主日礼拝

仕える者となれ

「仕える者となれ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章24-30節
・ 讃美歌:54、120、513

言い争う弟子たち
 十字架に付けられる前の晩、主イエスが弟子たちと共に過越の食事をなさった、そのいわゆる「最後の晩餐」の場面を読み進めています。本日ご一緒に読む24節以下には、その晩餐の席で、弟子たちの間にある議論が、もっとはっきり言えば言い争いが起こったことが語られています。それは、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論でした。「我々の内で一番偉いのは誰か」「わたしだ」「いやわたしの方が偉いんだ」という言い争いが起こったのです。何だかとても子供じみた話に感じられます。しかしこの24節を注意深く読むと、そういう議論「も」起こった、と語られていることに気づきます。実はこの議論、言い争いは、もう一つの議論、言い争いとつながっているのです。そのもう一つの議論とは、すぐ前の23節に語られていたことです。23節にこうありました。「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」。「だれがそんなことをしようとしているのか」、「そんなこと」とは、21、22節で主イエスがお語りになったことです。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。最後の晩餐の席で主イエスは、この食卓に共についているあなたがた弟子の一人が私を裏切ろうとしている、とおっしゃったのです。それを聞いた弟子たちの間に、「それはだれのことだろうか」「お前ではないのか」「いやお前こそ裏切るのではないか」という言い争いが生じたのです。その言い争いがいつしか「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」という争いに変わっていったのです。主イエスが裏切られ、捕えられ、十字架につけられて殺される、その前の晩においてすら、そのような子供じみた言い争いをしていた弟子たちの姿がここに描かれているのです。
 ルカがここで語っている弟子たちの姿は、私たちにも通じる深刻な有り様を語っていると思います。「誰が裏切ろうとしているのか」という問いは、要するに、この中で最も駄目な、悪い弟子、弟子を名乗る資格のない者は誰か、ということです。私たちもしばしばそういう目で、仲間の信仰者を見てしまうことがあるのではないでしょうか。あの人はあんなことをして、あんなことを言って、信仰者として相応しくない、失格だ、という思いです。それは言い換えれば、あの人は主イエスを、神様を、裏切っている、と思うことなのです。ルカはここで、そのような思いで人を批判し、裁くことは、「自分が一番偉いんだ」と主張し合う子供じみた争いへとつながっていく、ということを語ろうとしているのではないでしょうか。人を批判している私たちはそれを否定して、「いや、別に自分が偉いなどと言っているのではない。信仰者として生きる者はどうあるべきかを真剣に考えているのだ」などと言います。この時の弟子たちだっておそらく、「イエス様が裏切られて捕まってしまったら大変だ、そのことを心配しているのだ」と言ったでしょう。でもその話は結局、「誰が一番偉いか」という議論になっていったのです。人を批判し、あの人は駄目だ、失格だ、などと言っているのは、結局は、自分の方が偉いんだ、とお互いが主張して言い争っているのと同じことなのだ、ということがここに教えられているのだと思うのです。

人を受け入れないことによって
 ところで、弟子たちの間にこのような議論、言い争いが起ったのはこれが初めてではありません。ルカは以前にも同じようなことを語っていました。それは9章46節以下です。そこにも、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。ルカはこのような子供じみた言い争いを繰り返している弟子たちの姿を描いているのです。9章において主イエスは、そのように言い争う彼らに一人の子供をお示しになり、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とお語りになりました。それは「だれがいちばん偉いか」という彼らの論争とは直接関係のない話のようにも思えますが、実は彼らの論争の根本にある問題を鋭く捕えた御言葉でした。つまりこのような言い争いの根底には、自分が相応しくないと思う人を受け入れようとしない思いがあるのです。ですからこのような争いを乗り越えてよい関係を築くために必要なのは、子供に代表される弱く小さい者、相応しくない、資格がない、と思われる者を受け入れることなのです。主イエスはまさにそのように、弱い者、貧しい者、罪人を受け入れて友となって下さいました。その主イエスの名のゆえに、弱い者、相応しくない、資格がない、と思うような者を仲間として受け入れていくことによってこそ、「だれがいちばん偉いか」という子供じみた不毛な争いから抜け出すことができるのです。9章ではそういうことが教えられていたと言えるでしょう。それでは本日の箇所、22章では何が教えられているのでしょうか。

使徒たちのための教え
 25節以下の主イエスのお言葉は、9章の時とは全く違っています。それが最もよく現れているのは26節です。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とあります。この御言葉は、偉い人や上に立つ人の存在を否定していません。それを認めており、そのような立場に着く人はこうしなさい、という勧めを語っているのです。つまりここで主イエスは、偉い人、上に立つ人になることを否定するのではなく、弟子たちがそのような者となることを前提として語っておられるのです。そのことと深く結びついているのが、先週の説教においても指摘しましたが、ルカがここで弟子たちのことを「使徒たち」と呼んでいることです。使徒というのは、先週も申しましたように、遣わされた者という意味です。彼らがその名で呼ばれているのは、主イエスの十字架と復活を経た後、彼らが伝道へと遣わされ、初代の教会の指導者となっていったことを意識しているからです。つまりここでは、後の教会の指導者となった人々としての弟子たちが見つめられているのです。彼らはこれから、教会における「偉い人、人の上に立つ人」になろうとしているのです。その使徒たちがこのように、主イエスの十字架の前の晩にまで、「だれがいちばん偉いか」などという子供じみた言い争いをしていたわけですが、そのことを通して、主イエスは彼らを戒め、使徒たる者はどのように歩むべきかを教えて下さったのです。
 主イエスがここで彼らにお教えになったのは、異邦人の王や権力者のあり方と教会の指導者である使徒のあり方の違いです。王や権力者は、民を支配し、権力を振るい、そのことで「守護者」と呼ばれています。それはむしろ人々にそう呼ばせている、ということですが、教会の指導者である使徒はそうであってはならないのです。むしろ「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。支配し、権力を振るうのではなくて、仕える者となること、それこそが教会における偉い人、上に立つ人のあり方なのです。

給仕して下さる主イエス
 この「仕える者になる」ということの内容をさらに明確にするために、27節では「食事の席に着く人と給仕する者」というたとえが用いられています。「食事の席に着く」と訳されている言葉は「横たわる」という意味の言葉です。それは当時の宴会が、片側を下にして体を横たえてなされていたことによります。宴席に身を横たえて食事をする者、ということです。その周りには、給仕をする召し使いたちがいます。食事をする者の方が、給仕をする召し使いよりも当然偉いわけです。ちなみに、26節の「仕える者」という言葉と、27節の「給仕する者」とは原文においては全く同じ言葉です。そしてその言葉から後に「執事」という教会の一つの務めを表す言葉が生まれました。執事とは、「仕える者、給仕する者」という意味の言葉なのです。そして大事なことは、主イエスが、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言っておられることです。主イエスご自身が、弟子たちの中で、支配し、権力を振るう者のようにではなく、仕える者、給仕する者として歩んで下さっているのです。  「あなたがたの中で」と言われていることに注目しなければなりません。ここで見つめられているのは、主イエスが人々の病を癒したり、悪霊を追い出したりして苦しんでいる人々に仕え、また罪人らを招いて恵みのみ業を行なって下さっている、ということではありません。「あなたがた」つまり弟子たちの中で、弟子たちに対して、仕える者、給仕する者のようであって下さっていることが見つめられているのです。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そこで大事な意味を持ってくるのが、これは最後の晩餐における話だ、ということです。主イエスと弟子たちは今、食卓に共についているのです。その食事は、最初に申しましたように「過越の食事」でした。それは普段の食事とは違う、特別な意味のある象徴的な食事です。エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、「過越」の出来事によって解放され、自由を得ることができたことを記念してこの食事はなされているのです。過越の出来事とは、エジプト中の全ての初子、最初に生まれた男子を、人も家畜も撃ち殺すという恐ろしい災いが主なる神様によって行なわれ、それによってついにエジプトからの解放が実現したその夜、イスラエルの民の家では過越の小羊が犠牲として殺され、その血が家の戸口に塗られたことによって、その災いを免れることができた、ということです。主なる神様によるこの救いのみ業によってエジプトからの解放が実現したことを記念して、過越の小羊の肉やその他の定められたものを食べる過越の食事が定められたのです。主イエスは、十字架の死の前の晩に、弟子たちとこの過越の食事の席に着かれたのです。しかも7節以下には、主イエスご自身の命令によってこの食事の席が用意されたことが語られていました。つまりこの「最後の晩餐」は、主イエスが整えて弟子たちを招き、席に着かせて下さった過越の食事だったのです。そしてこの食事の席で、先週読んだ19節以下にあるように、主イエスはパンと杯を取り、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃって、それらを弟子たちに分け与えて下さったのです。つまり主イエスが弟子たちに給仕をして下さり、特別な意味を持つパンと杯を振舞って下さったのです。主イエスが弟子たちの中で給仕をする者であるというのは、単なる象徴的な物言いではなくて、そのような具体的なことなのです。

十字架の死の意味
 主イエスはこのように、最後の晩餐において、具体的に、弟子たちのために食卓を整え、給仕をして下さいました。弟子たちに仕える者となって下さったのです。マタイ、マルコ、ルカの福音書はどれもそのことを語っています。ヨハネによる福音書は、パンと杯が分け与えられたこと、つまりいわゆる聖餐の制定のことは語っていません。しかしヨハネがその代わりに最後の晩餐の場面で語っているのは、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったということです。それもまた、主イエスがまさに僕となって弟子たちに仕えて下さったということです。四つの福音書はどれも、最後の晩餐において弟子たちに仕えて下さった主イエスのお姿を語っているのです。それは、まさにそこにこそ、主イエスの十字架の死の意味があるからです。主イエスが十字架にかかって死なれたのは、弟子たちに、そして私たちに仕えて下さるためでした。主イエスは、私たちの罪を全て背負って、その赦しのために十字架の上で死んで下さったのです。私たちのための過越の小羊となって下さったのです。そのようにして主イエスご自身が罪人である私たちに仕えて下さったことによって、私たちは罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されるという救いにあずかったのです。聖餐のパンと杯は、その救いの恵みを私たちに味わわせて下さるために主イエスが給仕して下さる食事です。また、主イエスが弟子たちの足を洗って下さったことも、主イエスの十字架の死によって罪の赦し、清めが与えられることを指し示しています。十字架の死の前夜、弟子たちと共にする最後の食事において、主イエスはこのように、弟子たちに給仕し、その足を洗うことによって、ご自身の十字架の死の意味を示して下さったのです。

食卓を整えて下さる
 本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第23編を選びました。主なる神様がまことの羊飼いとして私たちを養い、育み、守って下さることを歌っている詩です。その5節には、羊飼いである主が、わたしを苦しめる者を前にしても、「わたしに食卓を整えてくださる」とあります。また「わたしの杯を溢れさせてくださる」ともあります。2節の「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」も同じことを語っていると言えるでしょう。羊飼いである主は、私のために食卓を整え、杯を満たし、食物と飲み水を豊かに備えて下さるのです。つまり私たちのために給仕をして下さり、仕えて下さるのです。それが良い羊飼いである主なる神様のお姿だ、とこの詩は歌っているのです。主イエス・キリストは、まさにこの詩に歌われている良い羊飼いとしてのみ業を、十字架にかかって死んで下さることによって私たちのために成し遂げて下さったのです。教会は、この主イエス・キリストが頭であり、この主イエス・キリストに結び合わされた者たちの群れです。私たちはこの主イエスによる救いを信じて洗礼を受け、キリストが頭である教会の一員とされて生きるのです。それゆえに、教会において偉い人、上に立つ人は、支配し、権力を振るうのではなくて、頭である主イエスに倣って、仕える者、給仕する者となるのです。使徒たちは、教会のそのような指導者として遣わされようとしています。そのための備えを、主イエスはこの最後の晩餐においてして下さったのです。

主の約束
 28節で主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と言っておられます。そしてその弟子たちに29節で「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」という約束を語っておられます。そして「支配権をゆだねる」とはどういうことかが、30節に、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と説明されています。様々な試練の中でも主イエスと共に踏みとどまった弟子たちにはこのような報いが約束されているのです。けれども私たちは、主イエスと弟子たちにとっての本当の試練はむしろこの後襲って来るのであって、そして弟子たちはそこで主イエスのもとに踏みとどまるどころか、みんな主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったということを知っています。ですから、主イエスのこの御言葉は実現せず、従ってこの約束もご破算になったのではないかと感じます。けれども、もう一つ私たちが知っていることは、そのように逃げ去ってしまった弟子たちが、主イエスの復活と昇天の後、聖霊の力を受けて主イエスによる救いを宣べ伝えていき、彼らの働きによってキリストの教会が各地に誕生し、主イエスを信じる人々の群れが起こされていったということです。つまり、彼らは確かに、使徒となり、教会の指導者となっていったのです。つまりここで主イエスが語っておられる約束は実現したのです。彼らは確かに、新しいイスラエルの十二部族である教会を治める者としての支配権をゆだねられたのです。それは勿論先ほど見たように、人々を支配し、権力を振るうような支配権ではなくて、主イエスに倣って仕える者、給仕する者として群れを指導するということです。その一環として、「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」と言われているのは、彼ら使徒たちが「わたしの記念としてこのように行いなさい」という主イエスのご命令に従って、主イエスの体と血とにあずかる聖餐を行なっていったことを指していると言ってよいでしょう。使徒たちは、主イエスによる救いを告げるみ言葉を語り、聖餐を行うことによって、教会を治め、指導していったのです。彼らがそのように使徒として立てられ、遣わされることを、主イエスはこの最後の晩餐の時点で約束して下さり、その約束は実現したのです。それはただ主イエスの憐れみと赦しのみ心によることです。実際には、主イエスのもとに踏みとどまることができずに裏切ってしまう、この後の所に語られていくように、主イエスを知らないと言ってしまう、そういう弱く罪深い弟子たちです。しかし主イエスはその彼らの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さるのです。そして、彼らが最後まで主のもとに踏みとどまったかのように見なして、彼らを使徒として立て、遣わし、用いて下さるのです。私たちはここに、そのような主イエスの恵みを読み取ることができると思うのです。

仕える者となれ
 主イエス・キリストの十字架による救いにあずかる群れである教会は、このような主の恵みのみ心によってこそ指導されていかなければなりません。そこでの指導者、上に立つ人は、主イエスがそうして下さったように、給仕する者、仕える者でなければならないのです。けれどもそれは、指導者、上に立つ人、教会において何らかの指導的な立場に着く人のみの話ではありません。給仕する者、仕える者、という言葉から「執事」という務めが生まれたということを先ほど申しました。執事とは、「仕える者、奉仕者」という意味です。教会にそういう名称の務めが生まれたのは、執事だけが奉仕する者だからではありません。むしろ執事の務めとは、教会に連なる信仰者たち皆が、それぞれに与えられた賜物を用いて主と教会とに仕え、奉仕していくために、教会が奉仕に生きる群れとして整えられていくために、その中心となり、全体の奉仕をアレンジしていくことなのです。神様と隣人とに仕えて生きることは私たちの信仰の基本です。ですから全ての信仰者は仕える者として生きるのです。私たちの主イエス・キリストは、十字架にかかって死んで下さることによって私たちに仕えて下さり、私たちを罪の支配から解放し、神様と隣人とに仕えて生きることができるようにして下さいました。そして聖餐の食卓へと私たちを招き、ご自分の体と血とによる救いを味わうためのパンと杯を私たちに給仕して下さっています。私たちに仕え、給仕して下さっている主イエスの恵みの中で、私たちも、神様と隣人とに仕える者として生きていくのです。

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