というのが私たちの信仰なのです。だから私たちはイエス・キリストと言うたびに、「イエスはキリストである」、「イエスは救い主である」という信仰を告白していることになります。私たちは普段、あまり意識せずに「イエス・キリスト」と口にしていますが、「イエス・キリスト」と言うことそれ自体が、最も簡潔な信仰告白なのです。このことを心に留めつつ、「主イエスは救い主」と告白できる恵みに感謝していきたいのです。

必ず…なっている
 ペトロが「あなたは神のキリストです」と告白すると、主イエスは21節にあるように「弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ」ました。「このこと」とは、イエスが神のキリストであること、すなわちイエスが救い主であることです。主イエスが、ご自分が救い主であることを誰にも言わないよう命じられたのは、当時のユダヤ人が待ち望み、思い描いていた来るべきメシアの姿、来るべき救い主の姿が、主イエスとはかけ離れていたからです。多くの人たちは、来るべき救い主が力によってローマの支配から自分たちを救い出すと思っていました。弟子たちが「イエスは神のキリスト」と話すことによって、人々は主イエスがそのような力による救い主だと誤解しかねなかったのです。ペトロや弟子たちですら、主イエスがどのようにして人々を救うのか分かっていたわけではありません。主イエスはキリストである。救い主であると告白しても、その救いがどのようにして実現するのか分かっていなかったのです。ですから主イエスは、その救いが力によるものではなく、ご自身の死と復活によるものであることを弟子たちに告げます。22節にこのようにあります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。「人の子」は主イエスがご自身を言い表すのに使われた言葉です。ですから主イエスは「私は必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」と、ご自身のこれからの歩みを告げているのです。「必ず…なっている」というのは神のご計画、神のご意志を示しています。主イエスは、ご自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活することこそが神のご計画、ご意志であり、自分はそのみ心に従うと言われているのです。主イエスは、神の意志に従って私たちの救いを成し遂げてくださり、私たちの救い主となってくださるのです。

排斥される
 この主イエスの受難予告の中で、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され」と言われています。「排斥される」という言葉は新約聖書で9回使われていますが、1回を除いて、人の子イエスが「排斥される」、あるいはそれを預言している「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(20:17)の「捨てた」に使われています。ですから主イエスのご受難を言い表す特別な言葉と言って良いかもしれません。この言葉は、単に「排斥する」、「斥ける」という意味だけではなく、「ある基準によって審査した上で斥ける、あるいは価値がないと判断する」という意味を持ちます。つまり長老や祭司長や律法学者たちは、自分たちの基準によって主イエスを審査した上で斥け、価値がないと判断したのです。そのことによって主イエスは十字架へと追いやられていきます。しかし人間の基準によって価値がないと判断され追いやられた十字架の死において神のご計画、神のご意志が実現するのです。長老や祭司長や律法学者たちと同じように、私たちの基準、私たちの常識に照らすならば、最も惨めで、恥辱に満ちた十字架の死を引き受けられる主イエスが、私たちの救い主だとは思えません。しかしその十字架の死を引き受けることこそ、「必ず苦しみを受け、殺され、復活することになっている」という神の意志の実現であり、私たちの救いの実現なのです。

自分を捨てる
 主イエスは受難予告を語られた後で、弟子たちにこのように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ここで「自分を捨てる」とは、自分の地位や財産を捨てるとか、あるいは過去の自分を捨てるとかではなく、「自分自身を否定する」ことです。しばしば自分を肯定すること、自己肯定感を持つことこそが大切であると言われます。自己肯定感が低いと不安が大きく、他人の評価が気になったり、失敗を恐れたり、安定的な対人関係が築けなかったりするからです。「ありのままの自分」を肯定することが大切だと言うのです。けれども私たちは本当に自分の力で「ありのままの自分」を肯定することなどできるのでしょうか。主イエスが「自分自身を捨てなさい」、「自分自身を否定しなさい」と言われるのは、自分自身に関心を向けるのではなく、自分自身を手放して、神様だけに関心を向けなさい、ということです。自分自身の思いによって自分の歩みが占領されるのではなく、神様の御心によって占領されるようにしなさい、ということなのです。しかもその神さまの御心とは、独り子を十字架に掛けてまで私たちを救ってくださった愛の御心です。実は、私たちは自分の力で「ありのままの自分」を肯定することによって、本当に自分自身を肯定し愛することができるわけではありません。むしろ自分自身を否定することによって、つまり自分自身を神様に明け渡すことによって、神様の愛の御心を知らされ、神様が自分を愛していてくださっている、神様が自分を肯定していてくださっていることに気づかされるのです。そのとき私たちは本当に自分を肯定することができ、本当の自己肯定感を持つことができるのです。たとえ私たちが自分のことを肯定できず愛せないとしても、しかし神様はそのような私たちを肯定してくださり愛してくださるからです。自分自身を否定し、手放すことによって、神様の愛が、神様の肯定が与えられるという驚くべき逆転が起こるのです。24節でも同じような逆転が見つめられています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。自分のために生きることが自分の人生を充実させるのではなく、主イエスのために自分の人生を明け渡して生きることが本当に自分の人生を充実させるのであり、そのように生きることが本当に自分の命を救うことになるのです。
日々、自分の十字架を背負って
 23節の後半では「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われています。「十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われると、主イエスがローマ帝国の十字架刑で処刑されたように、殉教の死を覚悟して主イエスに従うよう命じられているように思えます。しかしそのような極端な状況だけが見つめられているのではありません。「日々、自分の十字架を背負って」と言われていることに、私たちは注目したいのです。特別な状況よりも、むしろ日々の生活の中で十字架を背負いなさい、と言われているのです。主イエスの十字架は、長老や祭司長や律法学者たちが自分たちの基準で審査して主イエスを斥けたことによるものでした。それとは比べられないとしても、私たちキリスト者は、日々の生活の中で、この世の基準によって、この世の当たり前によって斥けられることがある、価値がないと思われることがあります。とりわけキリスト者が圧倒的に少ない私たちの社会においては、しばしばそのようなことが起こるのです。日々の生活の中で、世の中の人々から誤解されたり、価値がないと思われたり、斥けられたり、奇異の目で見られたり、ときには憎まれたりします。それらすべてのことが、「日々、自分の十字架を背負う」ということにほかならないのです。「主イエスはキリスト」、「主イエスは救い主」と信じる私たちキリスト者は、主イエスがこの世から斥けられ価値がないと思われたように、日々の歩みの中でキリスト者故の苦しみを味わいます。しかしその歩みに主イエスは共にいてくださり、私たちは主イエスの苦しみを僅かばかり担うことにおいて、主イエスの救いの恵みを豊かに受けていくのです。

神の国を見る
 この箇所の終り27節では、「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」と言われています。しばしば、「神の国を見る」とは、終りの日に起こることであると考えられます。終りの日が来て、神の国を見るまで死なない者がいる、と言われていると考えるのです。しかし「神の国を見る」のは、「終りの日」に限らなくても良いと思います。なぜなら私たちは主イエスに従い共に歩む中で、神の国を見るからです。この地上においてすでに神の国が始まっていることを見るのです。自分自身を神様に明け渡し、日々の生活の中で自分の十字架を背負って主イエスに従う中で神の国を見るのです。なによりもこれから私たちが与る聖餐において、私たちは神の国を見ます。聖餐は終りの日の神の国の祝宴の先取りだからです。キリストの体と血とに与り、キリストの十字架の死による救いの恵みを体全体で味わう聖餐において、私たちは確かにすでに神の国が始まっていることを見ることができるのです。

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