主日礼拝

平和か対立か

「平和か対立か」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ミカ書 第7章1-7節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章49-53節
・ 讃美歌:11、196、496

終戦記念日
 本日は8月15日、65年目の終戦記念日です。日本人にとって、また日本に住む全ての人々にとって、この日は、過去の戦争のことを思い、平和への思い、願いを新たにする日です。まだ60年生きていない私は、戦争の直接の体験を持っていません。そういう者たちの方が今や多くなっています。その私たちも、この8月15日という象徴的な日をしっかりと覚え、戦争と平和について学び考えていかなければならないと思います。それは単に戦争の時代にこの国の人々が受けた苦しみの体験を語り継いでいく、ということであってはならないでしょう。今月の昼の聖書研究祈祷会において触れましたが、そしてそのプリントが受付のラックにありますのでご覧いただきたいのですが、今年、2010年8月は、1910年8月に日本が韓国を併合してからちょうど100年目のその月です。それ以来1945年8月15日まで、日本は朝鮮半島の人々に、日本人となることを強い、その文化を否定し、言葉や名前をも奪うという苦しみを与えてきました。それゆえにこの8月15日は、朝鮮半島の人々にとっては、日本の植民地支配からの解放の日として喜び祝われているのです。日本が、東アジアの人々に与えた苦しみのことをも、私たちはしっかりと知り、記憶しなければなりません。  戦争と平和について特に深く考えさせられる日であるこの8月15日を、今年は主の日として迎えました。主イエス・キリストの父である神様を礼拝し、み言葉を聞きつつこの日を送ることは意味深いことだと思います。私たちが信じ、礼拝している神様は、平和の神であられます。平和の神を礼拝しつつ、その神に仕える者として歩みたいと私たちは願っています。このところ何年か、クリスマスの讃美夕礼拝において、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を共に祈っていますが、その中には、「わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」とあります。この祈りは8月15日における私たちの祈りでもあります。

平和ではなく分裂?
 この礼拝において与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書第12章49節以下です。本日この箇所を読むことは、別に意図してそのように調整したわけではありません。ルカによる福音書を読み進めてきて、ちょうどここにさしかかったのです。そういう意味でこれはみ心によることです。しかしこの日にこの箇所を読むことに、私たちはあるとまどいを覚えるのではないでしょうか。それは、51節に主イエスのこういうみ言葉があるからです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。これはびっくりするようなお言葉です。主イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために来て下さった、それが、私たちが普通に思っていることです。そしてそれは決して根拠のない思い込みではありません。ルカによる福音書の語る主イエスの誕生の物語において、天使の軍勢が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美を歌いました。主イエスの誕生は、地に平和をもたらす出来事なのです。またこの福音書の第10章には、主イエスが七十二人の弟子たちを伝道に遣わすに当たって、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」とお命じになったことが語られています。「平和があるように」というのは「シャローム」というユダヤ人の間の一般的な挨拶の言葉ですが、主イエスはそれを単なる挨拶としてではなく、その家の人々に確かに平和を与える実体を持った言葉としてお語りになったのです。私たちが信じ礼拝している神様は平和の神であられ、主イエスを信じ従っていくところには平和が与えられるということは、新約聖書の基本的な教えだと言うことができます。けれども本日の箇所のこのみ言葉は、そういう私たちの常識を覆すようなことを語っているようにも思えるのです。

主イエスが投ずる火
 「わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂をもたらすために来た」。これと同じことを主イエスは49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言っておられます。分裂をもたらす、と、火を投ずる、は同じことです。主イエスがこの地上に火を投ずる方である、それはどのようなことなのでしょうか。49節の後半には、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とあります。つまり、主イエスが投ずる火は、この地上にまだ燃えていないのです。だからわたしがそれを投じる、と言っておられるのです。このお言葉から、この火の意味するものが、平和の反対の争い、戦い、戦争などではないことが分かります。つまり主イエスはここで、ご自分がこの地上にもたらすのは、平和ではなくて戦いや争い、戦争だ、と言っておられるのではないということです。そういう意味の火なら、主イエスの当時も、また今も、至るところで既に燃え上がっているからです。

殺すと共に生かす火
 ヘルムート・ゴルヴィツァーという牧師がいました。ヒトラーのナチスが支配するドイツにおいて、ナチスに迎合し協力していった教会や牧師、信徒たちも多い中で、主イエス・キリストへの信仰を守り抜くために戦われた「ドイツ教会闘争」の中心人物の一人です。この牧師が1939年12月、つまりその年の9月にはドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まっていた、その年の待降節、アドベントに、ベルリンの教会で、本日のこの箇所によって語った説教が遺されています。私の説教の師匠である加藤常昭先生への献呈論文集である『説教と言葉』という本が企画された時、投稿を求められたので、私はこの説教を翻訳して寄稿しました。私が訳したその説教の一部をご紹介したいと思います。ゴルヴィツァーはこう語っています。第二次世界大戦のさなかに語られたことを考えながらお聞き下さい。「至る所に、いけにえの火が燃え上がっています。神はその火を世界中に見ておられます。諸宗教のいけにえの火を、私どもの欲望の火を、私どもの理想の火を。その火に、私どもは、次から次へと財産を、また次から次へと隣人たちを、いけにえとしてくべているのです。私どものいけにえからの煙が、天と地上との間の空間を満たしています。そして私どもによっていけにえにされた者たちの発する叫びがそこに混じり合い、神はそれを聞かれます。『ここでいけにえが捧げられた。小羊でも雄牛でもない。前代未聞の人間のいけにえが』」。1939年の当時、世界大戦という戦火が既に燃え上がり、人間が人間を、その火にいけにえとしてくべていました。あのユダヤ人大量虐殺、ホロコーストの炎も既に燃え上がり始めていました。地上にはそういう火が満ちている、そのことを見つめつつゴルヴィツァーは語ったのです。しかし彼が見つめていた火は、2010年の今も、同じように燃え上がっています。今は世界大戦とは違う形の、宣戦布告のない無差別テロの炎があちこちにあがっています。そういう爆弾による炎だけではありません。私たちの社会は今、分裂に苦しんでいます。「一つの家に五人がいるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれる」「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」というのはこの当時は驚くべき事態として語られていたのですが、私たちにおいてはそれは普通の現実となっています。家族の間にすら深刻な対立や争いが生じ、人殺しさえ頻繁に起っています。格差が広がる中で、閉塞感が深まり、「誰でもいいから殺したい」という思いを持つ人が増えてきています。そういう分裂、憎しみの炎が私たちの周囲に、いや私たち自身においても燃え上がっているのです。世界大戦の時代が過ぎても本質的には変わらないこの現実を見つめつつ、ゴルヴィツァーはこのように続けています。「イエスは、この燃えている地上を見ていたまいます。しかしその全ての火の中に、神から来る火は見ておられません。すなわち殺すことにおいて終るのではなく、生き返らせることにおいて終る火はどこにも見ておられません」。この地上には、いつの時代にも、私たちが燃え上がらせている、人をいけにえとして殺してしまうことで終る人間の火が満ちています。しかし主イエスが地上に投ずるために来たと言っておられる火は、それとは全く違う、神から来る火です。それは「殺すことにおいて終るのではなく、生き返らせることにおいて終る火」です。ゴルヴィツァーはさらにこう言っています。「彼(つまり主イエス)は私どもにこのように告げます。『私はあなたがたの内に一つの火を、殺すと共に生かす火をともすために来た。私はあなたの人生の中に一つの火を投げ込むことによってあなたを救うために来た』」。主イエスは私たちの内に、「殺すと共に生かす火」を、殺すけれども、それで終りではなく、生き返らせ、新しく生かす神からの火を投ずるためにこの世に来られたのです。そのことによって私たちを救って下さることが、主イエスの救い主としてのみ業なのです。

主イエスが受ける洗礼
 50節には、「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。文脈からしてこれは、この火を投ずるために、私には受けねばならない洗礼がある、ということです。主イエスご自身が洗礼を受けることによって、この火が、神からの火、殺すと共に生かす火がこの世に投じられるのです。主イエスが洗礼を受けるとはどういうことでしょう。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことはこの福音書の第3章に語られていました。しかしここでの洗礼は「これから受けねばならない洗礼」ですから、既に受けたあの洗礼のことではありません。そして50節後半には、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。主イエスは深く苦しむことによってこの洗礼を受けることになるのです。ですからこの洗礼は、主イエスがこれから受ける十字架の死を意味しています。苦しみを受け、十字架にかけられて死ぬ、という洗礼を主イエスはこれから受けようとしておられるのです。そしてそのことによってあの火が、地上に、私たちの間に、投じられるのです。

私たちが受ける洗礼
 私たちは、主イエス・キリストと出会い、その十字架の苦しみと死とによって自分のための救いが、罪の赦しが実現したことを信じて、洗礼を受け、キリスト信者、クリスチャンとなります。それは言い換えれば、主イエスの十字架の苦しみと死とによって私たちの心に火が投げ込まれ、その火が燃え上がる、ということです。洗礼を受けるとは、主イエスによって心の中に火を投じられることなのです。それは、私たちの心の中にもともと多少は燃えていた火が主イエスによって大きく燃え上がるということではありません。私たちはそれぞれ自分の中にいろいろな火を持っており、それが時として明るく燃え上がったり、くすぶって消えかかったりしています。それは先ほどのゴルヴィツァーの言葉で言えば、「私どもの欲望の火、私どもの理想の火」です。主イエスが私たちの内に燃え立たせようとしておられるのは、そのような私たちの火ではなくて、神からの火です。神からの火は、私たちの全てを焼き尽くします。生まれつき神様をも隣人をも愛するよりも憎んでしまう罪に支配されており、神様に逆らい、隣人を傷つけている古い私たちが、この神からの火によって焼き尽くされ、死ぬのです。そしてこの神からの火は、殺すと共に生かす火です。古い、罪に支配された私たちを焼き付くし殺すけれども、それで終りではなく、生き返らせ、新しく生かす火です。そのようにして私たちを救って下さる火です。洗礼を受けてキリスト信者となるとは、この神からの火によって古い自分が焼き尽くされて死に、罪を赦されて、神様の子どもとして新しく生きる者とされるという救いにあずかることなのです。そしてこの救いを実現して下さったのが、主イエスが受けて下さった、十字架の死という洗礼なのです。主イエスは私たちの全ての罪をご自分の身に背負い、その罪に対する神様の裁きを代って引き受けて下さいました。罪に支配され神様に背き逆らっている私たちは、神様の怒りの火によって焼き滅ぼされなければならない、その滅びを、神の独り子である主イエスが代って受け、その火によって焼き滅ぼされて下さったのです。それは主イエスをお遣わしになった父なる神様のみ心でした。主イエスは父なる神様のみ心に従って、十字架の死へと道を歩まれたのです。それゆえにこのことが「受けねばならない洗礼」と言われているのです。独り子をこの洗礼のために、つまり十字架の苦しみと死のために遣わして下さったところに、神様の私たちに対する深い愛が示されています。この愛によって、主イエスが引き受けて下さった神様の審きの火は、同時に主イエスを生き返らせ、新しい命を与える救いの火となったのです。私たちの受ける洗礼は、主イエスによって投じられたこの神の火によって古い自分が焼き尽くされて死に、同時にその火によって新しい命を与えられて生きるという救いの徴なのです。洗礼を受けた信仰者の内には、主イエスによって投じられたこの神の火が燃えているのです。

神の火と人間の火
 この神の火が、私たちの間に分裂、対立を引き起こします。ゴルヴィツァーはその分裂についてこう語っています。「その分裂はまず第一に、私ども自身の中に起こります。私どもの古い火とこの新しい火の間の、古い人と新しい人との間の分裂です」。神の火によってもたらされる分裂は、神の火と人間の火、つまり私たちの火との分裂、対立です。私たちの中にある火、私たちが自分で焚き付け、燃え上がらせようとする火、それはゴルヴィツァーが語っているように、私たちの欲望の火、私たちの理想の火です。欲望の火と理想の火とは違うと思うかもしれません。しかし私たちは、何らかの理想を掲げ、それを実現しようと熱心に努力していく中で、理想を実現しようという欲望にとりつかれるのです。すると、理想の火と自分の欲望の火とがいつのまにか一つになっていきます。そこには、本当は欲望の火を燃やしているのに理想の火を掲げているという錯覚が生じ、欲望のぶつかり合いが理想のための戦いという大義名分を得るということが起ります。しかし理想のための戦いは、単なる欲望どうしの対立よりも悲惨な結果を生むのです。ゴルヴィツァーは、私たちが燃え上がらせる私たちの火として、「諸宗教のいけにえの火」をもあげています。今理想について述べたことが、宗教にも当てはまるのです。私たちが、何らかの宗教を掲げ、その教えの実践や布教のために努力していく中で、宗教と自分の欲望とが一つになってしまうのです。そしてそこには、本当は自分の欲望の火を燃やしているのに、信仰の火を掲げているという錯覚が生じ、欲望のぶつかり合いが信仰のための戦いという大義名分を得るということが起るのです。世界の歴史において繰り返され、今日もなお深刻な事態を生んでいる宗教対立、宗教紛争というのは皆そのようにして起っています。そして私たちが歴史から学ばなければならないことは、人間の欲望が宗教という衣をまとう時に、人間は徹底的に残虐になる、ということです。自分の敵は神様の敵なのだから、皆殺しにすることが神様に仕えることになってしまうのです。そのような残虐な対立構造を生む諸悪の根源が、ただ一人の神しか信じないキリスト教やイスラム教などの一神教にあると言っている人がいますが、それは間違いです。戦争中の日本軍の残虐行為も、同じ意識によって起ったことです。どんな宗教であれ、それが人間の欲望と結びつくことによって燃え上がる時に、その諸宗教の火は、そこに人間がいけにえとしてくべられていく、人を焼き殺し、それで終る火となるのです。

貪欲を焼き滅ぼす火
 主イエスが私たちの内に投じる神の火は、これらの、人間の火、私たちの火と真っ向から対立するものです。神の火を投じられることによって私たちは、自分の中にある火、自分が努力して燃え上がらせようとする火、人間の理想の火であったり、あるいは信仰という火であっても、それを自分で燃え立たせて歩もうとすることを否定されるのです。そのように生きている生まれつきの古い自分が神からの火によって焼き滅ぼされるのです。このことは、この12章の前半において、「貪欲」について主イエスがお語りになったこととつながります。主イエスがおっしゃるところの貪欲とは、自分の持っているもの、得たもの、また自分の力で生きていこう、生きていける、と思うことです。つまり自分で自分の中に火を燃え立たせていこうとすることです。その貪欲を捨て、主なる神様が私たちを愛し、養い、装って下さる、その天の父としての愛に依り頼め、と主イエスはお教えになりました。それが「ただ、神の国を求めなさい」という教えの意味でもありました。つまり自分で燃え立たせる火ではなく、主イエスが私たちの内に投じて下さる神の火によって生きよ、ということです。この神の火は、私たちの貪欲の思いを焼き滅ぼすので、そのことに私たちは抵抗を覚えます。自分の持っているもの、自分の努力、自分の熱心、自分の信仰、自分の掲げる理想の火によって歩みたいという、古い私たちの思いが、神の火と対立していくのです。そのような対立が、私たち自身の中に起るし、またこの神の火によって歩もうとする時に私たちと周囲の人々との間にも起ってきます。主イエスが投ずる火はそういう意味で、私たちの間に平和ではなく、分裂を、対立を引き起こすのです。

新しく生かす火
 しかし、この火によって生じる分裂、対立は、私たちが自分で燃え立たせようとしている人間の火どうしの間で起る、既に私たちがいやという程体験している分裂、対立とは全く違うものです。人間が燃え立たせる火どうしの対立は、戦争や殺戮を引き起こし、双方を傷つけ、殺すことで終り、憎しみが憎しみを増幅させていくという、何の希望も与えない悲惨な対立です。しかし主イエスが投じて下さる火は、このような憎しみに捕えられてしまっている私たちを焼き滅ぼすことによって新しく生かす火なのです。私たちが自分の欲望と表裏一体である憎しみから解放され、憎しみが憎しみを生む悪の連鎖を断ち切って平和を打ち立てていくための道は、主イエスの十字架の苦しみと死によって打ち立てられた罪の赦しの恵みと、そして主イエスの復活によって神様が私たちにも約束して下さった、神の子として生きる新しい命の恵みをいただくことにこそあります。私たちはその恵みにあずかるために洗礼を受け、主イエスによって心の中に神様の火を燃え立たせていただいて、その火によって新しく生かされていくのです。この世の火、人間の火どうしの対立の炎がそこらじゅうに燃え上がり、私たちから平和を奪い、恐れさせ、不安にしています。しかしだからこそ私たちは、主イエスが投じて下さる火を、私たちを焼き滅ぼすと同時に新しく生かして下さる火を祈り求め、この火のもとにしっかりと留まり、この火によって新しくされ、主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって示して下さった愛に生きる者となりたいのです。主イエスが投じて下さる神の火を受け、その火によって燃やされていくことによってこそ、私たちは、この世界の平和のために本当に貢献していくことができるのです。「主よ、あなたの火を、私たちの内に投じてください」と、この8月15日に共に祈りたいと思います。

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