主日礼拝

主イエスの名のために

「主イエスの名のために」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第43章16-20節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章46-50節
・ 讃美歌:145、247、407

誰が一番偉いか
 礼拝においてルカによる福音書を読みつつ、往く年を送り、新しい年を迎えました。本日ご一緒に読む9章46節以下には、主イエスに従っている弟子たちの間に起った一つの論争、と言うか仲違いのような話が語られています。新年早々からあまり明るくない話で恐縮なのですが、でもそれは私のせいではなくて、聖書が語っていることですから仕方がありません。弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起ったのです。誰が一番偉いか、というのは単純な、子供じみた言い方ですが、要するに、誰が重んじられるべきか、誰の言うことが尊重され、聞かれるべきか、という争いが弟子たちの間に起ったのです。弟子たちは主イエスに従っているのだから、主イエスこそが重んじられ、主イエスにこそ聞き従うべきではないのか、と思います。しかし人間の集団というのは不思議なもので、そういうはっきりとした中心を持った集団の中にも、いやむしろそういう集団であればこそ、その人なり存在は別格となり、それ以外の人々の間で、誰が重んじられるか、誰を中心としてグループを作るか、という争いのようなものが起るのです。そういうことが、主イエスに従っている弟子たちの群れにも起ったのです。ルカがこれを語っているのは、同じことが、主イエスを信じて従っていく信仰者の群れである教会にも起るからです。私たちのこの群れにおいても同じでしょう。いろいろともっともらしい理屈をつけていても、結局のところは「自分たちの内誰が一番偉いか」という子供じみた争いがあなたがたの間にもあるのではないか、ということを見つめさせるためにルカは敢えてこのような単純な子供じみた物言いをしているのではないでしょうか。

一人の子供を
 47節に「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。主イエスには隠していても、弟子たちの間にそのような議論、争いがあることを主イエスは見抜かれたのです。しかしこの言葉はもっと深く読めば、「自分たちの内誰が一番偉いか」という弟子たちの争いの奥深くにある問題、どういう思いからこのような議論、争いが生じるのかを主イエスが見抜かれた、ということでもあると言えるでしょう。問題の根本、本質を見抜いた主イエスが、弟子たちに何を語られたかが以下に示されているのです。主イエスは一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせました。つまり主イエスは、この問題について弟子たちを教えるために、一人の子供を言わば教材として用いられたのです。
 ここで、「子供」というのが当時の人々の間でどのような存在だったかを確認しておく必要があります。そうでないと、主イエスが一人の子供を弟子たちの前に立たせたことの意図を見誤ってしまうからです。私たちの感覚においては、子供というのは、かわいいもの、純真で無垢なもの、守ってやるべきか弱いもの、といったイメージがあります。つまり積極的な、価値ある存在としての子供という位置づけがあるのです。そういう積極的な見方も聖書には語られています。この福音書でも18章17節には、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という主イエスのお言葉が記されており、そこでは神の国を疑わずに受け入れる者として子供が位置づけられています。しかし本日の箇所は、それと同じ感覚で読んでいると分からなくなります。ここでは「一人の子供」は、価値ある大切な存在としてではなくて、無価値な、一人の人間として受け入れるに足りない、軽んじられる存在として見つめられているのです。それは主イエスが子供のことをそう思っていたということではなくて、当時の社会の一般的な感覚がそうだったのです。これは女性もそうでしたが、子供は、物の数に入らない、無価値な存在だったのです。主イエスはそういう一人の子供をそばに立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。つまり主イエスは子供を教材として用いることによって、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることをお求めになったのです。

小さな者を受け入れる
 「受け入れる」という言葉が48節に繰り返し語られています。この言葉に注目することによって、主イエスがここで教えておられることの内容を捉えることができます。まず、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とあります。無価値な者として軽んじられていた子供を受け入れることによって、主イエスご自身を受け入れることになるのだ、とおっしゃっているのです。それに続いて「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」とあります。主イエスを受け入れることによって、主イエスをお遣わしになった方、つまり父なる神様を受け入れることになるのです。一人の子供を受け入れることが、主イエスを、そして父なる神様を受け入れることと結び合わされているのです。神様を受け入れるとは、信じることです。自分にとって最も大切な存在として従っていくことです。一人の子供を受け入れることがそのことと結び合わされているのですから、それは単に、子供もそこにいることを許してやるとか、いてもいいが邪魔をせずおとなしくしていろ、などということではありません。もっと積極的に、大切な仲間として、共に歩む者として、尊重し、その言葉に耳を傾けていく、そういう意味で大事にすることが求められているのです。主イエスは、そのように、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を、受け入れ、大切にし、共に歩むことを求めておられるのです。

受け入れようとしない思いから
 この教えは一見、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という弟子たちの議論、争いとは関係がないようにも思えます。しかし実はこれこそが、弟子たちの議論の奥深くにある根本的な問題、その本質を見抜いた主イエスの教えなのです。つまり、誰が一番偉いか、誰が重んじられ、中心となるべきか、という争いが起ってくる原因には、小さな一人の人を受け入れようとしない思いがあるのです。自分たちの内で誰が一番偉いかという議論は、共に歩んでいる者たちの間に序列をつけ、誰かを重んじ、逆に誰かをより価値のない者として軽んじる思いから生じるものです。その思いは、自分が一番偉いと主張することにおいてのみ現れるわけではありません。「あの人こそ重んじられるべきだ」という思いの裏側にも、この人は軽んじられてよい、受け入れなくてよいという思いがあるのです。ですから、弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、という思いがある限り、「誰が一番偉いか」という議論は際限なく起ってくるのです。主イエスは、軽んじられている子供を受け入れることを求めることによって、この議論の背後にある私たちの心の根本的な問題に気づかせようとしておられるのです。
 誰が一番偉いかという議論と、軽んじられている子供を受け入れることを求める教えとを結びつけているのが、48節の最後の文章「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」です。ただこれは少し補いをして読まないと、両者の結びつきを明確にすることができません。「最も小さい者」とは、「子供」に代表される、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にすることを主イエスは求めておられます。「最も小さい者こそ、最も偉い者である」というのはそういう思いを語っています。つまり、最も小さい者こそ受け入れられ、重んじられるべきだ、ということです。それを、「最も偉い者である」と言うのはおかしなことです。しかしそれは、弟子たちの議論を受けて語られているのであって、「誰が一番偉いかなどという問いはそもそも不適切だけれども、敢えてそれに答えるならば、あなたがたの中で最も小さい者こそが最も偉いと言える」ということなのです。ですから主イエスのこの教えを受けて弟子たちが、そして私たちが取るべき道は、最も偉い者になろうとすることではなくて、最も小さい者を受け入れる者となることなのです。

わたしの名のために
 さてしかし、主イエスのこの教えにおいてもう一つ注目しておかなければならない大事な言葉があります。それは、「わたしの名のために」という言葉です。主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は」と言われたのであって、一般論として「一人の子供を受け入れる者は」と言われたのではないのです。一人の子供を、つまり小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるのは「主イエスの名のため」です。つまりそこで語られているのは、私たちの倫理観、道徳観の問題ではないのです。具体的に言えば、どんな人をも排除しない寛容な精神を持ちましょう、というような話ではないのです。見つめるべきは、主イエスがどのような方であり、どのように歩まれたか、です。その主イエスに従っていくところに、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れる歩みが生まれるのです。
 この点において、本日のこの話が、先週の主の日に読んだ44節の、主イエスの第二回受難予告にすぐ続いて語られていることに意味があります。このつながりはルカが下敷きにしたマルコ福音書から受け継いだものですが、読み比べれば分かるように、ルカはマルコよりもより直接にこの話を受難予告と結びつけています。つまり、「わたしの名のために」と言っておられる主イエスとは、「人々の手に引き渡されようとしている」主イエスなのだということを強調しているのです。人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところに、主イエスの名のために小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるという歩みが与えられるのです。なぜならば、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちは、私たちに命を与え、導いて下さっている神様に背き逆らい、そのみ名を汚している者です。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない者として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者なのです。しかし神様は、そのような私たちを愛して下さり、大切に思って下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために独り子のイエス様を遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスによる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのが信仰者です。その信仰者の歩みは、主イエスのみ名のために小さな、軽んじられ、軽蔑されている人を受け入れ、仲間として共に歩み、大切にするという歩みであるはずなのです。ですから、私たちがそのような人を受け入れ、仲間として大切にし、共に歩むのは、私たちが特別に寛容な人間になるとか、人を分け隔てしない公平な者となるとかいう私たちの人となりの問題ではありません。主イエス・キリストによる救いを受け、主イエスに従っていく信仰に生きるならば、それは当然のこと、信仰の本質に関わることなのです。
 主イエスは9章の21節以下で第一回の受難予告をなさいました。22節に「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とあります。ルカはその次の23節に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というみ言葉を続けています。つまりここでも、受難の予告に直結して、弟子としての、主イエスについて行く信仰者としてのあり方が語られているのです。本日の箇所の、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という教えは、第二回受難予告と結び合わされて語られた、弟子としての歩みについての教えであると言えるでしょう。主イエスの弟子とは、つまり信仰者とは、十字架の苦しみと死を経て復活へと至る主イエスに従い、ついて行く者なのです。第一回受難予告を受けて語られた「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従うことの具体的な現れが、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れて共に歩むことであると言えるでしょう。

主イエスの名によって悪霊を追い出す者
 さて本日は、49、50節も共に読みます。弟子の一人であるヨハネが、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」と言ったのです。すると主イエスは、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とお答えになりました。この話は、今見てきた、軽んじられ、軽蔑されている人を受け入れよという教えの実践であると言うことができます。言い換えれば、ヨハネの言葉には、「誰が一番偉いか」という争いの原因となっている、小さな一人の人を受け入れようとしない思いがあるのです。ヨハネが言ったことをよく見てみましょう。彼は、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している人を見たのです。「追い出そうとしている」ではなくて、「追い出している」と語られていることが大事です。その人は主イエスの名によって実際に悪霊を追い出していたのです。悪霊に勝利する主イエスの神の子としての力と権威とが、その人を通して発揮されていたのです。しかしヨハネはそれをやめさせようとしました。その理由は、「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」です。「わたしたちと一緒に」がそのポイントです。その人は、その人なりの仕方で主イエスに従っていたのです。だからこそ、主イエスの名によって悪霊を追い出していたのだし、またその人が主イエスに従っていたのでなければ、主イエスのお名前だけを呪文のように用いたところで悪霊が服従することなどあり得ないのです。しかしヨハネは、その人が「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」、その業をやめさせようとしました。自分たちと一緒に行動しない、ということが許せなかったのです。確かに、主イエスに直接従って共に歩んでいるのは彼ら十二人の弟子たちでした。そういう意味で彼ら弟子たちが、主イエスに従っている人々の中心にいたことは確かです。しかし主イエスに従っていたのは彼ら十二人だけではなかったことは、福音書がいたる所で語っていることです。この後の第10章の冒頭には、十二人の他に七十二人の人々が主イエスによって派遣されたことが語られています。また、主イエスによって悪霊を追い出していただき、癒していただいた人が、お供をしたいと申し出た時に、主イエスがそれをお許しにならず、自分の家に帰って近隣の人々に神がしてくださったことを語り伝えるようにとお命じになったこともこれまでにありました。主イエスを信じ、従っていく人は、この時既に様々な形で存在したのです。

反対しない者は味方
 このことは、今日においてはますます幅広くなっています。二千年のキリスト教会の歴史において、人々は、様々な仕方で主イエス・キリストに従い、様々な仕方でその恵みを、愛を、栄光を証しし、その信仰に基づく実践はまことに幅広く、豊かになされてきたのです。昨年私たちは、日本伝道150年を記念する様々な催しを行いました。それらを通して確認することができた一つのことは、二千年の教会の歴史に比べればたった150年という短い歴史しかない日本のキリスト教においても、様々な教派の教会が生まれ、多くのキリスト教学校が建てられ、キリスト教信仰に基づく様々な社会事業が行なわれるなどして、かなり幅広い影響を日本の社会に与えているということです。それらはどれも、それぞれ違った仕方で主イエスに従い、そのみ栄えを現している働きです。そういう現実の中で、私たちが、自分たちと同じことをしている者たちのみが主イエスに従っているのであって、自分たちと同じことをしない者たちの働きはやめさせるべきだ、などと考えるとしたら、それはまことに傲慢な、独善的な誤りです。主イエスがヨハネをたしなめて、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われたのはそういうことです。「逆らわない」という訳は誤解を与えるかもしれません。ヨハネが出会ったその人は、ヨハネたちと一緒に主イエスに従ってこようとはしなかったわけですから、ある意味では弟子たちに逆らっているわけです。しかしここは口語訳聖書では「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」となっていました。問題は、逆らうか言うことを聞くかではなくて、反対するか否かなのです。つまり、私たちが自らの信仰の良心に基づいて主イエス・キリストに従っている、その歩みに対して、それは間違っているとか、あれはキリストに従っていない、などと言って反対することなく、しかし私たちとは違う仕方でキリストに従っている人々の存在を私たちは認め、受け入れるべきなのです。様々な教派の教会がある中での、また信仰の実践活動において様々な幅広い働きがある中での私たちのあり方がそこに示されています。またそれは、一つの教会の中での私たちの交わりのあり方をも教えていると言えるでしょう。人それぞれ、主イエスに従い、信仰の実践に生きるそのあり方は違ってよいのです。私たちは、それぞれが、自分の信仰の良心に基づいて、神様が自分に与えて下さったと信じる働きを担い、行なっていきます。私のあり方とあの人のあり方とは違うということが当然そこには起ってきます。そこで、どちらがより大事だとか、重んじられるべきだという序列をつけ始めるなら、結局のところ「誰が一番偉いか」という子供じみた争いに支配されていくのです。主イエスが弟子たちに、そして私たちに求めておられるのは、自分とは違う仕方で主イエスに従い、仕えていく人の存在を受け入れることです。「反対しない者は味方である」という感覚を持つことです。それには当然、自分もその人のすることに反対しない、ということが必要です。そしてそれらのことの根本にあるのは、私たちは十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さった主イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていく者だということです。受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった神様の恵みに生きる私たちは、同じその主イエスによって神様が受け入れて下さった人々を、受け入れて、大切な仲間として共に歩むのです。新年最初の礼拝においてこのみ言葉を与えられたことは意味深いことだと思います。私たちがこの新しい年、教会において、どのような交わりを築き、どのように主に仕えていくのか、その大切な指針がここに示されているのです。また、同じ主イエス・キリストの救いを受け、主イエスに誠実に従い、仕えている諸教会、諸教派との間で、どのような交わりを結んでいくかもここに教えられています。さらに、主に従い、仕える様々な実践活動を私たちが担っていくことにおいても、またそれを担っている兄弟姉妹の働きを共に覚えてとりなし祈り、支え合っていくことにおいても、このみ言葉が本年の私たちの歩みを導き、整えていってくれるのです。

今日の問題に関して
 本日の説教はここまでとしようかと思いましたし、その方がよいのかもしれません。しかし最後に、これまで語ってきたことを、私たちが連なっている日本基督教団において今起っていることと結びつけて考えてみたいと思います。つまり、洗礼を受けていない人をも聖餐にあずからせるということをしている人々、教会を、私たちとは違う仕方で、しかし同じキリストに従っている者たちとして受け入れることができるかどうか、ということです。結論から言ってそれはできません。なぜならばそれは、十字架にかかって私たちの罪を赦して下さり、私たちを受け入れて下さった主イエスの恵みを無にする行為だからです。洗礼を受けることは、主イエスの十字架と復活によって神様が私たちを受け入れて下さったことを信じ、告白し、その救いにあずかってキリストの体である教会に加えられることです。そのようにしてキリストの救いにあずかった者が、その恵みを体をもって味わいつつ、その恵みによって養われていく食事が、本日共にあずかる聖餐です。洗礼から聖餐へ、という順序は、逆転することのできない秩序なのであって、それを逆転するならば、聖餐はもはやキリストの体と血とにあずかる聖餐ではなくなるし、洗礼もせいぜい人間の決意表明ぐらいの意味しか持たない単なる儀式になり下がるのです。私たちは、同じ主イエス・キリストの救いを受け、主イエスに誠実に従い、仕えている諸教会との交わりを大切にし、その中でしっかりとお互いを受け入れ合い、共に歩むことを求めていかなければなりません。しかしそれはキリスト教の名を語っていればどんなものでもよい、ということでは決してありません。自分たちのことも含めて、十字架と復活の主イエス・キリストに誠実に従っているかどうかを見極めていくことも同時に求められているのです。

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