主日礼拝

天国泥棒?

「天国泥棒?」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第51編1-21節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第23章39-43節
・ 讃美歌:294、301、442

二人の犯罪人
 ルカによる福音書は、主イエスの十字架の死の場面において、共に十字架につけられた二人の犯罪人に注目しています。前回読んだ32、33節にあったように、その二人が主イエスと一緒に引かれて行き、主イエスの十字架を真ん中に、一人は右に、一人は左に、十字架につけられたのです。そして本日の箇所、39節以下には、この二人が、主イエスに対して正反対の態度を取ったことが語られています。一人は主イエスをののしり、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。もう一人はそれをたしなめて、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、主イエスに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。マタイ、マルコ福音書には、一緒に十字架につけられた者たちも、周囲で見物している者たちと一緒になって主イエスをののしったとだけ語られています。二人目の犯罪人の姿は、34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という主イエスのお言葉と並んで、ルカ福音書における十字架の場面に特徴的な、また大変印象的な記述です。

主イエスをののしった人
 共に十字架につけられた犯罪人が主イエスをののしったことはマタイ、マルコにも語られていると申しましたが、その具体的な言葉を記しているのはルカのみです。一人目の犯罪人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのです。これは、その前の所で議員たちが「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言って主イエスを嘲ったのと、また兵士たちが「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのと同じことです。彼らは、お前がメシア、救い主だと言うなら、先ず自分を救ってみせろ、それができないお前はメシアでも神に選ばれた者でもユダヤ人の王でもありはしないのだ、と言って主イエスを嘲ったのです。この犯罪人はその人々の声に同調して自分も主イエスをののしったのです。しかし彼がもともと主イエスのことを知っており、メシアとして期待していたとは思えません。「自分自身と我々を救ってみろ」と言っていますが、主イエスが自分たちを十字架から救ってくれることを期待しているわけでもないでしょう。彼は十字架の苦しみと絶望、怒りや不満をそのようにしてぶつけているだけです。共に十字架につけられている主イエスに八つ当たりしているとも言えます。しかし彼のこの怒りや不満、八つ当たりしたくなる思いは、私たちも苦しみ悲しみの中で抱くものではないでしょうか。深い苦しみの現実の中で、私たちも主イエスに、救い主だというあなたは私のこの苦しみをどうしてくれるのか、救い主ならさっさと力を発揮して私を救って下さいよ、と思うのです。そのように八つ当たり気味に主イエスをののしることが私たちにもあるのではないでしょうか。

神を恐れる
 これに対してもう一人の犯罪人の姿は対照的です。彼の言葉は丁寧に読む必要があります。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。彼は、同じ十字架の死刑の苦しみの中で、その苦しみを先ほどの彼とは全く違う仕方で受け止めているのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」という言葉がそれを表しています。つまり彼は、この苦しみは自分たちの罪の当然の報いだと言っているのです。彼らがどのような罪を犯して十字架の死刑の判決を受けたのかは分かりません。他の福音書では「強盗」となっているものもあります。しかし主イエスの代りに恩赦によって釈放されたバラバについてもそうですが、彼らは単なる強盗や殺人犯ではなくて、ローマの支配への抵抗運動の中でテロ行為を行った政治犯ではないか、という見方もあります。そうであれば彼らには罪の意識はない、自分は不当な支配に抵抗するという正しいことをして敵に捕えられ殺される犠牲者だ、という思いだったのかもしれません。もう一人の犯罪人の不遜な態度はそういう思いの現れかもしれません。しかし二人目の彼は、自分の罪の当然の報いとして今十字架の苦しみを受けている、と言っているのです。彼が見つめているのは、自分の犯した犯罪に対する刑罰を受けているということではありません。犯罪も刑罰も人間が決めたこと、人間の社会におけることですが、彼が今受けていると感じているのは、神の怒り、神による裁きです。「お前は神をも恐れないのか」という言葉がそれを示しています。彼は今、自分が生ける神のみ前に立たされていると感じているのです。神によって、自分のやったことの報いを受けていると感じ、神を恐れているのです。おそらくこの十字架につけられるまで、彼はそんなことは全く感じていなかっただろうと思います。もう一人の犯罪人と同じように、自分は罪など犯していないと思い、自分を捕え十字架につけて殺す者たちへの憎しみで満たされていたのだと思うのです。ところが今、十字架の上で彼は、神を恐れる思いを抱くようになったのです。なぜそうなったのか。それを語っているのが、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」という言葉です。彼が神を恐れる思いを抱くようになったのは、「同じ刑罰を受けている」人がいることを知ったことによってです。それは彼ら二人の犯罪人が同じ刑罰を受けているということではありません。彼らと、彼らの真ん中で十字架につけられている主イエスとが同じ刑罰を受けていることに、彼は衝撃を受けたのです。そのことは41節の「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」という言葉から分かります。彼ら二人は同じような罪のために十字架につけられているのです。しかし「この方」、主イエスは、悪いことは何もしていない、それなのに我々と同じ十字架の死という刑罰を受けている、そのことに彼は愕然としたのです。それは決して、主イエスは我々とは違って十字架の死刑の判決を受けるに値するような犯罪を犯してはいないのに、ということではありません。人間が定める犯罪や刑罰に関して言えば、自分たちだって十字架につけられるようなことをしたわけではない、と彼は思っていたでしょう。しかし彼が今見つめているのは神の裁きであり、神の罰です。神の罰としての十字架の死刑を、このイエスという方が我々と同じように受けている、そのことに彼は愕然とし、そこに神を恐れる思いが生まれたのです。

罪のないまことの神の子が
 この方は何も悪いことをしていない、そのことを彼はどのようにして知ったのでしょうか。主イエスがどのような方か、彼がもともとよく知っていたというわけではないでしょう。おそらく彼はこれまで主イエスに会ったこともなかったのだと思います。しかし今自分と共に十字架につけられている主イエスのお姿を見つめることによって、この方は何も悪いことをしていないということが自ずと分かったのです。そこで決定的な意味を持ったのが、あの34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というお言葉だったと考えてもよいでしょう。十字架につけられつつこのように祈る主イエスに彼は、神様の前で何の罪もない方、神を心から父と呼ぶことができ、その父に自分を十字架につける者たちの罪の赦しをも願うことができるまことの神の子を見たのです。そしてその罪のないまことの神の子が、自分と同じ十字架の刑罰を受けておられる、その驚くべき事実に触れた時、そこに神への深い恐れが生じたのです。それは、神をこわがるという恐れではありません。また神の怒りや裁きを恐れるというおののきでもありません。神が本当に生きてここに、自分の目の前におられる、その生ける神と出会う恐れです。その神への恐れの中で彼は、それまでこれっぽっちも考えていなかったこと、自分が、自分の犯した罪の当然の報いとして十字架につけられていること、つまり自分は十字架につけられて死ななければならない罪人であることに気づかされたのです。

私を思い出して下さい
 そのことに気づいたことはしかし、絶望の内に死ななければならないことを意味してはいませんでした。自分のやったことの報いとして十字架につけられている、その自分と同じ十字架に、何の罪もない神の子である主イエスがついておられる、自分が罪の報いとして受けなければならない苦しみと死を、罪のない神の子が共に引き受け、味わっておられるのです。その事実に触れた彼は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うことができたのです。自分は罪に対する当然の報いとして十字架につけられるしかない者であり、救いを願うことなどとうていできない者だけれども、その自分と同じ刑罰を受けて下さっている神の子主イエスに、「私を思い出して下さい」と願うことができる、その一筋の希望の道が自分の前に開かれていることを彼はこの十字架の上で見出したのです。

御国の完成の時に
 ところで、「あなたの御国においでになるときには」というところは、前の口語訳聖書においては「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には」となっていました。この違いは翻訳の元になっている原文の違いであり、写本の研究によって今はこの新共同訳のような形が原文として採用されています。しかし内容的には口語訳の方が相応しいように思われます。つまり、「御国においでになるときには」というのは、主イエスが神の国に入る時には、ということですが、主イエスが神の国に入る、という言い方は聖書にはないのであって、むしろ主イエスによって神の国が来た、という方が一般的です。「御国においでになる」だと、御国は死んだら行く天国になってしまい、「イエス様が天国に行く時に私のことを思い出して下さい」と言ったことになってしまいます。そしてその後の主イエスの「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というお言葉も、主イエスが今日彼を一緒に天国に連れて行って下さる、と理解されることになります。しかし、死んだら天国という楽園に行ってそこで幸せになる、というのは聖書の語る福音ではありません。私たちに約束されている最終的な救いを語る言葉としては、「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には」の方がずっと相応しいのです。それはつまり主イエスがこの世の終りに神の子としての権威を持ってもう一度来られる、いわゆる「再臨」のことです。その再臨の主イエスによって最後の審判が行われ、それによって御国、つまり神の国が完成する、主イエスを信じる者たちの最終的な救いが、復活と永遠の命が完成するのです。聖書が語る救いの完成は、死んで天国に行くことではなくて、世の終りに主イエスがもう一度来られることによって完成する御国、神の国にあずかることです。彼はそのことを見つめつつ、とうてい救いに値しない罪深い自分だけれども、主イエスが御国の完成のために来られる時に、共に十字架につけられていた自分のことを思い出して下さい、と願っているのです。

救いの宣言
 主イエスは彼のこの願いを受けて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。それは今申しましたように、あなたも私と一緒に天国に入ることができる、という約束ではありません。「楽園」とはもともと「園」という意味であり、神様に造られた最初の人間アダムとエバが住んでいた「エデンの園」を意味していました。最初の人間はそこで神によって生かされ、守られ、祝福の内に生きていたのです。しかし神様に背く罪によって彼らはその楽園を失い、荒れ野のようなこの世を生きなければならなくなった、それが創世記3章以降の人間の状況です。ですから「楽園にいる」という約束は、罪が赦され、神様のもとでの祝福が回復されることを意味しているのです。そこにおいて決定的に大事なのは、「わたしと一緒に」ということです。パウロはフィリピの信徒への手紙1章23節で、自分としてはこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望している、と語っています。死んで主イエスと共にいる者とされることこそが彼の願いなのです。またテサロニケの信徒への手紙一の4章17節では、キリストの再臨によって実現する救いの完成は、「いつまでも主と共にいることになる」ことだと語られています。聖書が語る救いは、死んで「天国」という良い所に行くことではなくて、主イエス・キリストと共にいる者とされることです。その救いを主イエスは彼に約束して下さったのです。私はあなたのことをちゃんと覚えている。あなたが十字架につけられて殺される今日、私はあなたと共にいて、あなたの全ての罪の赦しを父である神に祈り、父はその恵みをあなたに与えて下さるのだ、と宣言して下さったのです。

二人の姿は私たちの姿
 主イエスと共に、その右と左に十字架につけられた二人の犯罪人に、こんなにも対照的な違いが生じたことをルカによる福音書は語っています。この二人の姿は、いずれも私達の姿です。自分は十字架につけられるような犯罪人ではない、と言える人はいないでしょう。この二人だって、そうは思っていないのです。正しいことをして、しかし敵に捕えられて殺される犠牲者だと思っているのです。たとえ彼らが政治犯ではなくてただの強盗殺人犯だったとしても同じでしょう。強盗や殺人は確かに悪いことかもしれない、しかし自分がそういうことをしたのにはいろいろな理由や事情があったのだ、自分だけが悪いわけではない、そもそもこの世の中が、世間が、自分につらく当った人たちが悪いんだ、そんなふうにいくらでも言い訳はできるのです。私たちもそのように、自分の罪を認めようとせず、いろいろと言い訳をして自分を正当化しながら生きているのではないでしょうか。そしてその歩みの中で苦しみや悲しみに陥ると、主イエスをののしり、「救い主なら力を発揮して私を救ってみろ」などと悪態をつく、まさにこの一人目の犯罪人と同じことをしているのです。
 けれども私たちは、二人目の犯罪人と同じ体験をも与えられるのです。彼は別に、一人目と違って善良だったわけではありません。同じ罪人なのです。そして彼も自分の罪を自覚して反省していたわけではないのです。しかし彼は、罪の結果である十字架の苦しみの中で、自分と同じ十字架にかかっている主イエスに出会ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という主イエスの祈りを聞いたのです。何の罪もないまことの神の子が、自分と一緒に十字架の苦しみと死の淵におられることを知ったのです。それによって彼は神を恐れる思いを与えられました。そのことによって彼は、自分の罪を知ったのです。自分が十字架にかかって死ななければならない罪人であることが初めて分かったのです。つまり悔い改めを与えられたのです。そしてそこに、主イエスよ、あなたがもう一度来られ、御国を完成なさる時に、私を思い出して下さい、と願うことができる信仰が与えられたのです。そしてその信仰の告白に対して主イエスが、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、あなたは私が実現する罪の赦しの恵みにあずかり、私と共にいる者となるのだ、と救いを宣言して下さったのです。私たちが、主イエス・キリストと出会い、神様を知り、自分の罪に気づかされ、そしてその罪の支配からの救いが主イエスの十字架にこそあると示され、主イエスを信じ、その救いを求めるようになり、そして主イエスからの救いにあずかる洗礼を受け、「あなたは私と一緒にいる者だ」という救いの宣言を受ける、そこにおいて、まさにこの二人目の犯罪人に起ったのと同じことが私たちに起っているのではないでしょうか。この人は特別に立派な人だったから救いにあずかったのではありません。熱心に求めていったから主イエスと出会うことができたのでもありません。自分の罪を悔いて反省する心があったから救われたのでもありません。彼と最初の人との間には、何の違いもないのです。どうしてこのことが彼に起り、最初の人には起こらなかったのか、それは謎です。人間の側に理由はありません。神様の選びとしか言いようがないことです。しかしだからこそ、この二人目の人に起ったことは誰にでも起るのです。既に主イエスを信じる信仰者となった人たちそれぞれに起ったのだし、今この礼拝に集っている私たち一人一人が皆、この出来事へと招かれているのです。

天国泥棒?
 この二人目の犯罪人のことを、「天国泥棒」と呼ぶことがあります。生涯の間さんざん悪いことをしてきて、ついに死刑になった、その十字架の上の最後の時に、主イエスに、「御国においでになるときにはわたしを思い出して下さい」と言ったことによって、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という約束を取り付けた、人生の最後の最後に、たった一言で楽園、天国への切符を手に入れてしまった、いろんなものを盗んできて、最後に天国までも盗んで自分のものにしてしまった男、という意味で「天国泥棒」と言うのです。そういう言い方は当たらない、ということをこれまでお話してきました。「楽園」は「天国」ではないし、そこへ行く切符を得たわけではない、また彼は主イエスの救いを盗み取ったわけではありません。だから「天国泥棒」などではないのですが、しかし人生の最後の最後、しかも死刑に処せられている最中に主イエスの救いにあずかり、主イエスと共にいる者とされた、ということにおいて、この人は聖書の中で最も印象的な登場人物の一人であると言うことができるでしょう。そしてそこに、主イエスが十字架の死によって成し遂げて下さった救いがどのようなものであるかが、印象的に、またはっきりと描き出されているのです。主イエスによる救いは、私たちがどれだけ努力して善い行いを積み重ねてきたか、ということに全くよらないものです。長い時間をかけて熱心に求め続けていった末にようやくたどりつけるものでもありません。またその救いにあずかるのに、「もう遅い」ということはないのです。それは時間的な意味において、つまり人生の最後の時、死の床においてもあずかることができる、ということであると同時に、私たちの罪の深さにおいてもです。こんな罪を犯してしまったから、もう主イエスの救いにあずかることはできない、こうなってしまったらもう遅い、ということもないのです。自分の罪の当然の報いとして死刑に処せられてしまう、そのような苦しみ、絶望のまっただ中においても私たちは、何も悪いことをしていないのに自分と同じ刑罰を受けておられる主イエスと出会うことができるのです。そしてその主イエスに、「わたしを思い出してください」と願うことができるのです。その願いに主イエスはしっかりと答えて下さり、救いにあずからせて下さるのです。私たちが主イエスによる救いにあずかるというのは、誰においても結局のところそういうことでしかありません。十字架につけられた犯罪人としてではなくて、もうちょっとましな、まっとうな人間として主イエスと出会い、その救いにあずかろう、あずかれるのではないか、と思うのは私たちのおめでたく傲慢な錯覚です。私たちは誰でも皆、この犯罪人のように主イエスと出会い、救いにあずかるのです。それを天国泥棒と呼ぶならば、私たちは皆天国泥棒なのです。

関連記事

TOP