「今の時代」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第92編5-7節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章29-35節
・ 讃美歌:143、579
来るべき方は、あなたか
ルカによる福音書7章18-35節では洗礼者ヨハネと主イエスについて語られていますが、この部分は大きく三つに分けられます。第一の部分は18-23節で5月第一週の夕礼拝で読みました。洗礼者ヨハネが二人の弟子を主イエスのところに遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。このヨハネの問いに、私たちは自分自身の問いを重ね合わせました。私たちこそ主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問うからです。確かに主イエスはこの世に来られ、十字架の死と復活によって救いを実現してくださいました。しかし私たちは苦しみや悲しみの多い日々を歩む中で、一体なぜ、この苦しみは取り除かれないのだろうか、この悲しみは癒されないのだろうかと思わずにはいられません。私たちの救い主が、「来るべき方」が来てくださったはずなのに、なぜ自分は、なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなくてはならないのだろうかと思うのです。特に「今の時代」、不条理な現実がもたらす苦しみや悲しみが私たちを圧倒しています。コロナ禍のために願いつつも礼拝に来ることができない苦しみがあります。突然、ご家族を亡くす悲しみがあります。歳を重ねる苦しみがあり、生涯、病を抱えていかなくてはならない悲しみ、突然、病を抱える苦しみがあります。経済的な苦しみや人間関係の破れによる苦しみがあり、孤独の苦しみ、孤立の悲しみがあります。そのような苦しみや悲しみを抱えて歩む中で、私たちは主イエスに「この私にとって、来るべき方はあなたですか」と問わずにはいられないのです。しかし主イエスは私たちに「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。主イエスの癒しのみ業が行われ、福音が告げ知らされていることこそに、私たちが自分自身の救いを見ることへと招かれます。苦しみや悲しみに圧倒されて主イエスに躓き、主イエスから離れるのではなく、主イエスの到来によってこの地上においてすでに神の国が始まっていることを信じるよう招かれるのです。
ヨハネより偉大な者
第二の部分は24-28節で5月第二週の夕礼拝で読みました。洗礼者ヨハネの弟子たちが去ると、主イエスは群衆に向かって話し始められました。私たちはその群衆に自分自身を重ね合わせ、主イエスの言葉に耳を傾けたのです。主イエスは「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われました。「神の国で最も小さな者でも、ヨハネよりは偉大である」とは、能力の優劣や、生き方の立派さが比べられているのではなく、神の救いの歴史における位置が比べられていました。ルカによる福音書16章16節に「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ」とあります。ここで見つめられているのは、神の救いの歴史におけるヨハネまでの律法と預言者の時代と、神の国の福音が告げ知らされているキリスト到来以後の時代との区別でした。洗礼者ヨハネとは、律法と預言者の時代の終りに立つ者であり、キリスト到来以前の時代とそれ以後の時代の架け橋であり、キリストを指し示し、キリスト到来以後の時代を指し示す者です。キリスト到来以後の時代とは、言い換えるならば、この地上において神の国がすでに始まっている時代です。キリスト到来以後の「今の時代」に入れられた者は、神の国がすでに始まっている地上に生かされている者にほかなりません。地上における神の国で最も小さな者でもキリスト到来以後の「今の時代」に入れられているがゆえに、そうではないヨハネより偉大なのです。キリスト到来以前の「かつての時代」とそれ以後の「今の時代」の間に立っているヨハネより偉大な者なのです。
今の時代
第三の部分が本日の箇所である29-35節です。本日の説教題を「今の時代」としました。31節の主イエスの言葉「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか」にある「今の時代」を説教題としたのです。第三の部分で私たちは、主イエスの言葉にある「今の時代」に私たちが生きているこの時代を重ねていきたいと思います。それだけでなく、先ほど第一、第二の部分を振り返る中でも「今の時代」という言葉を用いてきたように、7章18-35節全体を「今の時代」をキーワードにして読んでいきたいのです。
一歩踏み出す
29節には「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」とあります。第二の部分で見たように民衆は荒れ野に洗礼者ヨハネを見に行きました。ヨハネの教えを聞き、ヨハネの洗礼、悔い改めの洗礼を受けるためです。第二の部分で主イエスが彼らに「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」と問われたのは、彼らがヨハネを見に荒れ野へ行ったことを忘れてしまったからではありません。彼らが荒れ野へ見に行った洗礼者ヨハネとは何者なのか、ヨハネの洗礼を受けるとは何を意味するのかを問うためでした。民衆はこれらのことをなにもかも分かっていたわけではないと思います。むしろほとんど分からずに荒れ野へ行ったのではないでしょうか。だからこそ第二の部分で主イエスはヨハネとは何者なのかを彼らに語ったのです。しかし彼らは分からないながらも「一歩踏み出し」ました。一歩踏み出して、普段の生活からかけ離れた荒れ野へ、ヨハネの教えを聞くために、その洗礼を受けるために出かけて行ったのです。
神の正しさを認める
ヨハネの洗礼を受けるとは何を意味しているのでしょうか。ヨハネとは、主イエス・キリストを指し示す者であり、キリスト到来以後の時代を指し示す者でした。そのヨハネの洗礼を受けるとは、なによりもキリストの到来に備え、キリスト到来以後の時代に備えることを意味します。ヨハネの洗礼を受けた群衆と徴税人はその備えをしたのです。そしてヨハネが指し示した主イエスは確かにこの世に来てくださいました。「来るべき方」は主イエス・キリストにほかならなかったのです。主イエスは群衆に、彼らが、ヨハネが指し示したキリスト到来以後の時代に入れられ、地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていると告げました。その主イエスの言葉を聞いて、ヨハネの洗礼を受けキリストの到来に備えていた彼らはそれを受け入れたのです。彼らはヨハネまでの「かつての時代」ではなくキリスト到来以後の「今の時代」に自分たちが生きていることを受けとめました。民衆や徴税人が「神の正しさを認めた」とは、このことを言っているのです。
神の御心を拒む
そのような民衆や徴税人とは正反対の人たちのことが31節でこのように語られています。「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。民衆や徴税人はヨハネから洗礼を受け、主イエスの言葉を聞き「神の正しさを認め」ました。しかしファリサイ派の人々や律法の専門家たちはヨハネから洗礼を受けず、主イエスの言葉を聞いても「自分に対する神の御心を拒んだ」のです。この「御心」と訳されている言葉は特別な言葉で、ほとんどがルカ福音書とその続編である使徒言行録で使われていて、「神の計画」を意味します。その「神の計画」とはどんな計画でしょうか。この言葉が使われている使徒言行録2章23-24節にこのようにあります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。「お定めになった計画」の「計画」がこの言葉です。ですからファリサイ派の人々や律法の専門家たちが拒んだ神の御心とは、キリストの十字架と復活によって実現する神の救いの計画にほかなりません。その神の救いの計画はファリサイ派の人々や律法の専門家たちに関わりのないものではありません。「自分に対する神の御心を拒んだ」とあるように彼ら自身に対する救いの計画なのです。彼らは自分自身に対する神の救いの計画を拒んだのです。
受け入れる者、拒む者
主イエスがこの世に来てくださったことにおいて、キリスト以後の「今の時代」は始まり、この地上において神の国はすでに始まっています。その意味で、群衆も徴税人もファリサイ派の人々も律法の専門家たちも、キリスト以後の「今の時代」に入れられ、地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされています。しかしそれを受け入れる者と受け入れない者とがいるのです。自分に対する神の救いの計画を受けとめる者と拒む者とがいるのです。ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、主イエスの言葉を受け入れないことによって神の救いの計画を拒みました。彼らは、自分たちがキリスト到来以後の時代に入れられていることを拒み、この地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていることを拒んだのです。キリスト以後の「今の時代」に自分たちが生きていることを拒み、ヨハネまでの「かつての時代」になお生きようとしたのです。
「今の時代の人たち」とは?
31-35節は主イエスのお言葉ですが、その冒頭で主イエスは「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか」と言われます。ここで主イエスが言われる「今の時代の人たち」とは誰のことなのでしょうか。この後を読み進めていくと、主イエスが語りかけているのは、「神の御心を拒んだ」ファリサイ派の人々や律法の専門家たちだけであり、「神の正しさを認めた」民衆や徴税人は含まれていないと思います。ですから主イエスが言われる「今の時代の人たち」とは、キリスト以後の「今の時代」に入れられているにもかかわらず、そのことを受け入れず、「かつての時代」になお生きようとしている人たちのことです。つまり「今の時代」に生きながら「かつての時代」に生きようとしている人たちのことなのです。
笛を吹いたのに、葬式の歌をうたったのに
そのような人たちは、「広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と主イエスはたとえを用いて言われます。このたとえはなかなか難しく色々な解釈がなされてきました。ここでは二つの解釈を取り上げ、主イエスのたとえで見つめられていることを受けとめていきたいと思います。
第一に取り上げるのは、子どもたちが二つのグループに分かれ、片方のグループの子どもが呼びかけると、もう一方のグループの子どもがその呼びかけに応えるゲームをしていたという解釈です。一方が笛を吹いて呼びかけたら、もう一方は踊る。一方が葬式の歌をうたって呼びかけたら、もう一方は泣く。そうやって一方のアクションに、もう一方が正しいアクションで応えるゲームだと考えるのです。笛を吹いて踊るのはおそらく結婚式においてであり、葬式の歌を歌って泣くのはお葬式においてです。子どもたちが言っているのは、一方が「笛を吹いたのに」、もう一方はそれに応えようとせず「踊らなかった」、一方が「葬式の歌をうたったのに」、もう一方はそれに応えようとせず「泣かなかった」ということですから、一方が一生懸命アクションしているのに、もう一方はそのアクションに応えようとしなかった、結婚式なりお葬式にふさわしいアクションで応えようとしなかった、ということになります。そのように理解するならば、洗礼者ヨハネが来て悔い改めの洗礼を宣べ伝えても、それに応えようとせず、主イエスが来て神の国の福音が告げ知らされても、やはりそれに応えようとしない神の御心を拒んでいるファリサイ派の人々や律法の専門家たちの姿、つまり「今の時代」に生きながら「かつての時代」に生きようとする人たちの姿が見つめられている、ということになります。この理解は文脈に合っていると私は思います。
踊ってくれなかった、泣いてくれなかった
もう一つ取り上げるのは、子どもたちが二つのグループに分かれているとは考えないで、「今の時代の人たち」は、こういう子どもじみた生き方をしているという解釈です。結婚式で笛は吹く、でも踊ろうとはしない。お葬式で葬式の歌はうたう、でも泣こうとはしない。踊ったり泣いたりするのはほかの人にばかり期待する。そして期待通りに踊らないと「踊ってくれなかった」とごね、泣かなかったら「泣いてくれなかった」とごねる。自分の願った通りに人がしてくれないと文句ばかり言うような「今の時代の人たち」の姿、すなわち「今の時代」に生きながら「かつての時代」に生きようとする人たちの姿を見つめているのです。この理解も文脈に合っていると思いますが、特にこの後の33-34節とうまく対応していると思います。
願い通り、期待通りでないから
その33-34節ではこのように言われています。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。洗礼者ヨハネが来て、荒れ野で「パンも食べずぶどう酒も飲まずに」生活し、悔い改めの洗礼を宣べ伝えても、自分の願い通り、期待通りでないから、荒れ野に行って神の言葉を聞こうともしないし悔い改めの洗礼を受けようともしないのです。また人の子、つまり主イエスが来て、徴税人や罪人と一緒に飲んだり食べたりして、神の国の福音を告げ知らせても、自分の願い通り、期待通りでないから、主イエスの言葉を受け入れようとしないのです。洗礼者ヨハネが来た。主イエスも来た。それにもかかわらず、「今の時代」に生きながら「かつての時代」に生きようとする人たちは自分の願い通りでない期待通りでないと、どうのこうの批判してばかりで、文句を言ってばかりで、自分たちがキリスト到来以後の「今の時代」に入れられていることを受け入れず、この地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていることも受けとめず、神の救いの計画を拒むのです。
「かつての時代」に生きようとする私たち
私たちは言うまでもなくキリスト到来以後の時代を生きています。今、私たちが生きているのは、キリストの到来以後の「今の時代」です。それにもかかわらず私たちは、「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わずにいられなくなったり、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちと同じように、キリスト到来以後の「今の時代」に生きながら、キリストの到来がまるでなかったかのように「かつての時代」に生きようとするのです。私たちは日々の苦しみや悲しみに圧倒され主イエスに躓き、主イエスを信じられなくなることがあります。また私たちは自分の願い、自分の期待ばかりにとらわれ、その願いや期待を神さまに押しつけ、それが聞き届けられないと、まるで神さまが悪いかのように批判したり文句を言うのです。救いの恵みによって「今の時代」に生かされているにもかかわらず、その救いの恵みから離れ神さまではなく自分を中心とし、「かつての時代」に生きようとするのです。
救いの完成に向かっている「今の時代」
なぜ私たちは「今の時代」の中で「かつての時代」に生きようとするのでしょうか。あるいはなぜ私たちは「今の時代」の中で「かつての時代」のように生きることができるのでしょうか。それは、地上における神の国は始まっているけれど完成はしていないからです。「今の時代」とは、キリストの十字架と復活による救いの実現と終りの日の救いの完成の間の時代です。救いの完成に向かっている「今の時代」にあって、私たちにはなお苦しみや悲しみがあり続けます。私たちはなお私たちを神様から引き離そうとする罪の力にさらされているのです。私たちはなかなか「今の時代」が終りの日の救いの完成に向かっていると実感できません。私たちが実感できるのは、自分の苦しみが取り除かれず、自分の悲しみが癒されず、自分の願いが叶わず、自分の期待が外れてばかりいることだからです。だから私たちは「今の時代」に生きていながら「かつての時代」に生きようとしてしまうのです。しかしそのように生きるなら、私たちはヨハネと主イエスが来て決定的に進められた神の救いの歴史を、神の救いの計画を拒むことになるのです。
一歩踏み出した私たちに恵みが注がれる
しかし忘れてはいけません。民衆や徴税人もキリスト到来以後の「今の時代」に入れられ、この地上において始まっている神の国に生きる者とされていたのです。民衆や徴税人が特別だったわけではありません。このとき彼らは本当の意味で神の救いの計画を知らされていたわけではないのです。キリストの十字架と復活による救いは彼らには隠されていたからです。そうであるならば、彼らとファリサイ派や律法の専門家とを分けているのはなんでしょうか。「今の時代」に生きるのと、「今の時代」に生きていながら「かつての時代」に生きようとするのと、その分かれ目はどこにあるのでしょうか。その分かれ目は、「一歩踏み出す」ことにあるのです。35節に「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」とあります。「知恵」とは「神の知恵」のことであり、30節の「神の御心」とほぼ同じ意味で使われています。神の知恵の正しさ、神の御心の正しさは、「一歩踏み出し」、その御心を拒むのではなく受け入れる人たちによって証明されるのです。私たちは苦しみと悲しみの現実の中で、あるいは罪の力によって「かつての時代」に引き戻されそうになる中で、「一歩踏み出し」、神の言葉を求めて普段の生活から離れて礼拝に行きます。その礼拝で、すでに私たちがキリスト到来以後の「今の時代」に入れられ、この地上において始まっている神の国に生かされていることを告げ知らされます。キリストの十字架と復活によって実現した神の救いが、その完成へと向かっている「今の時代」に、私たちが生かされていることを告げ知らされるのです。そのことによって私たちは神の御心を、神の救いのご計画を受け入れ、神さまが確かに救いのみ業を行っていてくださり、救いの歴史を前進させてくださっていると信じるのです。一歩踏み出した私たちに、キリスト到来以後の「今の時代」に生かされている恵みが注がれています。私たちは「今の時代」に生かされている恵みに感謝し、神さまが「今の時代」を救いの完成へと導いていてくださっていると信じて、歩んでいきたいのです。